2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)
2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔
宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)
マルコによる福音書9章17~24
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
(説教要約 文責近藤)
【不可能を可能にする道】
今日の御言葉から不可能を可能にする道を考えてみたいと思います。
私たちは解決できない問題に直面するとき2つの選択があります。
一つは「余の辞書には不可能は無い」と言う信念を持って問題に立向かうことです。負けず嫌いな前向きな考え方をする人はこのような選択をするでしょう。
私たちの人生には多くの試練や苦難がありますが強い信念を持ってこれに立ち向かう事は大切なことです。
大きな問題に直面した時もう一つの選択は、問題に立ち向かうのでなく諦め、妥協することです。ちょっとした問題にぶつかっただけでもすぐにあきらめる人がなんと多いことでしょう。
【クリスチャンが困難な問題に直面するとき】
ところで私たちクリスチャンも自分の力で解決できない問題に直面するとき、どうすれば私たちは良いでしょうか。この世に解決不可能な問題が存在することを認めます。しかし一方で私たちは神様を信じています。
私たちは神様に助けていただき不可能を可能にすることができると信じます。それでは試練や逆境にあったときそれをどのようにして乗り越えるでしょうか。このことを考えてみましょう。
【弟子たちは癒せなかった、なぜか】
今日の箇所には悪霊によって口が訊けなくされた息子を持った父親が出てきます。この人は悪霊を追い出してもらうために弟子たちの所に息子を連れてきましたが、この時弟子たちはどうしても悪霊を思い出せませんでした。弟子達は打ちひしがれていました。ちょうどそのときイエス様は山から3人の弟子ヤコブ、ペテロ、ヨハネを連れて帰ってきました。主イエスを見つけた瞬間父親は新たな希望持ったでしょう。彼は主の御前に癒しを求めました。この息子の病気は現在の医学でも治療困難です。新約聖書の時代のことでなおさらです。しかしイエス様は皆が治療不可能だと思った息子を治しました。
ここで私たちは不可能を可能にする道で三つのことを考えてみましょう。
【主イエスの御もとに】
一番目は主イエス様の前に自分の問題を携えていくことで問題を解決できる道です。19節の最後の所「その子を私のところに連れてきなさい」と言われ、ここで強調されるのは「私の所に連れてきなさい」です。韓国では「私のところに連れてきなさい」という伝道方法があります。困難な状況に悩み苦しむ人がいれば「私たちの教会に来ませんか、神様が解決してくださいます」。
招かれた人は問題を抱えて教会を訪れます。皆さん教会に来ただけで問題は解決できるでしょうか。もちろんそうではありません。がそういう可能性を完全に否定するわけでもありません。
教会で神様に出会い真の神様を信じれば問題は解決できるでしょう。ただ私が強調したいのは教会に来ただけで問題が解決することではないということです。
「教会に行こう」と言わないで「神様の家に行こう」と言う母親がいました。そのように言うとその子供は「行かない。神様はその家にはいないから行きたくない」と。その子供は神様に会いたいと思って教会の内外を探していましたが、神様は見つかりませんでした。
本当に素直な反応だと思います。
教会は何をするところでしょうか。教会は人々に神様を見せるところだと思います。なぜ私たちは礼拝捧げるのでしょうか。わたしたちが聖書を学ぶ目的はなんですか。神様を体験するためではないでしょうか。単に知識を得るために聖書を学ぶのではありません。神様に会うために神様を礼拝し聖書を学ぶのです。教会の頭は誰ですか。聖書はイエス・キリストが教会の頭だと記しています。
教会という建物の中に入っても奇跡的な力が起こるのではありません。心から礼拝するときに、御名を信じるところに、神様は御臨在されます。そこで神様を体験できます。
主イエス様は問題を解決してくださいます。本当に大切なのは神様に出会い神様を体験することです。イエス・キリストに目を向けてください。イエス・キリストこそ神です。イエス・キリストこそは私たちを神様に連れ行くことの唯一の道です。
なぜ悩み苦しんでおられますか。解決できないと思う問題を抱えておられますか。すべてを携えて主イエスのもとに来てください。そうすればすべての悩み苦しみ、あらゆる問題は解決されます。
【イエス・キリストを信頼する】
二つ目はイエス・キリストを信頼することによって不可能を可能にする道です。主の御前に問題を携えていくとき徹底的にイエス・キリストを信じなければなりません。主イエスは私を癒すことが出来ると言う確かな信仰が必要です。弟子たちは主が悪霊を追い出された後で主に聴きました。今日読まなかったのですがマルコによる福音書9章28節「 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた」。19節に答えがあります。
マルコによる福音書9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故ですかと主に密かに聞きました。
神様の栄光を体験できない理由は何ですか。信仰がないからではないでしょうか。
神さまは神を信じるものに栄光を現わされます。
主イエスは弟子たちがこの息子の悪霊追い出せなかったのは神様を信頼しなかった、信じない信仰の為に悪霊追い出せなかったと言われる。
今日と同じ箇所がマタイ17章19節、20節にあります。
マタイによる福音書17章
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」†
ここでは「弟子たちの信仰が薄いからだ」と言われております。「信仰がない」とは言われないで「薄い」と言われました。
