2013年10月13日(日)説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

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20131013()説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

 

マルコによる福音書15

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた

38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

参照1、マルコによる福音書17 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

参照2、マルコによる福音書834 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 

(説教要約 文責近藤)

【聖霊で洗礼をお授けになるお方】

今お読みした聖書の他に、もう一か所お読みします。それはマルコによる福音書178節です。ここには、洗礼者ヨハネが出てまいります。ヨハネはこう言いました。7節「私よりも優れた方が後から来られる。私はかがんでその方の履き物の紐を解く値打ちもない」。私よりも優れた、別格の方がおられると言い、その人の印は何かというと、8節「私は水であなたがたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。聖霊で洗礼をお授けになることがただ1つ私ヨハネと違う目印になると言うのです。それほど重要なただ1つの印、すなわち、ヨハネは、水で洗礼授けたがそのお方、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると言うのであります。

 

そうであればこれから現れるキリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告の実現する場面がなければこの予告は浮いてしまいます。ところがこの予告が実現する場面が聖書に書いてあるのですが、日本語の聖書では分かりにくいのであります。

 

福音書にはっきりと書いてないと思われるのですが、しかしそうではありません。しっかりと書かれてある。洗礼者ヨハネの予告したところのことが実現されて書かれてあるのであります。

 

今日、聖霊の洗礼と言うことをはっきりさせないと私たちは水の洗礼ばかりに目を向けてしまいます。今洗礼を受ける準備をしておられる方もいます。それ以外の方も洗礼を受けてくださることを心から願って待っております。多くの方はすでに洗礼を受けておられますね。私たちは水の洗礼を確かに受けた。それで終わりなのか。そうではないと言うことがここに分かります。

 

それと同じくらい大切なこととして聖霊の洗礼というものが、水の洗礼を受けるのと同じように持っている、そのことを今日はハッキリしたいと思います。

 

【聖霊とは】

どうも聖霊と言われてもなかなかピンとこない、掴み所がない。確かに神様は父なる神様、御子なるキリスト様、ここまではよく解ります。ところが聖霊と言われてもなかなかはっきりと掴み所がないと思う方がおられて尤もかもしれません。それで今日は聖霊ということを考える上で要となる理解を手に入れたいと思います。

 

聖霊というものが今日からは漠然としたものでなく、はっきりとしたものだということを掴んでいただければと思っております。これから本題に入ります。

 

キリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告はどこで実現したか。

 

それが今日の場面です。聖書に戻りましょう。「イエスの死」という見出しのある箇所ですが今日のところはその全体を見直さないでポイントだけ絞ってみたいと思います。

 

【神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい】

ところで前回の説教で私が一つのことに注目しましたことを思い返してください。イエスの死の場面の中ですが、マルコ15章3637「あるものが走り寄って海面に酸い葡萄酒を含ませてイエスに飲ませようとした」んですね。ところがイエスはそれを飲まないまま息を引き取られた、そのことに注目したいと思います。葡萄酒を飲まなかったと言うことがここだけでなく、その前の23節に「没薬を混ぜた葡萄酒を飲ませようとしたがイエスはお受けにならなかった」とここにも書いてあります。そして十字架の死の場面でもやっぱり飲まないままで死んでしまわれたという事を見ました。それは最後の晩餐の約束です。私たちで言えば聖餐式の約束です。

 

聖餐式制定の場面の締めくくりのイエスの言葉をご覧ください。

マルコ1425「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 

こういう約束をされましたね。今日も聖餐式でぶどう酒を受けますが、あなたを御国に招待する、それが証拠に私は御国であなたを招いて葡萄酒を飲むまでは一滴も飲まずに待っている、こういう約束でした。その約束が十字架の上で命を懸けてキリストは守って下さった、そのおかげで私たちは守られているのです。これほど頼れる約束は無い。それで私たちは安心なのです。このことを前回お話いたしました。

 

【息を引き取られたー聖霊が放たれた】

今日のところになります。先に注目された一つの事は「飲まなかった」です。そして今日の聖書の言葉、37節をご覧ください。イエスに葡萄酒を飲ませようとした。「しかしイエスは大声を出して息を引き取られた」。今日注目したいのは「息を引き取られた」という言葉に尽きます。

 

