2013年9月29日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)先生(板宿教会伝道師)
2013年9月29日説教「キリストの為に」金 昭貞(キムソジョン)(先生(板宿教会伝道師)
聖書:コリントの信徒への手紙二12章1~10
12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(説教要約 文責近藤)
【パウロの受けたトゲ】
今日朗読してしたところで使徒パウロは自分の身に一つのとげが与えられと言います。皆さんもトゲが刺さったことがあると思います。小さなトゲでも痛いですし他のことに集中できません。早く抜いてほしいと思います。パウロは神様に自分のトゲつまり弱さを取ってくださいと願いましたが神様の答えは否でありました。何故でしょうか。
今日は信仰の歩みの中でのトゲの意味とそれを通して顕される神の恵みについて御言葉から、特に9節と10節からこのことに耳を傾けてみたいと思います。
【コリントの街とコリント教会】
当時のコリントはギリシャ半島の付け根にある港街でローマ帝国の植民地でありました。しかしギリシャ・ロマ帝国の交通の要所として非常に栄えた街であります。そこはいろんな国の人と宗教が集まる国際都市でありましたがまた偶像崇拝が盛んでありました。道徳的にも性的にも堕落していました。そしてコリント教会がここに建てられたのでありますが教会内にも問題が多くトラブルも多くありました。
このことに心を痛めたパウロは第三伝道の時にエペソで手紙を出しました。これが第一コリントの手紙ですが、しかしその後も問題は解決いたしませんで、パウロはコリントの信徒への第二のお手紙を送る前に、涙の手紙と言われるものを書きました。その手紙によってコリント教会の多くの信徒は悔改めましたが、エルサレム教会への献金などまだまだ問題が残っていました。
その中でも偽使徒の問題があり、以前より厳しくなっていました。そうした事情の中でパウロが出した手紙が今日のコリントの信徒への第二の手紙です。
【パウロに逆らう偽使徒】
彼ら偽使徒はパウロが伝えたキリストと違うキリストと福音を伝えました。パウロは手紙と違ってじかに会ってみると弱しく話もつまらないし魅力に乏しいと中傷しました。またパウロの使徒権を否定しました。彼らは自分たちこそ使徒だと言ってコリントの信徒たちをキリストから離れさそうとしました。
コリントの信徒たちは信仰が弱かったため偽使徒にすぐに騙されました。パウロはもう黙っておれません。それで教会を守るために自分を誇ることは愚かなことだが、偽使徒に騙されている信仰の弱いコリントの信徒を得るためにパウロは自分を誇らざるをえませんでした。
12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
コリント教会に入り込んだ偽使徒は信徒たちを信仰から離れさせようとして彼らの神秘的な体験を誇り信徒を惑わしました。
【パウロのすばらしい体験】
偽使徒がそのような経験を誇るなら、誇っても無益だがパウロ自身、幻と啓示でいくらでも誇れると言います。偽使徒が見せる神秘体験と違ってパウロはキリストが見せて下さったすばらしい啓示であることを強調します。この啓示があまりにも平凡でなかったため高慢に聞こえることを恐れたパウロは自分について彼という3人称で1節から8節に、このように言います
12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
第三の天、すなはち天国に挙げられたパウロは天国の素晴らしさを経験しました。他の人には許されていない素晴らしい主の御言葉を主ご自身から直接聞いたのです。体のままか、体を離れてかは知りませんというほどすばらしい体験でした。
素晴らしさ、それはパウロ自身に特別な能力があって起ったものではなく、パウロは繰り返し彼自身誇るものは何もなく、自身の弱さしかし誇るものはないと、たとえ誇ったとしても神様から与えられた幻だから偽りではないと述べます。
パウロが神様から与えられた幻があまりにも素晴らしかったのでパウロが高ぶることのないように身に一つのトゲが与えられたのです。7節、
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
トゲは具体的にはそれが何かわかりませんが、テンカンだったか頭痛だったかわかりませんが、また別の物だったか、しかしトゲは1つのものではなかったと思います。
多くの注解者はパウロは多くの迫害を受けましたが、それがトゲであると言います。
10節によりますとかトゲは体の病のことではなくパウロの受けた試練と誘惑と考える方が良いと思います。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
パウロが受けたトゲは彼が思い上がることのないようにと神様がパウロに与えられたのです。
神がパウロにトゲを与えられたのは思いあがることのないようにということだけではありません。その大事な理由は後でのべます。
別の大切な理由があったこともあったとしてもトゲは早く抜きたいものです。伝道者パウロはトゲがなかったらもっと伝道ができると思ったかもしれません。
それでパウロは神様に三度トゲを取ってくださいと祈ったと書いてありますが、三度とは完全数であり、何度も何度も祈ったということであります。パウロの祈りに対する神様の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られた。
9節前半、
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
「わたしの恵みはあなたに十分である」と神様はなぜその答えを与えられたのでしょうか。
【わたしの恵みはあなたに十分である:私の体験】
私ごとですが一昨年神学校を卒業して、神学生時代から足かけ2年半板宿教会でお世話になっております。恵まれた環境に感謝しています。
しかし説教は貧しい日本語の誤りをいつも恐れております。それは大変なプレッシャーであります。説教そのものもプレッシャーでありますが、さらにその上日本語が完全でないというプレッシャーがあります。聴く者に申し訳ない。そして聞くものにつまずきを与えないか。はじめて来た方につまらない思いをさせるのではないか。そのようなつたない日本語が私のトゲであります。そのような時、神様は9節の言葉を与えられ、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。
神様はトゲを耐えるようにではなく、神様はトゲすなわち弱さは恵みあると言われます。