信仰は主イエス様の弟子になる時与えられたと思いますが信仰が全くないとは思いません。私たちも確かに信仰を持っております。信仰があるからこそ今日もここに来て礼拝に出席し説教に耳を傾けます。
私が皆さんにどうしてあなたは信仰がないんですかと言うと、あまり皆さんは良い気持ちなりません。イエス・キリストも弟子たちに信仰が無いとは言われませんでした。しかし信仰が薄いと言われた。弟子たちの信仰が無いからでなく薄いから奇跡が起こらず悪霊を追い出せなかった。
主の弟子たちのイエスに対する信仰が十分ではなかったのです。ところで信仰と言うとき大切なのは信仰という言葉そのものでなく、信じる対象です。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切です。キリスト教において信仰の対象は、天地万物を創造された神様です。また御子イエス・キリストです。
私たちも挫折を経験したことがあり、絶望したことがあり自分が無力あることも知っています。しかし私たちは救い主イエス・キリストの前に出てイエス様を信じました。神様に仕える生き方を与えられました。
ところで私たちは本当に神様を信頼していますか。いつの間にか神様でなく自分自身を信じているのではないでしょうか。
信じると強調しながら自分自身を信じているのではないですか。このとき弟子たちは全部で9人で、あとの3人ぺテロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスと山に登っておりました。
この9人の弟子たちは悪霊に憑かれた子供を癒せませんでした。9人の弟子たちは3人の弟子がいなかったのでこれは良いチャンスだと思ったかもしれません。私の推測ですが、 3人のいない間に自分たちの良いところを見せてやろうと思った。私たちもペテロと同じことができる。悪霊を取り出して見せましょうと言ったかもしれません。しかしイエス・キリストの御名によって悪霊に出て行けと命じても悪霊を退治できませんでした。
確かに彼らはイエス・キリストの御名を用いました。しかし心の中では思い上がっていたと思います。クリスチャンは気をつけなければなりません。思いあがる時よく失敗します。信仰の弱さをわきまえている時私たちは聖霊に満たされ真のクリスチャンになります。
パウロは自分の弱さを感じるとき聖霊の力に満たされ強くなると申しました。私たちはパウロのように自分の無力を携えて徹底的にイエス様を信じるとき神様は私たちの中に臨在してくださいます。
弟子たちは主イエスに従っていましたがイエス様を心から信頼していませんでした。自分自身を信頼する誘惑に負けたのです。
今日もわたしたちは悩み苦しみに直面するでしょう。そうした時イエス様に目を向けイエス様を信頼してください。イエス様は私たちの助け主になって下さいます。
【祈ることによって不可能を可能にする】
三つ目は祈ることによって不可能を可能にする道です。私たちは祈りによって問題を解決しなければなりません。ちょっとふり返って問題があればどうすればよいでしょう。問題を携えてイエス様の御許に行くことです。その次はイエス様を信頼し信じることです。
ところでどうやってイエス様を信頼すればよいでしょうか。それは祈ることによってです。熱心に祈ることによってイエス様に頼ることができます。逆に祈らなければ自分の考え知恵に頼ろうとしてしまいます。祈る人は主を信頼します。祈る時、最初の言葉は「父なる神、憐れみ深い神様」と祈ります。祈ることによって私たちの目は神様に向かいます。そしてイエス様に頼ることになります。
【人の思いあがり】
なぜ熱心に私たちは祈らないか。それは私たちが思い上がり高ぶっているからです。自分でできるからと。しかしイエス様に頼ることが最善の方法だと信じる人は主イエスに頼り、大きな問題に直面しても恐れません。祈るとき、ひざまずいて祈るとき、思い高ぶっている人は祈ることができません。弟子たちが悪霊を追い出せなかったことに主イエス様は何と答えられたか見てください。
9章29節、今日読まなかったところですが一緒に読みましょう。
マルコによる福音書9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
祈りが問題解決の唯一の道です。ところで同じ記事を扱うマタイ17章とその箇所を比べると17章21節は新共同訳聖書にはありません。新改訳聖書には17章21節があります。
ここには次のように書かれています。
「【新改訳改訂第3版】マタイ福音書17章21節
〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕と書かれています。
【断食】
祈りとともに断食が強調されています。断食とは最も切実な祈りの方法です。食物は人の心を捕えるもので人が生きるのに最も必要なものです。断食は食べる時間を犠牲にして神様に切実に向かいます。
パウロはフィリピの信徒への手紙4章6節で、
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
パウロは何事も思い煩わないで祈りなさいと言いました。思い煩らいは最も非生産的であり何も生じません。
祈りは確に問題、苦しみや悩みを解決します。祈りは人生の目的地に達するたったひとつの道です。
以前伝道方法に関する一冊の本読みました。著者は次のように使徒言行録にでる教会の特徴を記します。初代教会では会議の時間より祈りの時間が長かったと。著者は続けて言います。現代のほとんどの教会は長い会議をしても祈りの時間は短い。わたしたちは多くの問題にこれから立ち向かわなければなりませんが、こうしたときに不満を言う前に私たちは祈る人になってみましょう。時に断食をしてみませんか。
私は信じます。多くの私たちを悩ませる問題の解決に私たちが祈るとき神様は天国の門を開けて栄光を注いでくださり、私たちの問題を解決してくださいます。祈るとき神様の力が現れて私たちを取り囲んで下さって昼の日からも夜の闇からも私たちを守って下さいます。おわり
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