2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
聖書:新約聖書ルカによる福音書4章
14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(説教要約 文責近藤)
【主イエスの荒野の誘惑】
今日の御言葉のルカ福音書4章14節から21節の前、13節までは、主イエスが公生涯に入られる前のことでありますが、荒野に導かれて大き試練、誘惑を悪魔から受けられたことが書かれています。
誘惑は救い主としてのテストでもありました。救い主の使命は、アダムの失敗により罪と悲惨の中に堕落した人類を救うために、私たち人類に変わって神に完全なの服従を果たすか否かのテストでありました。
悪魔は主イエスが救い主としての使命を達成することをを邪魔すること、その使命を失敗させるため誘惑しました。
その試練テストの内容は
1、 人間として何を基準に置くか。
2、 人は何の為に人は生きるか。
3、 人はどのようにどう生きるか。
以上3つの点でイエスは誘惑をもって試されました。
そして主イエスは終始父なる神の言葉を基準として悪魔の試みに勝利されました。それは一重に聖霊に満たされ聖霊に頼り、神様の言葉に信頼して試練に耐えられたからです。私たちが聖霊に満たされるとは聖書に書かれた神の言葉によって生きることだと学ばされます。
主は私たちの為にその生き方を示されました。いかに聖霊の導きによって生きるか、イエスは神の子だから当然と考えるのではなく、神として試練を受けられたのではなく、主は人間としていかにその試練と戦われたか、そして試練に打ち勝たれたかということを思い起こすべきであります。
新約聖書フィリピの信徒への手紙2章6~9節を見てください、
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。
ここで使徒パウロは主は人間と同じ姿になって試練に立たされた、それは私たちの為でありますが、その試練に立たされた主イエスの姿に私たちは倣うことができると言います。
私たちは罪ある人間ですが聖霊と聖書に対する姿勢では私たちと主イエスと同じ立場であります。
信仰の試練に勝利するためには主と同じく聖霊の導きに頼り頼み、御言葉の確信に立つのです。
【"霊"の力に満ちて】
今日の御言葉の箇所、ルカによる福音書4章14節、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。」
主は聖霊に満たされて救いの事業を開始されたということが分かります。14節でガリラヤから宣教が始まり、主の評判が広まった、人々から尊敬を受けられたと書かれてあります。
ルカによる福音書4章15節、
「15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。
ルカによる福音書4章16節では
「16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。
主はナザレで育ったと書かれてあります。そしてそこではいつものように会堂に入った。それは安息日であったと言われております。
【ナザレの会堂で始められた福音宣教】
福音宣教はナザレの会堂で始められたのです。会堂は西谷伝道所も同じです。主は何時ものように会堂に入って話された。この会堂とはシナゴーゲとギリシャ語で言いますが、このシナゴーゲができたのは紀元前695年に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、その後また紀元前500年に南ユダ王国もバビロンに滅ぼされました。人々はバビロンに捕囚となりました、今のイラン・イラクあたりであります。捕囚地では神様によって定められた神殿礼拝ができず、もはやそこでは動物犠牲もできません。その代わりに神の言葉による礼拝、聖書朗読、その御言葉の解説といいますか、今でいう説教、そして詩編歌による讃美で神様を礼拝しました。捕囚後でも神礼拝がその会堂で続けられたわけです。紀元前400年代イスラエルはエルサレムに帰還を許され、神殿も再建されましたが、幸いなことでありますが、バビロンで始められた会堂での神礼拝は至る所で続けられました。そこでは御言葉による説教が捧げられました。主もまた幼い時から安息日には会堂で御言葉を学び礼拝を守られたのであります。そしてナザレの村で安息日の礼拝、御言葉の朗読、その学びが聖霊に導かれてて守られたのです。神礼拝のため、御言葉を学ぶために安息日がありました。
【預言者イザヤの巻物が渡され】
当時、会堂司が立てられておりまして、その都度、聖書朗読とその解説、説教ですね、それを手配しました。
ルカによる福音書4章17節、
「17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」。
17節、主イエスはその時、会堂司から巻物を渡されたのであります。立って聖書を朗読した、巻物の事はビブリオといいますね。ビブリオとはバイブル(聖書)の語源であり、その時渡されたものはイザヤの巻物でありました。巻物というのは羊のなめし皮か植物のパピルスで作られておりました。パピルスがペーパーの語源になります。
イエス様は17節「目に留まった」というのは、たまたまその言葉が行き当たりばったりに目に留まったと言うのではなく、イエス様は自分の読むべきイザヤ書61章の1節~2節の言葉を見つけて、読まれたわけです。
これは旧約聖書イザヤ書61章1~2節の言葉です。
1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め・・」
この御言葉は当に旧約聖書の中心的メッセージでありました。イスラエルの人々が待っていた事柄の成就のメッセージです。今日の説教についても同じで、それは「良き訪れ」であります。旧約と新約の聖書の中心的メッセージが恵みの年を告げる今日の御言葉であります。