日本語で考えてみても「息を引き取る」、これは熟語です。「最後の息をしてしまうー死んでしまう」と言うことですけれども、実は聖書の原文でも熟語が使ってあります。元の聖書には「しかしイエスは大声を出して霊を放たれた」、「霊を放つ」と書いてあります。霊は息と同じです。「霊を放つ」、最後の息を放つことです。死んだことを表す「霊を放つ」という言葉です。このようにイエスは37節「大声を出して息を引き取られたー霊を放たれた」。そうすると38節、神殿の幕が上から下まで間二つに裂けた。そして39節「百人隊長がイエスの方を向いて側に立っていた。百人隊長はイエスが「息を引き取られたー霊を放たれた」のを見て、その時に「本当にこの人は神の子だった」といったと書かれています。39節にもう一度、「息を引き取られたー霊を放たれた」と聖書で繰返す事は大切なことであります。これは「霊を放たれた」と表面的なことだけでなく「霊を放たれた」、このことに注目せよということであります。

 

二回も「霊を放った」と書いてあります。冒頭の予告、この方は「聖霊を放って洗礼を授ける」という予告が実現した、その答えがここにあります。

 

聖書が一番初めから予告していることがここで起こった、とっても大切であるにもかかわらず日本語でははっきり分かりにくい所です。キリストが十字架の上で最期の時に聖霊を放った。それはいいとしましょう。キリストが聖霊を放ってどうなったでしょうか。

 

【ローマの百人隊長】

その聖霊を浴びてしまった人が書かれています。

 

39節、百人隊長はイエスの方向いて立っていた。ちょっとぎこちないこの文章ですが百人隊長はイエスの方を向いてしかも至近距離に立っていた。不自然な印象ですが、イエスが放たれた聖霊を至近距離から受けた百人隊長に聖霊の洗礼が授けられたと言うことがそれで、この百人隊長は「本当にこの人は神の子であった」と告白できたのであります。それはわたしたちにとっては信仰告白で私たちの言葉で言えば「我は全能の父なる神を信ず。われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」ということです。

 

「神の独り子を信じる」という言葉で百人隊長が出来た信仰告白です。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であると告白できない」(コリント人への第一の手紙 12:3)とありますが、これがこの百人隊長の上に起こったことです。これが福音書の物語です。

 

【十字架を見上げるとき聖霊が与えられる】

「聖霊の洗礼」をマルコ福音書は全体を通して伝えようとしております。いかがですか。百人隊長はローマの隊長ですが十字架刑の執行した舞台の最高責任者です。いわば十字架刑に責任を持たなければならない人です。キリストを十字架にかけた最も責任を問われる人物です。その人でさえ十字架の正面に立つとき信仰に導かれた。このことを救いと言います。私たちにも当てはまることです。

 

かって私はキリストを知らない年月が長かったです、知らずにキリストを十字架に架けたようなことをして神様から遠いところで自己満足な生き方をしていました。それを聖書は罪人と言っております。しかしそのような誰でもが十字架の正面に立ったとき心に何かを受け取ります。それを聖書は聖霊だと言います。十字架を見つめながら信仰というものを与えられる。

それを聖書は聖霊の洗礼と言い、そのことが人を信仰に導くという。信仰に導かれれた人は救われたと言うのです。

 

【聖霊の洗礼をどこで受けるか】

こういう意味で水の洗礼と同じように聖霊の洗礼は大事です。私たちは聖霊の洗礼をどこで受けるか。私たちが十字架の正面で十字架を見つめる、十字架の正面に立つとき何かを受け取る、これは観念的だと思われるますか。ちょっと抽象的でしょうか。十字架の前に立つ、観念的だと思われるなら礼拝ということを考えてみてください。

 

【礼拝と聖霊】

私たちが礼拝に出て御言葉を聞き、本当にイエス・キリストの十字架が語られているならば、そして十字架の御言葉を皆さんが本当に聞いていらっしゃるなら、皆さんはそこで何かを受け取ることができます。そのことを聖霊の洗礼といいます。そのことが本当に大切だと聖書は言いたいのです。私たちが本当の礼拝を捧げるならば、礼拝ごとに聖霊の洗礼を受けるのです。そしてそのことがまた私たちを新しい信仰へと駆り立てるのです。

 

【私たちの現実】

人はそれぞれいろんな問題があると思います。確かに水の洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、その生活の中でまだまだいろんなことが起こります。

そういう中で私たちの心は揺れ動きます。一度、水の洗礼を受けたがそれで終わりではありません。現実の中にはいろんな問題があっても、そのことと同じぐらい大切なのは毎週礼拝に来て、そして本当に裸の心で御言葉と向かい合う、それは十字架とキリストと向かい合うことです、その時十字架から吹いてくる聖霊を浴び直すということです。それが私たちの力になるはずです。

 

【自分の十字架】

今日、礼拝への招きでこういうキリストの言葉を聴きました、「私に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」。

