2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
聖書:ルカによる福音書4章16節~30節
【ナザレで受け入れられない】
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教要約 文責近藤)
【主の恵みの年を告げる】
前回の復習ですが、主が生まれ故郷ナザレに帰られ会堂で説教された時、主イエスは旧約聖書のイザヤ書61章1節2節の言葉を朗読されて、
18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの預言は「今日、あなた方が耳にしたとき実現した」と言われたのです。記念すべきこのことは旧約聖書全体を要約した救い主到来の預言が実現したとの宣言です。
【ナザレの人びとの主に対する態度】
ナザレの人々はこの主イエスの語った説教に感嘆し、これを褒めました(22節)が、実はその後の反応を見ると、中身はそうではなかったことが分かります。言うことは立派だが、今語っているこの男は一体何者だと言うわけです。名門に生まれたのでもなく我々はこの男を生まれた時からその素性もよく知っているではないかと。
主が語られる言葉に驚いたが、ナザレの人々はイエスの人間性に、ヨセフの息子に、つまずいたのではなく、語られる恵みのみ言葉につまずいたのです。イエスが故郷に錦を飾るように語られたのであれば人々の反応も違ったかもしれません。
人々の気に入られるように語ったならばイエスは故郷では敬われたかもしれませんが、ナザレの人々の反応はこの主イエスの言葉に驚きながらも、つまずいたのであります。
これは反面教師としても我々が御言葉を語る時に、土地の人々は大変冷たくこれに対応いたします。世間話ならば喜んで聞くかもしれませんが人々はこのように御言葉に対してはその真意を認めないのであります。
主イエスでさえそのようにあしらわれ批判されたのでありますから、まして私たちはそういう冷笑を覚悟をしなければならない。
【御言葉は決して損なわれない】
マタイ福音書によりますと、主イエスはもっとひどく扱われております。そこではイエス様はヨセフの息子と言われず、マリアの息子と言われました。それはどういう意味かというとマリアはまだ結婚していないのに子供が生まれたのでありますから、勿論聖霊によって身ごもったのですが、イエスは父なし子と故郷の人々は言うのであります。それは不倫の子供のように蔑まされたかもしれません。神の言葉の語り手は、主イエスでさえこのように批判されたのですから、普通の説教者はこういう批判は覚悟すべきですが、覚えなくてはならない事は、神の言葉は決して損なわれない、御言葉は生きているということです。今日は御言葉に対する私たちの態度について学びましょう。
ナザレの人々は主イエスに対する親しさ気安さがあったのです。これ自体は悪いことではありませんが、悪く作用するとイエスの教えを不要にする危険性がありました。それで主は言われた、
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
【預言者は自分の故郷では歓迎されない】
私事でありますが、牧師になって久しぶりに故郷の信州佐久に帰ると同級生たちが集まってくれます。しかしその時言われます、「お前はどうしてクリスチャンになった。どうして牧師になったか」と。決して尊敬はされません。特に親しい人々がそうであります。
主はそれを見抜いておられます。
24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
ナザレの人々は主がガリラヤのカファルナウムでした評判のそのしるし、奇跡に関心がありました。カファルナウムでしたことを郷里のナザレでもしてくれと彼らは神の言葉、恵みの言葉よりも奇跡に興味があった。
こう言ったのは親しさから来る特権意識であったかもしれません。が主イエスにすればしるし(奇跡)を求めるナザレの人々の態度には、宣教の初めに荒野で悪魔の試みにあった時のことを思い起されたに違いありません。勿論、主イエスはしるしのみを行われたのではありません、必ず恵みの御言葉を語られたのです。主はこう言われます、
25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
荒れ野で空腹を覚えられた主イエス様に悪魔は「お前が神の子なら石をパンに変えたらどうだ」、
また「お前が神の子なら神殿の上から飛び降りたらどうだ」と悪魔は主を試みました。
ルカによる福音書4章「9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
この悪魔と同じ試みをナザレの人々は主に要求したのであります。
主が言われた、19節「 主の恵みの年を告げるためである」という言葉を信ぜず、また24節で「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言われ、主の恵みを告げる言葉を語られても喜ばないという態度を「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と諺で言われ、ここに二つの旧約の聖書の例を根拠に語られたのであります。
