2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

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20131110日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

          創世記22章1-19節

1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ

 

(説教要訳 文責近藤)

 

【信仰の試練と摂理】

摂理という言葉をよく使うことがあります。

神様がご自身の計画に従ってすべての事を、ご自身の栄光のために、そして私たちの祝福のためにご支配し、用いられるということです。一般論としてはその通りで、神は永遠のご計画に従って万事をすべてご自身のために、その民のために支配なさると。しかし、もう少し正確に言うと、摂理というのは信仰の試練に出会う時、その時だけとは言いませんが、その時に体験する神様の恵みであると言わなければならない。

 

摂理とは、他人ごと、一般論ではありません。神学校では、イエスにおける神の聖定などと言いますが、神はご自身の栄光のために万事を聖く用いられることによってご支配されるというのは間違いではありませんが、神様を信じる事によって困難なことを覚える、それでも神様を信じる。試練や悩みを超えて結果的に強くなる、それが摂理です。

 

信仰の困難を覚えない時に摂理信仰とは単に口先だけのことになると学生に話します。今日の朗読箇所は摂理信仰を表す典型的な御言葉であります。2番目に典型的な箇所ですが。1番目は何かといえばイエス・キリストの十字架であります。これはまた後ほど申します。

 

【アブラハムの最大の試練】

さて創世記12章以来長いアブラハム物語が始まりまして、25章ではこのアブラハム物語のクライマックス、頂点でありますが、アブラハムの長い人生のクライマックスであります。神様がこれまで導いてこられたことを凝縮して、ここではこれまでもそういうことがありましたが、ここは代表的なところであります。

 

さて先ほど申しましたように信仰の試練という事の中で神の摂理ということを本当に体験することができるのですが、アブラハムは最大の試練に今見舞われております。

 

創世記22章の1節~、

1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

【息子イサク】

これまで波瀾万丈の人生を歩んできたアブラハムですが、アブラハムには子供が与えられませんでした。古代人にとって跡継ぎがないということは致命的なことであります。

 

漸く神様の約束が実現しました。99歳になっている妻サラから子供が生まれた、アブラハムは100歳、普通ありえないことですが、神様はそれを実現してくださいました(21章参照)。

 

【神様のご命令】

やっと子供が与えられた、ところがこともあろうに、その子を神様は捧げ物にせよと命じられた。これがもし異教の神の命令なら「神様、助けてください、こんな目に合っています」とお願いすることができますが、これは神様のご命令です。これはもう神様の中に飛び込むしかありません。命じられたとおりするということです。

 

子供も与えられ、後継もでき、異教の王アビメルクとの契約関係もうまくいき、漸くアブラハムの生涯はやがて締めくくられようとする、その時に思いがけず神様からの試練を与えられます。物語そのものはアブラハムの心境、胸中一切は語りません。もの事を淡々と叙述します。

 

【献げ物にする小羊は?】

7節にイサクが「父さん、火と薪がありますが焼き尽くす献げ物にする小羊がありません」と言います。それがお前だとは答えられません。「神様が備えてくださる」としか言いようがありません。

 

そうした会話も淡々と描写しております。そうであるだけにアブラハムの心中、胸中が見えてくる。どれほど穏やかでなかったか。神の試練を間接的に描写するために、「あなたの息子、あなたの愛する、あなたのひとり子を捧げなさい」、「イサクを捧げなさい」と言えば済むことですが、「あなたの愛するひとり子」、これを失えば後はない、これが神様の命令です。

 

「焼き尽くす捧げ物」を口語訳では「全焼の生贄」、火のまわりを速くするために、手足を切り落とす、胴体を切り刻む、それは動物でも大変酷いことですが、それを自分の子供にせよというのです。しかしアブラハムはそれを即座に従います。

 

ここに契約というものがどういうものかがよく現れております。しかし何度もいうことですが、例えば今日、契約と言えば横の関係、対等の関係であります。互恵契約といいます。どちらからでも解約するのは自由です。

 

【神とその民との間の契約】

けれども聖書に出てくる古代の契約、少なくとも神とその民との間の契約は上下主従の関係であります。契約を維持すること、成就することにおいて神様は一方的でアブラハムと相談して契約を結ぶということはありません。アブラハムは一方的に従うしかありません。契約に生きるという事はこういうことです。

 

【はい:いつでもお仕えできます】

1節で、アブラハムは「はい」と答えます。「はい」いうのは意訳でして、良い訳ではないと思います。本来「見よ、我ここにあり」ということです。神様に偉そうなことは言えませんので、「ご覧ください、私はここにおります」というのが直訳です。

