2013年10月

2013.10.27.説教「福音伝道のニ大要素」佐々木弘至牧師

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福音伝道のニ大要素(ルカ福音書4)     2013.10.27佐々木弘至牧師

ルカによる福音書4章38~44節、4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 

【説教の主】救いはキリストの神の国(支配)の福音にある

《Ⅰ》全ての人の望みは神の国の福音の主イエス・キリストにある

今日のルカ福音書が告げています使信は何かと言いますと「そもそもイエス・キリストの使命は何か」ということについて、はっきりと教えられていると言うことができます。

そしてそのことは、イエス様ご自身が語られた御言葉の中に記されているのであります。

*朗読43節「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。これはイエス様がご自身の使命について一言で表明されたものです。私たちはイエス様が「わたしは神の国の福音を告げ知らせなければならない。そのために遣わされたのだから」と言われたこのことの重大な意味を、どれだけ人生において、又日々の生活の中で、その重さを認めて生きているでしょうか。このイエス様の言葉には、私たち自身のことはもちろんのこと、私たち自身だけでなく、は全世界の全人類の命がかかっていると言うことができるのではないでしょうか。

【改革派教会創立宣言】1946年4月29日

私たちの改革派教会が敗戦直後に創立されました時、その創立宣言では、こう詠っています。

「欧州文明についてこれを見んか、古代社会の危機に際し、個人の道德觀念の腐敗、国家社会秩序の崩壌を救い、中世文明を樹立せしはイエス・キリストの宗教(即ち原始キリスト教)に他ならず、中世の危急に際し、同様の働きをせしは、イエス・キリストの宗教(即ち宗教改革のキリスト教)に他ならず、今や三度、近世文明危機に直面せり。世界は何にこれが救いを求めんか?同じくイエス,キリストの宗教(即ち改革派のキリスト教)の他にこれなし」

実は、この文章の内容は、オランダの首相であり牧師であり弁証学者でありましたアブラハム・イパーという人が著した「カルヴィニズム」という書物の中の「カルヴィニズムと世界の将来」という章の中で語られていることを受け止めて書かれたのではないか思われる訳です。          


【福音宣教が大躍進した二つの時代】

アブラハム・カイパーはそこで、私たち人類の住む世界は、神様との関係を切って存在しようとする時、そこには何の将来性もないのだということを、世界の諸国の 歴史が証明していると言い、しかしながらこの世界の歴史の中に、過去に二回だけ、霊的にも道徳的にも文化的にも、あらゆる面において、神様との関係を取り戾して、素晴らしい人生観・世界観を抱いて、真に繁することの出来た時代があったのだと言っているのです。

先ほどの創立宣言が言っています二つの時代とは、一つは約2000年前、イエス・キリストと使徒達によって福音が宣べ伝えられた初代教会の時代で、もう一つは、ル夕一やカルヴィンらによって福音宣教が回復した宗教改革の時代(500年前)です。

 

世界の歷史において、この二つの時代だけが純粋にイエス・キリストの神の国の福音を受容した時代であったとA・カイパーは言っているです。

 

ですから、今後の世界において、もし希望があるとすれば、それはあの初代教会と、宗教改革時代の二つの時代のように、再びイエス・キリストによる神の国の福音に与るということの中にだけ、世界の希望はあるのだ。

その他には、この世界の将来に望みはないのだと謳っているのだというのです。そして先ほどの創立宣言の締めくくりの言葉も、それを受けて「世界の希望はカルヴィン主義の神にあり」と宣言しているのです。

 

《Ⅱ》主イエス・キリストの使命である神の国の福音宣教

さて、前置きが少々長くなってしまいましたけれども、私達もルカの福音書から「キリストの福音の言葉」に耳を傾けて行きたいと思います,

    【ペテロの姑の癒し】―神の国の愛の業をあらわす福音*朗読38--40

まず最初に、私たちはここから、イエス・キリストがこの世にもたらされた「神の国の福音」というものの特質について教えられるのです。つまり、神の国の音は唯言葉だけによるではないのだということですね。

この日の出来事は、主の日の公同礼拜がすんだ直後のことでした。

会堂礼拜が終りますと主イエスは、いつも親切にしていただくシモンの家に 行きました。後に使徒ペトロになる人ですが、この時は未だ「シモン」とだけ呼ばれていた、恐らくは未だ熱心な求道者の頃のことです。

そして、イエス様がシモンの家に行かれたのは、礼拜奉仕の疲れを休めるためというよりも、おそらく信徒の交わりのための昼食会か、晩餐会に招かれたのであったかもしれません。ですからここに、私たちの安息日の過ごし方に対する一つの在り方を示されるのだと思います。主の日礼の後には、西谷伝道所もしていますが、信徒方が楽しく親しい交わりもなされるのです。


けれども、あいにくシモンの家では、奥さんの母親が高熱を出して苦しんでいたのでした。この「高い熱に苦しんでいた」という言葉は「大きな熱に捉えられる」という表現でして、それは当時のギリシヤの医学用語であると言われます。 ですから、こういうところにもこの福音書を書いたルカの医者らしい側面が現れていると見ることが出来る訳です。イエス様を迎えたシモン家の人々は、早速イエス様に彼女を癒して戴きたいとお願いしたのでした。

するとイエス様は、彼女の枕許に来て、その熱を叱りつけることによって、その姑の病を癒して下さったのでした。つまり主イエスは、人の魂だけではなく、身体をも治しも生かしもされるお方であることを示されたのです。イエス様はまるで医者のように病人の枕許に愛をもってお立ちになるのです。私どもが病の時、病に苦しむ私どもの身体をも顧みて下さるイエス・キリストが、聖霊において、愛をもって枕許にいて下さることを感謝をもって覚えることができるのです。

現在は奇跡を行われはしないかもしれません。けれども私たちは、現在も福音による慰めをもって、平安をお与えくださる主イエスに、癒しの惠みを願い求めることが出来ることを感謝したいと思います。*朗読394:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。

高熱を癒されると、姑はすぐ起き上がって、癒して下さったイエス様を始め集まった一同のために、おもてなしをしたのだったといいます。

【愛の業】

人は、イエス・キリストのために、また教会のために奉仕することが出来るようになって初めて、心身ともに健康になれたと言えるのではないでしょうか。

安息日礼の後に病者を見舞い、愛の癒しの業に奉仕することも大切なのです。イエス様もここでそうなさったのですから。けれども、信徒たちが食事を共にし、お茶を飲みながら、信仰の交わりをすることも大切なのです。

もちろん、それも世間話に花を咲かせるためではありません。シモンの姑のように、急の高熱で礼に欠席せざるを得なかった人たちを訪問することや、礼拜で聞いた神の言葉、福音について伝えたり、語り合うことや、信仰の証を語り合うことなども、教会信徒にとって安息日の喜びであり、大切な務めだからなのです。シモンの姑はそれを可能にして頂いたのでした。

さて、その日も夕暮れ時になりました。すると、イエス様がシモンの家におられることを伝え聞いた人々が、特にいろいろな病気で苦しむ人を抱えている人たちが、イエス様の御許に病人たちを連れて来たのでした。*朗読4041

ですからシモンの家は、さながら救急病院か、にわか仕立ての診療所のような有様になっていたのではなかったでしょうか。イエス様はそれらの病人たちの 一人一人に手を置いて癒されたのだと言います。

