2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
聖書:新約聖書ルカによる福音書4章
14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(説教要約 文責近藤)
【主イエスの荒野の誘惑】
今日の御言葉のルカ福音書4章14節から21節の前、13節までは、主イエスが公生涯に入られる前のことでありますが、荒野に導かれて大き試練、誘惑を悪魔から受けられたことが書かれています。
誘惑は救い主としてのテストでもありました。救い主の使命は、アダムの失敗により罪と悲惨の中に堕落した人類を救うために、私たち人類に変わって神に完全なの服従を果たすか否かのテストでありました。
悪魔は主イエスが救い主としての使命を達成することをを邪魔すること、その使命を失敗させるため誘惑しました。
その試練テストの内容は
1、 人間として何を基準に置くか。
2、 人は何の為に人は生きるか。
3、 人はどのようにどう生きるか。
以上3つの点でイエスは誘惑をもって試されました。
そして主イエスは終始父なる神の言葉を基準として悪魔の試みに勝利されました。それは一重に聖霊に満たされ聖霊に頼り、神様の言葉に信頼して試練に耐えられたからです。私たちが聖霊に満たされるとは聖書に書かれた神の言葉によって生きることだと学ばされます。
主は私たちの為にその生き方を示されました。いかに聖霊の導きによって生きるか、イエスは神の子だから当然と考えるのではなく、神として試練を受けられたのではなく、主は人間としていかにその試練と戦われたか、そして試練に打ち勝たれたかということを思い起こすべきであります。
新約聖書フィリピの信徒への手紙2章6~9節を見てください、
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。
ここで使徒パウロは主は人間と同じ姿になって試練に立たされた、それは私たちの為でありますが、その試練に立たされた主イエスの姿に私たちは倣うことができると言います。
私たちは罪ある人間ですが聖霊と聖書に対する姿勢では私たちと主イエスと同じ立場であります。
信仰の試練に勝利するためには主と同じく聖霊の導きに頼り頼み、御言葉の確信に立つのです。
【"霊"の力に満ちて】
今日の御言葉の箇所、ルカによる福音書4章14節、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。」
主は聖霊に満たされて救いの事業を開始されたということが分かります。14節でガリラヤから宣教が始まり、主の評判が広まった、人々から尊敬を受けられたと書かれてあります。
ルカによる福音書4章15節、
「15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。
ルカによる福音書4章16節では
「16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。
主はナザレで育ったと書かれてあります。そしてそこではいつものように会堂に入った。それは安息日であったと言われております。
【ナザレの会堂で始められた福音宣教】
福音宣教はナザレの会堂で始められたのです。会堂は西谷伝道所も同じです。主は何時ものように会堂に入って話された。この会堂とはシナゴーゲとギリシャ語で言いますが、このシナゴーゲができたのは紀元前695年に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、その後また紀元前500年に南ユダ王国もバビロンに滅ぼされました。人々はバビロンに捕囚となりました、今のイラン・イラクあたりであります。捕囚地では神様によって定められた神殿礼拝ができず、もはやそこでは動物犠牲もできません。その代わりに神の言葉による礼拝、聖書朗読、その御言葉の解説といいますか、今でいう説教、そして詩編歌による讃美で神様を礼拝しました。捕囚後でも神礼拝がその会堂で続けられたわけです。紀元前400年代イスラエルはエルサレムに帰還を許され、神殿も再建されましたが、幸いなことでありますが、バビロンで始められた会堂での神礼拝は至る所で続けられました。そこでは御言葉による説教が捧げられました。主もまた幼い時から安息日には会堂で御言葉を学び礼拝を守られたのであります。そしてナザレの村で安息日の礼拝、御言葉の朗読、その学びが聖霊に導かれてて守られたのです。神礼拝のため、御言葉を学ぶために安息日がありました。
【預言者イザヤの巻物が渡され】
当時、会堂司が立てられておりまして、その都度、聖書朗読とその解説、説教ですね、それを手配しました。
ルカによる福音書4章17節、
「17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」。
17節、主イエスはその時、会堂司から巻物を渡されたのであります。立って聖書を朗読した、巻物の事はビブリオといいますね。ビブリオとはバイブル(聖書)の語源であり、その時渡されたものはイザヤの巻物でありました。巻物というのは羊のなめし皮か植物のパピルスで作られておりました。パピルスがペーパーの語源になります。
イエス様は17節「目に留まった」というのは、たまたまその言葉が行き当たりばったりに目に留まったと言うのではなく、イエス様は自分の読むべきイザヤ書61章の1節~2節の言葉を見つけて、読まれたわけです。
