2013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)

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013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)

 

ヨハネの手紙一47~12

7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 

(説教要約 文責近藤)

23年にわたって伊丹教会で信仰を共にした兄弟姉妹とともに、また初めてお目にかかる方々と共に礼拝ができる喜びを神に感謝し、主にある交わりの幸いを、「ここに神がおられる」と言う教会形成を導いてくださった主の愛に感謝いたします。

 

【不法がはびこる時代】

主は御生涯の終わりごろに「悪がはびこる」と言われ、「多くの人の愛が冷える」と言われました。マタイによる福音書24章です。

2412 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。

 

今はその時です。多くの愛が冷えると言われその時です。人の命を極悪人が簡単に奪いとります。悪でないように殺されていく。その他の悪もはびこっています。このような時代の真っ只中にあって、キリストの愛の光が差し込んでいます。それはどこからでしょうか。教会から差し込んでくるのであります。私たち一人一人のクリスチャンは神からの愛を、愛の光を受けて照り輝いている。

 

【神の愛を映すキリスト者】

だからクリスチャンは愛することに尻込みすべきでありません。そうでなくキリストの愛を持って、もっともっとこの世と取り組んでいかなければなりません。この世の愛が冷えて行けば行くほど、私たちクリスチャンは世の光、地の塩となって、愛することに、神の愛を持って尻込みすることなく教会形成に取り組んでいかなければならないのであります。

 

ここに教会が建てられた目的があります。またこの西谷に教会が建てられたという事は、神はここに世の光となる灯台を建てられたと言うことであります。すでに幾年前から輝いているのです。

 

【愛を追い求めなさい】

主はコリントの信徒への手紙一141 節で「愛を追い求めなさい。」と言われます。

愛は追い求めるものです。それは祈りにおいて求めるものです。「主よどうぞ愛をください」と祈り求めることにより増し加えられていくものです。愛が乏しいと自覚するなら祈り求めましょう。互いに愛する愛を祈り求めましょう。求めることで増し加えられる。

 

恵みは感謝して受けるばかりですが、愛は神様から受ける事と神を愛することの両面があります。恵みと愛のバランスが必要です。

教会で恵みを感謝するとともに人を愛し神を愛する愛を増し加えてくださいと祈ることです。

その愛を持って人と神を愛する両面があります。

 

新約聖書は神の愛をアガペの愛と言います。アガペの愛を頂いて人を愛していきたいのです。

49 節をもう一度読みます。

9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とありますが、続いて「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」。「ここに」とは「どこに」でしょうか。それは主が遣わされたことです。

 

【永遠の命を生きる】

著者のヨハネは福音書も書きました。そこに答えがあります。ヨハネ福音書の316節に

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

ここに答えがあります。「神はその独り子を賜ったほどに世を愛したもうた。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。

 

【神は、独り子を世にお遣わされた】

今日のヨハネの手紙一49 節をもう一度読みます。

9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」

「生きるように」とは私たちが永遠に救われて生きるようになるためです。

 

教会では永遠の命とよく言いますか、それはイエス・キリストの持っている命です。主イエスを信じるとき、与えられる命です。その命は終わりの日に蘇る命です。神は新しい命を与えてくださった。それは、

ヨハネの手紙一410節「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。

ここには主の十字架と苦しみがいけにえとして書かれています。御子イエスが遣わされたと言うのは、聖霊の働きによって、マリアの子として生まれられたイエス・キリストが人間としての犠牲の御生涯を全うされたことです。

 

【神話ではない】

神の御子が世に遣わされて、人の罪の為に命を捨ててくださったということは神話ではありません。今は何でも神話で片付けてしまう時代です。神が人となるなんて事はとんでも無いと言う神話の時代です。しかし主イエス・キリストの十字架と復活は神話ではなく事実です。だから信じる時にあなたもイエス・キリストの永遠の命が与えられるのです。

 