なぜなら神様の「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました
口語訳聖書は「主の力は弱い所に完全にあらわれる」と訳しています。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
【私たちにトゲが与えられる大事な理由:神様の力は弱さの中でこそ現れる】
私たち皆はトゲを持っていれば早く抜きたいです。他人は大丈夫といいますが自分自身にはそれは非常に大きな問題となります。しかし神は「わたしの恵みはそれで十分である」と語られる。なぜなら神様の力は弱さの中でこそ現れるのだと言われます。神様は私の下手な説教でもそのままで良いと言われます。なぜなら9節で、「神の力は弱さの中で発揮される」と言うのであります。
【尊い器】
パウロはテモテへの手紙二2章で述べます、
2:20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。2:21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
きれいな器が大事だと言うのです。
【土の器】
そしてコリントの信徒への手紙二4章7節で、
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
神が用いられる器はきれいな土の器です。なぜ金の器に宝をいれないのか、それは計り知れない力が私たちのものではなく神から出るためであることが分かるためです。
神様は言われます。私の力は弱いところに完全に現れる。
宝を金の器に入れると宝は輝きません。しかし土の器に入れると宝は完全に輝くのです。
【神様は土の器を用いられる】
神様はたとえ不完全であっても土の器である私たちを用いられるのであります。自分のトゲを抜こうとするのは私たちが金の器、今の器より完璧な器になるためではないでしょうか。
しかし神が望まれるのはわたしたちが完璧な器になるのではなく、神様が全てをなさることが完璧な業なのであって、私たちを主のパートナーのとして用いられることです。それは私たちが主の力により頼み主の恵みを味合うためです。これが私たちにトゲが与えられる神様のやり方であり理由であります。
【喜んで自分の弱さを誇りましょう】
それで9節後半をお読みします、
12:9 すると主は、「・・・・・だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 と語ります。
【パウロの受けた迫害・苦しみ】
パウロが弱さを誇るのはコリントの教会に現れた偽使徒には神の愛が欠けていることをわからせるためです。パウロは弱さのみでなくあらゆる苦痛をも喜びました。
パウロは10節で、
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
と告白して満足しているのです。
満足するとはただ耐えて受け身ではなく喜びを感じているということです。はたして迫害の時でさえ喜びを感じ満足することが出来るでしょうか。
パウロが受けた迫害と行づまりはどんなに激しいものであったか、今日のコリントの信徒への手紙Ⅱの前の箇所11章23の後半から27節に書かれていますが、
11:23 ・・・・、苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
【キリストのために】
パウロの受けた大きな迫害は私たちの受ける迫害とは次元が違いますが、パウロ自身なぜこれほどの迫害にも満足できたか。
それは自分のためでなくキリストのために満足できたからです。
10節にパウロの告白があります、
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
言いかえるとパウロはキリストの為でなかったらすべては満足できなかったのです。
キリストの為でなかったら、人々に見せるためや自己満足のためなら最後まで耐えることが出来ません。
自分のための働きはしばらくは誇ることがあっても最後まで乗りきる事は出来ません。
なぜなら私たちは主の力と恵みなくして完全にはなり得ないからです。
私は自分の日本語のことで苦しんだことを考えました。しかし私こそキリストのためでなく自分自身の為に、自分の栄光のために苦しんで、人びとの前に良い評価を得るために、恥をかきたくないためにトゲを抜いて自分が金の器になろうとしたことに気づきました。
【キリストの為に弱くなれる】
しかしパウロは自分のためではなく、またほかのものの為でなく、ただキリストのために満足し迫害を耐え、弱さに満足した。パウロが信仰の戦いのために勝利した秘訣はキリストの為にあった。つまりキリストの為に弱くなれたのです。
パウロはもっと自分の受けた迫害を大きく言っても良かったのですが、パウロが受けたトゲと言っております。
なぜなら神様が人々の救いの為にこの世に遣わした主イエスが私たちのために受けてくださった十字架に比べると私たちの迫害、苦難、弱さはトゲに過ぎないと言うのであります。
主の十字架のゆえに、10節の状態にあってもキリストの為に私たちは弱くなれるのです。私たちを救う主イエスの十字架のゆえに、私たちは弱くなれ満足できるのです、「12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、」「キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。
最後になりますが私たちはいろんなトゲを持っています。
私たちのトゲとは何でしょうか。パウロのような迫害ほどのトゲでないかもしれませんが、私たちはそれさえなければと思うのでありますが、しかし神様は「私の恵みはあなたに十分である」と語られます。つまりイエス様の十字架は「ありのままの君で良い」と語りかけるのです。
どうか私たちの為に十字架を背負って下さった主の救いの恵みと力によって、自分の弱さを大いに喜び、イエスの為に喜んで弱くなることができますように祈ります。(おわり)
2013年09月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二
2013年9月22日説教「信仰と行い」姜 世媛カンセウオン先生(WEC派遣宣教師/神戸改革派神学校特別聴講生)
聖書:ヤコブの手紙
【行いを欠く信仰は死んだもの】
2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(説教要約 文責近藤)
