2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)

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20138.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)

聖書:ローマの信徒への手紙1

16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

説教要約(文責近藤)

 

【わたしは福音を恥としない】

使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。西谷は因習の強いところだと思いますが、そのような土地で「福音を恥としない」とは、クリスチャンとして福音に生きることは恥が多いことだと言うことでしょうか。

 

今日はこの福音とは何かを考えてみたいと思います。

 

今日のローマの信徒への手紙の少し前のところ一章2に「この福音は、神が既に聖の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです」と書かれています。

 

この福音とは御子に関するものであると分かります。聖書には4つの福音書が書かれていますが、イエス様の生涯の物語だけが福音でしょうか。

 

【異邦人を信仰による従順へと導く】

使徒パウロは、この福音は「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました(ローマの信徒への手紙1章5)」と語ります。異邦人を信仰による従順へと導くためということも福音は含んでいます。

 

すべての異邦人を信仰による従順へと導くため愛を受け使徒とされたとパウロは言ってります。

 

この異邦人の中にイエス・キリストのものとなるようにされたあなた方もいるのですと書かれたように、西谷に居る私たちも同じく異邦人であります。福音にはこのことも含まれると思います。すなわち異邦人を信仰による従順へと導くこと、それはイエス・キリストのものとなることです。

 

【福音は神の力である】

「福音は信じるものに救いをもたらす神の力」と言われます。福音は力を持っていると

いうことが感じられると思います。

 

パウロはコリントの信徒への手紙一18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とよく似た言葉を語ります。

 

「福音」とこの「十字架の言葉」とはどう違うでしょうか。

福音が十字架の言葉となって私たち救われる者には神の力だと言います。

 

【御子の御生涯】

福音とは十字架と復活だと思います。

主イエスの御生涯を具体的に思い浮かべてみたいのですが御子は正しいお方であるにもかかわらず、すべての人間の罪のために身代わりとなられた、身代りとなって十字架の辱めを、またその肉の苦しみを受けられました。正しい人がこのような理由なき苦難に遭わせられたら私たち人間はどう反応するでしょうか。

 

十字架は悔しい恥ずかしいことです。御子は正しいお方であるにもかかわらずその辱めを受けてくださった。もし自分がそうだったらそういう生き方に耐えられるでしょうか。

 

しかしパウロはそれを、すなわち福音を恥としないと言いました。軽々しく福音を恥としないとは言えないと思うのですがパウロはそう言い切ります。主イエスは死んで終わられない。復活され今も生きておられる事をパウロは知っていたのです。それでパウロは主の生き方を恥としない、主の死の迎え方を恥としないと言い得たのです。

 

福音とはイエスの生き方に倣うことです。パウロはローマの信徒への手紙6章で5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と言います。

 

私たちが自分の十字架を背負って、敵を許すことのできた主イエスに従うとき主の復活にまたその救いにあやかれることができるのです。

主が示された生き方が福音です。ここに神の義が啓示されて神が正しいとされた生き方があります。

 

主イエスの中に神の義が啓示されています。それが神が正しいとされた生き方です。主の死の迎え方を神は正しいとされました。

 

【信仰を通して実現される神の義】

ローマの信徒への手紙117 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。

 

「信仰を通して実現された」と書かれていることは誤解されやすいですね。信仰は私たちのものと言えないのです。神を私たちが自分の力で信じたとは言えないわけです。信仰は私から生まれるものではなく神様が私たちに信仰を与えて保ってくださるからです。

 

ギリシャ語聖書から「信仰」という言葉を見ますとこれは「アーメン」と書かれています。「アーメン」とは真実ですとか、その通りですという言葉でいつも祈りの終わりに使うことばであります。

信仰は神様の真実から神様の真実へ、神様の確かさから神様の確かさに至るのです。信仰は徹頭徹尾神さまの確かさから生まれる出るものです。神が本当におられるから神は確かなものとされると読めるものですね。私たちの中には正しさは全くありません。主を信じても罪が残ります。自分を捨て、神が救いを達成し、全うさせてくださるという生き方がここに書かれています。

 

【義人は信仰によって生きる】

最後に「正しいものは信仰によって生きる」ということについて考えましょう。

これは旧約聖書のハバクク書2章からの引用です。

 

ハバクク書24 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 

このハバクク書1章の始めには2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない」とあり、ここで預言者は「私が助けを求めるのにあなたは聞いてくださらなかった。神は正しい人を助けてくれない」と嘆くのです。

 

【たとえ遅くなっても待っておれ】

ハバクク書234節には3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。

 

ここでは「たとえ遅くなっても待っておれ」が神の答えです。「しかし神に従う人は信仰によって生きる」。すぐに救いは来ない。私たち人間には正しい人はいないのです。神によって神の救いを待って生きる人が正しいとされる人です。

 

今も不法のはびこる世の中です。早く救いがきて欲しいと願います。しかし私たちには、この世に生きる生き方として主イエスの生き方が示されました。忍耐をもって復活の日を待つ、救いを待つ生き方を福音といいます。福音とはこの主の生き方を恥としないと言う生き方です。これが神の力です。神が救いを与えてくださる、永遠の命を待つ生き方、これが神の力です。主イエスの生き方は、人間的には悔しい耐えられないと思われる。私たちはこの生き方を恥として自分の正しさを主張するのです。

 

しかしパウロは主から与えられた生き方を多くの人に伝えたいと思い数々の手紙を書きました。十字架の生き方とその先に復活が待っている生き方を伝えたフィリピの信徒への手紙399 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」

 

フィリピの信徒への手紙317 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。

 

パウロが「今また涙ながらに」と言っていますが、キリストの十字架に敵対する生き方にすぐに戻らないようにとパウロは勧めます。そしてパウロに倣う生き方をを習って、すなわちキリストに倣ってほしい。福音を恥としない生き方を味わってほしいと思います。初めにパウロが言った「私は福音を恥としない」とは簡単な言葉ではないと思うんですがパウロがまだ見ぬローマの信徒たちに伝えたように西谷の人たちにも解ってもらえるようこの伝道を続けたいと思います (終わり)。

2013年08月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

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