2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
【聖書】ルカによる福音書5章1〜11
1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
【主題】キリストの御言葉に聞き従う祝福の偉大さ
《Ⅰ》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
①人知を超えた御言葉の深みへ(全知の神への信頼)
②生ける神を知る畏れ
《羾》イエス.キリストに従う光栄
《I》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
【ガリラヤ湖畔で主の周りに集う群衆】
今日のルカ福音書の御言葉は、読者である私たちの胸をワクワクさせるような楽しさを持っています。この出来事は、恐らくちょうど今くらいの時刻か、あるいはもう少しお昼近い頃のことであったと思います。イエス様は、ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の湖畔に立っておられました。
私たちにもそういうことがあるのですけれども、湖などの岸辺に立ちますと、湖畔の美しい景色や、湖に浮かぶ舟を眺めたりして、神様が創造された自然界の美しさに心を和ませられるものです。私もこの西谷伝道所を訪れるとき,
千刈キャンプ場近くに静かに流れる美しい流れが好きで眺め、一寸車を止めて眺めています。イエス様が岸辺に立っておられたのも、そのような美しい湖の風景を見ておられたのではなかったでしょうか。
するとそこへ、御言葉を聞こうとする大勢の群集がイエス様の周りに押し寄
せてきたといいます。そして、その群集の数は段々盛り上がって、恐らくイエス様も段々群集に押されるようにて水際までさがってお話しするような、足場もない状況になって来た程でありました。
イエス様は、この状態では、舟に乗って舟の中からお話する以外にないと考えられたのでありましょう。西谷伝道所のこの会堂も舟です。でもシモン達が乗っていたような漁師の小舟とは違います。ですから大勢の人が入ることが出来ますので、ガリラヤ湖畔の時のように、説教者の居場所に困る位、会堂が礼拝する人々でいっぱいになったらどんなに望ましいことだろうかと思うのです。
神様は、このような会堂を建てさせて下さったのですから、私たちにはこの地域の全ての人々をイエス様の許へ招く責任があると思います。さて、イエス様は岸辺を見渡して、ニ艘の舟が岸にあるのをご覧になったといいます。
そして、舟の傍には漁師たちが船から上がって、今しがた漁で使った網を洗
って繕っている姿をご覧になったというのです。*朗読2節そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
この網を洗う漁師たちの姿は、一日の激しい勞働や様々な働きに疲れた姿であります。そしてそれは、彼らの社会生活・市民生活の姿であります。
【網を洗うシモンたち】
そしてこの網を洗う光景には、彼らの生活が抱えている苦しみや喜びや悲しみ、彼らの生活の香りが漂っています。そしてイエス様は、そのニ艘の舟と漁師たちの姿に、この世に生きる彼らの人生とその労苦をご覧になっておられるのです。そして、彼らの心の中をもご覧になっているのです。
そして片やこちら側には、イエス様を囲む、神の国,天国の福音に耳を傾けている夥しい人々の集まりがあるのです。そして、ガリラヤ湖畔における、このニつの光景のコントラストは、今このように西谷伝道所の会堂に集まって、神を礼拝している私たちの光景と、私たちの外で營まれているであろう地域の人々の様々な活動の光景と同じコントラストがあるのであります。
私たちは今、この世の唯中であれやこれやと働いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、悩んだりしている人々の生活の直ぐ近くで、こうしてルカ福音書の言葉を語り聞き、神を贊美し、神に祈り、神の安息に与るという神の国・天国
の活動の真唯中に身を置いているのです。
この私たちと教会の外側の地域の人々とのコントラストと、ガリラヤ湖のイエス様を囲む群衆と、漁師たちのコントラストは重なるものがあるのです。
【シモンはイエス様を乗せた舟を】
そしてイエス様は、この二つの別々の活動を、決して無関係のものとして見ようとしてはおられなかったことを3節に見るのです。*朗読3節 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
イエス様は、この世の只中で、網を洗っているシモンの持ち舟に乗って、「岸から少し漕ぎ出してくれるように」と頼んだのでした。イエス様は、この世の働きから、神の国の働きの中に参加し、天国の働きのために奉仕し貢献することを願って、シモンに船を出してくれるよう頼まれたのです。
すると、頼まれたシモンはどうしたのでしょうか。
恐らくシモンは夜通しの漁で疲れ果てていたことでしょう。それも、少し位収穫があったなら、その疲れはあまり苦にならなかったでしょうけれども、その日は、
雑魚一匹取れなかったというのですから、疲労の上に落胆の気持ちが重な
って、大変辛い思いを抱いていたに相違ありません。シモンとしては正直のところ、網を洗い終えたら、すぐにも家に帰って休みたいところだったと思います。
しかし、イエス様は、そんなことが分からない訳ではないのですけれども、むしろそれを承知の上で、シモンに舟を出してくれ、と賴まれるのです。
そして、その賴みを聞いたシモンはどうしたかと言いますと、むげに断ることもなく、快くイエス様の賴みに応じたのでした。
そして、シモンはイエス様を乗せた舟を漕ぎ出しましたので、②
イエス様は舟に腰を下ろして、岸辺に集まった多くの群集に向かって無事に説教を語ることが出来たのでした。
しかしシモンとしては、まだこの時、自分が神の国・天国の働きに仕えている のだという意識はなかっただろうと思います。そして、くたびれており失意の中にありましたけれども、唯イエス様から賴まれたので、それを断ろうとはせずに、唯親切心から自分の舟を出しただけのことだったと思います。けれども、イエス様は
彼の人生を良く知っておられ、彼はこの時意識せずして、この世から召し出されて、神の国・天国の勸きに用いられてぃたのでした。
そして、やがて彼はこの湖の出来事の後に、後日イエス様によって正式に使徒として召されることになるのです。そしてイエス様は、現在も神の国・天国と教会のために、この世をも見ておられるのです。そして主イエスは、この世には、世の労苦やしがらみの中から、神の国・天国の平安の中へ招き入れようと神が定めておられる人々がおり、神の国と教会に奉仕する人々を召し出そうと望んでおられるのであります。
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
さて、このシモンとは誰かといいますと、4章38節を見ますと、 妻の母親の病を癒やして戴いたシモンであります。そして彼は、この日の出来事の後でイエス様から「シモン・ペトロ」と呼ばれる人になる訳です。
ルカによる福音書4章38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。
【イエス・キリストからの召し】
そして私たちは、この時の彼の態度から、素晴らしい手本となるものがあることを学ぶのであります。それは、彼がイエス様の突然の賴みに対して「自分は疲れていますから、今お手伝いすることは出来ません」と言って断らなかったことであります。むしろ快くイエス様の言葉に応じたことであります。このシモンの態度がこの後、神様の大いなる祝福と惠みを体験するきっかけになり、そして神の国,天国の福音に仕える働きに召されることになって行ったのであります。
私たちが、教会の役割や奉仕などに召される場合に、つい自分の都合や、
自分のしたいことを優先させて、あるいはこの世の働きを優先して、教会の御用を後に回したり、場合によっては逃れてしまうというようなことがありはしないでしょうか。シモンの姿に見習わねばならないと思ぃます。
私たちは、礼拝を始めとして、教会の活動には、全て必ずイエス・キリストからの召しがあること、そして神の国の働きのためにイエス・キリストが私たち一人一
人を賴みとして下さるものがあるのだ、ということを覚えている必要があると思います。そしてシモンのように、自分の思いを後に回してでも、まずは神の召しに応えて行くことを優先させるように心がけていきたいものであります。
① 人知をはるかに超えた神の惠みの深みへ(全知の神への信頼)*4~7節
さて、シモンとしましては、イエス様の語る御言葉を聞いて感激もし、同時に自分の舟がイエス様に用いられたことに対する満足感を覚えて舟を岸に戻そうと思っておりました。その時でした。御言葉を話し終えたイエス様の口から、シモンに向って思いもよらぬ言葉が告げられたのでした。
【沖へこぎ出し、網をおろして漁を】
4節 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
イエス様は、このような言葉をもってシモンに語りかけてくださいました。そしてこの御言葉は、シモンにとって少し意外なものに聞こえたのでした。
私たちの日常生活において、神様の御言葉というものは、この場合のように
現実とはかけ離れた、思いもよらない内容の言葉である場合が以外に多くあるのであります。このシモンに対する言葉が正にそうでありました。それは、漁師シモンの返事にその驚きが表われています。
