2013.10.27.説教「福音伝道のニ大要素」佐々木弘至牧師
福音伝道のニ大要素(ルカ福音書4章) 2013.10.27佐々木弘至牧師
ルカによる福音書4章38~44節、4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
【説教の主题】救いはキリストの神の国(支配)の福音にある
《Ⅰ》全ての人の望みは神の国の福音の主イエス・キリストにある
今日のルカ福音書が告げています使信は何かと言いますと「そもそもイエス・キリストの使命は何か」ということについて、はっきりと教えられていると言うことができます。
そしてそのことは、イエス様ご自身が語られた御言葉の中に記されているのであります。
*朗読43節「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。これはイエス様がご自身の使命について一言で表明されたものです。私たちはイエス様が「わたしは神の国の福音を告げ知らせなければならない。そのために遣わされたのだから」と言われたこのことの重大な意味を、どれだけ人生において、又日々の生活の中で、その重さを認めて生きているでしょうか。このイエス様の言葉には、私たち自身のことはもちろんのこと、私たち自身だけでなく、実は全世界の全人類の命がかかっていると言うことができるのではないでしょうか。
【改革派教会創立宣言】1946年4月29日
私たちの改革派教会が敗戦直後に創立されました時、その創立宣言では、こう詠っています。
「欧州文明についてこれを見んか、古代社会の危機に際し、個人の道德觀念の腐敗、国家社会秩序の崩壌を救い、中世文明を樹立せしはイエス・キリストの宗教(即ち原始キリスト教)に他ならず、中世の危急に際し、同様の働きをせしは、イエス・キリストの宗教(即ち宗教改革のキリスト教)に他ならず、今や三度、近世文明危機に直面せり。世界は何にこれが救いを求めんか?同じくイエス,キリストの宗教(即ち改革派のキリスト教)の他にこれなし」
実は、この文章の内容は、オランダの首相であり牧師であり弁証学者でありましたアブラハム・カイパーという人が著した「カルヴィニズム」という書物の中の「カルヴィニズムと世界の将来」という章の中で語られていることを受け止めて書かれたのではないか思われる訳です。
【福音宣教が大躍進した二つの時代】
アブラハム・カイパーはそこで、私たち人類の住む世界は、神様との関係を切って存在しようとする時、そこには何の将来性もないのだということを、世界の諸国の
歴史が証明していると言い、しかしながらこの世界の歴史の中に、過去に二回だけ、霊的にも道徳的にも文化的にも、あらゆる面において、神様との関係を取り戾して、素晴らしい人生観・世界観を抱いて、真実に繁泶することの出来た時代があったのだと言っているのです。
先ほどの創立宣言が言っています二つの時代とは、一つは約2000年前、イエス・キリストと使徒達によって福音が宣べ伝えられた初代教会の時代で、もう一つは、ル夕一やカルヴィンらによって福音宣教が回復した宗教改革の時代(500年前)です。
世界の歷史において、この二つの時代だけが純粋にイエス・キリストの神の国の福音を受容した時代であったとA・カイパーは言っている訳です。
ですから、今後の世界において、もし希望があるとすれば、それはあの初代教会と、宗教改革時代の二つの時代のように、再びイエス・キリストによる神の国の福音に与るということの中にだけ、世界の希望はあるのだ。
その他には、この世界の将来に望みはないのだと謳っているのだというのです。そして先ほどの創立宣言の締めくくりの言葉も、それを受けて「世界の希望はカルヴィン主義の神にあり」と宣言しているのです。
《Ⅱ》主イエス・キリストの使命である神の国の福音宣教
さて、前置きが少々長くなってしまいましたけれども、私達もルカの福音書から「キリストの福音の言葉」に耳を傾けて行きたいと思います,
①
【ペテロの姑の癒し】―神の国の愛の業をあらわす福音*朗読38--40節
まず最初に、私たちはここから、イエス・キリストがこの世にもたらされた「神の国の福音」というものの特質について教えられるのです。つまり、神の国の福音は唯言葉だけによるではないのだということですね。
この日の出来事は、主の日の公同礼拜がすんだ直後のことでした。
会堂礼拜が終りますと主イエスは、いつも親切にしていただくシモンの家に 行きました。後に使徒ペトロになる人ですが、この時は未だ「シモン」とだけ呼ばれていた、恐らくは未だ熱心な求道者の頃のことです。
そして、イエス様がシモンの家に行かれたのは、礼拜奉仕の疲れを休めるためというよりも、おそらく信徒の交わりのための昼食会か、晩餐会に招かれたのであったかもしれません。ですからここに、私たちの安息日の過ごし方に対する一つの在り方を示されるのだと思います。主の日礼拜の後には、西谷伝道所もしていますが、信徒方が楽しく親しい交わりもなされるのです。