今日は「信仰と行い」ということを御言葉から考えてみたいと思います。ヤコブの手紙は主イエス兄弟であるヤコブが書きました。宛先は離散しているクリスチャンです。この手紙は行いを強調していると誤解されている面がありますが、すでに救われて信者になった人びとに書かれたものであります。
一つの質問ですが「信仰生活」とはなんですか。韓国人はこう聞くと多くの人が「はい、はい」って答える人は多いですが、日本人は余り答える人は少ないですね。それは間違っていないかなーと、正しい答えを探しているからだと思いますが、しかし一人一人答えは違うと思いますね。
「信仰生活」と言う4文字熟語になりますが、「信仰」と「生活」とに分けられます。
信仰を持っている信者の生活と言えます。すべての教会の集会に出席する模範的な人、これらが信仰生活と思う言う人もあります。間違っているとは思いませんが、生活全般における人格的に成熟した状態と考えることが出来ます。信仰と生活を分けて考える人、信仰と生活は分けられないと考える人の両方が考えられます。
私は13歳で信仰に入りました時、日曜日が来るのは本当に楽しみでした。しかし月曜日になると寂しくなりました。
信仰と生活を分ける人はこのように世間に出る顔と教会に出る顔が違います。「それでもあなたはクリスチャン」と聞かれるとガッカリいたします。
信仰と生活また行いと言うことで今日は3つのことを考えてみたいと思います。
【「行いのない信仰は死んだものです」】
1番目は「行いのない信仰は死んだものです」
ヤコブの手紙に2章17節、そして2章26節を共に読んでみましょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
今日の15、16節に
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
そしてこのように結びます、
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
行いの伴っていない信仰は信仰と言えるでしょうか。
今日でも日本に食べる者のない人がいると聞くと本当に驚きました。日本で統計的に10人に3人は食べるものがないというのです。
また寂しいと言う人がいるとしますね。忙しくてすぐに帰らなければならないとします。その時「あなた大丈夫、主がともにいます」という言葉だけで済ますことはどうでしょうか。
韓国での話ですが、ある婦人が「私は、主人が亡くなってから寂しい」と言われます。教会全員に毎日同じことを繰り返し繰り返し訴えられます。聞かされる方はもう困惑いたします。その方はうつ病で入院されましたが。いつこの話が終るのだろうと。
周りのの誰かが困っているなら、出来るなら助けてあげるべきです、16節にあるように食べ物がなければ与えるべきです。
17節信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
この前、韓国に帰ったとき大学時代親しくした友人がいました。彼女は結婚して幸せで三人の子供に恵まれましたが、主人の腎臓が悪くなって人口透析をしていましたが遂に腎臓移植を受けることになったのです。主人のために彼女は自分の片方の腎臓を提供いたしました。そしてその主人は回復致しました。そのような事は私にできるでしょうかと迷う気持ちがあります。このように親しい家族にも迷いがあることに驚きました。
家族、友人、教会の人、あるいは好きな人、好きでない人にも、主イエスのようにすべての人を愛して命を与えることが出来るでしょうか。できなくても神様は最善をすることを願っておられます。
【行いのない信仰はむなしい】
二番目、「行いのない信仰はむなしい」と言うことをヤコブの手紙2章20節で言っておりますが、この「役に立たない」という言葉が新共同訳聖書に書かれておりす。しかしこれを新改訳聖書は「むなしい」と書かれております。
信仰を伴わない生活は「むなしい」ものだと言われます。
【ナイアガラ瀑布を渡った曲芸師】
アメリカとカナダの間のナイアガラ瀑布での話ですが、ある綱渡り曲芸師が綱渡りをすることになりました。曲芸師は見物のみんなに聞きました。私はこの綱渡りが成功するでしょうか。みんなは「できる、成功する」。彼は綱渡りに成功した。次に見物人に聴きました。「背中に椅子を背負って綱渡りを成功できるできるでしょうか」。皆は「できる。できる」と喝采した。曲芸師はもう一度聞きました。「それでは誰かこの背中の椅子に乗って私と一緒にナイアガラ瀑布を渡りませんか」と聞きました。が見物客みんなは沈黙しました。誰も彼と一緒にナイアガラを渡りたいと言う人は一人も居ませんでした。観衆は綱渡りの成功を信じましたが行いが伴わなかったのです。
「信仰があっても行いの伴わないものは虚しい」と言うことであります。
今日の2章18節には、
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
良い行いをしても信仰が伴わなければ悪霊どもの信仰と一緒だと言われます。
【悪霊どももそう信じて、おののいています】
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
ここで悪霊どもでさえ神を信じていると言われます。
マタイによる福音書8章29節にそのことが書かれています。
8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
悪霊でさえ神の子を認めており、イエス様は神の子だとわかっておりました。しかし善い行いはありませんでした。
愛する皆さん。だから「行いのない信仰はむなしい」ということが分かりますね。聖霊の助けで良い行いに励みましょう。
【信仰と行いは相働いて実を結ぶ】
三つ目は「信仰と行いは相働いて実を結ぶ」ということです。21節から26節を河内長老に読んでいただきます。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
アブラハムと娼婦ラハブの例が書かれております。
そのことはまたヘブライ人への手紙11章17節と31節に書かれています。
ヘブライ人への手紙11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
ヘブライ人への手紙11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
独り子イサクを捧げようとしたアブラハムの行為を彼の信仰と神は認められたのです。
娼婦らハブのした行為も同じで、信仰によってしたことです。
ルカによる福音書6章43~44節に書かれています。
6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
