2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
新約聖書
マルコによる福音書14章17~25節
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
(説教要約:文責近藤)
【マルコよる福音書から学ぶ聖餐式】
今日はマルコよる福音書に即して聖餐式について御言葉の解き明かしに集中します。
22節から最初の聖餐式は始まりますが、その前の18節から最後の晩餐が始まります。
【まさかわたしのことでは(あるまいか)】
マルコによる福音書14章:18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」
少し前のマルコによる福音書14章10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
この10節で「イエスを引き渡そうとして」と言われた同じ言葉が18節「裏切ろうとしている」と訳され、裏切ると言うほど強い言葉で書かれてはおりません。
このような不安なことを言われたのが最後の晩餐です。弟子たちは「まさか私のことではあるまいか」と思って心を痛めている。イスカリオテのユダに言われ言葉とは思わず、私のことではないかと、弟子たち一人一人に自分の不信仰に不安を持たせる言葉でありました。
このように自分の信仰を思って不安な弟子たちです。イスカリオテのユダではなく自分のことではないかと弟子たちに思わせるというのがマルコの福音書が他の福音書と違うところです。
18節「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」、弟子全員が同じ鉢にパンを浸して食べるのが当時の習慣です。神は裏切り者はユダだと、第三者すなわち他人事ではなく、弟子たちが自分のことではないかと思わされるのです。だから21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコによる福音書14:21)」
【最初の聖餐】
主が「人の子を裏切るものは不幸だ」と言われた言葉を、全員が自分がそう思われているという苦い思い、そういう苦い雰囲気の食事のなかで、22節以下で最初の聖餐がおこなわれた。
「22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」。23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書14:22~23)。」
「取りなさい。これはわたしの体である。」、「また杯を取り・・彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」と書かれてあります。次に24節で、これは契約であったと記されています。
24節「そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコによる福音書14:24)。
最初の聖餐において弟子たちを契約に与らされたのです。
【主従契約】
普通一般には契約とは対等なものですが聖餐式の契約はそうではありません。キリストと弟子たちは対等ではなく、一方的で、弟子たちの主体性はありません。受け身で弟子たちはパンと葡萄酒を受けました。
【揺るぎない契約】
この契約とはどんなものでしょうか。
25節「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:25)。
主イエスは神の国で新たに飲むまでは、決して再び葡萄酒を飲まないと約束されます。
葡萄酒のことをぶどうの実から作ったものとも言われますが、これは強調する言葉で、一滴もぶどう酒は飲まないという意味であります。神の国で飲むその日までは一滴も飲まない。こんな苦い杯ではなく神の国で祝杯としてもう一度の飲むときまで私は待っている。それまで一滴も葡萄酒を飲まないで待っていると言う一方的な契約であります。
この契約はこれから受ける聖餐式で信仰に不安をお持ちのあなた、また不幸で生まれなかった方が良いと言われ、また思わされる私たち全員に与えられているのであります。
あなたは不幸だと言われ、自分の不幸を直視し、静視させれられる。「生まれなかった方がよかった」と言うような事情の中にある者に、すなわち人生の不幸、現実の生活を直視して、そのあなたと神の国で飲みたいとキリストは招待してくださるのです。私たちは神の国で祝杯を挙げたいのだとの主イエスの招待を受けるのです。
こんな私が神の国に招待されている。私たちはキリストを振り払い、裏切りやすいものですが、主の聖餐に一方的に招待を受け聖餐に与る信仰の弱い者同士なのです。
こんな私が、揺るがない信仰の持ち主でない私が、主を手放し裏切るようなこのような弱い者でありますが、主が一方的にその様なものに神の国で共に祝杯をあげようと契約してくださるのです。
【弟子たちの不安】
19節で、「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(マルコによる福音書14:19)」とあります。
キリストを引き渡す、手放すのはわたしではあるまいか。この弟子たちの不安な予感が的中するのです。50節で「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」と書かれてあります。イエスを裏切ったのは皆です。ユダだけでなく皆が「生まれなかった方が良かった」と言われたと分かります。
マルコ福音書の中心はこのような皆を、あなたを、御国に待っている。御国で共に飲みたいのだと主は言われる。しかしそれまでは一滴も飲まないで待っていると言う約束です。これが聖餐の意味です。御国で共に飲む前に、あらかじめ契約を結んでくださったのが聖餐の意味です。
この契約は本当なのか確かめましょう。
15章の23節「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。(マルコによる福音書15:23)」
没薬の葡萄酒を飲ませようとしたがイエスは飲まれなかった。
また同じ36節に
「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。(マルコによる福音書15:36)」
海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けイエスに飲ませようとしたが飲まれなかったのです。
神は二度繰り返しキリストは約束を守って葡萄酒を飲まずに死なれたと書いてあります。
主を裏切った弟子たち皆に対してキリストは約束を命懸けで守ってくださった、これが他の福音書にない聖餐の意味であります。
【まとめ】
私たちは天下太平のように主イエスを信じるのではありません。私たちには尚「生まれなかった方が良かった」と言われる不幸が、一生消えないような不幸もありますが、私たち一人ひとりの不幸を直視させられるのは信仰生活はごまかしでは無い。何のためか。そのあなたを御国で待っている。洗礼を受ける事はこういう約束です。私たちは「ありがとう」と言うだけでいいのです。どうか洗礼を受けて共に聖餐式に与ってください。
現実にこれからも「生まれなかった方が良かった」と言われることが起こるかもしれません。本当に苦しい時にキリストを手放すユダになるかもしれません。信仰が揺るがされる時にもキリストの契約は決して揺るがない契約であります。私たちに弱さがあっても主の契約は揺るがない。私たちは全員この約束に与るのです。これが神を味方に付けた生き方であります。問題があっても、私の中になかった力を神からいただいて私たちは歩むことができるのです。どうか今日この聖餐に与れない方も次回は是非与ってください。(おわり)
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