叉、悪霊につかれた人には、叱りつけることによって、惡霊を追い払われたのだと言います。そして、惡霊が「お前は神の子だ」と言いながら出て行くと、それを戒めて、ものを言うことをお許しにならなかったと言うのです。そしてこの、シモンの家のにわか診療所でのイエス様の御業は、おそらく夜通し続けられたものと思われるのです。(42節、朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた)と書かれています。

そして、この日の出来事から、私どもは「神の国の福音」は、御言葉が語られ聴かれるだけでなく、愛の御業も伴っているのである、という事を教え示されるのです。イエス様の神の国の福音には、一人一人の病人にしては、心からの愛と同情をもって手を置いて癒される愛の業が伴ってなされたのです。

 

私たちの教会の福音宣教の業も同様です。教会にとって、愛と憐れみを必要とする入々や社会に対しても目を向け、手を広げていなくてはならないということです。

それは、忠海教会のように聖惠授産所の障害者施設を営む働きや、静岡盲人伝道センターのような働きにも現されています。ですが、直接それらの働きをしなくとも、それらの施設に協力することや例え僅かでも支援をすることも、主の愛の業に参加する働きとなることを覚えていただきたいと思うのです。

 

私は、数年前まで静岡教会の牧師を致しましたが、教会は初代牧師が 全盲の方という事もあって、ご自分の必要のためにも、叉盲人信徒の必要のためにも、キリスト教書籍の点字本と録音テープの図書館を立てあげた教会でした。そして盲人伝道セン夕一は次第に、静岡教会の牧師と信徒のためばかりでなく、全国の視覚障害者を対象にしてキリスト教盲人専門の図書館となって行った訳です。そして、私が牧師を引きいだときには、更にそこから、図書のデジタル化が必要な時代になりました。そしてそれと共に、多くの奉仕の多額の経済的な必要性に迫られるようになったのでした。前任の全盲でありました先生の場合は、御自分も牧師活動のためにセンターがどうしても必要だった訳ですが、私個人にとりましては、センターは教会の愛の業としての執事的な活動以外の何ものでもありませんでした。

しかし、センターの事業はもはや既に、一教会で担えるような規模ではなぐ日本全国の教会とクリスチャンの力が寄せられなければ不可能なことをつくづくと感じました。

そして私はそういう緊張の中で、福音を宣教する教会というものは、本当に愛の業を伴わせなくてはならないのだ、ということを覚えると同時に、はたして全国の教会がそういう思いを真剣に抱いているのだろうか、ということを感じたのでした。もちろんそれぞれの教会には、自分達の教会が果たすべき愛の業があると思うのです。けれども、一つの教会だけでは果たせない大きな愛の業もあるのです。そういう場合には、そういう働きを理解することや協力することが、愛の業を果たすことに繋がるのだということを覚えることが大切だと思うのです。


さて前回、前の部分で主イエスの語る言葉には権威があったということを見ました。32節。

ルカによる福音書4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。その権威とは、神の力による支配が働くということでした。つまり福音には神の恵みの支配力があるのだということなのです。御言葉に権威があるとは支配力・実行力が伴うということなのです。

つまり主イエスの御言葉は、神の支配、即ち神の国を創りだすのだというのです。そして、神の支配・神の国が造り出されたことによって、悪霊に苦しまされていた男は解放されたのでした。3536ルカによる福音書4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」

ですから、それに続く今日の御言葉も、この神の国の御業の延長線上で 繰り広げられたのです。つまり、今日の御言葉は、神の支配,神の国の業としての愛の業が更に拡大されたのだと告げられているのです。そしてここに、教会とキリスト者の使命は何であるかが教えられているのです。つまり、教会とキリスト者の使命とは、神礼拝において全身全霊をもって神を愛することが第一であるけれども、それだけでなく第二の使命がある。それは人を自分自身のように愛することです。安息日に主イエスを初め弟子たちがカファルナウムの会堂に集まって礼拝を捧げていたことこそ、正に第一の使命を果たすことでした。そして、今日のところで、主イエスが会堂礼を終えてからシモンの家に集まったのは、正に「隣人を自分自身のように愛する」第二の使命を果たすためでありました。教会とキリスト者にとって、このどちらも疎かにできないのです。

 

熱心な礼をもって神を愛する教会は、降人を愛することを疎かにしてはならないのです。ですから主イエスはこの日、その手本を身をもって示しておられたのです。主イエスがこの日なさったことは、主に医療的な働きを伴った御業と、悪霊を沈黙させる働きでした。そして、この主イエスの医療的癒しの奉仕が示している特徴は、に病気を診るというよりも、病人を診る名医の特質を表していたと言われているのです。朗読40日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。


【真の癒しの業】

現代の医療が陥りがちなことは、病気に悩む病人を診ることよりも、進歩した医学から生まれた高度な医療機器や技術に頼んで一方的に病気だけを診がちになることであると思います。もちろん最先端の高度な医療機器や技術を用いることは大切です。確かに病気は癒されねばなりません。けれども医療の最も大事な点は、その病気に苦しむ一人一人の病人という人間にしっかり目を向けて、心からの同情と愛情をもって施されるのでなければならない、ということを主イエスの御業は示しているのです。確かに現代の医療は人間の知恵と科学技術を用いる働きであるとしましても、病人を癒し健康を回復させて下さるのは、人の生命の鍵を握っておられる神様なのだからです。

医療の働きは、神によって癒される働きに仕える働きをしているのです。 

ですから、医療に大切なのは、病に苦しむ病人に対して愛情を注ぐことであり、医療が如何に、神が癒される働きに効率的に仕えることが出来るか、ということになってくるのだと思うのです。

 

    【神の国を来たらせ給えと祈ることの意義】

そこで、更にイエス様の姿を追って見ましょう。多くの病に苦しむ人々が、安息日の日暮れ時になってやって来た、という意味はこうです。つまりユダヤの曆では、一日は日没から始まるからです。でもウィークデーならば、人々は朝からやってきたことでしょう。

けれども、この日は、ユダヤ教で労働が禁じられていた安息日だったからです。ですから人々は、安息日が終わる日暮れを待ってやって来た訳です。それが習慣だったからです。*朗読40

 

そこで、シモンの家におけるイエス様による多くの病人一人一人に手を置かれる癒しの奉仕は、夜が明けるまで続けられたことでありましょう。そして朝になりますと、イエス様は一旦奉仕の手を休めて、人里離れたところへ出て行かれたのだ、と言います。*朗読42節前半。

それは祈るためであった。ここに、私どもは神の国の福音の働きが、イエス様の「執成しの祈り」によって推進されているのだということを教えられるのです。地上の福音宣教の働きがいかに盛んに熱心に行われたとしても、それが神の国の御業であるためには、祈りが捧げられる必要があることをイエス様の行動は示しているのです。

 

そもそも「神の国」とは、領土や国家を意味するのではなくて「神の御心による御支配のことであり、神の慈愛と力によって統治されることでる」ということを申しました。

ですから、イエス様は主の祈りにも教えておられるように「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にも為させたまえ」と祈る祈りが常に捧げられる必要があることを覚えて、主イエス自ら祈るために人里はなれたところに赴かれたのです。主イエスは、福音の働きが盛んになればなるほど、その業を休んで祈る必要があることをえておられたのです。ただ病人の肉体が癒されればそれで良いのではないからです。その一人一人の人生の中に「神のみ国、神様の惠みによる治が行われ、成長すること」をこそ、祈らなくてはならないことを覚えておられるのです。

