2013年9月22日説教「信仰と行い」姜 世媛カンセウオン先生(WEC派遣宣教師/神戸改革派神学校特別聴講生)
聖書:ヤコブの手紙
【行いを欠く信仰は死んだもの】
2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(説教要約 文責近藤)
今日は「信仰と行い」ということを御言葉から考えてみたいと思います。ヤコブの手紙は主イエス兄弟であるヤコブが書きました。宛先は離散しているクリスチャンです。この手紙は行いを強調していると誤解されている面がありますが、すでに救われて信者になった人びとに書かれたものであります。
一つの質問ですが「信仰生活」とはなんですか。韓国人はこう聞くと多くの人が「はい、はい」って答える人は多いですが、日本人は余り答える人は少ないですね。それは間違っていないかなーと、正しい答えを探しているからだと思いますが、しかし一人一人答えは違うと思いますね。
「信仰生活」と言う4文字熟語になりますが、「信仰」と「生活」とに分けられます。
信仰を持っている信者の生活と言えます。すべての教会の集会に出席する模範的な人、これらが信仰生活と思う言う人もあります。間違っているとは思いませんが、生活全般における人格的に成熟した状態と考えることが出来ます。信仰と生活を分けて考える人、信仰と生活は分けられないと考える人の両方が考えられます。
私は13歳で信仰に入りました時、日曜日が来るのは本当に楽しみでした。しかし月曜日になると寂しくなりました。
信仰と生活を分ける人はこのように世間に出る顔と教会に出る顔が違います。「それでもあなたはクリスチャン」と聞かれるとガッカリいたします。
信仰と生活また行いと言うことで今日は3つのことを考えてみたいと思います。
【「行いのない信仰は死んだものです」】
1番目は「行いのない信仰は死んだものです」
ヤコブの手紙に2章17節、そして2章26節を共に読んでみましょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
今日の15、16節に
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
そしてこのように結びます、
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
行いの伴っていない信仰は信仰と言えるでしょうか。
今日でも日本に食べる者のない人がいると聞くと本当に驚きました。日本で統計的に10人に3人は食べるものがないというのです。
また寂しいと言う人がいるとしますね。忙しくてすぐに帰らなければならないとします。その時「あなた大丈夫、主がともにいます」という言葉だけで済ますことはどうでしょうか。
韓国での話ですが、ある婦人が「私は、主人が亡くなってから寂しい」と言われます。教会全員に毎日同じことを繰り返し繰り返し訴えられます。聞かされる方はもう困惑いたします。その方はうつ病で入院されましたが。いつこの話が終るのだろうと。
周りのの誰かが困っているなら、出来るなら助けてあげるべきです、16節にあるように食べ物がなければ与えるべきです。
17節信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
この前、韓国に帰ったとき大学時代親しくした友人がいました。彼女は結婚して幸せで三人の子供に恵まれましたが、主人の腎臓が悪くなって人口透析をしていましたが遂に腎臓移植を受けることになったのです。主人のために彼女は自分の片方の腎臓を提供いたしました。そしてその主人は回復致しました。そのような事は私にできるでしょうかと迷う気持ちがあります。このように親しい家族にも迷いがあることに驚きました。
家族、友人、教会の人、あるいは好きな人、好きでない人にも、主イエスのようにすべての人を愛して命を与えることが出来るでしょうか。できなくても神様は最善をすることを願っておられます。
【行いのない信仰はむなしい】
二番目、「行いのない信仰はむなしい」と言うことをヤコブの手紙2章20節で言っておりますが、この「役に立たない」という言葉が新共同訳聖書に書かれておりす。しかしこれを新改訳聖書は「むなしい」と書かれております。
信仰を伴わない生活は「むなしい」ものだと言われます。
【ナイアガラ瀑布を渡った曲芸師】
アメリカとカナダの間のナイアガラ瀑布での話ですが、ある綱渡り曲芸師が綱渡りをすることになりました。曲芸師は見物のみんなに聞きました。私はこの綱渡りが成功するでしょうか。みんなは「できる、成功する」。彼は綱渡りに成功した。次に見物人に聴きました。「背中に椅子を背負って綱渡りを成功できるできるでしょうか」。皆は「できる。できる」と喝采した。曲芸師はもう一度聞きました。「それでは誰かこの背中の椅子に乗って私と一緒にナイアガラ瀑布を渡りませんか」と聞きました。が見物客みんなは沈黙しました。誰も彼と一緒にナイアガラを渡りたいと言う人は一人も居ませんでした。観衆は綱渡りの成功を信じましたが行いが伴わなかったのです。
「信仰があっても行いの伴わないものは虚しい」と言うことであります。
今日の2章18節には、
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
良い行いをしても信仰が伴わなければ悪霊どもの信仰と一緒だと言われます。
【悪霊どももそう信じて、おののいています】
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
ここで悪霊どもでさえ神を信じていると言われます。
マタイによる福音書8章29節にそのことが書かれています。
8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
悪霊でさえ神の子を認めており、イエス様は神の子だとわかっておりました。しかし善い行いはありませんでした。
愛する皆さん。だから「行いのない信仰はむなしい」ということが分かりますね。聖霊の助けで良い行いに励みましょう。
【信仰と行いは相働いて実を結ぶ】
三つ目は「信仰と行いは相働いて実を結ぶ」ということです。21節から26節を河内長老に読んでいただきます。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
アブラハムと娼婦ラハブの例が書かれております。
そのことはまたヘブライ人への手紙11章17節と31節に書かれています。
ヘブライ人への手紙11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
ヘブライ人への手紙11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
独り子イサクを捧げようとしたアブラハムの行為を彼の信仰と神は認められたのです。
娼婦らハブのした行為も同じで、信仰によってしたことです。
ルカによる福音書6章43~44節に書かれています。
6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
私たちが真の信仰を持っているなら善い行いが伴います。そして善い実を結びます。
【アナニアとサッピラ】
使徒言行録5章に初代エルサレム教会の献金のことでアナニアとサッピラ夫婦の悪事の例がございます。彼らは自分の持ちものを売って献金しましたが、そのそれは賞賛を得るためで見せかけでありました。その一部だけを出して、それは自分たちの手全財産だと言って嘘をつきました。これは見せかけの聖霊を欺くまた兄弟姉妹を欺く信仰のない行いでした。そしてアナニアとサッピラ夫婦は即座に使徒の前で死にました。
私が高校生の時私はこれを聞いて驚きました。しかしある先生が言われたが現代教会にもアナニアとサッピラはいます。イエス・キリストの名で捧げものをする人がありますが、その人は人々に自分の売名行為のためにし、かれらには信仰はありません。
ヨハネの手紙一3章18~19節に書かれています。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます
聖書は口先だけでなく誠実と行いをもって愛し合おうと勧めます。
しかし思いを伝えるのに言葉が大事であることについて私は思います。わたしは主人に「私を愛していますか」とききますと、主人はあれこれと他の言葉で弁解します。一言「愛している」と言えばよいのに。
男性は言葉より行いを重視する傾向があり、話さないことが美徳である考える傾向がありますね。最近の若者は言葉で言ってくれないと分からないと考える人が多くなってきたようです。言葉で表すと言うことも必要であります。言葉と行いで誠実に人を愛しましょう。
愛する皆さん。主イエスは望んでおられます。主イエスとともに信仰と行いに励み、神様の愛をあらわすために信仰と行いが共に相働いて豊かな愛の実を結ぶことを願っております。(おわり)
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