けれども、あいにくシモンの家では、奥さんの母親が高熱を出して苦しんでいたのでした。この「高い熱に苦しんでいた」という言葉は「大きな熱に捉えられる」という表現でして、それは当時のギリシヤの医学用語であると言われます。 ですから、こういうところにもこの福音書を書いたルカの医者らしい側面が現れていると見ることが出来る訳です。イエス様を迎えたシモン家の人々は、早速イエス様に彼女を癒して戴きたいとお願いしたのでした。
するとイエス様は、彼女の枕許に来て、その熱を叱りつけることによって、その姑の病を癒して下さったのでした。つまり主イエスは、人の魂だけではなく、身体をも治しも生かしもされるお方であることを示されたのです。イエス様はまるで医者のように病人の枕許に愛をもってお立ちになるのです。私どもが病の時、病に苦しむ私どもの身体をも顧みて下さるイエス・キリストが、聖霊において、愛をもって枕許にいて下さることを感謝をもって覚えることができるのです。
現在は奇跡を行われはしないかもしれません。けれども私たちは、現在も福音による慰めをもって、平安をお与えくださる主イエスに、癒しの惠みを願い求めることが出来ることを感謝したいと思います。*朗読39節4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
高熱を癒されると、姑はすぐ起き上がって、癒して下さったイエス様を始め集まった一同のために、おもてなしをしたのだったといいます。
【愛の業】
人は、イエス・キリストのために、また教会のために奉仕することが出来るようになって初めて、心身ともに健康になれたと言えるのではないでしょうか。
安息日礼拜の後に病者を見舞い、愛の癒しの業に奉仕することも大切なのです。イエス様もここでそうなさったのですから。けれども、信徒たちが食事を共にし、お茶を飲みながら、信仰の交わりをすることも大切なのです。
もちろん、それも世間話に花を咲かせるためではありません。シモンの姑のように、急の高熱で礼拜に欠席せざるを得なかった人たちを訪問することや、礼拜で聞いた神の言葉、福音について伝えたり、語り合うことや、信仰の証を語り合うことなども、教会信徒にとって安息日の喜びであり、大切な務めだからなのです。シモンの姑はそれを可能にして頂いたのでした。
さて、その日も夕暮れ時になりました。すると、イエス様がシモンの家におられることを伝え聞いた人々が、特にいろいろな病気で苦しむ人を抱えている人たちが、イエス様の御許に病人たちを連れて来たのでした。*朗読40〜41節
ですからシモンの家は、さながら救急病院か、にわか仕立ての診療所のような有様になっていたのではなかったでしょうか。イエス様はそれらの病人たちの
一人一人に手を置いて癒されたのだと言います。
叉、悪霊につかれた人には、叱りつけることによって、惡霊を追い払われたのだと言います。そして、惡霊が「お前は神の子だ」と言いながら出て行くと、それを戒めて、ものを言うことをお許しにならなかったと言うのです。そしてこの、シモンの家のにわか診療所でのイエス様の御業は、おそらく夜通し続けられたものと思われるのです。(42節、朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた)と書かれています。
そして、この日の出来事から、私どもは「神の国の福音」は、御言葉が語られ聴かれるだけでなく、愛の御業も伴っているのである、という事を教え示されるのです。イエス様の神の国の福音には、一人一人の病人に対しては、心からの愛と同情をもって手を置いて癒される愛の業が伴ってなされたのです。
私たちの教会の福音宣教の業も同様です。教会にとって、愛と憐れみを必要とする入々や社会に対しても目を向け、手を広げていなくてはならないということです。
それは、忠海教会のように聖惠授産所の障害者施設を営む働きや、静岡盲人伝道センターのような働きにも現されています。ですが、直接それらの働きをしなくとも、それらの施設に協力することや例え僅かでも支援をすることも、主の愛の業に参加する働きとなることを覚えていただきたいと思うのです。
私は、数年前まで静岡教会の牧師を致しましたが、教会は初代牧師が 全盲の方という事もあって、ご自分の必要のためにも、叉盲人信徒の必要のためにも、キリスト教書籍の点字本と録音テープの図書館を立てあげた教会でした。そして盲人伝道セン夕一は次第に、静岡教会の牧師と信徒のためばかりでなく、全国の視覚障害者を対象にしてキリスト教盲人専門の図書館となって行った訳です。そして、私が牧師を引き继いだときには、更にそこから、図書のデジタル化が必要な時代になりました。そしてそれと共に、多くの奉仕の多額の経済的な必要性に迫られるようになったのでした。前任の全盲でありました先生の場合は、御自分も牧師活動のためにセンターがどうしても必要だった訳ですが、私個人にとりましては、センターは教会の愛の業としての執事的な活動以外の何ものでもありませんでした。
しかし、センターの事業はもはや既に、一教会で担えるような規模ではなぐ日本全国の教会とクリスチャンの力が寄せられなければ不可能なことをつくづくと感じました。