西谷伝道所の福音伝道と祈りはどうでしょうか。確かに、イエス・キリストは 現在も地上の教会の福音の働きのために、天において執り成して下さっているのです。ですからこそ、私たちの教会は、福音伝道の働きそのもののために 「御国を来たらせ給え」と熱心に祈る必要があるのです。

そして、福音を聞く信徒、求道者の一人一人の人生が、神様の御心による恵みの支配を認めることが出来、そして一人一人が神様の惠みと力に与って、神の国の民とされますように、と熱心に祈る必要があるのです。そして皆様方全てが、天の光の御座において今も執り成していて下さるイエス.キリストに信頼し、教会員皆の力を一つにして、福音伝道に励んでいただきたいと思います。そして皆の心を一つにして、福音伝道の進展のために熱心に祈って戴きたいと思います。

 

《Ⅲ》神の国の福音は、まず私たちの公同礼拜から

さて、群集は、シモンの家から何処かへ出かけたイエス様を探し回ったあげく居場所が分かると、イエス様の傍まで来て、自分たちから離れて行かないで欲しいと引き止めた、といいます。*朗読4244

 

力ファルナウムの人々の気持ちは良く分かります。今まで長いこと辛い思いをして看取ってきた病人を癒していただいた人々が、イエス様にいつまでも傍にいて欲しいと願うのは当然だからです。しかしイエス様は言われました。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」これは、謙卑の状態にあったイエス様が地上の人間性の限界の中におられた訳ですけれども、私たちが注意して聴くべき事は、イエス様の使命について語られた言葉なのです。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」つまり「福音宣教」であります。

 

言い換えればイエス様の使命は「神の支配の行われる音信を告げ知らせる事」もちろんそれは、先ほど見てきましたように、言葉だけでなく愛の御業を伴っていることですけれども「神の支配が始まっているという喜ばしい知らせ. 即ち福音を告げ知らせる」ためにこそ,イエス様は遣わされたのだと言われるのです。 確かにこの時は、イエス様は地上の人間性に活動範囲を限定されていました。ですから、イエス様がカフアルナウムを去ることは、人々にとって悲しむべき事でした。

しかし現在は違います。現在イエス・キリストは、天の光の御座におられるのですから、そして聖霊において信徒の交わりとしての教会におられるのですから、この「喜ばしい音信」は何の制限もなく、世界の諸会堂で宣べ伝えられるのです。

私たちは、主イエスの姿を見なくても少しも悲しむ事はないのです。むしろ 「神の恵み深い支配に与る福音」の喜びを大いに味合うことが出来るのです。今主イエスは、聖霊において私たちの西谷伝道所の礼拜に共にいまして、 ここで語られる福音を通して、神の御心によるご支配の喜びと平安を礼である私ども一人一人にお与え下さるのです。

ですから、私たちはこの町の市民の希望も、日本国民の希望も、世界の国民の希望も、全ては,ただこの神のご支配に与らせて下さるキリストの福音にかかっていることを覚えて、福音の宣教と、神の御心がここに行われますようにと、熱心に祈って行かねばならないと思うのであります。祈ります。

 

【祈祷】恵み豊かな天の父なる神様、御名を崇めて讚美致します。私共は、この主の日、 西谷伝道所の礼拜に集まり、御言葉と共に働き給う主イエスの惠みの御支配に与らせて下さり感謝致します。ご自身の尊い命の価をもって私共を贖い出して下さいました主イエスは、「福音の宣教は、私たちが全身全霊をもって神を愛すると共に、お互いの隣人を自分自身のように愛する使命をも果たす行動を含んでいること」を病者・弱者への愛の奉仕を通して教え示して下さいました。

 

福音は、私共の内に神様の惠みの支配を現するだけでなく、隣人への愛の働きや活動となって実現されて行かねばならないものであることを教え示されました。それ故どうか 西谷伝道所が、福音に現された神様の惠みによるご支配の豊かさを一層身をもって体験し、福音の恵みと力を証するために、隣人への愛の奉仕の使命を果たす祈りを篤くすることが出来ますように助けて下さい。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。

アーメン


2013年10月27日

2013年10月20日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」                                市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

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20131020日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」                                市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

聖書:創世記9章1~17節

1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」8 神はノアと彼の息子たちに言われた。9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 

(説教要約 文責近藤)

【人と自然の保持】

今読みましたところはノアの洪水物語のところですが、新しい会堂に来て、洪水で神様は心を真っ白にして下さった心持ちです。洪水物語は聖書のよく知られた箇所になりますが人と自然が保たれ保持されていることは神の憐れみである。同時に神の怒りもまた交錯しております。

 

【人も家畜も空の鳥も滅ぼそう】

今お読みした創世記9章1~17節は創世記69節「これはノアの物語である」との書き出しで始まっております。

物語とは聖書の他の箇所では系図とか由来と言われます。ともかくノア物語の締めくくりのところであり、クライマックスであります。これが今日のこの箇所です。

その直前6章1節から8節、そこに神様の思い、あるいは計画が凝縮して記されています。それは創世記65節「5主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

そして7節「7 主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』

人だけでなく家畜も空の鳥も這うものも滅ぼそう」。

動物はかわいそうですね。人間だけが一掃されたらいいのに、家畜や空の鳥、地を這うものは罪を持ってないのになぜでしょうか。神様の怒りはそこまでエスカレートするとは、なぜ神様は人間以外のものも滅ぼし尽くそうとされたのでしょうか。

 

【人は地を支配するために造られた】

創世記1章~3章から分かる様に、人は他のすべての造られたものの代表です。人だけが神の像(かたち)に似た者に造られ、他の被造物を支配するために造られた。その人間が罪を犯したら、他の被造物も同罪だと。

罪は継承されるだけなくエスカレートします。人間の文化はそのまま継承されません。変化、発展します。良い方向にも悪い方向にもエスカレートします。原子力を見てください。昔はなかったが今はあります。しかし人間が創造したわけでありません。その元は神様が造られたのです。

文化が増大すると同時に罪も増大します。それで神様の怒りも増大します。

 

【神の裁き】

6章1~8節に人が罪で地を満たしたとあります。神様は恵み深い憐れみ深いお方でありますけれども、しかし聖なるお方、義なるお方ですから罪を放置なさいません。きっちりと後始末を付けられます。それが裁きです。

 

【ノアは主の好意を得た】

ただしその人間の中で8節「6:8 しかし、ノアは主の好意を得た」とあります。ノアは罪がなかったのではありません。彼もアダムの子孫ですから罪があることに例外ではありません。しかしノアは神を畏れ神を信じる人でありました。9節「6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」。

古い訳ではノアは正しい人であった。それで神はノアに好意を寄せられた。

すべてのものを滅ぼされるのですが、ノアとその家族と一つがいづつの動物を方舟に入れ守られます。

6章9節から始まる物語の締めくくりが先ほど朗読した創世記91~17節です。

 

【ノア契約】

まず第一に神様はノアに契約を与えられるに際して最初の天地創造をもう一度念頭に置かれます。

神様は罪に対して厳しく裁かれますが神様は逆上されるお方でありません。

大洪水をもって地を滅ぼさんばかりに裁かれるのですが文字通りゼロにするということをなさいません。それだったら初めから神様は地球を作らなければよかったわけです。

神は罪に対して厳しい方ですが、すべての被造物、ことにご自分の像(かたち)に似せて造ったほどに人を愛された。罪を放置はできないけれども被造物そのものを神様は根絶しようと言うのではありません。活かす道も残しておられた。

 

【人は地の管理人】

神様は人間に他のすべての被造物を正しく管理し、支配するようにと命じられた。

 