5節 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
シモンにしてみれば、このイエス様の言葉は、あまりにも現実離れした啞然とするような言葉であったのかと思います。シモンは、プロの漁師だったからです。
しかもガリラヤ湖の漁については、知り尽くしているベテランの漁師でした。いつ
頃、どのくらいの深さで、どうやって網を降ろしたら魚が最も良く獲れるのか。
それをよくよく知っている玄人であります。そのベテラン漁師のシモンを始め、
いずれ劣らぬその仲間達が、頃合を見計らって、夜通し最善を尽くして苦労したけれども、何故か雜魚一匹獲れなかったというのです。そもそも長年の漁師生活の中でも、朝まで網を降ろして一匹も取れないというようなことは滅多
にないことでした。それなのに、イエス・キリストは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、
漁をしなさい。」これは、漁のことを知り尽くした腕に自信のある漁師にしてみれば、なんと現実的でない無益なことではないか。
シモンはイエス様の提案を内心そう思ったかもしれません。シモンだけではなく、漁師仲間たちは皆、そう思ったことと思います。
確かにイエス様の言うことは実情に合わないことでした。何故なら、第一、
漁に適した時間带は夜間から夜明けまでであって、自分たちはその時間带に朝まで漁をして、しかも一匹も獲れなかったのでした。
そのため身体はくたくたに疲れているのです。たまたま折り良くイエス様の御言葉も聞けたので、もう家に帰りたいところなのです。叉当時の資料によると、網による漁は投網漁と引き網漁があったと言われますが、投網漁ならもちろんのこと、引き網漁にしても沖,即ち深みに網を降ろすということも、当時の漁法としては考えられない方法だと言われます。
けれども、イエス様は時間も場所も関係ないかのように「さあこれから漁をしなさい。」と言われるのです。
【お言葉ですから】
しかも「沖に漕ぎ出して深みに網を降ろしなさい」と、なんとも無知とも、無邪気とも思われることを言われるのです。シモンは、それに対して答えました。
「先生、わたしたちは夜通苦労しましたが.何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
この、前半分はイエス様の提案に否定的な答えであります。「これから漁をしても無馱でしょう」という気持ちの表れであります。しかし、ですけれどもシモンは「私の経験や知識はともかくとして、イエス檨お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えているのです。
このシモンの思いには「何か変わったやり方だから試してみましょう」というものはないのです。「はっきり言って私の知識や経験とは全く違います。けれども、
イエス様あなたの言われる言葉、あなたの御意志であるならば、網を降ろしてみましょう」と言うのです。沖に網を降ろすことは、彼らの人生の未絰驗ゾーンでありましょう。しかし、シモンのこの柔軟な判断と決断は素晴らしい驚くべき結論をもたらしました。*5節B~6節。
イエス・キリストの教え,聖書の教えというものは、全てが、私ども人間の知惠や一般常識と違うものであるという事ではありません。聖書の教えは、多くの場合、天地自然の法則と矛盾するものではありません。しかしある信者は、薬や化学的な治療に頼らない方が良いと言って、神様に祈る事を強調して失敗する人がいます。もちろん病気のために祈ることは必要です。が、迷信的に祈りに頼るべきではありません。しかしまた、科学的でさえあれば、祈りは不要であると言う考えも、これ又迷信的な生き方であることを現代人は知るべきであると思います。そもそも、私たちは自然と言うものをどう考えるかが大切なのであります。
つまり、自然は偶然に存在していると考えるのか、それとも自然は偶然に存在しているのではない、と考えるかは重大な違いがあるのです。それは無神論と有神論の違いです。
有神論はこの天地自然は神が創造されたものと考えるのです。そして神の創造を信じることは神の摂理(自然は神が保存し统治している)と信じる訳です。
しかしこの自然界が自然に、言い方を変えれば偶然に発生し存在しているという無神論的な考えからは、自然の中に神の働きを考えませんから、病のために神に祈ることは愚かなことになる訳です。けれども同時にこの自然界を神が摂理(保存し统治)しているという有神論的な考えは、
自然の秩序も神が創造し、神が摂理しておられると考える訳です。
ですから、私どもは自然の秩序から学んでいる科学を常識として重んじますけれども、科学万能を信じる訳でもありませんから、神に祈ることを大切にするのです。しかし、近頃の社会は、大気汚染や地球温暖化等の現象から、
科学万能に疑義を感じるようになりました。
ですから天地の創造者であり摂理の主である神を知りませんと、唯やたらに科学を否定してカルト的な奇跡や、怪しげなスピリチャルカウンセリングなどに惑わされる危険性もある訳です。そういう意味からも、私どもは、全ての物事を摂理しておられる天地の主なる神であり、救い主であるキリストの言葉を、隣人に証する責任が大いにあるのです。そしてキリスト者は、生活において有神的な人生観・世界観を世に証する者として召されているのです。
そこで、イエス様の言葉に率直に從ったシモンたちの様子を見ましょう。
朗読6〜7節、6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
彼らはイエス様の言われるままに、沖へ深みへと舟を漕ぎ出しました。そして網を降ろしますと、そこに恐ろしいほどの手応えを感じたというのです。
確かに、彼らのプロの漁師としての絰驗と知識は科学的に適うものでした。
しかし、彼らは謙虛に自分の絰驗を横に置いて、とにかくキリストの言葉に率直に從ったのです。あるいはその行動は岸辺にいる群衆からはからかわれる事かもしれませんでした。しかし反面、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦そういう世間的な考方から離れる事でもあったのです。
彼らが沖へ漕ぎ出すことは、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦一般世間の環境から離れて、心を解放し自由にしてイエス様と面と向き会うときともなったのです。そうすることによって彼らは、この社会で每日生きている処とは異なる世界を、湖の沖の深みに体驗するのです。
彼らは、神の言葉に從うという体験の中に、それまでの自分知識や経験をはるかに超えた、神の支配・.神の深い恵みの支配を見たのです。シモンは、 この時はまだそこまでは自觉していたかどうかは分かりません。
けれども、シモンの成功の鍵は、神の言葉に対して自分を無にしたことにありました。自信に滿ちた自分の知惠も知識も经驗も、この際横に置いて、とにかく神の言葉に生きてみようとした結果、彼はこの世界の全てを創造し、全てを摂理しておられる神の図り難く深い知恵と、大いなる力に触れたのでした。そして、その結果は大変なものになりました。
ここでイエス様が教えようとしたことは、決して大漁になる極意をシモンに伝授するためではありません。叉、プロの知識や絰驗が間違っているということでもありませんでした。神の摂理の計り難さ、それ故の人生の計り難さ、神様の御心の計り難さ、驚くべき神の恵み深さ・.豊かさ、正に驚くべき恵み、ァメージン グ・グレースを実感させられる事だったのです。
② 生ける神を知ることの畏れ
恐らく彼らは網に入った魚を二つの舟いっぱいに引上げて、舟が沈みそうになるまでは無我夢中でした。事の成り行きを落ち着いて考える余裕も何もありませんでした。しかし、この驚くべき収穫に気付いた時、シモンはイエス様の足元に平伏して叫びました。
ルカによる福音書5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
ここにシモンの言葉と態度に大きな变化が起こりました。
5節ではイエス様を「先生」と呼んで、その提案を半ば否定的に思っていましたが、ここでは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」
この福音書記者ルカも叉、唯[シモン]ではなく、「シモン・ペトロは」 と書き変えています。彼はイエス様の言葉に、自然を超えて働く神の力を知らされたのです。そして神の力が彼自身の心に届いたのです。それ迄イエス様は
単なる尊敬する「先生」でしたが、ここで'は「主よ、即ち神よ丨という呼び方に 変化しているのです。真の神に触れたとき、彼は自分が「罪深い者」である事を悟る人になっているのです。自分の罪深さを認識する。それは神の御業なのです。私たちは、イエス・キリストの言葉に聞き從って生きて行きますとき、その惠みと力を味合うことが出来るのです。そして、神の患みと祝福溢れるばかりの豊かさを知りますなら、私たちは生ける神の前に自分が罪に汚れた不信仰な存在であることの畏れを実感させられるのであります。
皆さんの信仰に至るプロセスも同様です。初めはキリストは単に世界的に有名な宗教家か人生の偉大な指導者であり、愛の人に過ぎないのかも知れません。しかし、その福音を聴いていて信じ、従って行きますと、次第にイエス様