私たちが真の信仰を持っているなら善い行いが伴います。そして善い実を結びます。
【アナニアとサッピラ】
使徒言行録5章に初代エルサレム教会の献金のことでアナニアとサッピラ夫婦の悪事の例がございます。彼らは自分の持ちものを売って献金しましたが、そのそれは賞賛を得るためで見せかけでありました。その一部だけを出して、それは自分たちの手全財産だと言って嘘をつきました。これは見せかけの聖霊を欺くまた兄弟姉妹を欺く信仰のない行いでした。そしてアナニアとサッピラ夫婦は即座に使徒の前で死にました。
私が高校生の時私はこれを聞いて驚きました。しかしある先生が言われたが現代教会にもアナニアとサッピラはいます。イエス・キリストの名で捧げものをする人がありますが、その人は人々に自分の売名行為のためにし、かれらには信仰はありません。
ヨハネの手紙一3章18~19節に書かれています。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます
聖書は口先だけでなく誠実と行いをもって愛し合おうと勧めます。
しかし思いを伝えるのに言葉が大事であることについて私は思います。わたしは主人に「私を愛していますか」とききますと、主人はあれこれと他の言葉で弁解します。一言「愛している」と言えばよいのに。
男性は言葉より行いを重視する傾向があり、話さないことが美徳である考える傾向がありますね。最近の若者は言葉で言ってくれないと分からないと考える人が多くなってきたようです。言葉で表すと言うことも必要であります。言葉と行いで誠実に人を愛しましょう。
愛する皆さん。主イエスは望んでおられます。主イエスとともに信仰と行いに励み、神様の愛をあらわすために信仰と行いが共に相働いて豊かな愛の実を結ぶことを願っております。(おわり)
2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
聖書:ルカによる福音書4章16節~30節
【ナザレで受け入れられない】
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教要約 文責近藤)
【主の恵みの年を告げる】
前回の復習ですが、主が生まれ故郷ナザレに帰られ会堂で説教された時、主イエスは旧約聖書のイザヤ書61章1節2節の言葉を朗読されて、
18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの預言は「今日、あなた方が耳にしたとき実現した」と言われたのです。記念すべきこのことは旧約聖書全体を要約した救い主到来の預言が実現したとの宣言です。
【ナザレの人びとの主に対する態度】
ナザレの人々はこの主イエスの語った説教に感嘆し、これを褒めました(22節)が、実はその後の反応を見ると、中身はそうではなかったことが分かります。言うことは立派だが、今語っているこの男は一体何者だと言うわけです。名門に生まれたのでもなく我々はこの男を生まれた時からその素性もよく知っているではないかと。
主が語られる言葉に驚いたが、ナザレの人々はイエスの人間性に、ヨセフの息子に、つまずいたのではなく、語られる恵みのみ言葉につまずいたのです。イエスが故郷に錦を飾るように語られたのであれば人々の反応も違ったかもしれません。
人々の気に入られるように語ったならばイエスは故郷では敬われたかもしれませんが、ナザレの人々の反応はこの主イエスの言葉に驚きながらも、つまずいたのであります。
これは反面教師としても我々が御言葉を語る時に、土地の人々は大変冷たくこれに対応いたします。世間話ならば喜んで聞くかもしれませんが人々はこのように御言葉に対してはその真意を認めないのであります。
主イエスでさえそのようにあしらわれ批判されたのでありますから、まして私たちはそういう冷笑を覚悟をしなければならない。
【御言葉は決して損なわれない】
マタイ福音書によりますと、主イエスはもっとひどく扱われております。そこではイエス様はヨセフの息子と言われず、マリアの息子と言われました。それはどういう意味かというとマリアはまだ結婚していないのに子供が生まれたのでありますから、勿論聖霊によって身ごもったのですが、イエスは父なし子と故郷の人々は言うのであります。それは不倫の子供のように蔑まされたかもしれません。神の言葉の語り手は、主イエスでさえこのように批判されたのですから、普通の説教者はこういう批判は覚悟すべきですが、覚えなくてはならない事は、神の言葉は決して損なわれない、御言葉は生きているということです。今日は御言葉に対する私たちの態度について学びましょう。
ナザレの人々は主イエスに対する親しさ気安さがあったのです。これ自体は悪いことではありませんが、悪く作用するとイエスの教えを不要にする危険性がありました。それで主は言われた、
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
【預言者は自分の故郷では歓迎されない】
私事でありますが、牧師になって久しぶりに故郷の信州佐久に帰ると同級生たちが集まってくれます。しかしその時言われます、「お前はどうしてクリスチャンになった。どうして牧師になったか」と。決して尊敬はされません。特に親しい人々がそうであります。
主はそれを見抜いておられます。
24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
ナザレの人々は主がガリラヤのカファルナウムでした評判のそのしるし、奇跡に関心がありました。カファルナウムでしたことを郷里のナザレでもしてくれと彼らは神の言葉、恵みの言葉よりも奇跡に興味があった。
こう言ったのは親しさから来る特権意識であったかもしれません。が主イエスにすればしるし(奇跡)を求めるナザレの人々の態度には、宣教の初めに荒野で悪魔の試みにあった時のことを思い起されたに違いありません。勿論、主イエスはしるしのみを行われたのではありません、必ず恵みの御言葉を語られたのです。主はこう言われます、
25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
荒れ野で空腹を覚えられた主イエス様に悪魔は「お前が神の子なら石をパンに変えたらどうだ」、
また「お前が神の子なら神殿の上から飛び降りたらどうだ」と悪魔は主を試みました。
ルカによる福音書4章「9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
この悪魔と同じ試みをナザレの人々は主に要求したのであります。