 

私たちは自分の十字架を背負ってキリストに従うように呼ばれています。キリストの十字架を見つめるとき、同時にキリストはあなたの十字架を背負っておられる。私イエスがあなたの十字架を背負ったと同じように、あなたは自分の十字架を背負って私についてきなさいと言われます。だったらキリストの十字架を考えるだけでは十分ではありません。

 

自分の十字架とは何でしょうか。皆さん一人一人の自分の十字架は違います。悩み、苦しみ、家族の問題、あるいは病気のこと、人に分からない一人一人自分の十字架を背負っております。それを背負ってキリストについていく。だったら私たちはキリストの十字架の正面に立つとき、実は自分の十字架の正面にも立つのです。

 

自分の十字架と一口に言っても、それは私たちにとって辛いものですので、できればそれから目を反らせるようにしたい。礼拝に出て恵みの言葉を聞いて自分の十字架を忘れたい。それも確かかもしれません。自分の十字架を取り去ってもらいたいと祈ってきた。それでも無くならない自分の十字架がある。これさえなかったなら本当に良いと思うのが自分の十字架です。

 

【キリストの招きと礼拝】

キリストの招きは、そのあなたの十字架を背負って私についてきなさいと言われる。あなたの十字架から逃げようとするのでなく、あなたの十字架を正面から見つめて私の十字架と重ねてご覧らんなさい。礼拝のたびごとに自分の十字架を見つめつつ、それと重なっているキリストの十字架を見つめなさい。私たちがそれぞれ自分の具体的な現実の中で神に向かいあうのです。

 

毎日の生活の中で、リアルな、逃げられない家族の問題とか、いろんな自分の十字架がいくらでもあります。実はその立ち位置が私たちが礼拝を捧げる時の神様と向かい合う立ち位置なのです。つまり百人隊長の立ち位置です。

 

私たちが礼拝を下げるときキリストの十字架を見つめて自分の十字架を重ね、自分の十字架の苦しみと同じところまで来てくださっているキリストを見つめること、自分のその苦しいときの友になってくださるお方、キリストを見つめるとき、これが私たちの本当の礼拝です。

 

【私たちの礼拝場所】

私たちの自分の十字架こそ実は私たちの本当の礼拝場所です。

なぜならそのあなたの十字架の場所にこそ来てくださったのがキリストであります。あなたと同じように苦しんでいるキリストのお姿です。苦しんでいるあなたと同じ姿になってあなたの友になって下さろうと言うお方、苦しんでいるあなたがいるから、主はご自身も同じ苦しみを受けるためにあなたの隣にまで降りて来てくださったのです。そのお方に出会うことだけがわたしたちの本当の礼拝です。本当に聖書の御言葉を知るという事は礼拝での出来事です。

 

【あなたの命を損なうものは無い】

私たちが礼拝ごとにキリストの十字架に向かい合い、そしてそこから聖霊を浴びるならばその聖霊はこんなメッセージを運んでくださるはずです。あなたの十字架はあなたの命を損なうものではない。これさえ取り退けてもらえたら私は生きられる、とそんな風に思われるかもしれないが、そうでは無い。実はあなたの十字架を取りのけるときに命があるのでなく、そのあなたの十字架の中にあなたの本当の命が込められている。

 

どんな悩みによっても損なわれない命、どんな病気によっても損なわれないあなたの本当の命の中心があなたの十字架の中に宿っている。そんなことをこの友が教えてくださいます。

 

【生きる勇気と力の源】

その時に私たちは自分の十字架を背負ってこの方に付いて行くことができると思います。それが私たちにとって大切なことです。礼拝ごとに私たちは百人隊長と同じ立ち位置に立って自分の十字架を正面から至近距離から向かい合いたい。すなわちキリストと向かい合うということです。その時私たちはその十字架から聖霊を浴びるのです。聖霊とは何か。その時あなたに与えられる生きようとする力です。

 

自分の十字架を背負って打ちのめされていたあなたが一人の友イエスに出会ったとき生きる勇気を与えられる、その勇気が聖霊です。

 

今まで力を失っていたあなたに、心の弱っていたあなたに、病の中で力が与えられる。それが聖霊です。神の力が与えられることです。その時、うつむいていたあなたが目を高く上げることができる、もう一度歩き始めることができる。死んでいたにも等しい、ただ生きていたあなたが、そんな生き方から復活することが出来る。死んでいたあなたが立ち上がるということが起こる。これが聖霊の洗礼です。そういう礼拝をこれからも続けていきたいと心から思います。お祈りしましょう。(おわり)

2013年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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