 

「ここにおります」。神様にそんなこと言わなくても神様はご存知です。そういう意味ではありません。「神様、私はいつもあなたのお側近くにいます。いつでもお仕えできます」ということですね。

 

【侍:はべる】

横道に少しそれますが「侍」と言う日本語がありますね。大体言葉の意味を知らずに使っておりますが、「侍、ジャパン」と。本来は、刀を振り回す、そのような人のことを言うのではなく、文語で「さぶろう」、「侍る、はべる」ということです。

お側近くにいる、ということです。常に近くに志向して、何かあればすぐにご主人の命令を行う、そういう人のこと「侍」といいます。

「武士は二君に仕えず」と言いますが、一人の主君に忠誠を尽くすという事で、「ご覧ください。私はここにおります、いつもあなたの前におります」。

 

【また戻ってくる】

5節に、アブラハムは下僕たちに言います「5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と。「また戻ってくる、一人で」とは言えません。彼らに対してもイサクに対してもですね。

 

アブラハムは神様の命令ですからイサクを捧げることを決心しているわけです。「また戻ってくる」と言ってもイサクは薪を背負っているわけです。イサクはまさか自分が殺されるとは夢にも思っておりません。

 

イサクが聞きます、7節「火と薪はここにありまが焼き尽くす捧げ物の子羊はどこに居るのですか」。「それがお前だ」とは口が裂けても答えられません。アブラハムが最も聞かれたくない質問であったと思います。

 

【主、備え給う】

それに対するアブラハムの答えは「私の子よ。焼き尽くす犠牲の子羊はきっと神が備えてくださる」と申しましたが、これは優等生の模範答案ではございません。アブラハムは必ずそうなると、「お前に代わって神が雄羊を備えてくださる」と彼が確信していたわけでありませんが、うまく表現できないですが、神様がして下さる、神様に逃れる意外に他に答える道がなかったからです。

 

異教の王の命令ならば、神様に逃れて助けを願うことができますが、神様の命令には、有り体のことでは無いですが、そうなる確信はないですが、神様のなさる事だから神様に任せようという気持ちもありまして、「神が備えてくださる」と答えました。そう答える以外なかった。

 

イサクはそうなったときにどう反応したかは一切書いておりません。抵抗したか、逃げたとしましてもね、結果として捧げる場所を用意してイサクを縛って薪の上におきました。今まさに刃物でイサクを屠ろうとしたその瞬間に、神の御使いがアブラハムの手を押しとどめた。ここでも「ハイ」と答えておりますが、今、行うとしておる、その子に手を下すことに待ったをかけられました。

 

【神を畏れるもの】

12節「あなたが神を畏れるものであることが今わかった」。これは神様がそれまで知らなかったという訳ではありません。これは本当に私を信じているか試してやろうということではありません。

 

試すと言う意味合いはあっても、「試された」と書いてありますから、しかし本当に神様を信じる信仰があるかないか試そうと言うのではありません。

 

アブラハムが信仰の人であることを神様はご存知です。これまでいろんなことがありました。その信仰を最終的に確証した、確立した。神様は初めからご存知ですがアブラハム自身が自分が本当に神を畏れもるのである事を納得して受け入れるように導いてくださったということであります。イサクもまたそれを感じ取ったことでしょう。

 

12 節後半、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。

 

【一匹の雄羊が角をとられて】

13 節「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」。

 

雄羊が、なぜ子羊でなかったのかわかりませんが、角を取られていた。それば神様が備えて下さった、神様が受け入れてくださる、捧げものであります。

【息子イサクは死んだ】

これは息子を失わずに済んだ、やれやれと思ってはなりません。

アブラハムの信仰ではもう既に息子を捧げております、息子は既に一旦死んだのです。

 

しかし神様はアブラハムの信仰を祝福して、あるいは信仰による契約関係における彼の応答を豊かに祝福し、また過分な評価をしてくださいました。それに代わる、いやそれに勝る捧げ物を自ら用意してくださった。

 

結果として見ますと雄羊がイサクに代わって捧げられたのです。

 

【信仰によって】

ヘブライ人への手紙の1117節以下で

17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。

 

【信仰よってアブラハムはイサクを捧げた:殺した】

さっき言いましたように可愛い一人息子を捧げなくて良かったという程度では無いのです。

アブラハムはその信仰において神様との関係においてイサクを殺した。神様の命令に従ってイサクを捧げたわけです。

 