主が言われた、19節「 主の恵みの年を告げるためである」という言葉を信ぜず、また24節で「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言われ、主の恵みを告げる言葉を語られても喜ばないという態度を「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と諺で言われ、ここに二つの旧約の聖書の例を根拠に語られたのであります。
【預言者エリアとサレプタのやもめ】
最初の引用は預言者エリア、彼はイスラエル最大の予言者でありますが、その地域が3年半の飢饉にあった時にサレプタのやもめ、それは異邦人に遣わされたのであります。
列王記上17章の8節から16節の御言葉にその事は書かれておりますが、エリアはやもめに対して「私の為に小麦粉を練ってパンつくり食べさせよ」と受け入れがたい要求を語ったのです。やもめは「最後の少しの小麦粉を取っているが、それは死ぬ前に息子に食べさせるため」と言いました。しかしエリヤの言うままにエリヤにパンを作って食べさせたのであります。そしでエリアは食べ、またそのやもめと子どもも食物に不足することなく甕の粉は尽きなかったのであります。
【ライ病になったナアマン将軍】
またもう一つの例はナアマンというシリアの将軍がライ病に罹りましたが、その時そのナアマンのところで召し使われていたユダヤ人の少女から預言者エリシャのところに行けば癒されると言われ、エリシャのもとに赴きました。預言者は彼に七度ヨルダン川の水で身を洗えば癒されると言いました。ナアマンは「何でそんな汚い水で洗わなければならないか、故郷にはもっときれいな水がある」と始めはそれを拒否しましたけれども、彼の家来にたしなめられ、「その川で洗っても何の損はないでしょう」と言うことで、七度ヨルダン川に浸かったところ、ライ病は癒されたのであります。列王記下5章9節から17節に書かれてあります。
【イスラエルと異邦人の救い】
主がこの有名な旧約の二つ例を語られたのは、異邦人の街であるカファルナウムの町で行われた奇跡をナザレの町で行うことを故郷のナザレ人びとは期待したわけですが、それが如何に的外れな要求であったかを教えようとされたのであります。
あえて御言葉に従った人は祝福されたということを覚えさせられるために、始祖アブラハムが召されたとき創世記12章「地上の諸国民はあなたによって祝福を受ける」と恵みがイスラエルの民に与えられ、アブラハムは祝福の源になりましたが、神様の恵みの言葉は時代が変わってもイスラエルに与えられ、その祝福と命の約束は変わりなかったことをナザレの人々は知るべきであったのです。
エリヤの時も、エリシャの時も、たった一人の異邦人の救いのために恵みの言葉で宣教された歴史があるではないかと主イエスは言われ、カファルナウムで恵みの業をなしたのも同じ理由からだと言われるのです。
主イエスはルカ福音書4章14、15節に、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」
とありますように、どこに行っても、その恵みの業は恵みの言葉の宣教によってなされました。
しかし自分が30年間育てられたナザレの町の人々に、同じ恵みの言葉を語っても歓迎されない、受け入れられないという辛さを主は覚えられただろうと思います。
【神の自由、神の主権】
この二つの例にはもう一つの意味があります。神の自由、神の主権性をこの二つの例で教えようとされたのです。
預言者エリヤが神の民イスラエルにも多くのやもめがいたのにただ異邦人のやもめに遣わされたのはどうしたわけですか。エリアの気まぐれだったのでしょうか。そうではありません。
またエリシャがライ病人のナアマンに遣わされたのは、どうしたわけですか。多くのライ病人がイスラエルにも沢山いたわけですが、異邦人のシリア軍人ナアマンに遣わされた、その意味は何かということを主は問われたと思います。
イエスは神の恵みの言葉が語られるのは、神の自由と主権から為されるのだと、それを陶器師の譬えをもって語られます。陶器師は同じ土から一方貴いものに、他方をそうでないものに作るという譬えを持って語られましたが、恵みにおいて御言葉が語られる時、それは主権的に語られ、人々はただそれを歓迎すべきであるということを強調されております。
私たちは神様の御心をすべては知りえませんが、私たちが知るべき神様の救いの御旨は聖書を通してのみ知ることができるのです。それをないがしろにする愚かさを主は言われます。天と地を結ぶのは御言葉です。
【結び:主の中央突破】
結の言葉として28節から30節の言葉が語られます。
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
主イエスは神御自身の栄光を現わすために御言葉は異邦人にも伝えられるべきと語られたのですが、それに憤慨したナザレの人々が彼を崖から突き落とそうとした。その時にも、彼らの中央を突破されたのであります。
この主のお姿は何を示しているでしょうか。それは神様の栄光、神の言葉の尊さを教えておられるのであります。
故郷の人々によってなされたその仕打ちは、まさに荒れ野の悪魔の試みと同じであり、「お前が神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」と言うその試みに対比をいたします。しかしだれも主の中央突破を妨げる者はなかったのであります。(おわり)
2013年9月8日説教 「主に結ばれて生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)
新約聖書
テサロニケの信徒への手紙一3章
6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。
7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。
8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
10 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
(説教要約 文責近藤)
【パウロの喜び】
今朝はテサロニケの信徒への手紙一の3章の6節から10節の御言葉からパウロの喜びについて語りたいと思います。
第二次伝道旅行でパウロはテサロニケの教会を開拓伝道いたしました。
パウロはユダヤ人の迫害により今は離れておりましてもテサロニケの教会のことをいつも思い、いつも心配しておりました。そして、いつも彼らに会いたいと思い、訪問することを願いましたが、テサロニケの信徒への手紙一の2章18節に書かれてありますようにサタンによりその道は妨げられたと言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章