そして私はそういう緊張の中で、福音を宣教する教会というものは、本当に愛の業を伴わせなくてはならないのだ、ということを覚えると同時に、はたして全国の教会がそういう思いを真剣に抱いているのだろうか、ということを感じたのでした。もちろんそれぞれの教会には、自分達の教会が果たすべき愛の業があると思うのです。けれども、一つの教会だけでは果たせない大きな愛の業もあるのです。そういう場合には、そういう働きを理解することや協力することが、愛の業を果たすことに繋がるのだということを覚えることが大切だと思うのです。
さて前回、前の部分で主イエスの語る言葉には権威があったということを見ました。32節。
ルカによる福音書4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。その権威とは、神の力による支配が働くということでした。つまり福音には神の恵みの支配力があるのだということなのです。御言葉に権威があるとは支配力・実行力が伴うということなのです。
つまり主イエスの御言葉は、神の支配、即ち神の国を創りだすのだというのです。そして、神の支配・神の国が造り出されたことによって、悪霊に苦しまされていた男は解放されたのでした。35、36節ルカによる福音書4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
ですから、それに続く今日の御言葉も、この神の国の御業の延長線上で 繰り広げられたのです。つまり、今日の御言葉は、神の支配,神の国の業としての愛の業が更に拡大されたのだと告げられているのです。そしてここに、教会とキリスト者の使命は何であるかが教えられているのです。つまり、教会とキリスト者の使命とは、神礼拝において全身全霊をもって神を愛することが第一であるけれども、それだけでなく第二の使命がある。それは人を自分自身のように愛することです。安息日に主イエスを初め弟子たちがカファルナウムの会堂に集まって礼拝を捧げていたことこそ、正に第一の使命を果たすことでした。そして、今日のところで、主イエスが会堂礼拜を終えてからシモンの家に集まったのは、正に「隣人を自分自身のように愛する」第二の使命を果たすためでありました。教会とキリスト者にとって、このどちらも疎かにできないのです。
熱心な礼拜をもって神を愛する教会は、降人を愛することを疎かにしてはならないのです。ですから主イエスはこの日、その手本を身をもって示しておられたのです。主イエスがこの日なさったことは、主に医療的な働きを伴った御業と、悪霊を沈黙させる働きでした。そして、この主イエスの医療的癒しの奉仕が示している特徴は、单に病気を診るというよりも、病人を診る名医の特質を表していたと言われているのです。朗読40節日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
【真の癒しの業】
現代の医療が陥りがちなことは、病気に悩む病人を診ることよりも、進歩した医学から生まれた高度な医療機器や技術に頼んで一方的に病気だけを診がちになることであると思います。もちろん最先端の高度な医療機器や技術を用いることは大切です。確かに病気は癒されねばなりません。けれども医療の最も大事な点は、その病気に苦しむ一人一人の病人という人間にしっかり目を向けて、心からの同情と愛情をもって施されるのでなければならない、ということを主イエスの御業は示しているのです。確かに現代の医療は人間の知恵と科学技術を用いる働きであるとしましても、病人を癒し健康を回復させて下さるのは、人の生命の鍵を握っておられる神様なのだからです。
医療の働きは、神によって癒される働きに仕える働きをしているのです。
ですから、医療に大切なのは、病に苦しむ病人に対して愛情を注ぐことであり、医療が如何に、神が癒される働きに効率的に仕えることが出来るか、ということになってくるのだと思うのです。
② 【神の国を来たらせ給えと祈ることの意義】
そこで、更にイエス様の姿を追って見ましょう。多くの病に苦しむ人々が、安息日の日暮れ時になってやって来た、という意味はこうです。つまりユダヤの曆では、一日は日没から始まるからです。でもウィークデーならば、人々は朝からやってきたことでしょう。
けれども、この日は、ユダヤ教で労働が禁じられていた安息日だったからです。ですから人々は、安息日が終わる日暮れを待ってやって来た訳です。それが習慣だったからです。*朗読40節
そこで、シモンの家におけるイエス様による多くの病人一人一人に手を置かれる癒しの奉仕は、夜が明けるまで続けられたことでありましょう。そして朝になりますと、イエス様は一旦奉仕の手を休めて、人里離れたところへ出て行かれたのだ、と言います。*朗読42節前半。
それは祈るためであった。ここに、私どもは神の国の福音の働きが、イエス様の「執成しの祈り」によって推進されているのだということを教えられるのです。地上の福音宣教の働きがいかに盛んに熱心に行われたとしても、それが神の国の御業であるためには、祈りが捧げられる必要があることをイエス様の行動は示しているのです。
そもそも「神の国」とは、領土や国家を意味するのではなくて「神の御心による御支配のことであり、神の慈愛と力によって統治されることである」ということを申しました。