そこで神様もこのアブラハムの信仰の応答を豊かに祝福してくださいました。すなわち雄羊を自ら用意してくださったのです。ということはイサクは一旦死んだのですが、その雄羊の犠牲によって生き返らされて、死者から生きかえらせて、息を吹き返してくださった、復活させられて返してくださったということであります。

 

【イエスの十字架と復活】

もちろんアブラハムが2,000年後に、ナザレのイエスという方が十字架にかかり復活なさるという事は知っておりません。

 

しかしヘブライ人への手紙の記者はその出来事を知っておりますので、イエス様の出来事の光の中でアブラハムの行為を解釈し直したわけです。

 

【さらに勝った仕方で】

こうしてそれ自身まことに辛い神様の命令、人間的には理不尽な神様の要求に、しかし「ハイ」という言葉に聞かれますように、契約関係の中で従順に生きるアブラハムは即座に従った。どうなるか分からないけど、神様が何とかして下さるという曖昧な信仰であったかもしれませんが、アブラハムはそれを実行しました。神様をそれに大いに勝った仕方で祝福してイサクを生きて返してくださった。

 

【キリストは死んで蘇ってくださった】

イエス・キリストと言う犠牲は神様ご自身が用意してくださったものであります。

イエス・キリストの死と復活、これによってキリストを信じるもの全てが生きて返されます。キリストの死と復活に預かるもの、私たちもまたやがて復活するだけではなく今、永遠の命に生かされている。キリストの死と復活に与る洗礼を受けた私たちは、パウロも言うように、ロマ6章にありますが、キリストは死んで蘇ってくださった。私たちは今、永遠の命に生かされています。十分の形で顕されるのが復活の時であります。

 

【あなたの子孫をの星のように増やそう】

こうすることによって神様はアブラハムの信仰と従順を嘉し祝福してくださった。そればかりか、ご自身の約束を今一度確証してくださったのであります。

 

16節以下、御使いの言葉でありますが、これは神様ご自身の言われる事で、

創世記2216 御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る』」。

「私は自らにかけて誓う」と言われる。これまでもあったのですが、今ここでもう一度17節に「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫をの星のように増やそう」。これは今までもありました。

12章でまだアブラムと名乗っておりましたの時から、その約束はありました。「あなたの子孫を天の星のように海辺の砂のように増やそう」。

 

【敵の城門を勝ち取り】

その後のところに、「あなたは敵の城門を勝ち取り」とあります。

当時は戦争は絶えませんでしたから、戦いのイメージを用いていますけれども、神様の敵とは究極的にサタンです。イスラエルの的とはペリシテとかアシリアとかありましたが、神と神の民の究極の敵は悪魔サタンです。

 

アダムをエバを通じて誘惑した、蛇の形をしたサタン、神様の最大の敵サタンは最後には討ち滅ぼされます。あなたの子孫であるイエス・キリストは敵、サタンを完全に討ち滅ぼす。

それによって地上の諸国民は、その子孫イエス・キリストによって祝福を受ける。福音宣教を通して救われるということであります。

 

【この「子孫」とは、キリスト】

これに言及しましたパウロはガラテヤの信徒への手紙3

16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

 

「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」というのは、一人の人、イエス・キリストがサタンの王国を打ち滅ぼして、神を信頼し信じるものが神を畏れることを真に可能にしてくださるのであります。

 

【永遠に生きる】

そして神様と共に生きる。神様と共に生きるという事は、新約聖書の言葉で言えば永遠に生きるという事であります。イエス・キリストはこのことを果たしてくださったのであります。

 

アブラハムの長い生涯の中で神様は理不尽な要求をアブラハムに与えられたが、これは神様が先を見越しての、アブラハムをご自身の祝福の大いなる器とするとの出来事であり、経験させられたのであります。

 

【ヤハウエ・イルエ:主は見る】

アブラハムはその場所を「ヤハウエ・イルエ、主備えたもう」、この様に訳すことも可能ですが、別の聖書の欄外注には「主は見る」と訳すのもあり、「ヤハウエ・イルエ:ヤハウエは見る」という意味です。「イエラエ」も同じです。あらかじめ見ているから備えることができるのであります。摂理のことを英語でプロビデンスと申します。「前もって見る」ということです。ラテン語から来ています。インターネットのプロバイダーという言葉、プロバイダとは提供する、供給する、備えるのがプロバイダですね。provideをローマ字読みにしますと、プロビデ、前もって見る、ということになります。

 