18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
【テモテの派遣と報告】
テサロニケの信徒への手紙一3章
5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
パウロの代わりに同労者のテモテがテサロニケの教会を訪問することになりました。そしてその報告をコリントに居るパウロに伝えたのであります。
それは「今帰ってきて」と、3章6節「6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」。とありますようにその報告はパウロを喜ばせました。
【信仰と愛】
信仰とは神全体に対するその態度を表し、神を知ること、神を愛すること、神を信頼すること、神に従うことであります。
テサロニケの教会はユダヤ人のみならずギリシャ人から迫害があったり、いろんな困難、苦難がありましたが信仰に固く立っていました。
信仰が神に対する態度であると言いましたように、愛は人に対する態度であります。その信仰によって神に、愛によってテサロニケの教会の信徒同志は強く結ばれていたからです。
聖書は信仰と愛は切り離せないと教えています。パウロはガラテヤの信徒への手紙にありますように主イエスに結ばれていれば神への信仰と人への愛に生きるのであります。
ガラテヤの信徒への手紙 5章6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
主イエスもまた神と隣人を愛することを最大の戒めと教えられました。
テサロニケの信徒は艱難の中でキリスト者の第一の義務を果たし、これを聞いてパウロは喜びに満たされました。それはテサロニケ教会の信徒自身の努力ではなく、神様の導きであったからであります。
【うれしい知らせ】
6節「うれしい知らせ」と書いてあります。それは通常「福音」のことを言います。しかしここでは福音と直接関係のない言葉として唯一用いられている箇所ですが、そのテサロニケ教会の信徒が困難や忍耐の中にあっても信仰に固く立っているとのテモテの報告の中に、パウロはその背後にある神の恵みの御手を見たのであります。
テモテの報告は「うれしい知らせ」で福音の一部でありましたが故に、パウロは神の福音として聞きました。
神の働きが無ければテサロニケの教会はこのように愛によって結ばれていなかったのであります。パウロはここに神の御業を見たのであります。また神の救い関わる御業をイエス・キリストの福音として聞いたのであります。
さらに2つのことをパウロは語っています。
その一つはテサロニケの教会はパウロに好意を持って見ていたということです。当時、中傷やごまかしと言った悪意に満ちた宣伝がパウロに対してなされましたが、テサロニケの信徒は、そう言う噂に惑わされず、パウロをあたたかい愛を持って受け止めていたことが分かります。2章3節で、パウロ自身も、こう言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章「3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」。
もう一つ、テサロニケの信徒はパウロにまた会いたがっているということも書かれてあります。6節に「、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」、しきりに再会したいとの思いは、一方通行ではなく、それは相互的な交わりの関係であったことがわかります。単に懐かしい人間的感情といったようなものでなく、パウロから神の言葉を学び霊的指導を受けた彼らは、信仰の養いのため霊的父に会いたい、そういう変わらない想いでパウロに会いたがっていたのです。
【教会と伝道者の苦難】
このような報告を受けたパウロは、「7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。
7節でパウロは率直に励まされた、慰められたとも訳せるが、言っております。
テサロニケの信徒への手紙一3章5節「5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。
「誘惑があった」と書かれているように、パウロの第一の関心はテサロニケの信徒の信仰でした。自らが奉仕した教会が信仰に固く立って主に結ばれているということを聞く事は、パウロの励まし、慰めでありました。パウロ自身、7節にあるように困難苦難の中にあったのですが、それが具体的に何かは分かっておりませんが、いずれにせよパウロは常にその困難と苦難の中にあったのでありますが、それは御言葉の奉仕者にはつきもののことで、伝道者にとってはいつもそのような困難や迫害があります。そのような時、伝道者にとっていちばんの励ましと慰めは信徒が信仰に堅く立っている、そして信仰に強められているという事であります。それがなければ伝道所は苦境に立たされてしまいます。
【しっかりと立ちなさい】
パウロはその思いを8節に語り直している、「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」、とかれらの信仰が主にしっかりと結ばれていること、直訳すれば「主にあって固く立っている」という不動の姿を見たのです。不動の反対は揺れ動くことです。信仰が揺れ動くということ、信仰は自分の力で立っていることはきません、揺れ動くという事は自分の内に堅固さ、確かさかないわけです。自分の信心が頼りになるのではない。宗教改革者カルヴィインは言います、信仰自体は空っぽの器である。大切なことは主に結ばれる時、堅固な信仰になるのであると。
イエス・キリストとの関係に集中し固く立つ事は私たちのあり方を決定します。
パウロは他の多くの手紙でこのように「しっかりと立ちなさい」と言っております。
コリントの信徒への手紙一 16章13「 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」。
ガラテヤの信徒への手紙5章「1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。
フィリピの信徒への手紙4章「1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」。
【今生きている】