が天地の主なる神であることが分かり、自分が罪人であることが分かって来るのです。そして、イエス様が惠み豊かな救い主であることが分かって来れば来る程に、自分の罪が鮮明に見えてくるのです。
《Ⅲ》イエス・キリストに徙う光栄
【人間をとる漁師】
そしてシモン,ベトロの信仰は更に深くされる必要がありました。何故なら、真のキリストへの信仰は、決してキリストから遠く離れて恐れおののくことではないからです。イエス様はシモンに言われました。
「10節後半」すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
確かに真のキリスト信仰には「私は不信仰で汚れた罪人であります」という意識が伴います。
けれども、それはイエス様に対して「どうかわたしのような者から離れて下さい」というところから、逆にキリストの懷に飛び込んで行くのがキリスト信仰なのです。信仰は、
謙遜そうに,聖なる神から,イエス・キリストから遠く離れて生きるものでは決してありません。イエス様は「恐れることはない」と救しを宣言して下さるのです。
キリスト信仰は、恐れおののいて神を離れて生きるのではありません。罪人が罪赦されて、神を畏れ敬いつつも、その恵みに信賴してキリストと一緒に生きるのです。そればかりか、キリストの使命に生きることが真の信仰なのです。
「人間を獲る」は「人間を生け捕りにする」という意味です。
「人間をとる漁師になる」これは直接的には、シモンを使徒として:召された言葉ですが、
元の意味は「人を真に生かすために漁る」という意味です。
酸素の欠乏し濁った溜まり水の中から、生け捕って、酸素を豊かに含んでいる生きた水の中に移す、それを「人間を漁る」というのですね。
ですからこの出来事全体は、将来の教会の使命を予表した出来事なのでした。つまりこの出来事は、教会とキリスト者は、この世の人生に唯衣食住を追求して、神もなく希望も平安もなく唯労苦し、思い患いつつ生きている人を、
イエス・キリストが恵み深く支配する神の支配の幸いと喜びの中に、伸び伸びと自由に生きる人生へと漁る働きに召されていることを、前もって表す出来事でありました。
神様は私たちの日常生活の中に啄木が「働けど働けど猶(なほ)わがくらし楽にならざり,じっと手を見る」と歌ったそういう現实を体驗することがあります。 ベトロ達のこの日の漁も似ています。神は通常の人間生活の中に、時として、
労苦が無駄であるかのような試練を与えられることがあります。神が通常の惠みの御手を控えられることがあるのです。
今の社会も、かつての右肩上がりの絰济情勢がまるで夢であったように想われる行き詰った状態が繞いています。そればかりか、自然の大災害や原発事故のような恐るべき人災が相次いで起こります。高級有名ホテルやレストランが誤表示や偽表示を行い、政治や経済や教育の世界までもが人間の生命の大切さを見失い、人間としての正常な感觉が麻痺して来ているので
す。子どもたちの、友達を自殺にまで追い込む虐めが心を痛めます。
【一般恩恵と特別恩惠】
これが近・現代社会に現れている頸著な兆候です。神が恵みの御手を控えられているのです。余りにも、人間が人間の知恵・.知識・経験だけを良しとし、神の恩恵への感謝を忘れて歩むとき、神はそこに一般的な恩恵(コモン グレース)を差控えられることがあるのです。ペトロ達の夜通しの漁のように、雜魚一匹取れない試練を与えられるのです。
しかしそのような試練は、同時に、神の言葉という特別な恩惠(スペシャル グレース)を教え示されるときでもあるのです。それは、人間の思いを遥かに超えた神の恩恵を伴う言葉です。それは人間の罪を救し、救いを与えるキリストの十字架の福音です。
【福音の網を社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ】
キリストの福音、それは、救い主であるイエス・キリストが十字架の上に死に、
死から甦ることによって罪人の罪を救し、救いを与えるという良き知らせです。
ですが、キリストの十字架の福音程、人の経験や知惠や常識とかけ離れたことはありません。ある人には十字架の言葉は、愚かにも思えるのであります。
しかしこの十字架の福音にこそ、実は滅びゆく人を生かす神の知恵と力が
秘められているのです。*1コリント1:18〜25 18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
人は天地万物を創造し保持し統治しておられるキリストの恵み深い支配を受けて生きてこそ、真に生かされるのであります。
そして神の言葉を聴くためのキーポイントは、漁師ペトロのように自分の心を低くし空しくてイエス・キリストの御言葉に聞いて従うことにあるのです。
人を罪と死に結び付ける人生から、キリストのいのちの中に漁どるキリストの言葉・福音というものは、確かにこの世の知惠とも常識とも異なるのです。
そういう訳ですから私たち教会・キリスト者は、この世の常識や経験を絶対視するのではなく、むしろこの世にはない神の測りがたく深い御心に素直に聽き従って、キリストの言葉・福音の網をこの社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ、
つまり私たちの知識や経驗を超えて、滅び行く人の心の深みまで、福音の網を投げる努力をすることによって、神の恵み深い支配〔摂理〕を知って行くのであります。そのようにして人を天国へ移し漁る、この西谷伝道所の舟「西谷丸」の使命を果たして頂きたいのです。この光泶ある使命に感謝しつつ共にイエス・キリストに仕えてまいりたいと思います。
《祈祷》
天地万物の造り主にして、救いの主でいます父.御子.御霊なる神様。御名を讚美し、その豊かな御心と、大いなる愛の御業の故に心から感謝を申し上げます。
愛する西谷伝道所の公同礼拝に奉仕を許され感謝致します。あなたは私共を、この世から御名を礼拝するようにと、御許へと呼出して下さり、御言葉を通してあなたの御心を教え、大いなる 恵みを与えて下さいましたことを深く感謝申上げます。
私共は、しばしばこの世の生活の中に埋没して、あなたの深い御心を意に介さず、社会の風潮や習慣、自分の知恵.力に賴んで生きる愚かな罪ある者であります。しかしあなたは、そのような私共の現实をご存知であって、時宜に適って御言葉を語りかけ、あなたの惠み豊かなご支配を明らかに示して下さいます。又あなたは私共を常にあなた御自身の御許へと招き、神の国の御用に用いようとしていて下さることを教え示されました。どうか、私共が如何なるときも、あなたのみ言葉とあなたの御用を優先する自由で開かれた心を常に抱いて生きて御言葉に從い、御心を行う者とならせて下さい。そして、あなたの大いなる恵み深い摂理の中に感謝しつつ生きる者として下さい。
神よ。昨年の震災の苦恼から回復出来ない東北の人々を顧みてください。そしてそれに伴い生じた原発事故は、正に人間の傲慢と、至らぬ知患に過信した結果が招いた災いでありました。神よ、どうか今なお先が見えないままに恼み苦しむ福島県の人々を憐れみ助けてください。国が相応しい援助を与えるべく用いて下さい。渦中にあります教会・
伝道所を顧みて下さり、主の豊かな恵みに支えられて、周囲の人々に希望を与えるために福音の光を高く掲げ、主の恵みを執り成すものとしてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)
M131117001.wav2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)聖書:Ⅰヨハネの手紙4章7~21節。
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
(説教要約 文責近藤)
おはようございます。一昨日から風邪のような症状がありましたが、今朝は神様に助けられて元気にここに来ることが出来感謝しています。
準備も十分でなく今日どうなるか心配でしたが、今朝の礼拝前のお祈り会とかここに座ってオルガンの奏楽を聞いていましたら神様は平安な気持ちを与えてくださいました。
【冬のソナタ】
わたしは韓国から日本にきて4年7ヶ月になります。この間たくさんの方にお会いしました。韓国から来たと言うと沢山の人が「私は韓国ドラマが好きだ」とか「韓国の料理が好きだ」と仰って嬉しいです。私より韓国ドラマに詳しくわたしも勉強させてもらいました。
韓国ドラマで日本最初のドラマは「冬のソナタ」です。実は私は日本に来るまで全部を見ていなかったのでもう一度見直しました。皆さん、「冬のソナタ」を見た人は手を挙げて下さい。ご覧になった方の中で、なぜこのドラマが好きになったのでしょうか。色々理由があると思いますが、その理由の一つ、それは変わらない初恋の美しさであると私は思います。時間が過ぎても全然変わらない初恋の愛です。いつでも自分を愛してくれる人がいるといいなと誰でも思うでしょう。愛というものはただ「冬のソナタ」のような愛だけでなく、人間の歴史の一番古くて普遍的テーマです。愛は文学、芸術、詩などで一番多く発見できるテーマです。
あるいはこの愛で笑ってあり、自分の命を捨てたりします。この愛というものは人間になくてはならないものです。私たちのキリスト教は愛の宗教と言われています。また神様の言葉である聖書は神からの愛の手紙、ラブレターだと言われています。
【神様の愛】
この世の中でもとても貴重である愛というものについて聖書のみ言葉を通して考えてみましょう。
今日は,ヨハネの手紙4章の7節から「神様の愛」というテーマで3つの事について考えてみましょう。
【神様は愛である】