創世記 1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

創世記 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」、

 

【エデンの園では菜食】

神様が人に与えられた仕事は造られた被造物を維持管理するということですが、神様はエデンの園にある野菜、果物を人間の食料としてお与えになった。人間は植物を食べ肉は食べなかった。

 

【肉食と人間の支配者性】

洪水のあとも多くのことは受け継がれております。しかし新しいことが1つあります。それは命あるもの、即ち肉を食べても良い、生き物を食べて良いという事です。

ここに初めて洪水後に肉を食べることを許されました。これは人間の支配者性を確認するできごとであり、保証するためであります。

神の国で、我々が天国に行ったとき肉食があるでしょうか。想像の域ですがおそらく肉食はないと思われます。罪が起こりまして改めて人間が他を支配すると言うことが確認されるときに、人は、神様を別として、被造物を支配する支配者性の確認のために肉を食べることを許された。

 

【命は命をもって償う】

人間の支配者性を裏から眺めると95節「5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。

人の命である血が流された場合、神は賠償を求められる。罪を犯したからもう人間でないものになった訳ではありません。確かにキリストを信じて救われるまでは真実の神様を知りませんし、神様に祝福されませんけれども、それでも依然として人間なのです。捕虜や囚人に対して人体実験などをしてはなりません。

もし人の命が奪われ、血が流されるなら神様は賠償を要求される。これは神がなさることです。

復讐することは神がなさる事ですから、短絡的に死刑制度が、戦争が、良いとか悪いとかは言えません。それはまた別の議論です。仮に人が殺人し、そのものが復讐を受けるとしても、それは神がなさることです。命はそれを造られた神の所有物であるという事を覚えなければなりません。

 

【動物は血を含んだまま食べてはならない】

人間は動物を新たに食べることを許されたわけですが、一つ条件がありまして、4節「9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」。

動物の血は命であるから血を含んだまま食べてはならないという事です。それは一面医学の発達してない時代、衛生上の面もあったかもしれません。生ま肉を食べると悪いという事もありました。

 

中心的な事は例え動物であってもそれを造ったものは神様でありますから、命の源であると思われていた血を一緒に食べてはならない。こう言う制限付きでありますが生き物を食べることが確認されております。

 

【主従契約】

二つ目のこととして覚えることは、神様はノアと契約を結ばれますが、この契約は上下主従関係の契約であります。今日契約と言うと対等の契約、国と国、企業と企業、個人と個人、たとえば日米安全保障条約、一応これも対等ですが、その他、物を買う売買契約も対等契約です。契約を辞めるのもお互いの同意があればいいわけですが、聖書にある契約はときに国と国との契約もありますけれども、概ねは上下主従関係の契約です。

神様と民との間に結ばれる契約は上下主従の絶対的服従関係の中で結ばれます。その契約を守る限りにおいて命を保証するという契約であります。

旧新別なく聖書は契約と言う概念で貫かれております。旧約、新約の約は契約の約です。契約が最初に出てくるのがこのノア物語です。これは特定的に救いを目指す契約ではありません。

【救いの契約】

救いの契約はノアの何代か後のアブラハムから始まります。それは諸民族の中で神の民とする特定の民族と神との契約であります。

救うという契約、救いの約束は聖書の中では最初にアブラハムと結ばれましたが、息子イサクの時に更新され、孫ヤコブの時にまた更新され、代々更新されました。そして最終的にイエス・キリストにおいて成就したのであります。

しかしこのノアの契約には更新はありません。一度結ばれたら世の終わりまで一貫して確かであり、神はそれを守られます。

ノア契約の中身は何かというと二度と地を滅ぼさないということです。アブラハムから始まる救いの契約は、何度も言いますが罪からの贖いで、キリストにおいて成就しましたが、それを目指しての契約であります。

 

【神の民イスラエルと異邦人】

救いはイエス・キリスト出現まではイスラエルに限られますが、その後、その救いはイスラエルに限らず全世界(異邦人)へと広がってまいります。それまではイスラエルに限局され、諸民族の中でイスラエルだけが神の民とされたのです。

ところがノアの契約は初めの時点で神はすべての肉なるものと契約を結ぶと言われております。つまり動物も入っております。すべてのもの、ノアとその家族が中心ですが、その後の子孫も含めて、動物も、すべての造られたものが契約の対象であります。

 

改革派教会ではこの契約を一般恩恵などと言っておりますが私は神の一般恩恵というのは曖昧であるので使わないことにしています。端的に保持恩恵と言っております。普通教会で恵と言いますのはほとんど独占的にイエス・キリストにある救いということを恵と言います。

救いは神の恵であると、その通りですが、神の恵を救いの事だけに当てはめると他のものを恵とみなさなくなります。

神様の保持なさる、神が無から創造されたものを神様が保つ、これを神の恵と見なくなる傾向があります。それは神に対して忘恩であると思います。確かに保持することはそれ自身救いではありませんが、しかし保持がなかったら救いも起こりません。

 

救いの契約という事は全く神様の憐れみであります。アブラハムの時に結ばれましたが、神様がノアの時に建てた契約を保持するという約束があればこそ、ノアから何代か後のアブラハムとの間でその救いの契約が叶えられました。

 

【私の場合】

わかり易くそれを言いますと私はクリスチャンホームでは生まれたのではありません。家には仏壇や神棚がありました。そして20歳になるまで、そういう環境で育ってまいりました。遠縁には神主がおりますし、母方の叔母は住職であったりという環境で育ってきました。大学に入ってクリスチャンとなって二十歳前に洗礼を受けました。

キリストを信じて救われるのですが、ともかく二十歳近くまで生きてきました。それまで生きてこなかったら救われようがありません。私は勉強は嫌いでしたが日本語はそれなりに理解でき大学に入って教会に連れて行かれ牧師さんの説教を聞いて信じるか信じないかは別として、何を言ってるか分かりました。私は大病はしたこともなく健康でした。キリストへの信仰が与えられたというのは、そして救われたと言うことは言うまでもなく神様の業ですが、しかしそれまで20年間健康が守られ日本語が読めた、聞くことができた、理解できた、それは神様の憐れみ、神様の恵であります。救われることに劣らない神様の恵であると見なければなりません。

【自然法則?】

恵を救いだけに当てはめますと神が創造されたことを恵と見なさないわけです。ではどう見るか、代表的な言い方をするとそれが「自然」ということになります。乱暴な言い方ですが自然なるものはありません。それは神様が造ったもので、自然法則なんてありません。神が造られた法則以外ないわけです。自然とはこれを支えておられる神様の意思なのです。自然法則とは人間が作ったものです。これは変わるものです。戦争は代表的なものです。神様が作られた現象は変わりません、天動説までは太陽が地球の周りを廻りました。地動説になっても現象は同じです。何千年かたってその両方が間違ってるということになるかもしれません。それはともかくも創造する、そしてそれを支えるという事はこれは救いに負けず劣らず、いや救いに先立って神様の根本的な恵であると思います。

ノアに対して二度と地を滅ぼさないとの約束、それはやがてアブラハムなる人物を特定的に召し出して救いを実現していくと言う備えとしてこの契約をお与えになった。だからこそ私たちは日常の生活の中で健康、学校の勉強など、そこに神様の憐れみを見て神様との関係でそれを正しく管理しなければならないと言うことが分かります。

信仰があれば身体なんかどうでもいいという訳ではありません。身体がなければ信仰もありません。

 

