2013年9月8日説教 「主に結ばれて生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)
新約聖書
テサロニケの信徒への手紙一3章
6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。
7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。
8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
10 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
(説教要約 文責近藤)
【パウロの喜び】
今朝はテサロニケの信徒への手紙一の3章の6節から10節の御言葉からパウロの喜びについて語りたいと思います。
第二次伝道旅行でパウロはテサロニケの教会を開拓伝道いたしました。
パウロはユダヤ人の迫害により今は離れておりましてもテサロニケの教会のことをいつも思い、いつも心配しておりました。そして、いつも彼らに会いたいと思い、訪問することを願いましたが、テサロニケの信徒への手紙一の2章18節に書かれてありますようにサタンによりその道は妨げられたと言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章
18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
【テモテの派遣と報告】
テサロニケの信徒への手紙一3章
5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
パウロの代わりに同労者のテモテがテサロニケの教会を訪問することになりました。そしてその報告をコリントに居るパウロに伝えたのであります。
それは「今帰ってきて」と、3章6節「6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」。とありますようにその報告はパウロを喜ばせました。
【信仰と愛】
信仰とは神全体に対するその態度を表し、神を知ること、神を愛すること、神を信頼すること、神に従うことであります。
テサロニケの教会はユダヤ人のみならずギリシャ人から迫害があったり、いろんな困難、苦難がありましたが信仰に固く立っていました。
信仰が神に対する態度であると言いましたように、愛は人に対する態度であります。その信仰によって神に、愛によってテサロニケの教会の信徒同志は強く結ばれていたからです。
聖書は信仰と愛は切り離せないと教えています。パウロはガラテヤの信徒への手紙にありますように主イエスに結ばれていれば神への信仰と人への愛に生きるのであります。
ガラテヤの信徒への手紙 5章6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
主イエスもまた神と隣人を愛することを最大の戒めと教えられました。
テサロニケの信徒は艱難の中でキリスト者の第一の義務を果たし、これを聞いてパウロは喜びに満たされました。それはテサロニケ教会の信徒自身の努力ではなく、神様の導きであったからであります。
【うれしい知らせ】
6節「うれしい知らせ」と書いてあります。それは通常「福音」のことを言います。しかしここでは福音と直接関係のない言葉として唯一用いられている箇所ですが、そのテサロニケ教会の信徒が困難や忍耐の中にあっても信仰に固く立っているとのテモテの報告の中に、パウロはその背後にある神の恵みの御手を見たのであります。
テモテの報告は「うれしい知らせ」で福音の一部でありましたが故に、パウロは神の福音として聞きました。
神の働きが無ければテサロニケの教会はこのように愛によって結ばれていなかったのであります。パウロはここに神の御業を見たのであります。また神の救い関わる御業をイエス・キリストの福音として聞いたのであります。
さらに2つのことをパウロは語っています。
その一つはテサロニケの教会はパウロに好意を持って見ていたということです。当時、中傷やごまかしと言った悪意に満ちた宣伝がパウロに対してなされましたが、テサロニケの信徒は、そう言う噂に惑わされず、パウロをあたたかい愛を持って受け止めていたことが分かります。2章3節で、パウロ自身も、こう言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章「3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」。
もう一つ、テサロニケの信徒はパウロにまた会いたがっているということも書かれてあります。6節に「、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」、しきりに再会したいとの思いは、一方通行ではなく、それは相互的な交わりの関係であったことがわかります。単に懐かしい人間的感情といったようなものでなく、パウロから神の言葉を学び霊的指導を受けた彼らは、信仰の養いのため霊的父に会いたい、そういう変わらない想いでパウロに会いたがっていたのです。
【教会と伝道者の苦難】
このような報告を受けたパウロは、「7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。
7節でパウロは率直に励まされた、慰められたとも訳せるが、言っております。
テサロニケの信徒への手紙一3章5節「5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。
「誘惑があった」と書かれているように、パウロの第一の関心はテサロニケの信徒の信仰でした。自らが奉仕した教会が信仰に固く立って主に結ばれているということを聞く事は、パウロの励まし、慰めでありました。パウロ自身、7節にあるように困難苦難の中にあったのですが、それが具体的に何かは分かっておりませんが、いずれにせよパウロは常にその困難と苦難の中にあったのでありますが、それは御言葉の奉仕者にはつきもののことで、伝道者にとってはいつもそのような困難や迫害があります。そのような時、伝道者にとっていちばんの励ましと慰めは信徒が信仰に堅く立っている、そして信仰に強められているという事であります。それがなければ伝道所は苦境に立たされてしまいます。