1番目は「神様は愛である」ということです。今日の箇所の8節と16節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章8節「 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。
16節「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」。
8節と16節、ここに「神は愛」と書かれています。神は愛だということはどういう意味でしょうか。神様は愛と同じもので、神様には愛だけしかないと言うことです。
私たちの信じている神様は私たちの間違いを罰するお方ではありません。それで神様の愛を受けるために何か特別なことをしなければならないわけではありません。神様は私たちが存在するだけで喜んでおられます。
創世記1章31節に「神はお作りになったすべてのものをご覧になった。それを見てそれはよく、極めて良かった」と仰いました。
神様の本質は人間に向かった愛で、神は愛の原点です。その愛が神様から流れ出て神様を知る人に届く。またその人から他の人々に流れ出すべきです。
ヨハネによる福音書1章の1節から5節は、神様は光で、この光なる神様には暗闇が全然なく、この光はすべての人を照らすと書かれてあります。
もし私たちが光である神様を私たちのうちに受け入れることができたら、わたしたちも光のように輝くでしょう。神様は私たちの中にあるすべての闇は追い出されます。それと同じ同じように、私たちが愛である神様を私たちの心の中に受け入れることができたら私たちは愛の人になれるはずです。
どんなに憎しみで悩んでいる人でも愛に変われるはずです。なぜなら神様は愛であるからです。神は愛ですから神様がおられるところでは驚くべきことが起こります。いちども味わうことのできなかった無条件の愛を経験できます。
【自身のエピソード】
私にも神様の愛に関するエピソードがあります。私は神様の愛の故にクリスチャンになりました。この時から私はいつも皆を愛することができるように祈りました。
また周りの人をいつも愛するように努力しました。その結果、私は学校でも教会でも、
また友達の中でも優しい人だなぁと言われるようになりました。それで私は自分のことを愛で溢れてれているように思っていました。
しかし大学4年の時の一つ出来事によって私の考えが間違っていることがわかりました。
ある日、私が一緒に活動していた宣教団体の先輩のリーダーが私を呼び入れました。
何か話したいことがあるそうです。
わたしもその先輩と一緒にその宣教団体の活動していました。
わたしは多分褒めてくれることを期待していました。
でも実際に言われたのは、わたしは彼の働きに役に立てないということでした。
彼とは30分から1時間も話しました。彼は4つ上の先輩で私が高校に行く時からずっと知り合って私のことをかわいがってくれました。多くのことを褒めてくれましたが、このリーダーである先輩が私をリーダーの一人に推薦してくれると思っていましたが、彼は1時間話したなかで良いことも多く話しましたが、しかし私の心に残った事は、
あなたは私の働きに役に立てないという一言でした。
わたしは宣教団体の中で一生懸命頑張っていました。私は自分のことを自分なりに犠牲にして、この団体のために、兄弟姉妹のために頑張っていたと思っていたが、その一言
「役に立たない」という一言が、私にとって非常にショックでした。それでその時から私は彼のことが嫌いになりました。
学校で彼が前から来ると挨拶を交わしてもあとは彼から遠ざかり、最後の6ヶ月ぐらいはその宣教団体から離れるようになりました。
私はそのすべてのことを彼のせいにしていました。今考えてみたら余り大事なことではなかったのです。
私がもっと大人でしたら、「そうですか、それは済みません。これからもっと頑張ります」と言えば何でもないことでした。
その時私は未熟だったし自分のことを率直に話すことが苦手でした。まだまだ未熟な女の子でした。今考えれば本当に何でもない事でしたが私の心の中の憎しみは2年ぐらい続きました。彼に会うたびに「きらい、きらい。嫌、嫌」と思いながら彼の顔を見ることも本当に嫌でした。私が思っていたのは感情というものは、複雑なもので頭の中で何ともないと思っていても心の中で思ってる、その憎しみが完全に回復するまでは2年ぐらいかかりました。その時、私は神様に私の弱さを告白しました。そうだ、私は他の人を自分の力で愛することができないということを、私の心の中には愛がないということを、実感しました。そう思ったあと、漸く神様の真実の、無条件の愛が深く感じられました。神様の愛はこの世のすべての愛に勝る絶対的な愛です
【神様はイエス・キリストを通して愛を示された】
2番目は神様はイエス・キリストを通して愛を示されたということです。今日の箇所の9節と10節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
この節には神様がイエス・キリストを通して愛を示されたことが書かれています。これをもっと理解するためにはヨハネの福音書3章16節も読みましょう。
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神様は「この世を、私たちを、御子イエス・キリストをお与えになったほどに愛された」と書かれていました。
また「御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と書かれています。
【罪の結果】
もともと神様と人間との関係は親しい関係でした。いつも神様の愛の中で御心の通りに従順に従いました。しかし人間の罪によって神様から人間は離れてしまいました。
その結果人間は必ず死ななければならないという運命になりました。それを哀れんで下さった神様はその独り子イエス・キリストを宥めの供え物としてこの世にお遣わしになりました。
またそのイエス様は私たちの罪のために十字架に架けられました。ローマの信徒への5章8節には、こう書かれています。
ローマの信徒への手紙5章「8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
神様は私たちを愛してくださいました。それは私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は、ありのままの私たち一人ひとりに関心があります。聖書には私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちを愛してくださった、と書かれています。
皆さんはこの世の誰かから命懸けの愛を与えられたことがありますか。
たとえその愛が人間の限りある愛としても愛されるという事は本当に素晴らしいことです。ましてそれが永遠に変わることのない神様の限りない真実の愛であるなら本当に幸せなことでは無いでしょうか。神様は私たちをその愛で愛してくださいます。
私たちが神様の愛を持って人を真実に愛するためには、もっと積極的な行動が必要です。今日の箇所の15節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章15 「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」
イエス様を神の御子と告白するのは、私たちの唯一の救い主として告白することです。このイエス・キリストが主である事を信じたら、私たちは裁きの日にも大胆さを持つことができます。
続いて17節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」
【永遠の命】
もし私たちが主であるイエス・キリストを真実に告白したら私たちは死の後のことを恐れる事はありません。なぜなら十字架のイエス・キリストの愛は私たちに永遠の命を保証してくださるからです。
【互いに愛し合うこと】
最後の3番目は神様は私たちが愛し合うことを願っておられるという事です。
よくキリスト教は愛の宗教だと言われています。その愛とはどんな愛でしょうか。
マタイによる福音書22章36以下で、キリスト教の愛は、神様の愛と隣人の愛、この2つからなっていると書かれています。いっしょに読みましょう
マタイによる福音書22章「36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
聖書の中に書かれてあるこの2つの愛、神様への愛と隣人への愛、この二つの愛の中でどちらの方が易しいと思いますか。私は隣人を愛するのはあまり易しいことではないと思います。私も皆さんに証ししたように個人的に人を憎しみ、2年間悩みました。
神様への愛、教会にきて礼拝して神様と関係を持つのは一見難しく見えるけれども、実際私にとってもっと易しいことと感じられました。今日の箇所の11節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。愛する子達、神がこのように私たちを愛されたのですから私たちにも互いに愛し合うべきです。」
「このように」私たちを愛されたと書かれてあります。「このように」とはどんな意味でしょうか。
それは9節、10節に書かれてあります。ヨハネの第一の手紙4章
「9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
ヨハネの第一の手紙4章「11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。