【王と高官のために祈れ】

三つ目のことですが、これは先の二つの延長線上になりますが、それに続く救いは神様の恵でありますが、それに先立つ保持とか維持も神様の恵であります。

その思いは新約聖書にも受け継がれます。

使徒パウロはローマの信徒への手紙13章でローマの信徒に勧めております。ローマの官憲、政治指導者、警察に従うようにと勧めます。

当時のことですからその権力者はイエス・キリストのことをほとんど知らないわけです。それでもパウロは従いなさいと。同じ事はテモテやテトスにも言われております。高官と王のために祈りなさい。彼らに従いなさい。もちろん彼らが「キリストの信仰を捨てよ、ナザレのイエスを信じるな」と言われたらその限りではありません。その場合は逆らわなければなりません。王や高官に従うことはその国や町が制度秩序を保って生活を続けていくことができるためであります。そのために彼らを神が用いておられるのです。神様に従う具体的一環として王や高官に従うこともまた求められます。こうすることが秩序ある平穏な生活を送る上に大切なことです。

 

普通に考えても分かることですが、いつも国や街が政情不安であるときには信仰生活はしにくいですね。平和、正義、秩序これが保たれる事はよい信仰生活を行う上で必要なことであります。同時に官憲を用いて世界の秩序は保たれる。これも神様の御手のうちにある恵であるとパウロは承知しておりましたのでローマの信徒あるいはテモテに言うことができたのであります。

このことは私たちの信仰生活にも当てはまります。私たちの信仰を否定することを要求することには従うことはできませんが、日本の国民として、あるいは市民として日常生活の中でその市民としての務めを果たさなければなりません。義務があると同時に権利もあります。選挙とか。日常生活とキリストによって救われることは別々のものではありません。それは一貫している一つのことであります。こういう理解が必要であります。

通常契約という言葉は救いに用いられることですか、それにもかかわらず私たちには救いでないことに契約という言葉がここに用いられていることは大変意義深いことであります。

 

【私たちに起こる災害】

最後に一言、このことを付け加えます。洪水は地を滅ぼすいう神様の怒りが心頭に達した結果でありますが、何度も言いますが神様は単なる逆上をされたと言うのではありません。

ある計画・意図をもってこのことをなさいましたから滅ぼし尽くすことをなさいませんでした。

洪水のあとのノアたち家族と方舟に入った動物が守られ、洪水が終わった後も、方舟に入った動物は守られる。そして洪水が終わった後また植物が繁盛する。

一方で厳しい裁きを招きながら神様は保っておられることから、私たちは軽々に言うべきではありませんが、非常に深いところでは包容できるのではありませんか。なぜ私たちの周りに、また私たち自身に災害が起こるのかということです。

一昨年の例の東北大震災、非常な大震災です。10数年前にも阪神大震災がありました。もちろんそれを神の裁きと短絡的に言う事は出来ませんし言うべきではありません。少なくとも被害にあった人が会わなかった人以上に罪があるとか罪深かったとか、そんな事は決して言えません。

【災害とは神様の意思表示】

しかし高所大局的に見るなら、なぜそれが起こったのか。わたしたちには分かりませんが地球規模で見ますとやっぱり神様の意思表示だと見ないわけにはいきません。

人間が長い居住を許されている地を汚しているという事、これに対する神様の裁きと見るべき神の意思表示ではありませんか。そういうことが往々起こったということを非常に重く受け止めねばなりません。

何度も言うようにその地域がそうでない地域より罪深いと言うことではありません。これは震災だけでなく社会の犯罪もそうです。ネットが悪用されて付き合って嫌われて殺されるということが頻繁に起こっております。被害にあった人がそうでない人よりも神様の前に悪いとはそんな事は言えません。

【神は全てご存知】

しかしこういう出来事を見る時に一方で神の存在、神の恐ろしいお方であるということを改めて私たちは慄然とさせられます。が同時に逆説的に、これを神様が引き起こされたとは言いたくないんですが、神の知らないところで起こっているわけではありません。これに対して神様がお手上げと言う訳ではありません。

聖書の神は全能で厳しいけれども恵み深い神様であるという事を信じればこそ、そこにも尚、愛と希望があるということです。

【神に希望を】

震災直後に神が酷いといった人もあります。その気持ちが分からないわけでありません。あるいは神はいないんだと言う人もありました。神がいなかったらあのような悲惨な出来事をよりよく説明できるのか。よりよくそれに対処できるのかと言いますと事柄は全然正反対です。神がいなかったら、居たとしても無力な神なら、また冷酷な神だったら、こんな神はいない方がいいですが、神が居てほしいなら一方で全能、そして恵深い神様、そういう神様の支配の下でああいう災害犯罪が起こるということを信じる時にだけ、ここで私たちは立ち上がり、それに対応することができるのであります。

【生きる力の源】

神が酷い、神はおられないと言うのは、その気持ちよくわかりますが、実はそうではない。神様は全能で恵み深いお方であるということを信じるからこそ私たちは困難に対して再び生きる力を与えられ、希望を持って対処できます。私たちが天に召されるまでにどういうことに遭遇するか分からない、いつ何が起こるか誰も予断ができません。

しかし、全能の恵み深い、正しくかつ恵み深い神様を私たちは見ている。その神様に私たちは取り扱われているという信仰があるときに何があっても耐えることができるということをこの大洪水から学ぶことができます。

大洪水に多くの人ビックリしたでしょう。しかし神様はノアには約束されました。それは自然の猛威とか脅威ではなく神様が起こされた。だからノアは神様を信じることができた。私たちも既にイエス・キリストによって罪許された。それゆえ私たちはイエス・キリストを信じて神の国の相続者とされております。この信仰を持って歩み続けたい。(終わり)

2013年10月20日 | カテゴリー: 創世記

2013年10月13日(日)説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

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20131013()説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

 

マルコによる福音書15

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた

38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

参照1、マルコによる福音書17 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

参照2、マルコによる福音書834 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 

(説教要約 文責近藤)

【聖霊で洗礼をお授けになるお方】

今お読みした聖書の他に、もう一か所お読みします。それはマルコによる福音書178節です。ここには、洗礼者ヨハネが出てまいります。ヨハネはこう言いました。7節「私よりも優れた方が後から来られる。私はかがんでその方の履き物の紐を解く値打ちもない」。私よりも優れた、別格の方がおられると言い、その人の印は何かというと、8節「私は水であなたがたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。聖霊で洗礼をお授けになることがただ1つ私ヨハネと違う目印になると言うのです。それほど重要なただ1つの印、すなわち、ヨハネは、水で洗礼授けたがそのお方、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると言うのであります。

 

そうであればこれから現れるキリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告の実現する場面がなければこの予告は浮いてしまいます。ところがこの予告が実現する場面が聖書に書いてあるのですが、日本語の聖書では分かりにくいのであります。

 

福音書にはっきりと書いてないと思われるのですが、しかしそうではありません。しっかりと書かれてある。洗礼者ヨハネの予告したところのことが実現されて書かれてあるのであります。

 

今日、聖霊の洗礼と言うことをはっきりさせないと私たちは水の洗礼ばかりに目を向けてしまいます。今洗礼を受ける準備をしておられる方もいます。それ以外の方も洗礼を受けてくださることを心から願って待っております。多くの方はすでに洗礼を受けておられますね。私たちは水の洗礼を確かに受けた。それで終わりなのか。そうではないと言うことがここに分かります。

 

それと同じくらい大切なこととして聖霊の洗礼というものが、水の洗礼を受けるのと同じように持っている、そのことを今日はハッキリしたいと思います。

 