【しっかりと立ちなさい】
パウロはその思いを8節に語り直している、「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」、とかれらの信仰が主にしっかりと結ばれていること、直訳すれば「主にあって固く立っている」という不動の姿を見たのです。不動の反対は揺れ動くことです。信仰が揺れ動くということ、信仰は自分の力で立っていることはきません、揺れ動くという事は自分の内に堅固さ、確かさかないわけです。自分の信心が頼りになるのではない。宗教改革者カルヴィインは言います、信仰自体は空っぽの器である。大切なことは主に結ばれる時、堅固な信仰になるのであると。
イエス・キリストとの関係に集中し固く立つ事は私たちのあり方を決定します。
パウロは他の多くの手紙でこのように「しっかりと立ちなさい」と言っております。
コリントの信徒への手紙一 16章13「 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」。
ガラテヤの信徒への手紙5章「1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。
フィリピの信徒への手紙4章「1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」。
【今生きている】
パウロはテサロニケの信徒が信仰に固く立って生きていることに大きな励ましを受けました。そして8節「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と「今生きている」と言うことができました。
パウロはテモテの報告で彼の命が生き生きと回復したと言っております。パウロは命をかけて福音の使命に生きてきましたが、筆舌しがたい
生涯自分が建てた教会のためにパウロは命を捧げたのであれば、教会の信仰こそがパウロの命でありました。
テサロニケの信徒たちの信仰を聞いてパウロは主にあって生きている確信と喜びを感じたのです。
教会の信徒とパウロの命は信仰で結び付いておりました。これがパウロの実感であったと思います。伝道者パウロを生かしておりました教会に対する思いのゆえに、テサロニケの教会が主に結ばれている事にパウロは教会の創設者として喜びに満たされたのであります。
9節「9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」。
9節にパウロの感謝の大きさを語ります。人間的にはテサロニケの信徒に感謝を捧げることや、パウロは自分自身を誇ること出来ましたが、パウロは神の御業以外に栄光と感謝を捧げることをせず、その一切の労苦を神に帰し神に感謝したのであります。
【パウロの祈り】
ただただ神の大能のみ業を神に感謝し、ここに祈りが生み出されました。
10節、「 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と。パウロは二つのことを祈りました。
その祈りの第一は、顔と頭を合わせて再会すること、テサロニケ教会の信徒たちと直接交わりたいという思いであり、祈りであります。
二番目の祈りはテサロニケの教会が、完全であったわけでありません、未だ弱さもあり信仰が欠けているところがありました。それを補いたいとパウロは祈ったのです。
この二つの視点は大事であります。
現在の教会の姿は過去から現在に至る視点であります。それは過去から現在に至る神の恵みと愛に感謝する事ですが、もう一つの視点は未来からの視点であります。すなわち終末からの視点として、完成された教会に向かって前進するという視点から見るなら現在の教会の弱さや欠けも見えてきます。
【二つの視点】
将来の完成された教会という視点からみると、現状はすべてがマイナスになります。これだけを見ると感謝は起こりません。現状批判が互いに裁き会うことになります。もう一つの最初の視点、これまで与えられた現在の状態を感謝して受け取る。そしてここに止まらないで聖書の教えるあるべき姿に前進すること、完成に向かって前進することが大切です。
教会のみでなくクリスチャン一人一人についても天の御国を目指して信仰生活を一歩一歩前身することに、これは当てはまることであります。
フィリピの信徒への手紙3「13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
「後のものを忘れ前なる目標を目指し賞を得るために走る」と言うパウロは、いずれにせよ、到達した点からさらに前進を目指しております。私たちは教会に対し、他者に対し、自分自身に対して、この視点を持つことが大切であります。現状を見てさらにそこに留まらず前進し励ましあって欠けを補い会うことが大切であります。そこでこそ教会の交わり、前身があります。
【牧師と信徒の関係】
最後に申します。今日の箇所はパウロとテサロニケの信者の関係が記されてされております。それは伝道者と教会の健全な関係について言います。パウロの最大の関心は教会が主に結ばれていること、すなわちテサロニケ教会の信徒の生ける信仰によってパウロは励まされまた生かされているということです。
同様に牧師は信徒の信仰に大きく影響をしますが、同時に信徒の生ける信仰によって励まされていると言うことです。これが教会です。これは信徒同士の関係でも同じでありますが共に励まし、また励まされる。共に慰め、慰められるという関係こそが伝道者と信徒の健全な関係であります。これは本当に幸いなことであります。(おわり)
2013年09月08日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/973
コメントする