旧約聖書は救い主の到来を預言し、旧新聖書の中心に救い主の到来があります。新約聖書は救い主イエス様の到来を証するためにあります。
その中心にイザヤ書61章の1節2節の言葉があるわけですが、もちろん聖書の一字一句は主を指している言葉ではありません。聖書には不信仰の歴史もあれば不倫も書かれており、悪魔の言葉さえも書かれております。ヨブ記に於いては3人の友人の言葉のように、偽りの言葉をもそこには記しております。けれども全ての言葉を通して主の恵みを証している、イエス・キリストを証ししているのが聖書であります。
主イエスを通して救いへと導く、主イエスを通して人類の罪が裁かれ、そして救いへと導くのが聖書であります。イスラエルがどんなに罪深くてもイエス様は残りの民を残して救われるのであります。ヨブ記にあるように友人の偽りの言葉さえ、友人の罪を許すために書かれています。それらすべての言葉はイエス・キリストを証するものであります。
旧約は律法の力を、新約はイエスが語った救いを書いているのではありません。
イエスが語った福音、18節以下の言葉「主の霊がわたしの上におられる」とは聖霊によって母マリヤからの出生、また洗礼の時、主の上に聖霊が鳩のように降られたと言う事実を語り、聖霊と共に主が居られることを知ります。
油そそがれた主の来臨の目的は、貧しい人に福音を告げ知らせることであります。
ルカ4章18節の言葉
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」、は、
旧約聖書イザヤ書61章
「1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」
の言葉です。
旧約時代の救いは捕囚の民の解放と言うこともありましたけれども、イザヤ書61章2節の
言葉「61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め」は新約の現在においては、人生のあらゆる苦悩に捕らわれている人、社会から阻害された人、恐怖や罪と死の中にいる人を解放する、自由にするために遣わされたということであります。
【目の見えない人に視力の回復を告げ】
目の見えない人というのは単に盲人のことではなくて霊的盲人のことを語っております。私たちもかってはそうでした。神もキリストも分からない。肉の目は見えても霊の目は見えない人、そのような私たちの霊的視力の回復を告げるためにイエス・キリストは遣わされたのです。
イザヤの預言は私には無関係という人は主観的にあっても客観的にはいないのです。主は恵みの年を全ての人に告げ知らされたのです。それは救い主の到来を告げることであります。
ルカによる福音書4章19「 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの言葉で結ばれたのは今や救い主を待ち望んでいた時代は終わったと言うことであります。
【今は恵みの時】
ルカによる福音書4章20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」。主は朗読を終えられると巻物を係りの者に返し、それから座って説教を開始されました。
ルカによる福音書4章21節の言葉
「4:21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
今日、救い主を待望んでいた時代は終わったということであります。
待ち望んでいた古い時代は終わり、新しい恵みの時代が始まったと主は宣言されました。
「今日」とは19節の恵みの年を指しています。「今日」という年とは1年、 2年と言う当時の事だけではなく、福音を通して与えられる世の終わりまでの全時代を通して、また全民族を含む全ての人に与えられる恵み豊かな時代であります。そのことに目を覚ましていなさいと言われます。
それに対して私たちはどう対応しているか。今は恵みの時と言うが今は誠に恵みの乏しい時代ではないか。ことに福音伝道の困難な時代ではないかと言うかもしれません。
現実に子供たちが教会に来ない。確かにそうかもしれません。しかしイエス様の時代と現代とは神の恵みは少しも変わらないのであります。ただ急速な時代の変化に、またこの世の有り様に翻弄され、世から乖離して、世の有り様に流されているのが教会でないかと思うわけであります。
世に流されて世と教会が乖離し二元化してはならないのであります。いま一度主の宣言に率直に立ち帰らないといけないと思うのであります。
教会信徒がこの御言葉にに立ち返るとき聖霊によって救いの恵みの年が来ているのです。急速な現代社会の変化に翻弄されることなく、乖離することなく、愛する人々に主を証しする、職場において学校において社会において私たちは福音を託され、恵みの年を告げ知らすことができるのであります。終
2013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
ヨハネの手紙一4章7~12節
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(説教要約 文責近藤)
23年にわたって伊丹教会で信仰を共にした兄弟姉妹とともに、また初めてお目にかかる方々と共に礼拝ができる喜びを神に感謝し、主にある交わりの幸いを、「ここに神がおられる」と言う教会形成を導いてくださった主の愛に感謝いたします。
【不法がはびこる時代】
主は御生涯の終わりごろに「悪がはびこる」と言われ、「多くの人の愛が冷える」と言われました。マタイによる福音書24章です。
24章12 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。