神様の独り子を私たちのためにこの世に遣わしてくださった。それで私たちも互いに愛しあうべきです。私たちを自分の都合や気持ちによって愛したい人を愛しているだけではいけません。私たちの愛でなく神様の愛でお互いに愛さなくてはなりません。
ヨハネの第一の手紙3章16節と18節を共に読みましょう。
16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
【命を捨てる】
16節はどんなに驚かされる御言葉でしょう。時々映画などで恋人の為に自分の命を捨てる人がいます。また自分の子供の為に命を捨てる父親とか母親がいます。いま周りの方々をご覧になってください。皆さんの側に座ってる方をご覧になってください。聖書は私たちが愛すべき兄弟姉妹だと書かれていますね。皆さんは皆さんの側に座っておられる方々のために皆さんの命を捨てることができますか。正直言って私は自分の夫のために、命を捨てるべきと書かれているが、それは迷いますね。命を捨てる程でなくても、皆さんが少しでも犠牲を払うことはなかなか難しいことです。
愛する兄弟姉妹だと言っても何か一言言われたら顔を見たくもなくなります。それが人間である私たちの弱さです。
18節には「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合おう」と書かれています。このように愛するのは神様の御心です。
【愛の原子爆弾:ソン・ヤンウォン先生】
韓国に孫良源(ソン・ヤンウォン)と言う牧師先生がおられました。この方は「愛の原子爆弾」というニックネームがあります。1902年生まれで、1939年からハンセン病患者の治療機関である愛養園で患者たち(約1, 000人)を家族のようにケアしました。1948年ある事件で、自分の愛する2人の息子が殺されました。しかしその時、自分の2人の息子を殺した犯人を許すだけではなく自分の養子にしました。1950年、韓国戦争の時に参戦し孫良源先生犠牲になられました。夫と私は何年か前、韓国全羅南道のほうにある「愛養園」に行ったことがあります。
皆さん、ソン先生の愛こそはイエス様が見せてくださった愛ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世の誰より大きい愛を見せてくださいました。その愛を学ぶべきではないでしょうか。自分の親しい人を受け入れて愛することができないのが私たちです。
ヨハネの福音書13章の34節から35節にこう書かれています。
「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
また今日の箇所の19節、20節にこう書かれています、
ヨハネの手紙一4章「19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」
もし私たちが本当に神さまを本当に愛するというなら私たちはお互いに愛し合うべきです。
今日のメッセージを通して3つのことを考えました。
1番目は神様は愛であるということ。
2番目は神様はイエスキリストを通して愛を示してくださいました。
3番目は神様は私たちが愛し合うということを願っておられることです。
これらをいつも忘れないで実践することができるように主が助けてくださいますように祈りましょう。(おわり)
2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
聖
書
創世記22章1-19節
1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
(説教要訳 文責近藤)
【信仰の試練と摂理】
摂理という言葉をよく使うことがあります。
神様がご自身の計画に従ってすべての事を、ご自身の栄光のために、そして私たちの祝福のためにご支配し、用いられるということです。一般論としてはその通りで、神は永遠のご計画に従って万事をすべてご自身のために、その民のために支配なさると。しかし、もう少し正確に言うと、摂理というのは信仰の試練に出会う時、その時だけとは言いませんが、その時に体験する神様の恵みであると言わなければならない。
摂理とは、他人ごと、一般論ではありません。神学校では、イエスにおける神の聖定などと言いますが、神はご自身の栄光のために万事を聖く用いられることによってご支配されるというのは間違いではありませんが、神様を信じる事によって困難なことを覚える、それでも神様を信じる。試練や悩みを超えて結果的に強くなる、それが摂理です。
信仰の困難を覚えない時に摂理信仰とは単に口先だけのことになると学生に話します。今日の朗読箇所は摂理信仰を表す典型的な御言葉であります。2番目に典型的な箇所ですが。1番目は何かといえばイエス・キリストの十字架であります。これはまた後ほど申します。
【アブラハムの最大の試練】
さて創世記12章以来長いアブラハム物語が始まりまして、25章ではこのアブラハム物語のクライマックス、頂点でありますが、アブラハムの長い人生のクライマックスであります。神様がこれまで導いてこられたことを凝縮して、ここではこれまでもそういうことがありましたが、ここは代表的なところであります。
さて先ほど申しましたように信仰の試練という事の中で神の摂理ということを本当に体験することができるのですが、アブラハムは最大の試練に今見舞われております。
創世記22章の1節~、
「1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
【息子イサク】
これまで波瀾万丈の人生を歩んできたアブラハムですが、アブラハムには子供が与えられませんでした。古代人にとって跡継ぎがないということは致命的なことであります。
漸く神様の約束が実現しました。99歳になっている妻サラから子供が生まれた、アブラハムは100歳、普通ありえないことですが、神様はそれを実現してくださいました(21章参照)。
【神様のご命令】
やっと子供が与えられた、ところがこともあろうに、その子を神様は捧げ物にせよと命じられた。これがもし異教の神の命令なら「神様、助けてください、こんな目に合っています」とお願いすることができますが、これは神様のご命令です。これはもう神様の中に飛び込むしかありません。命じられたとおりするということです。
子供も与えられ、後継もでき、異教の王アビメルクとの契約関係もうまくいき、漸くアブラハムの生涯はやがて締めくくられようとする、その時に思いがけず神様からの試練を与えられます。物語そのものはアブラハムの心境、胸中一切は語りません。もの事を淡々と叙述します。
【献げ物にする小羊は?】
7節にイサクが「父さん、火と薪がありますが焼き尽くす献げ物にする小羊がありません」と言います。それがお前だとは答えられません。「神様が備えてくださる」としか言いようがありません。
そうした会話も淡々と描写しております。そうであるだけにアブラハムの心中、胸中が見えてくる。どれほど穏やかでなかったか。神の試練を間接的に描写するために、「あなたの息子、あなたの愛する、あなたのひとり子を捧げなさい」、「イサクを捧げなさい」と言えば済むことですが、「あなたの愛するひとり子」、これを失えば後はない、これが神様の命令です。
「焼き尽くす捧げ物」を口語訳では「全焼の生贄」、火のまわりを速くするために、手足を切り落とす、胴体を切り刻む、それは動物でも大変酷いことですが、それを自分の子供にせよというのです。しかしアブラハムはそれを即座に従います。
ここに契約というものがどういうものかがよく現れております。しかし何度もいうことですが、例えば今日、契約と言えば横の関係、対等の関係であります。互恵契約といいます。どちらからでも解約するのは自由です。
【神とその民との間の契約】
けれども聖書に出てくる古代の契約、少なくとも神とその民との間の契約は上下主従の関係であります。契約を維持すること、成就することにおいて神様は一方的でアブラハムと相談して契約を結ぶということはありません。アブラハムは一方的に従うしかありません。契約に生きるという事はこういうことです。
【はい:いつでもお仕えできます】
1節で、アブラハムは「はい」と答えます。「はい」いうのは意訳でして、良い訳ではないと思います。本来「見よ、我ここにあり」ということです。神様に偉そうなことは言えませんので、「ご覧ください、私はここにおります」というのが直訳です。
「ここにおります」。神様にそんなこと言わなくても神様はご存知です。そういう意味ではありません。「神様、私はいつもあなたのお側近くにいます。いつでもお仕えできます」ということですね。
【侍:はべる】
横道に少しそれますが「侍」と言う日本語がありますね。大体言葉の意味を知らずに使っておりますが、「侍、ジャパン」と。本来は、刀を振り回す、そのような人のことを言うのではなく、文語で「さぶろう」、「侍る、はべる」ということです。
お側近くにいる、ということです。常に近くに志向して、何かあればすぐにご主人の命令を行う、そういう人のこと「侍」といいます。
「武士は二君に仕えず」と言いますが、一人の主君に忠誠を尽くすという事で、「ご覧ください。私はここにおります、いつもあなたの前におります」。
【また戻ってくる】
5節に、アブラハムは下僕たちに言います「5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と。「また戻ってくる、一人で」とは言えません。彼らに対してもイサクに対してもですね。