パウロはテサロニケの信徒が信仰に固く立って生きていることに大きな励ましを受けました。そして8節「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と「今生きている」と言うことができました。
パウロはテモテの報告で彼の命が生き生きと回復したと言っております。パウロは命をかけて福音の使命に生きてきましたが、筆舌しがたい
生涯自分が建てた教会のためにパウロは命を捧げたのであれば、教会の信仰こそがパウロの命でありました。
テサロニケの信徒たちの信仰を聞いてパウロは主にあって生きている確信と喜びを感じたのです。
教会の信徒とパウロの命は信仰で結び付いておりました。これがパウロの実感であったと思います。伝道者パウロを生かしておりました教会に対する思いのゆえに、テサロニケの教会が主に結ばれている事にパウロは教会の創設者として喜びに満たされたのであります。
9節「9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」。
9節にパウロの感謝の大きさを語ります。人間的にはテサロニケの信徒に感謝を捧げることや、パウロは自分自身を誇ること出来ましたが、パウロは神の御業以外に栄光と感謝を捧げることをせず、その一切の労苦を神に帰し神に感謝したのであります。
【パウロの祈り】
ただただ神の大能のみ業を神に感謝し、ここに祈りが生み出されました。
10節、「 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と。パウロは二つのことを祈りました。
その祈りの第一は、顔と頭を合わせて再会すること、テサロニケ教会の信徒たちと直接交わりたいという思いであり、祈りであります。
二番目の祈りはテサロニケの教会が、完全であったわけでありません、未だ弱さもあり信仰が欠けているところがありました。それを補いたいとパウロは祈ったのです。
この二つの視点は大事であります。
現在の教会の姿は過去から現在に至る視点であります。それは過去から現在に至る神の恵みと愛に感謝する事ですが、もう一つの視点は未来からの視点であります。すなわち終末からの視点として、完成された教会に向かって前進するという視点から見るなら現在の教会の弱さや欠けも見えてきます。
【二つの視点】
将来の完成された教会という視点からみると、現状はすべてがマイナスになります。これだけを見ると感謝は起こりません。現状批判が互いに裁き会うことになります。もう一つの最初の視点、これまで与えられた現在の状態を感謝して受け取る。そしてここに止まらないで聖書の教えるあるべき姿に前進すること、完成に向かって前進することが大切です。
教会のみでなくクリスチャン一人一人についても天の御国を目指して信仰生活を一歩一歩前身することに、これは当てはまることであります。
フィリピの信徒への手紙3「13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
「後のものを忘れ前なる目標を目指し賞を得るために走る」と言うパウロは、いずれにせよ、到達した点からさらに前進を目指しております。私たちは教会に対し、他者に対し、自分自身に対して、この視点を持つことが大切であります。現状を見てさらにそこに留まらず前進し励ましあって欠けを補い会うことが大切であります。そこでこそ教会の交わり、前身があります。
【牧師と信徒の関係】
最後に申します。今日の箇所はパウロとテサロニケの信者の関係が記されてされております。それは伝道者と教会の健全な関係について言います。パウロの最大の関心は教会が主に結ばれていること、すなわちテサロニケ教会の信徒の生ける信仰によってパウロは励まされまた生かされているということです。
同様に牧師は信徒の信仰に大きく影響をしますが、同時に信徒の生ける信仰によって励まされていると言うことです。これが教会です。これは信徒同士の関係でも同じでありますが共に励まし、また励まされる。共に慰め、慰められるという関係こそが伝道者と信徒の健全な関係であります。これは本当に幸いなことであります。(おわり)
2013年09月08日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
2013年9月1日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師
2013年9月1日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師
聖書:創世記1章25-31節
25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
(説教要約 文責近藤)
【人の生きる主な目的は何か】
クリスチャンとして私たちが生涯を通して為すべき一つの事は何ですか。
それは神を知ることではないでしょうか。礼拝を通して聖書を読むこと、祈ることを通して神を悟る事では無いかと思いすが事は簡単なことではありません。目に見える人間の親についても十分に知り尽くすことが難しいわけですが、まして霊なる神様について暗闇にいる人間は知ることはなおさらです。
【盲人と象】
限りある人間が目に見えない神について知ることは非常に難しいことです。
目の見えない3人が象を触って言いました。はじめの人はこれは柱ですと鼻を触って言いました。次の人は、これは壁であると、その腹をさわって言いました。3人目の人は天井だと象の背中を触って言いました。
すべての人は神を知っていると思っておりますが人は本当は何も分かりません。私たちは神の御前に立つ時まで神のことを完全に知る事は出来ません。しかし人は礼拝で祈り、聖書を読む事によって聖霊の助けによって神様を完全ではないけれども知ることができるのであります。
【神様はどういうお方ですか】
今日そのひとつ神様はどういうお方ですかという趣旨のことを語りたいと思います。
【その1、創造主】
神様は創造主です。創世記1章1節に「始めに神は天と地とを創造された」と五つの単語で御自身を簡単に語っておられます。「初めに、神は、天と、地と、創造された」と単語を知っても、この世の人はだれもこの五つの意味を一生かかっても完全に知る事は出来ません。
【罪人は創造主を知りえない】
神について罪人である人間は完全に神を知る事は出来ません。
この世に降られたイエス・キリストは肉体をとって人となり、罪びとの贖いとなられましたが、それでも神の御心を知るために謙って熱心に祈られました。イエス様でさえこのように祈られたわけです。まして罪のある人間は神様の御心を計り知る事はできません。また天と地の大きさを測る人はありません。200億光年離れた星を最新の観測機器では観測できますが、これは全体ではなく天と地のほんの一部です。