【聖霊とは】

どうも聖霊と言われてもなかなかピンとこない、掴み所がない。確かに神様は父なる神様、御子なるキリスト様、ここまではよく解ります。ところが聖霊と言われてもなかなかはっきりと掴み所がないと思う方がおられて尤もかもしれません。それで今日は聖霊ということを考える上で要となる理解を手に入れたいと思います。

 

聖霊というものが今日からは漠然としたものでなく、はっきりとしたものだということを掴んでいただければと思っております。これから本題に入ります。

 

キリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告はどこで実現したか。

 

それが今日の場面です。聖書に戻りましょう。「イエスの死」という見出しのある箇所ですが今日のところはその全体を見直さないでポイントだけ絞ってみたいと思います。

 

【神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい】

ところで前回の説教で私が一つのことに注目しましたことを思い返してください。イエスの死の場面の中ですが、マルコ15章3637「あるものが走り寄って海面に酸い葡萄酒を含ませてイエスに飲ませようとした」んですね。ところがイエスはそれを飲まないまま息を引き取られた、そのことに注目したいと思います。葡萄酒を飲まなかったと言うことがここだけでなく、その前の23節に「没薬を混ぜた葡萄酒を飲ませようとしたがイエスはお受けにならなかった」とここにも書いてあります。そして十字架の死の場面でもやっぱり飲まないままで死んでしまわれたという事を見ました。それは最後の晩餐の約束です。私たちで言えば聖餐式の約束です。

 

聖餐式制定の場面の締めくくりのイエスの言葉をご覧ください。

マルコ1425「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 

こういう約束をされましたね。今日も聖餐式でぶどう酒を受けますが、あなたを御国に招待する、それが証拠に私は御国であなたを招いて葡萄酒を飲むまでは一滴も飲まずに待っている、こういう約束でした。その約束が十字架の上で命を懸けてキリストは守って下さった、そのおかげで私たちは守られているのです。これほど頼れる約束は無い。それで私たちは安心なのです。このことを前回お話いたしました。

 

【息を引き取られたー聖霊が放たれた】

今日のところになります。先に注目された一つの事は「飲まなかった」です。そして今日の聖書の言葉、37節をご覧ください。イエスに葡萄酒を飲ませようとした。「しかしイエスは大声を出して息を引き取られた」。今日注目したいのは「息を引き取られた」という言葉に尽きます。

 

日本語で考えてみても「息を引き取る」、これは熟語です。「最後の息をしてしまうー死んでしまう」と言うことですけれども、実は聖書の原文でも熟語が使ってあります。元の聖書には「しかしイエスは大声を出して霊を放たれた」、「霊を放つ」と書いてあります。霊は息と同じです。「霊を放つ」、最後の息を放つことです。死んだことを表す「霊を放つ」という言葉です。このようにイエスは37節「大声を出して息を引き取られたー霊を放たれた」。そうすると38節、神殿の幕が上から下まで間二つに裂けた。そして39節「百人隊長がイエスの方を向いて側に立っていた。百人隊長はイエスが「息を引き取られたー霊を放たれた」のを見て、その時に「本当にこの人は神の子だった」といったと書かれています。39節にもう一度、「息を引き取られたー霊を放たれた」と聖書で繰返す事は大切なことであります。これは「霊を放たれた」と表面的なことだけでなく「霊を放たれた」、このことに注目せよということであります。

 

二回も「霊を放った」と書いてあります。冒頭の予告、この方は「聖霊を放って洗礼を授ける」という予告が実現した、その答えがここにあります。

 

聖書が一番初めから予告していることがここで起こった、とっても大切であるにもかかわらず日本語でははっきり分かりにくい所です。キリストが十字架の上で最期の時に聖霊を放った。それはいいとしましょう。キリストが聖霊を放ってどうなったでしょうか。

 

【ローマの百人隊長】

その聖霊を浴びてしまった人が書かれています。

 

39節、百人隊長はイエスの方向いて立っていた。ちょっとぎこちないこの文章ですが百人隊長はイエスの方を向いてしかも至近距離に立っていた。不自然な印象ですが、イエスが放たれた聖霊を至近距離から受けた百人隊長に聖霊の洗礼が授けられたと言うことがそれで、この百人隊長は「本当にこの人は神の子であった」と告白できたのであります。それはわたしたちにとっては信仰告白で私たちの言葉で言えば「我は全能の父なる神を信ず。われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」ということです。

 

「神の独り子を信じる」という言葉で百人隊長が出来た信仰告白です。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であると告白できない」(コリント人への第一の手紙 12:3)とありますが、これがこの百人隊長の上に起こったことです。これが福音書の物語です。

 

【十字架を見上げるとき聖霊が与えられる】

「聖霊の洗礼」をマルコ福音書は全体を通して伝えようとしております。いかがですか。百人隊長はローマの隊長ですが十字架刑の執行した舞台の最高責任者です。いわば十字架刑に責任を持たなければならない人です。キリストを十字架にかけた最も責任を問われる人物です。その人でさえ十字架の正面に立つとき信仰に導かれた。このことを救いと言います。私たちにも当てはまることです。

 

かって私はキリストを知らない年月が長かったです、知らずにキリストを十字架に架けたようなことをして神様から遠いところで自己満足な生き方をしていました。それを聖書は罪人と言っております。しかしそのような誰でもが十字架の正面に立ったとき心に何かを受け取ります。それを聖書は聖霊だと言います。十字架を見つめながら信仰というものを与えられる。

それを聖書は聖霊の洗礼と言い、そのことが人を信仰に導くという。信仰に導かれれた人は救われたと言うのです。

 

【聖霊の洗礼をどこで受けるか】

こういう意味で水の洗礼と同じように聖霊の洗礼は大事です。私たちは聖霊の洗礼をどこで受けるか。私たちが十字架の正面で十字架を見つめる、十字架の正面に立つとき何かを受け取る、これは観念的だと思われるますか。ちょっと抽象的でしょうか。十字架の前に立つ、観念的だと思われるなら礼拝ということを考えてみてください。

 

【礼拝と聖霊】

私たちが礼拝に出て御言葉を聞き、本当にイエス・キリストの十字架が語られているならば、そして十字架の御言葉を皆さんが本当に聞いていらっしゃるなら、皆さんはそこで何かを受け取ることができます。そのことを聖霊の洗礼といいます。そのことが本当に大切だと聖書は言いたいのです。私たちが本当の礼拝を捧げるならば、礼拝ごとに聖霊の洗礼を受けるのです。そしてそのことがまた私たちを新しい信仰へと駆り立てるのです。

 

【私たちの現実】

人はそれぞれいろんな問題があると思います。確かに水の洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、その生活の中でまだまだいろんなことが起こります。

そういう中で私たちの心は揺れ動きます。一度、水の洗礼を受けたがそれで終わりではありません。現実の中にはいろんな問題があっても、そのことと同じぐらい大切なのは毎週礼拝に来て、そして本当に裸の心で御言葉と向かい合う、それは十字架とキリストと向かい合うことです、その時十字架から吹いてくる聖霊を浴び直すということです。それが私たちの力になるはずです。

 

【自分の十字架】

今日、礼拝への招きでこういうキリストの言葉を聴きました、「私に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」。

 

私たちは自分の十字架を背負ってキリストに従うように呼ばれています。キリストの十字架を見つめるとき、同時にキリストはあなたの十字架を背負っておられる。私イエスがあなたの十字架を背負ったと同じように、あなたは自分の十字架を背負って私についてきなさいと言われます。だったらキリストの十字架を考えるだけでは十分ではありません。