アブラハムは神様の命令ですからイサクを捧げることを決心しているわけです。「また戻ってくる」と言ってもイサクは薪を背負っているわけです。イサクはまさか自分が殺されるとは夢にも思っておりません。
イサクが聞きます、7節「火と薪はここにありまが焼き尽くす捧げ物の子羊はどこに居るのですか」。「それがお前だ」とは口が裂けても答えられません。アブラハムが最も聞かれたくない質問であったと思います。
【主、備え給う】
それに対するアブラハムの答えは「私の子よ。焼き尽くす犠牲の子羊はきっと神が備えてくださる」と申しましたが、これは優等生の模範答案ではございません。アブラハムは必ずそうなると、「お前に代わって神が雄羊を備えてくださる」と彼が確信していたわけでありませんが、うまく表現できないですが、神様がして下さる、神様に逃れる意外に他に答える道がなかったからです。
異教の王の命令ならば、神様に逃れて助けを願うことができますが、神様の命令には、有り体のことでは無いですが、そうなる確信はないですが、神様のなさる事だから神様に任せようという気持ちもありまして、「神が備えてくださる」と答えました。そう答える以外なかった。
イサクはそうなったときにどう反応したかは一切書いておりません。抵抗したか、逃げたとしましてもね、結果として捧げる場所を用意してイサクを縛って薪の上におきました。今まさに刃物でイサクを屠ろうとしたその瞬間に、神の御使いがアブラハムの手を押しとどめた。ここでも「ハイ」と答えておりますが、今、行うとしておる、その子に手を下すことに待ったをかけられました。
【神を畏れるもの】
12節「あなたが神を畏れるものであることが今わかった」。これは神様がそれまで知らなかったという訳ではありません。これは本当に私を信じているか試してやろうということではありません。
試すと言う意味合いはあっても、「試された」と書いてありますから、しかし本当に神様を信じる信仰があるかないか試そうと言うのではありません。
アブラハムが信仰の人であることを神様はご存知です。これまでいろんなことがありました。その信仰を最終的に確証した、確立した。神様は初めからご存知ですがアブラハム自身が自分が本当に神を畏れもるのである事を納得して受け入れるように導いてくださったということであります。イサクもまたそれを感じ取ったことでしょう。
12 節後半、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
【一匹の雄羊が角をとられて】
13 節「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」。
雄羊が、なぜ子羊でなかったのかわかりませんが、角を取られていた。それば神様が備えて下さった、神様が受け入れてくださる、捧げものであります。
【息子イサクは死んだ】
これは息子を失わずに済んだ、やれやれと思ってはなりません。
アブラハムの信仰ではもう既に息子を捧げております、息子は既に一旦死んだのです。
しかし神様はアブラハムの信仰を祝福して、あるいは信仰による契約関係における彼の応答を豊かに祝福し、また過分な評価をしてくださいました。それに代わる、いやそれに勝る捧げ物を自ら用意してくださった。
結果として見ますと雄羊がイサクに代わって捧げられたのです。
【信仰によって】
ヘブライ人への手紙の11章17節以下で
「17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。
【信仰よってアブラハムはイサクを捧げた:殺した】
さっき言いましたように可愛い一人息子を捧げなくて良かったという程度では無いのです。
アブラハムはその信仰において神様との関係においてイサクを殺した。神様の命令に従ってイサクを捧げたわけです。
そこで神様もこのアブラハムの信仰の応答を豊かに祝福してくださいました。すなわち雄羊を自ら用意してくださったのです。ということはイサクは一旦死んだのですが、その雄羊の犠牲によって生き返らされて、死者から生きかえらせて、息を吹き返してくださった、復活させられて返してくださったということであります。
【イエスの十字架と復活】
もちろんアブラハムが2,000年後に、ナザレのイエスという方が十字架にかかり復活なさるという事は知っておりません。
しかしヘブライ人への手紙の記者はその出来事を知っておりますので、イエス様の出来事の光の中でアブラハムの行為を解釈し直したわけです。
【さらに勝った仕方で】
こうしてそれ自身まことに辛い神様の命令、人間的には理不尽な神様の要求に、しかし「ハイ」という言葉に聞かれますように、契約関係の中で従順に生きるアブラハムは即座に従った。どうなるか分からないけど、神様が何とかして下さるという曖昧な信仰であったかもしれませんが、アブラハムはそれを実行しました。神様をそれに大いに勝った仕方で祝福してイサクを生きて返してくださった。
【キリストは死んで蘇ってくださった】
イエス・キリストと言う犠牲は神様ご自身が用意してくださったものであります。
イエス・キリストの死と復活、これによってキリストを信じるもの全てが生きて返されます。キリストの死と復活に預かるもの、私たちもまたやがて復活するだけではなく今、永遠の命に生かされている。キリストの死と復活に与る洗礼を受けた私たちは、パウロも言うように、ロマ6章にありますが、キリストは死んで蘇ってくださった。私たちは今、永遠の命に生かされています。十分の形で顕されるのが復活の時であります。
【あなたの子孫をの星のように増やそう】
こうすることによって神様はアブラハムの信仰と従順を嘉し祝福してくださった。そればかりか、ご自身の約束を今一度確証してくださったのであります。
16節以下、御使いの言葉でありますが、これは神様ご自身の言われる事で、
創世記22章「16 御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る』」。
「私は自らにかけて誓う」と言われる。これまでもあったのですが、今ここでもう一度17節に「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫をの星のように増やそう」。これは今までもありました。
12章でまだアブラムと名乗っておりましたの時から、その約束はありました。「あなたの子孫を天の星のように海辺の砂のように増やそう」。
【敵の城門を勝ち取り】
その後のところに、「あなたは敵の城門を勝ち取り」とあります。
当時は戦争は絶えませんでしたから、戦いのイメージを用いていますけれども、神様の敵とは究極的にサタンです。イスラエルの的とはペリシテとかアシリアとかありましたが、神と神の民の究極の敵は悪魔サタンです。
アダムをエバを通じて誘惑した、蛇の形をしたサタン、神様の最大の敵サタンは最後には討ち滅ぼされます。あなたの子孫であるイエス・キリストは敵、サタンを完全に討ち滅ぼす。
それによって地上の諸国民は、その子孫イエス・キリストによって祝福を受ける。福音宣教を通して救われるということであります。
【この「子孫」とは、キリスト】
これに言及しましたパウロはガラテヤの信徒への手紙3章
16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」というのは、一人の人、イエス・キリストがサタンの王国を打ち滅ぼして、神を信頼し信じるものが神を畏れることを真に可能にしてくださるのであります。
【永遠に生きる】
そして神様と共に生きる。神様と共に生きるという事は、新約聖書の言葉で言えば永遠に生きるという事であります。イエス・キリストはこのことを果たしてくださったのであります。
アブラハムの長い生涯の中で神様は理不尽な要求をアブラハムに与えられたが、これは神様が先を見越しての、アブラハムをご自身の祝福の大いなる器とするとの出来事であり、経験させられたのであります。
【ヤハウエ・イルエ:主は見る】
アブラハムはその場所を「ヤハウエ・イルエ、主備えたもう」、この様に訳すことも可能ですが、別の聖書の欄外注には「主は見る」と訳すのもあり、「ヤハウエ・イルエ:ヤハウエは見る」という意味です。「イエラエ」も同じです。あらかじめ見ているから備えることができるのであります。摂理のことを英語でプロビデンスと申します。「前もって見る」ということです。ラテン語から来ています。インターネットのプロバイダーという言葉、プロバイダとは提供する、供給する、備えるのがプロバイダですね。provideをローマ字読みにしますと、プロビデ、前もって見る、ということになります。
【最大の備え:イエス・キリスト】
我々は前もって見ることはできませんが、神様はちゃんと見ておられます。だからそれにふさわしい備えができるということです。私たちは先を見ることはできません。「備えあれば憂いなし」と言うが、的確な備えができません。しかし神様は先の事をちゃんと見ておられるですから我々のために備えてくださる訳です。その最大の備えはイエス・キリストってございます。
【キリストの十字架】
キリストの場合はアブラハムと違って、キリストの十字架というのは、人間の側から言えば、これは悪意がなしたことです。もう邪魔になる、権力に楯突くナザレのイエスはけしからんということで、ポンテオ・ピラトが死刑を命じた。