【預言者エリアとサレプタのやもめ】
最初の引用は預言者エリア、彼はイスラエル最大の予言者でありますが、その地域が3年半の飢饉にあった時にサレプタのやもめ、それは異邦人に遣わされたのであります。
列王記上17章の8節から16節の御言葉にその事は書かれておりますが、エリアはやもめに対して「私の為に小麦粉を練ってパンつくり食べさせよ」と受け入れがたい要求を語ったのです。やもめは「最後の少しの小麦粉を取っているが、それは死ぬ前に息子に食べさせるため」と言いました。しかしエリヤの言うままにエリヤにパンを作って食べさせたのであります。そしでエリアは食べ、またそのやもめと子どもも食物に不足することなく甕の粉は尽きなかったのであります。
【ライ病になったナアマン将軍】
またもう一つの例はナアマンというシリアの将軍がライ病に罹りましたが、その時そのナアマンのところで召し使われていたユダヤ人の少女から預言者エリシャのところに行けば癒されると言われ、エリシャのもとに赴きました。預言者は彼に七度ヨルダン川の水で身を洗えば癒されると言いました。ナアマンは「何でそんな汚い水で洗わなければならないか、故郷にはもっときれいな水がある」と始めはそれを拒否しましたけれども、彼の家来にたしなめられ、「その川で洗っても何の損はないでしょう」と言うことで、七度ヨルダン川に浸かったところ、ライ病は癒されたのであります。列王記下5章9節から17節に書かれてあります。
【イスラエルと異邦人の救い】
主がこの有名な旧約の二つ例を語られたのは、異邦人の街であるカファルナウムの町で行われた奇跡をナザレの町で行うことを故郷のナザレ人びとは期待したわけですが、それが如何に的外れな要求であったかを教えようとされたのであります。
あえて御言葉に従った人は祝福されたということを覚えさせられるために、始祖アブラハムが召されたとき創世記12章「地上の諸国民はあなたによって祝福を受ける」と恵みがイスラエルの民に与えられ、アブラハムは祝福の源になりましたが、神様の恵みの言葉は時代が変わってもイスラエルに与えられ、その祝福と命の約束は変わりなかったことをナザレの人々は知るべきであったのです。
エリヤの時も、エリシャの時も、たった一人の異邦人の救いのために恵みの言葉で宣教された歴史があるではないかと主イエスは言われ、カファルナウムで恵みの業をなしたのも同じ理由からだと言われるのです。
主イエスはルカ福音書4章14、15節に、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」
とありますように、どこに行っても、その恵みの業は恵みの言葉の宣教によってなされました。
しかし自分が30年間育てられたナザレの町の人々に、同じ恵みの言葉を語っても歓迎されない、受け入れられないという辛さを主は覚えられただろうと思います。
【神の自由、神の主権】
この二つの例にはもう一つの意味があります。神の自由、神の主権性をこの二つの例で教えようとされたのです。
預言者エリヤが神の民イスラエルにも多くのやもめがいたのにただ異邦人のやもめに遣わされたのはどうしたわけですか。エリアの気まぐれだったのでしょうか。そうではありません。
またエリシャがライ病人のナアマンに遣わされたのは、どうしたわけですか。多くのライ病人がイスラエルにも沢山いたわけですが、異邦人のシリア軍人ナアマンに遣わされた、その意味は何かということを主は問われたと思います。
イエスは神の恵みの言葉が語られるのは、神の自由と主権から為されるのだと、それを陶器師の譬えをもって語られます。陶器師は同じ土から一方貴いものに、他方をそうでないものに作るという譬えを持って語られましたが、恵みにおいて御言葉が語られる時、それは主権的に語られ、人々はただそれを歓迎すべきであるということを強調されております。
私たちは神様の御心をすべては知りえませんが、私たちが知るべき神様の救いの御旨は聖書を通してのみ知ることができるのです。それをないがしろにする愚かさを主は言われます。天と地を結ぶのは御言葉です。
【結び:主の中央突破】
結の言葉として28節から30節の言葉が語られます。
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
主イエスは神御自身の栄光を現わすために御言葉は異邦人にも伝えられるべきと語られたのですが、それに憤慨したナザレの人々が彼を崖から突き落とそうとした。その時にも、彼らの中央を突破されたのであります。
この主のお姿は何を示しているでしょうか。それは神様の栄光、神の言葉の尊さを教えておられるのであります。
故郷の人々によってなされたその仕打ちは、まさに荒れ野の悪魔の試みと同じであり、「お前が神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」と言うその試みに対比をいたします。しかしだれも主の中央突破を妨げる者はなかったのであります。(おわり)
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