 

自分の十字架とは何でしょうか。皆さん一人一人の自分の十字架は違います。悩み、苦しみ、家族の問題、あるいは病気のこと、人に分からない一人一人自分の十字架を背負っております。それを背負ってキリストについていく。だったら私たちはキリストの十字架の正面に立つとき、実は自分の十字架の正面にも立つのです。

 

自分の十字架と一口に言っても、それは私たちにとって辛いものですので、できればそれから目を反らせるようにしたい。礼拝に出て恵みの言葉を聞いて自分の十字架を忘れたい。それも確かかもしれません。自分の十字架を取り去ってもらいたいと祈ってきた。それでも無くならない自分の十字架がある。これさえなかったなら本当に良いと思うのが自分の十字架です。

 

【キリストの招きと礼拝】

キリストの招きは、そのあなたの十字架を背負って私についてきなさいと言われる。あなたの十字架から逃げようとするのでなく、あなたの十字架を正面から見つめて私の十字架と重ねてご覧らんなさい。礼拝のたびごとに自分の十字架を見つめつつ、それと重なっているキリストの十字架を見つめなさい。私たちがそれぞれ自分の具体的な現実の中で神に向かいあうのです。

 

毎日の生活の中で、リアルな、逃げられない家族の問題とか、いろんな自分の十字架がいくらでもあります。実はその立ち位置が私たちが礼拝を捧げる時の神様と向かい合う立ち位置なのです。つまり百人隊長の立ち位置です。

 

私たちが礼拝を下げるときキリストの十字架を見つめて自分の十字架を重ね、自分の十字架の苦しみと同じところまで来てくださっているキリストを見つめること、自分のその苦しいときの友になってくださるお方、キリストを見つめるとき、これが私たちの本当の礼拝です。

 

【私たちの礼拝場所】

私たちの自分の十字架こそ実は私たちの本当の礼拝場所です。

なぜならそのあなたの十字架の場所にこそ来てくださったのがキリストであります。あなたと同じように苦しんでいるキリストのお姿です。苦しんでいるあなたと同じ姿になってあなたの友になって下さろうと言うお方、苦しんでいるあなたがいるから、主はご自身も同じ苦しみを受けるためにあなたの隣にまで降りて来てくださったのです。そのお方に出会うことだけがわたしたちの本当の礼拝です。本当に聖書の御言葉を知るという事は礼拝での出来事です。

 

【あなたの命を損なうものは無い】

私たちが礼拝ごとにキリストの十字架に向かい合い、そしてそこから聖霊を浴びるならばその聖霊はこんなメッセージを運んでくださるはずです。あなたの十字架はあなたの命を損なうものではない。これさえ取り退けてもらえたら私は生きられる、とそんな風に思われるかもしれないが、そうでは無い。実はあなたの十字架を取りのけるときに命があるのでなく、そのあなたの十字架の中にあなたの本当の命が込められている。

 

どんな悩みによっても損なわれない命、どんな病気によっても損なわれないあなたの本当の命の中心があなたの十字架の中に宿っている。そんなことをこの友が教えてくださいます。

 

【生きる勇気と力の源】

その時に私たちは自分の十字架を背負ってこの方に付いて行くことができると思います。それが私たちにとって大切なことです。礼拝ごとに私たちは百人隊長と同じ立ち位置に立って自分の十字架を正面から至近距離から向かい合いたい。すなわちキリストと向かい合うということです。その時私たちはその十字架から聖霊を浴びるのです。聖霊とは何か。その時あなたに与えられる生きようとする力です。

 

自分の十字架を背負って打ちのめされていたあなたが一人の友イエスに出会ったとき生きる勇気を与えられる、その勇気が聖霊です。

 

今まで力を失っていたあなたに、心の弱っていたあなたに、病の中で力が与えられる。それが聖霊です。神の力が与えられることです。その時、うつむいていたあなたが目を高く上げることができる、もう一度歩き始めることができる。死んでいたにも等しい、ただ生きていたあなたが、そんな生き方から復活することが出来る。死んでいたあなたが立ち上がるということが起こる。これが聖霊の洗礼です。そういう礼拝をこれからも続けていきたいと心から思います。お祈りしましょう。(おわり)

2013年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

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201310.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

マルコによる福音書91724

9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

(説教要約 文責近藤)

【不可能を可能にする道】

今日の御言葉から不可能を可能にする道を考えてみたいと思います。

 

私たちは解決できない問題に直面するとき2つの選択があります。

 一つは「余の辞書には不可能は無い」と言う信念を持って問題に立向かうことです。負けず嫌いな前向きな考え方をする人はこのような選択をするでしょう。

私たちの人生には多くの試練や苦難がありますが強い信念を持ってこれに立ち向かう事は大切なことです。

 

大きな問題に直面した時もう一つの選択は、問題に立ち向かうのでなく諦め、妥協することです。ちょっとした問題にぶつかっただけでもすぐにあきらめる人がなんと多いことでしょう。

 

【クリスチャンが困難な問題に直面するとき】

ところで私たちクリスチャンも自分の力で解決できない問題に直面するとき、どうすれば私たちは良いでしょうか。この世に解決不可能な問題が存在することを認めます。しかし一方で私たちは神様を信じています。

 

私たちは神様に助けていただき不可能を可能にすることができると信じます。それでは試練や逆境にあったときそれをどのようにして乗り越えるでしょうか。このことを考えてみましょう。

 

【弟子たちは癒せなかった、なぜか】

今日の箇所には悪霊によって口が訊けなくされた息子を持った父親が出てきます。この人は悪霊を追い出してもらうために弟子たちの所に息子を連れてきましたが、この時弟子たちはどうしても悪霊を思い出せませんでした。弟子達は打ちひしがれていました。ちょうどそのときイエス様は山から3人の弟子ヤコブ、ペテロ、ヨハネを連れて帰ってきました。主イエスを見つけた瞬間父親は新たな希望持ったでしょう。彼は主の御前に癒しを求めました。この息子の病気は現在の医学でも治療困難です。新約聖書の時代のことでなおさらです。しかしイエス様は皆が治療不可能だと思った息子を治しました。

 

ここで私たちは不可能を可能にする道で三つのことを考えてみましょう。

 

【主イエスの御もとに】

番目は主イエス様の前に自分の問題を携えていくことで問題を解決できる道です。19節の最後の所「その子を私のところに連れてきなさい」と言われ、ここで強調されるのは「私の所に連れてきなさい」です。韓国では「私のところに連れてきなさい」という伝道方法があります。困難な状況に悩み苦しむ人がいれば「私たちの教会に来ませんか、神様が解決してくださいます」。

 

招かれた人は問題を抱えて教会を訪れます。皆さん教会に来ただけで問題は解決できるでしょうか。もちろんそうではありません。がそういう可能性を完全に否定するわけでもありません。

 

教会で神様に出会い真の神様を信じれば問題は解決できるでしょう。ただ私が強調したいのは教会に来ただけで問題が解決することではないということです。

 

「教会に行こう」と言わないで「神様の家に行こう」と言う母親がいました。そのように言うとその子供は「行かない。神様はその家にはいないから行きたくない」と。その子供は神様に会いたいと思って教会の内外を探していましたが、神様は見つかりませんでした。

本当に素直な反応だと思います。

 