ピラトはイエスには死刑に当たる罪はないと知っていたのですが、暴動が起こると自分の首がないと。それで理不尽ではあるけれども保身のためにイエス様を十字架にかけたのであります。ユダヤの人々はナザレのイエスが変なことを教えている。それで十字架にかけられた。イエスが亡くなると、私たちが勝ったと思ったのです。ローマの役人もユダヤの官憲も。ところがの十字架は罪を犯した人間に対する神の裁きであった。神様はあらかじめご存知だったので罪のないイエス様を罰することにおいて、罪人の処罰をされたのであります。
もし私たち一人一人が罪のために罰せられたならば、なるほど罪の処罰は出来ます。
しかし元々神様のためにつくられ、神様と共に生きる、永遠の命を生きるという事は出来ません。
神は人間の罪をさばきつつ、それを赦して再び生きる道を講じてくださった。人間には不可能なことです。罪なきナザレのイエスが罪人の代表として十字架で裁かれ、また神を信じる正しい人の代表として先駆けとなって蘇ってくださった。キリストの十字架は、罪人に対する神の裁きである。キリストの復活は、キリストが神の前に正しい人であるということ、義であったという確証です。
【聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰】
アブラハムに約束してくださったことを、このような形で神様は成就してくださいました。このように見てまいりますとその時理不尽に思えても、神様の約束を信頼して、神様の命令という事で何でも従うと、自分が考えているはるかにを勝る大きな仕事を、神様を称える仕方で導いて下さる。これが摂理信仰であります。その意味で聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰であります。
例外が一箇所あります。それは創造です。創世記1章「はじめに神は天と地を造られた」。それは創造でありますが、そこからは黙示録の最後まで全部摂理であるといっても言い過ぎではありません。
創造ですら摂理に受け継がれますので、後のことを切り離して単発のことではありません。聖書全体はまさに摂理信仰に生きてといると言うことであります。私たちもその摂理の道に歩みたいと思います。
【まとめ】
最後に2、3のことをポイントだけワンセンテンスで纏めます。
契約とは神と民との上下主従の関係であります。このことを覚えてほしい。神様がこうしてくださると私たちはそうします、ということではありません。人間同士の契約はそれでいいが、神様は上から下への契約であります。
摂理と試練の中でこそ、信仰の試練の中でこそ、キリストを信じるという試練の中でこそ神様は恵み深い守りと導きがありますね。
「苦しい時の神頼み」という言葉があります。私たちは世俗的な意味でそれを拒否していますが、苦しいときだけ神社、仏閣に参ると言うのは、キリスト信仰から見るととんでもないことですが、言葉の本来の意味で、苦しい時に頼みにならない神は神でない。
都合の良い時だけ御札を売って儲けて、本当に死にそうな時に、知らん顔する神は神でない。詐欺ですね。聖書の神こそが真実、頼りになる神であることを改めて憶えたいのです。
神様が知らない試練は無い。神は全てを知っておられる。
場合によってはそれを用いてもくださる。だから逆に神様に逃れることもできる。アブラハムはイサクに問われて答えられません。確かに「主は備えてくださるだろう」。まさにこれは苦しい時の神頼みの答えであります。正しい意味においてその通りだと思います。
二番目、神様への捧げ物は、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものを捧げなければなりません。
神様はイエス・キリストと言うかけ替えのないものを捧げてくださいました。
アブラハムは息子を捧げる時に、心の苦しさを覚えたでしょうけれども、最も大事なものを捧げたのです。親の人情としては「神様、私の命を取って下さい」と思ったかもしれない。これが人情です。しかし神様はそうではない、「あなたの愛する子を捧げなさい」と言われた。捧げ物とは自分にとって最も大事なもの、ある種の犠牲を伴わないものではないということであります。今週も神様の摂理のなかで神様の摂理の恵みを体験させていただきながら歩みたいと思います。アーメン。
2013年11月3日説教「一つになるように」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
2013年11月3日説教「一つになるように」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
新約聖書ローマの信徒への手紙15章1~13節。
1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
(説教要約 文責近藤)
【はじめに】
今日の御言葉に基づいて私たちが主にあって1つになるようにとの説教をいたします。
私は2週間、タイに行ってまいりました。そこでアジアで働くWEC宣教師たちが集まり会議がありました。
いろんな国から宣教師がきていました。日本の宣教活動ほど難しいことはないと思っておりましたが、もっと宣教の困難な場所に遣わされている宣教師もおりました。日本は宣教の一番難しい国ではないということがわかって悔い改めました。ラオス、ミヤンマー、中国で働く宣教師達の苦労と比べると日本で宣教活動しているのは幸いと思いました。
【七日間の命】
皆さんに残された人生が一週間だけだと言われたら、あなたはどのように過ごしたいですか。
私は韓国で居たとき学生達に質問しました。彼らの答えを五つに分類してみました。
世界を観光旅行してから死にたい観光タイプ。一本のリンゴの木を植えたいという哲学タイプ。恋愛をしたいというロマンチストタイプ。何も考えないで生きるという忘却タイプ。食べたいものを全部食べると言う食欲タイプです。
皆さんはどの様な答えですか。私が期待した答えは祈りながら過ごしたい、神様を礼拝しながら、聖書を読みながら死を迎えたいという答えを期待したのですが、だれもそのように答えなかったです。
【受難週】
私たちが見習うべきイエス・キリストは何をなされながら最後の1週間を過ごされたでしょうか。私たちはその最後の1週間を受難週と言います。
イエス様がその時なされた事は二つありました。1、弟子たちを教えることと2、お祈りをすることです。
主イエスが弟子たちに教えらた核心はヨハネによる福音書13章35 節にあります。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
最後の夜はゲッセマネと言うところでお祈りをなさいました。そこで十字架を背負うための祈りをなさいました。
祈りの中で弟子たちのための祈りが一番長かったです。 ヨハネ福音書17章全体がその祈りの内容です。その中でイエス様が強調されているのはヨハネ福音書17章21節です。
【すべての人を一つにしてください】
ヨハネによる福音書17:21 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。
言い換えれば、父と私が一つであるように弟子達も一つであるようにと言うことです。イエス・キリストの弟子たちへの最後の頼みは、世界に福音を述べ伝えることです。
その使命は12人の弟子たちに与えられました。お互いに彼らが愛することができず1つになることができなければ、その使命を果たすことができるでしょうか。
弟子達が至上命令を果たすためには互いに愛し、一つになることがどうしても必要なことでした。
皆さんにもう一度聞きます。皆さんに残された人生が1週間だけだとすればどのように過ごされますか。
私たちが神様の恵みによって救われ、クリスチャンになったならイエス・キリストの命令に従うのは当然ではないでしょうか。
「互いに愛しあう」という至上命令を果たすことが私たちが死ぬまでするべきことではないでしょうか。
パウロは今日の箇所で弟子たちがどうすれば一つになれるかを教えています。そして
私たちクリスチャンはイエス・キリストの教えに従って一つになるために何をすべきでしょうか。
【互いを喜ばせる】
1つ目はお互いを喜ばせることです。
今日の箇所ローマの信徒への手紙15章2、3節を共に読みましょう。
「2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」。
キリストもご自分の満足をお求めにはなりませんでした。2節を見ますと「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」、すなわち隣人の徳が高められるように隣人を喜ばすことです。
英語でPlease his neighbor ,隣人を喜ばす、この御言葉の意味は隣人の利益のために自分の利益を犠牲にしなければならないと言うことです。
それが真に一つになる出発点です。
コリントの信徒への手紙一13章(愛の教え)は、5節に
「5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」。
と、自分の利益を求めずと言います。自分の利益を犠牲にすべきです。殆どの人は他人が自分の為に犠牲を払ってくれるのを願っているではありませんか。私もそのタイプです。
私は妻と一緒に住んでいるんですが、私は家で掃除をすることと皿洗いをすることが私の担当です。それをしないとご飯がないです。ある日、皿洗いをしたくなかった、その日は夕ご飯がなかったです。これが人間の心ではないでしょうか。相手が何かしてくれれば私も何かしてあげようというのです。
しかし聖書はどう書いていますか。今日の箇所1節を皆さんと声を合わせて読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」