ですから、イエス様は主の祈りにも教えておられるように「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にも為させたまえ」と祈る祈りが常に捧げられる必要があることを覚えて、主イエス自ら祈るために人里はなれたところに赴かれたのです。主イエスは、福音の働きが盛んになればなるほど、その業を休んで祈る必要があることを觉えておられたのです。ただ病人の肉体が癒されればそれで良いのではないからです。その一人一人の人生の中に「神のみ国、神様の惠みによる统治が行われ、成長すること」をこそ、祈らなくてはならないことを覚えておられるのです。
西谷伝道所の福音伝道と祈りはどうでしょうか。確かに、イエス・キリストは 現在も地上の教会の福音の働きのために、天において執り成して下さっているのです。ですからこそ、私たちの教会は、福音伝道の働きそのもののために
「御国を来たらせ給え」と熱心に祈る必要があるのです。
そして、福音を聞く信徒、求道者の一人一人の人生が、神様の御心による恵みの支配を認めることが出来、そして一人一人が神様の惠みと力に与って、神の国の民とされますように、と熱心に祈る必要があるのです。そして皆様方全てが、天の泶光の御座において今も執り成していて下さるイエス.キリストに信頼し、教会員皆の力を一つにして、福音伝道に励んでいただきたいと思います。そして皆の心を一つにして、福音伝道の進展のために熱心に祈って戴きたいと思います。
《Ⅲ》神の国の福音は、まず私たちの公同礼拜から
さて、群集は、シモンの家から何処かへ出かけたイエス様を探し回ったあげく居場所が分かると、イエス様の傍まで来て、自分たちから離れて行かないで欲しいと引き止めた、といいます。*朗読42〜44節
力ファルナウムの人々の気持ちは良く分かります。今まで長いこと辛い思いをして看取ってきた病人を癒していただいた人々が、イエス様にいつまでも傍にいて欲しいと願うのは当然だからです。しかしイエス様は言われました。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」これは、謙卑の状態にあったイエス様が地上の人間性の限界の中におられた訳ですけれども、私たちが注意して聴くべき事は、イエス様の使命について語られた言葉なのです。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」つまり「福音宣教」であります。
言い換えればイエス様の使命は「神の支配の行われる音信を告げ知らせる事」もちろんそれは、先ほど見てきましたように、言葉だけでなく愛の御業を伴っていることですけれども「神の支配が始まっているという喜ばしい知らせ. 即ち福音を告げ知らせる」ためにこそ,イエス様は遣わされたのだと言われるのです。 確かにこの時は、イエス様は地上の人間性に活動範囲を限定されていました。ですから、イエス様がカフアルナウムを去ることは、人々にとって悲しむべき事でした。
しかし現在は違います。現在イエス・キリストは、天の泶光の御座におられるのですから、そして聖霊において信徒の交わりとしての教会におられるのですから、この「喜ばしい音信」は何の制限もなく、世界の諸会堂で宣べ伝えられるのです。
私たちは、主イエスの姿を見なくても少しも悲しむ事はないのです。むしろ 「神の恵み深い支配に与る福音」の喜びを大いに味合うことが出来るのです。今主イエスは、聖霊において私たちの西谷伝道所の礼拜に共にいまして、
ここで語られる福音を通して、神の御心によるご支配の喜びと平安を礼拜者である私ども一人一人にお与え下さるのです。
ですから、私たちはこの町の市民の希望も、日本国民の希望も、世界の国民の希望も、全ては,ただこの神のご支配に与らせて下さるキリストの福音にかかっていることを覚えて、福音の宣教と、神の御心がここに行われますようにと、熱心に祈って行かねばならないと思うのであります。祈ります。
【祈祷】恵み豊かな天の父なる神様、御名を崇めて讚美致します。私共は、この主の日、 西谷伝道所の礼拜に集まり、御言葉と共に働き給う主イエスの惠みの御支配に与らせて下さり感謝致します。ご自身の尊い命の価をもって私共を贖い出して下さいました主イエスは、「福音の宣教は、私たちが全身全霊をもって神を愛すると共に、お互いの隣人を自分自身のように愛する使命をも果たす行動を含んでいること」を病者・弱者への愛の奉仕を通して教え示して下さいました。
福音は、私共の内に神様の惠みの支配を実現するだけでなく、隣人への愛の働きや活動となって実現されて行かねばならないものであることを教え示されました。それ故どうか
西谷伝道所が、福音に現された神様の惠みによるご支配の豊かさを一層身をもって体験し、福音の恵みと力を証するために、隣人への愛の奉仕の使命を果たす祈りを篤くすることが出来ますように助けて下さい。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。
アーメン
2013年10月27日
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