教会は何をするところでしょうか。教会は人々に神様を見せるところだと思います。なぜ私たちは礼拝捧げるのでしょうか。わたしたちが聖書を学ぶ目的はなんですか。神様を体験するためではないでしょうか。単に知識を得るために聖書を学ぶのではありません。神様に会うために神様を礼拝し聖書を学ぶのです。教会の頭は誰ですか。聖書はイエス・キリストが教会の頭だと記しています。

 

教会という建物の中に入っても奇跡的な力が起こるのではありません。心から礼拝するときに、御名を信じるところに、神様は御臨在されます。そこで神様を体験できます。

主イエス様は問題を解決してくださいます。本当に大切なのは神様に出会い神様を体験することです。イエス・キリストに目を向けてください。イエス・キリストこそ神です。イエス・キリストこそは私たちを神様に連れ行くことの唯一の道です。

 

なぜ悩み苦しんでおられますか。解決できないと思う問題を抱えておられますか。すべてを携えて主イエスのもとに来てください。そうすればすべての悩み苦しみ、あらゆる問題は解決されます。

 

【イエス・キリストを信頼する】

二つ目はイエス・キリストを信頼することによって不可能を可能にする道です。主の御前に問題を携えていくとき徹底的にイエス・キリストを信じなければなりません。主イエスは私を癒すことが出来ると言う確かな信仰が必要です。弟子たちは主が悪霊を追い出された後で主に聴きました。今日読まなかったのですがマルコによる福音書9章28節「 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた」。19節に答えがあります。

 

マルコによる福音書9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 

弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故ですかと主に密かに聞きました。

神様の栄光を体験できない理由は何ですか。信仰がないからではないでしょうか。

神さまは神を信じるものに栄光を現わされます。

 

主イエスは弟子たちがこの息子の悪霊追い出せなかったのは神様を信頼しなかった、信じない信仰の為に悪霊追い出せなかったと言われる。

 

今日と同じ箇所がマタイ1719節、20節にあります。

 

マタイによる福音書17

17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」†

 

 

ここでは「弟子たちの信仰が薄いからだ」と言われております。「信仰がない」とは言われないで「薄い」と言われました。

 

信仰は主イエス様の弟子になる時与えられたと思いますが信仰が全くないとは思いません。私たちも確かに信仰を持っております。信仰があるからこそ今日もここに来て礼拝に出席し説教に耳を傾けます。

 

私が皆さんにどうしてあなたは信仰がないんですかと言うと、あまり皆さんは良い気持ちなりません。イエス・キリストも弟子たちに信仰が無いとは言われませんでした。しかし信仰が薄いと言われた。弟子たちの信仰が無いからでなく薄いから奇跡が起こらず悪霊を追い出せなかった。

 

主の弟子たちのイエスに対する信仰が十分ではなかったのです。ところで信仰と言うとき大切なのは信仰という言葉そのものでなく、信じる対象です。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切です。キリスト教において信仰の対象は、天地万物を創造された神様です。また御子イエス・キリストです。

 

私たちも挫折を経験したことがあり、絶望したことがあり自分が無力あることも知っています。しかし私たちは救い主イエス・キリストの前に出てイエス様を信じました。神様に仕える生き方を与えられました。

 

ところで私たちは本当に神様を信頼していますか。いつの間にか神様でなく自分自身を信じているのではないでしょうか。

 

信じると強調しながら自分自身を信じているのではないですか。このとき弟子たちは全部で9人で、あとの3人ぺテロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスと山に登っておりました。

 

この9人の弟子たちは悪霊に憑かれた子供を癒せませんでした。9人の弟子たちは3人の弟子がいなかったのでこれは良いチャンスだと思ったかもしれません。私の推測ですが、 3人のいない間に自分たちの良いところを見せてやろうと思った。私たちもペテロと同じことができる。悪霊を取り出して見せましょうと言ったかもしれません。しかしイエス・キリストの御名によって悪霊に出て行けと命じても悪霊を退治できませんでした。

 

確かに彼らはイエス・キリストの御名を用いました。しかし心の中では思い上がっていたと思います。クリスチャンは気をつけなければなりません。思いあがる時よく失敗します。信仰の弱さをわきまえている時私たちは聖霊に満たされ真のクリスチャンになります。

パウロは自分の弱さを感じるとき聖霊の力に満たされ強くなると申しました。私たちはパウロのように自分の無力を携えて徹底的にイエス様を信じるとき神様は私たちの中に臨在してくださいます。

 

弟子たちは主イエスに従っていましたがイエス様を心から信頼していませんでした。自分自身を信頼する誘惑に負けたのです。

 

今日もわたしたちは悩み苦しみに直面するでしょう。そうした時イエス様に目を向けイエス様を信頼してください。イエス様は私たちの助け主になって下さいます。

 

【祈ることによって不可能を可能にする】

三つ目は祈ることによって不可能を可能にする道です。私たちは祈りによって問題を解決しなければなりません。ちょっとふり返って問題があればどうすればよいでしょう。問題を携えてイエス様の御許に行くことです。その次はイエス様を信頼し信じることです。

 

ところでどうやってイエス様を信頼すればよいでしょうか。それは祈ることによってです。熱心に祈ることによってイエス様に頼ることができます。逆に祈らなければ自分の考え知恵に頼ろうとしてしまいます。祈る人は主を信頼します。祈る時、最初の言葉は「父なる神、憐れみ深い神様」と祈ります。祈ることによって私たちの目は神様に向かいます。そしてイエス様に頼ることになります。

 

【人の思いあがり】

なぜ熱心に私たちは祈らないか。それは私たちが思い上がり高ぶっているからです。自分でできるからと。しかしイエス様に頼ることが最善の方法だと信じる人は主イエスに頼り、大きな問題に直面しても恐れません。祈るとき、ひざまずいて祈るとき、思い高ぶっている人は祈ることができません。弟子たちが悪霊を追い出せなかったことに主イエス様は何と答えられたか見てください。

 

929節、今日読まなかったところですが一緒に読みましょう。

マルコによる福音書9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

祈りが問題解決の唯一の道です。ところで同じ記事を扱うマタイ17章とその箇所を比べると1721節は新共同訳聖書にはありません。新改訳聖書には1721節があります。

ここには次のように書かれています。

「【新改訳改訂第3版】マタイ福音書1721

  〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕と書かれています。

 

【断食】

祈りとともに断食が強調されています。断食とは最も切実な祈りの方法です。食物は人の心を捕えるもので人が生きるのに最も必要なものです。断食は食べる時間を犠牲にして神様に切実に向かいます。

 

パウロはフィリピの信徒への手紙46節で、

4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

 

パウロは何事も思い煩わないで祈りなさいと言いました。思い煩らいは最も非生産的であり何も生じません。

 

祈りは確に問題、苦しみや悩みを解決します。祈りは人生の目的地に達するたったひとつの道です。

 

以前伝道方法に関する冊の本読みました。著者は次のように使徒言行録にでる教会の特徴を記します。初代教会では会議の時間より祈りの時間が長かったと。著者は続けて言います。現代のほとんどの教会は長い会議をしても祈りの時間は短い。わたしたちは多くの問題にこれから立ち向かわなければなりませんが、こうしたときに不満を言う前に私たちは祈る人になってみましょう。時に断食をしてみませんか。

 

私は信じます。多くの私たちを悩ませる問題の解決に私たちが祈るとき神様は天国の門を開けて栄光を注いでくださり、私たちの問題を解決してくださいます。祈るとき神様の力が現れて私たちを取り囲んで下さって昼の日からも夜の闇からも私たちを守って下さいます。おわり

2013年10月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書