【最大の備え:イエス・キリスト】

我々は前もって見ることはできませんが、神様はちゃんと見ておられます。だからそれにふさわしい備えができるということです。私たちは先を見ることはできません。「備えあれば憂いなし」と言うが、的確な備えができません。しかし神様は先の事をちゃんと見ておられるですから我々のために備えてくださる訳です。その最大の備えはイエス・キリストってございます。

 

【キリストの十字架】

キリストの場合はアブラハムと違って、キリストの十字架というのは、人間の側から言えば、これは悪意がなしたことです。もう邪魔になる、権力に楯突くナザレのイエスはけしからんということで、ポンテオ・ピラトが死刑を命じた。

 

ピラトはイエスには死刑に当たる罪はないと知っていたのですが、暴動が起こると自分の首がないと。それで理不尽ではあるけれども保身のためにイエス様を十字架にかけたのであります。ユダヤの人々はナザレのイエスが変なことを教えている。それで十字架にかけられた。イエスが亡くなると、私たちが勝ったと思ったのです。ローマの役人もユダヤの官憲も。ところがの十字架は罪を犯した人間に対する神の裁きであった。神様はあらかじめご存知だったので罪のないイエス様を罰することにおいて、罪人の処罰をされたのであります。

もし私たち一人一人が罪のために罰せられたならば、なるほど罪の処罰は出来ます。

しかし元々神様のためにつくられ、神様と共に生きる、永遠の命を生きるという事は出来ません。

 

神は人間の罪をさばきつつ、それを赦して再び生きる道を講じてくださった。人間には不可能なことです。罪なきナザレのイエスが罪人の代表として十字架で裁かれ、また神を信じる正しい人の代表として先駆けとなって蘇ってくださった。キリストの十字架は、罪人に対する神の裁きである。キリストの復活は、キリストが神の前に正しい人であるということ、義であったという確証です。

 

【聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰】

アブラハムに約束してくださったことを、このような形で神様は成就してくださいました。このように見てまいりますとその時理不尽に思えても、神様の約束を信頼して、神様の命令という事で何でも従うと、自分が考えているはるかにを勝る大きな仕事を、神様を称える仕方で導いて下さる。これが摂理信仰であります。その意味で聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰であります。

例外が一箇所あります。それは創造です。創世記1章「はじめに神は天と地を造られた」。それは創造でありますが、そこからは黙示録の最後まで全部摂理であるといっても言い過ぎではありません。

創造ですら摂理に受け継がれますので、後のことを切り離して単発のことではありません。聖書全体はまさに摂理信仰に生きてといると言うことであります。私たちもその摂理の道に歩みたいと思います。

 

【まとめ】

最後に2、3のことをポイントだけワンセンテンスで纏めます。

契約とは神と民との上下主従の関係であります。このことを覚えてほしい。神様がこうしてくださると私たちはそうします、ということではありません。人間同士の契約はそれでいいが、神様は上から下への契約であります。

 

摂理と試練の中でこそ、信仰の試練の中でこそ、キリストを信じるという試練の中でこそ神様は恵み深い守りと導きがありますね。

 

苦しい時の神頼み」という言葉があります。私たちは世俗的な意味でそれを拒否していますが、苦しいときだけ神社、仏閣に参ると言うのは、キリスト信仰から見るととんでもないことですが、言葉の本来の意味で、苦しい時に頼みにならない神は神でない。

都合の良い時だけ御札を売って儲けて、本当に死にそうな時に、知らん顔する神は神でない。詐欺ですね。聖書の神こそが真実、頼りになる神であることを改めて憶えたいのです。

 

神様が知らない試練は無い。神は全てを知っておられる。

場合によってはそれを用いてもくださる。だから逆に神様に逃れることもできる。アブラハムはイサクに問われて答えられません。確かに「主は備えてくださるだろう」。まさにこれは苦しい時の神頼みの答えであります。正しい意味においてその通りだと思います。

 

二番目、神様への捧げ物は、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものを捧げなければなりません。

 

神様はイエス・キリストと言うかけ替えのないものを捧げてくださいました。

アブラハムは息子を捧げる時に、心の苦しさを覚えたでしょうけれども、最も大事なものを捧げたのです。親の人情としては「神様、私の命を取って下さい」と思ったかもしれない。これが人情です。しかし神様はそうではない、「あなたの愛する子を捧げなさい」と言われた。捧げ物とは自分にとって最も大事なもの、ある種の犠牲を伴わないものではないということであります。今週も神様の摂理のなかで神様の摂理の恵みを体験させていただきながら歩みたいと思います。アーメン。

2013年11月10日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

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