【イエス・キリストの十字架】

神の御子なるお方が人となれ、罪なきものとして私たちの贖いとなってくださった。イエス・キリストが私の罪を代わって受けてくださった。それが十字架です。そして私たちに永遠の命を与えてくださった。

 

キリストはご自身の体と魂の贖い死によって私たちの罪を引き受けて下さったのです。

今、私の罪を赦して下さいと祈るなら全ての罪は許されます。

 

ガラテヤの信徒への手紙313節に13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」とあります。十字架の死は特別なものであり、神に呪われたものとして、私たちに代わって主は十字架に架けられた。

主は御自身を私たちの罪の身代金として捧げられたのであり、それゆえ主を信じるものは罪ののろいから解き放たれたのです。ここに神の愛が示されています。

 

これほどの愛がどこにしめされているか?歴史の中に、諸々の民族の中に、この神の愛を探しても、神の愛はイエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリストにこそ神の愛、身代わりの愛、犠牲的愛が示されています。わたしたちの罪を贖ってくださった愛です。

 

今、主に「罪を許してください」と祈るなら全ての罪は許されます。ここに神の愛が示されている。人類は一人の例外もなく滅びさるものです。それなのに私たちの中に救われる者がいるというのはどういうことでしょうか。救いが実際に行われているからです。世界中に救われるものが起こされている。

 

神の救いはイスラエル民族から始まったのでありますが、今や2000年を経てどの民族どの人種も主の十字架の贖いによって救われる時代が来たのです。諸々の民族の中に主の救いがあります。ここに神の愛があります。

神の愛を信じて喜ぶ人が世界中諸々の民族に起こされています。世界中の信じる者が神を証しています。

 

なぜ7節「互いに愛しあいましょう」と言われるのですか。

キリストがわたしたちを愛してくださったので、私たちも愛し合いましょうと呼びかけています。

さらに11節は次のポイントでありますが、第二のポイントとして11節「わたしたちも互いに愛しあうべきです」と強調されています。

キリストを信じるものは十字架の愛に包まれている人です。しかし失敗することもある。未だ神を見たものはいない。しかし愛し合うならそこに神は居られる。この30人の群れの中に、互いに愛し合う愛があるなら神がおられる。そして神を知ることが出来るのです。

 

【互いに愛し合うなら神を見る】

12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。

姿は見えなくても主イエスは「23人わが名によって集まるところ私もその中にいる」と言われました。さらに見ることさえできるとヨハネの手紙一412節に言われる、

 

【イエス・キリストを見る】

互いに愛し合うことは大事なことです。信者もその互いに愛し合うことによって神様を見るようになるでしょう。弟子のピリポが主に質問したことがあります「主よ。私たちに御父を見させてください。そうすれば信じることができるでしょう」。主は答えられました「私は見たものは父を見たのだ」と。

 

ヨハネによる福音書148 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」。

 

ヨハネによる福音書 646にも 「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と書かれています。

 

【聖書の中に】

今私たちは主イエス・キリストをどこで見るか。それを聖書の中で見るのです。「見る」ということはまた「分かる」という言葉に置き換えられます。聖書の中に描かれたイエス・キリストを見て、分かるのです。

 

私は中2の時、牧師から、罪と、十字架と、イエス・キリストによる救いを繰り返し繰り返し語られました。そして信仰告白に促されました。

神の言葉である聖書には鏡に映すようにイエス様が様が写されています。霊の目で私たちはイエスを見るのです。神は御子イエス・キリストによって示されます。

ヨハネ福音書の118節の言葉「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。この言葉は真実です。

 

神の愛の中にとどまることが大切です。だから11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。

神の愛に包まれることによって、私たちは人々をキリストに導くためにも、愛の冷えた時代にいる私たちの信仰の霊的成長のためにも、神の愛に留まるべきです、「互いに愛し合うべきです」と主は私たちを励まして、また豊かに愛してくださいます。(おわり)

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2013年08月18日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

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