これは旧約聖書イザヤ書61章1~2節の言葉です。
1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め・・」
この御言葉は当に旧約聖書の中心的メッセージでありました。イスラエルの人々が待っていた事柄の成就のメッセージです。今日の説教についても同じで、それは「良き訪れ」であります。旧約と新約の聖書の中心的メッセージが恵みの年を告げる今日の御言葉であります。
旧約聖書は救い主の到来を預言し、旧新聖書の中心に救い主の到来があります。新約聖書は救い主イエス様の到来を証するためにあります。
その中心にイザヤ書61章の1節2節の言葉があるわけですが、もちろん聖書の一字一句は主を指している言葉ではありません。聖書には不信仰の歴史もあれば不倫も書かれており、悪魔の言葉さえも書かれております。ヨブ記に於いては3人の友人の言葉のように、偽りの言葉をもそこには記しております。けれども全ての言葉を通して主の恵みを証している、イエス・キリストを証ししているのが聖書であります。
主イエスを通して救いへと導く、主イエスを通して人類の罪が裁かれ、そして救いへと導くのが聖書であります。イスラエルがどんなに罪深くてもイエス様は残りの民を残して救われるのであります。ヨブ記にあるように友人の偽りの言葉さえ、友人の罪を許すために書かれています。それらすべての言葉はイエス・キリストを証するものであります。
旧約は律法の力を、新約はイエスが語った救いを書いているのではありません。
イエスが語った福音、18節以下の言葉「主の霊がわたしの上におられる」とは聖霊によって母マリヤからの出生、また洗礼の時、主の上に聖霊が鳩のように降られたと言う事実を語り、聖霊と共に主が居られることを知ります。
油そそがれた主の来臨の目的は、貧しい人に福音を告げ知らせることであります。
ルカ4章18節の言葉
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」、は、
旧約聖書イザヤ書61章
「1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」
の言葉です。
旧約時代の救いは捕囚の民の解放と言うこともありましたけれども、イザヤ書61章2節の
言葉「61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め」は新約の現在においては、人生のあらゆる苦悩に捕らわれている人、社会から阻害された人、恐怖や罪と死の中にいる人を解放する、自由にするために遣わされたということであります。
【目の見えない人に視力の回復を告げ】
目の見えない人というのは単に盲人のことではなくて霊的盲人のことを語っております。私たちもかってはそうでした。神もキリストも分からない。肉の目は見えても霊の目は見えない人、そのような私たちの霊的視力の回復を告げるためにイエス・キリストは遣わされたのです。
イザヤの預言は私には無関係という人は主観的にあっても客観的にはいないのです。主は恵みの年を全ての人に告げ知らされたのです。それは救い主の到来を告げることであります。
ルカによる福音書4章19「 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの言葉で結ばれたのは今や救い主を待ち望んでいた時代は終わったと言うことであります。
【今は恵みの時】
ルカによる福音書4章20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」。主は朗読を終えられると巻物を係りの者に返し、それから座って説教を開始されました。
ルカによる福音書4章21節の言葉
「4:21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
今日、救い主を待望んでいた時代は終わったということであります。
待ち望んでいた古い時代は終わり、新しい恵みの時代が始まったと主は宣言されました。
「今日」とは19節の恵みの年を指しています。「今日」という年とは1年、 2年と言う当時の事だけではなく、福音を通して与えられる世の終わりまでの全時代を通して、また全民族を含む全ての人に与えられる恵み豊かな時代であります。そのことに目を覚ましていなさいと言われます。
それに対して私たちはどう対応しているか。今は恵みの時と言うが今は誠に恵みの乏しい時代ではないか。ことに福音伝道の困難な時代ではないかと言うかもしれません。
現実に子供たちが教会に来ない。確かにそうかもしれません。しかしイエス様の時代と現代とは神の恵みは少しも変わらないのであります。ただ急速な時代の変化に、またこの世の有り様に翻弄され、世から乖離して、世の有り様に流されているのが教会でないかと思うわけであります。
世に流されて世と教会が乖離し二元化してはならないのであります。いま一度主の宣言に率直に立ち帰らないといけないと思うのであります。
教会信徒がこの御言葉にに立ち返るとき聖霊によって救いの恵みの年が来ているのです。急速な現代社会の変化に翻弄されることなく、乖離することなく、愛する人々に主を証しする、職場において学校において社会において私たちは福音を託され、恵みの年を告げ知らすことができるのであります。終
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