自分の信仰が強いと思う人は信仰の弱い人のためになるべきです。主イエスが天国の栄光の御座を捨ててこの世に来られ、自分のすべてを犠牲にされたその理由は、私たちを喜ばせるためです。
【愛の御心】
私たちを救って下さるために、新しい命を与えてくださるために、すべてを主イエスは犠牲にしてくださいました。3節「 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」これは神様の御心を現された箇所と思います。神様の御心にあるのはなんでしょうか。私たちが救われ真実の信仰を持つことでないでしょうか。イエス様はこれらをもたらすためにご自身を犠牲にされました。
【十字架の死に至るまで】
使徒パウロはピリピの信徒への手紙2章6節から8節に次のように言っております。
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
私たちはどうでしょうか。イエス・キリストのように真実の一のためにすべてを犠牲にして生きているでしょうか。教会や隣人の弱点を補うようにキリストのように生きているでしょうか。皆さん、真実の交わりを願っているなら自分自身を犠牲にして相手を喜ばせるために心を尽くしてみませんか。
【同じ心を持つ】
2つ目は同じ心を持つことです。同じ心を持つことによって私たちは一つになることができると思います。
私たちが一つになるために一番必要な事は同じ心を持つことです。今日の言葉の5節6節を共に読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。
韓国語では6節「心が一つになるようにしてください」と書かれています。
どうすれば皆さん私たちの心を一つにすることができるでしょうか。
【御言葉を教える】
私たちは育った環境また性格皆それぞれ違います。物と見る観点も違います。私と妻は中学生時代からずっと同じ教会で育ち同じ神学校にも入り3年間寮生活をしながら一緒に生活しました。今まで一緒に住んでいますが時々物の見る観点が違うのです。こんなに長く一緒に住んでいたら物事を見る観点が一つになると思うのですが。このような問題がイエス・キリストの弟子たちの中にもありました。様々な出身があり、ロマのための収税人もいれば、熱心等の人もいました。金持ちも貧乏人もいました。格式のある人も学識のない人もいました。
イエス・キリストは彼らの心を一つにされるために何をされましたか。神様のみ言葉を教えること以外は何もされませんでした。主は弟子達の心が一つになるためにどう生きるべきだと教えたでしょうか。4節にその答えがあります。
ローマの信徒への手紙15章「4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。
【主の忍耐と慰めを学ぶ】
この箇所で強調されていることは二つのこと、忍耐と慰めです。5節では「忍耐と慰めの源である神様」と書かれています。
クリスチャンは神様に従うべきですと思います。私たちの神様が忍耐と慰めの神なら私たちも神に従って人々に出会う時、忍耐と慰めによって、希望を持たせるべきです。
フィリピの教会は本当にいい教会ですが少し問題がありました。どんな問題でしたか。
フィリピの信徒への手紙4章「2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
【相手を自分よりも優れた者と考え】
ここに二人の女性の名前が出てきます。ピリピの教会で熱心に奉仕をしていたようですが二人の仲は良くなかったのです。パウロがこの手紙を書いた背景は2章ピリピリの信徒への手紙の2章2節から4節を共に読んでみましょう。
フィリピの信徒への手紙2章「2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
私たちが持つべき同じ心の共通要素は何ですか。その答えは5節にあります。
フィリピの信徒への手紙2章5 「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
仲の悪い二人にイエス・キリストの心を持ってくださいと言うものです。イエス・キリストの心を持って仲良くしないといけません。どうして私たちはイエス・キリストの心を持つべきでしょうか。それはイエス・キリストの心は忍耐と慰めとで満たされているからです。
【主の忍耐】
主はどれほど忍耐されたでしょうか。主は弟子達の中でご自分を裏切る者を知っておられた。ユダによって裏切られ、そして十字架にかけられることも知っていました。
しかしイエス・キリストのお姿はどうでしたか。
彼に他の弟子たちと同じように暖かい心を持ってパンをお与えになりました。ヨハネ福音書13章を見ると、イスカリオテのユダにたいして深く愛を持っていたことが記されています。この御言葉の意味は、裏切る彼を許して受け入れられる忍耐を、イエス・キリストの忍耐を表している言葉では無いでしょうか。
こんな本を読んだことがあります。それは戦場のヒューマニズムを書いています。ある軍人が武器を捨てながら敵に話すところです。
『あなたは血や肉のある人間、私もそうです。あなた失敗する人間、私も失敗する人間。あなたはいずれ死ぬべき人間、私もいずれ死ぬべき人間。どうして武器を受けなければなりませんか。どうして敵になるのでしょうか。』
皆さん、神様によって作られ、神様の息子となりました。ですからイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは家族になります。家族である私たちはどう生きるべきでしょうか。
イエス・キリストのように忍耐と励ましを持って心を一つにしてイエス・キリストのためにイエス・キリストの教会のために生きるべきではないでしょうか。
【互いを受け入れる】
最後はお互いにを受け入れることです。
今日の箇所の7節を読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。
【良い交わり】
皆さんどうして人間関係において互いに受け入れることが大切でしょうか。それは受け入れることによって良い交わりが作られるからです。
私は韓国人です。日本にきて四年立ちます。今年5年目になります。滋賀県ではこっちとより田舎ですが田舎で外国人として生きる事はあまり易しいことではありません。わたしがいくら頑張って日本人と同じようになるとしても私はいつもよそ者でした。日本人のように受け入れてもらうには私は生涯を通して頑張って生活してもできない事だと思います。
今日の前の箇所14章3節は声を合わせてみましょう。
ローマの信徒への手紙14章「3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。
ここでは食べない人を軽蔑してはいけないといいます。「兄弟たちを侮るな」と新改訳では記されています。その理由はどういうことでしょうか。それは兄弟を侮れば人間関係に傷がつくからです。そのような問題に対してイエス・キリストはどんな手本を見せてくれましたか。イエス・キリストが私たちをどう受け入れてくださったかを見てみましょう。
皆さん、イエス様は私たちを救ってくださったとき私たちに何を期待されましたか。もちろん私たちに対してイエス様は私たちに何かを期待して、私たちがその期待に応えたから受け入れてくれましたか。私たちの生き方は今日もイエス様の期待には及んでいません。
それなのに聖書は神様が私たちを無条件に受け入れて下さったと記しています。
まるで放蕩息子を受け入れた父親のように神様は私たちを受け入れてくださいます。
放蕩娘息子が遠い国で財産を食いつぶして父親のもとに帰ったときに父親は真っ先に息子を抱いて無条件に彼を受け入れました。その素晴らしい父親の愛を受けた息子は父親に申し訳ない、父親のために人生を送ろうと思いました。その父親は期待に応えたから放蕩息子を受け入れたですか。
それとも父親に受け入れられたから父親に応えられるように生きようと思ったのですか。後者の方です。
私たちは隣人をどう受け入れるべきでしょうか。神様が私たちを無条件に受け入れてくださったように私たちも神様の様に人々を受け入れるべきではないでしょうか。
皆さんは周りの人々に対する期待がありますか。それなら彼らを受け入れてください。それが神様が私たちを受け入れてくださった生き方です。友人関係が壊れるのは私たちの期待のせいではないでしょうか。
【薔薇の刺】
ある韓国人の歌があります。「薔薇の刺」と言う歌です。歌詞の内容は信仰の告白的内容です。
『私の心には自我が多すぎる。あなたが休むところがない。私の心には儚い夢であなたが安らげるところがない。私の心にある暗闇があなたの休むところを奪い、私の心には私が消すことのない悲しみが檻のようにあるのであなたが休まれるところがない。風が吹けばそのするどい薔薇の枝はお互いにぶつかって突かれて、休めるところを探していた幼い鳥たちも薔薇の枝で刺されてしまうので休まず飛んでいってしまった』。
皆様、神様の愛によって新しい人になって神様の救いの恵みを味わって私たちが真実のクリスチャンであったら、疲れている隣人に向かって私たちの暖かい心の中で隣人を休ませる人生を送るべきではないでしょうか。
最後にマタイによる福音書11章28節を皆さんと一緒に読みましょう。
「28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
(おわり)
2013年11月04日