【愚か者は創造の秘密を知らない】
最後に創造の秘密を知る人はこの世にいるでしょうか。人は自分の体を自由に動かせますが、髪の毛一本も人は支配できません。私も白髪が生えたきました。しかし自分で白髪が生えるのを止めることも出来ません。医学が進歩しても人は自分の骨をまた自分の血液を作る事は出来ません。創造の秘密を知らないからです。創世記1章1節は人間の知恵では神の天地創造の秘密を知りえない領域を語ります。これは純粋に信仰の領域であると、このことを信じられない人は、偶然の存在として宇宙や人間の存在を見ていますが、そして自分の好きなように行動しますが、それは愚かなことです。
韓国のある医者の話ですが自分の健康に自信を持っていましたが、ある時検診でガンとわかりました。同僚の医者は手術をしましたが、ガン細胞はすでに全身に広がっており、どうしようもありません。彼は数週間後に亡くなりました。
人間は自分が自分の主人になるにはあまりにも小さな存在です。私たちは神が創造主である事を知り、聖書は被造物に対する使用説明書だと言うことが分からなければなりません。
この世の物はそれを造った会社があります。例えばここにマイクがありますが、マイクを作った会社の使用説明書によって、このマイクを正しく扱うことができます。だれもその使用説明書を疑う人はいません。
神が創造主であると信じる人は、使用説明書である聖書を疑わないで従うと高価な自分の命を正しく育てることができます。
聖書と言う使用説明書を通して人は人間の命を作られた神様と神の目的を知り、そしてその説明書である聖書を通して高価な自分の命を正しく育てることができるのであります。
【その2、神は男と女を創造された】
二番目は神様は父性と母性を持っておられるということです。創世記1章27節をいっしょに読みましょう。
創世記1章27「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。
多くの人には神さまは男性のように思われますが、それは全てではありません。ここ創世記1章で神は男と女を創造されたのです。神は確かに父性の特性を備えておられます。神はその大きな父性を現されました。
それは出エジプト記では紅海を開いて、イスラエル民族を渡らせました。
また18万5,000人のアッシリアのセナケリブの軍隊を滅ぼされました。神様は父性の強さを表しますが、母親の繊細さや柔らかさが足りません。真の強さは両性を兼ね備えていると思います。
【母親の愛】
子供が高熱を出すとき母親は看病ができますが、そして母親は子供の泣く意味も分もわかりますが、父親はなぜ泣いているかその意味がわかりません。母親の愛は父にないものです。私たちの神は父性とともに母性を備えておられる事実はわたしたちに大きな慰めになります。
詩編121篇の3節、4節を見てください。
「3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」。
もう一つイザヤ書49章15節を読んでください。
イザヤ書49章15 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」。
この御言葉は神の母性の証拠であります。私たちの神様は母性を備えた方であるということは私たちに大きな慰めになりますね。
【イ・ジェチョル先生の思い出】
韓国の有名な牧師イ・ジェチョル先生は私が尊敬する牧師ですが、朝鮮戦争の直後、母親の愛について証しております。彼が5歳の時、兄は軍隊で軍人でした。そしてその兄を見舞いに行った時のことです。行は軍用車で行きましたが帰りは汽車で帰らなければなりませんでした。それは寒く-20度の気温でした。汽車は古く、吹きさらしの列車でありました。1番辛かったのは寒さで足が凍り付いたことです。私は冷たさに泣きました。母は私に自分の靴下を脱いで履かせました。そして私は暖かくなりましたが、ソウル駅に着いた時、母親を見るとその足は青く凍傷になっていました。イ・ジェチョル牧師と一緒にいたのが母でなく父親だったら「男なら我慢しろ」というでしょう。私は7年間海兵隊で働きましたので、私なら「立て、走ってみろ、温まるから」と言ったでしょう。しかし母親は自分の命のことを顧みません。
神はこのような母性を備えておられ、人間に永遠の命を与えるために御子を犠牲にしてくださった。このように嵐の世を生きるときに私たちの生きる力の源になって下さったのは神の母性のお蔭です。
母性は神の最高のプレゼントで、それは優しくあたたかく、繊細な愛であります。
神は父性と母性で私たちを愛し守り祝福してくださいます。神がともにおられれば私たちは幸せになれない事はありません。
【その3、神様は祝福されるお方】
神様はどのようなお方ですか。その三番目は神様は祝福されるお方であるということです。
創世記1章27~28節を読みましょう。
創世記1章
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
また5章1節~2節を読みましょう
世記5章
1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、2、 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
何事も肝心なのは始めが大切だということです。それは後に続くことを規制します。
神は人を創造して初めにされた事はなんでしょうか。それはすぐに作られた人を祝福されたことです。ところで神の祝福とはなんでしょうか。
神様の祝福とは一言でいうと、被造物に対するアフターサービスであります。高価な物にはちゃんとしたアフターサービスがあるのでその製品は確かであります。アフターサービスのない製品には信頼がありません。人間は神のアフターサービスがなければ人間らしくなれません、凶器になりかわります。
創世記5章2節
「男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」。
ここで注意すべきは人は神のご利益のみを求めてはなりません。神でなく祝福のみを求めるのは偶像礼拝者であります。偶像は人の心を破壊する凶器であります。神は御自身の栄光のために人を創造されました。私たちの求むべきは祝福の源である神様です。
今日神様について三つのことを知りましたが、これは神様の一部にしか過ぎません。
神様を知るのは知らない人に神を知る助けとなるためです。
その為に神様を詳しく知る必要があります。私ももっともっと神様について学び神を知らない人に神様をわかりやすく伝えたいと思います。そして御前に美しいクリスチャンでありたいのです。(おわり)