今はその時です。多くの愛が冷えると言われその時です。人の命を極悪人が簡単に奪いとります。悪でないように殺されていく。その他の悪もはびこっています。このような時代の真っ只中にあって、キリストの愛の光が差し込んでいます。それはどこからでしょうか。教会から差し込んでくるのであります。私たち一人一人のクリスチャンは神からの愛を、愛の光を受けて照り輝いている。
【神の愛を映すキリスト者】
だからクリスチャンは愛することに尻込みすべきでありません。そうでなくキリストの愛を持って、もっともっとこの世と取り組んでいかなければなりません。この世の愛が冷えて行けば行くほど、私たちクリスチャンは世の光、地の塩となって、愛することに、神の愛を持って尻込みすることなく教会形成に取り組んでいかなければならないのであります。
ここに教会が建てられた目的があります。またこの西谷に教会が建てられたという事は、神はここに世の光となる灯台を建てられたと言うことであります。すでに幾年前から輝いているのです。
【愛を追い求めなさい】
主はコリントの信徒への手紙一14章1 節で「愛を追い求めなさい。」と言われます。
愛は追い求めるものです。それは祈りにおいて求めるものです。「主よどうぞ愛をください」と祈り求めることにより増し加えられていくものです。愛が乏しいと自覚するなら祈り求めましょう。互いに愛する愛を祈り求めましょう。求めることで増し加えられる。
恵みは感謝して受けるばかりですが、愛は神様から受ける事と神を愛することの両面があります。恵みと愛のバランスが必要です。
教会で恵みを感謝するとともに人を愛し神を愛する愛を増し加えてくださいと祈ることです。
その愛を持って人と神を愛する両面があります。
新約聖書は神の愛をアガペの愛と言います。アガペの愛を頂いて人を愛していきたいのです。
4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とありますが、続いて「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」。「ここに」とは「どこに」でしょうか。それは主が遣わされたことです。
【永遠の命を生きる】
著者のヨハネは福音書も書きました。そこに答えがあります。ヨハネ福音書の3章16節に
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」。
ここに答えがあります。「神はその独り子を賜ったほどに世を愛したもうた。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。
【神は、独り子を世にお遣わされた】
今日のヨハネの手紙一4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
「生きるように」とは私たちが永遠に救われて生きるようになるためです。
教会では永遠の命とよく言いますか、それはイエス・キリストの持っている命です。主イエスを信じるとき、与えられる命です。その命は終わりの日に蘇る命です。神は新しい命を与えてくださった。それは、
ヨハネの手紙一4章10節「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
ここには主の十字架と苦しみがいけにえとして書かれています。御子イエスが遣わされたと言うのは、聖霊の働きによって、マリアの子として生まれられたイエス・キリストが人間としての犠牲の御生涯を全うされたことです。
【神話ではない】
神の御子が世に遣わされて、人の罪の為に命を捨ててくださったということは神話ではありません。今は何でも神話で片付けてしまう時代です。神が人となるなんて事はとんでも無いと言う神話の時代です。しかし主イエス・キリストの十字架と復活は神話ではなく事実です。だから信じる時にあなたもイエス・キリストの永遠の命が与えられるのです。
【イエス・キリストの十字架】
神の御子なるお方が人となれ、罪なきものとして私たちの贖いとなってくださった。イエス・キリストが私の罪を代わって受けてくださった。それが十字架です。そして私たちに永遠の命を与えてくださった。
キリストはご自身の体と魂の贖い死によって私たちの罪を引き受けて下さったのです。
今、私の罪を赦して下さいと祈るなら全ての罪は許されます。
ガラテヤの信徒への手紙3章13節に「13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」とあります。十字架の死は特別なものであり、神に呪われたものとして、私たちに代わって主は十字架に架けられた。
主は御自身を私たちの罪の身代金として捧げられたのであり、それゆえ主を信じるものは罪ののろいから解き放たれたのです。ここに神の愛が示されています。
これほどの愛がどこにしめされているか?歴史の中に、諸々の民族の中に、この神の愛を探しても、神の愛はイエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリストにこそ神の愛、身代わりの愛、犠牲的愛が示されています。わたしたちの罪を贖ってくださった愛です。
今、主に「罪を許してください」と祈るなら全ての罪は許されます。ここに神の愛が示されている。人類は一人の例外もなく滅びさるものです。それなのに私たちの中に救われる者がいるというのはどういうことでしょうか。救いが実際に行われているからです。世界中に救われるものが起こされている。
神の救いはイスラエル民族から始まったのでありますが、今や2000年を経てどの民族どの人種も主の十字架の贖いによって救われる時代が来たのです。諸々の民族の中に主の救いがあります。ここに神の愛があります。
神の愛を信じて喜ぶ人が世界中諸々の民族に起こされています。世界中の信じる者が神を証しています。
なぜ7節「互いに愛しあいましょう」と言われるのですか。
キリストがわたしたちを愛してくださったので、私たちも愛し合いましょうと呼びかけています。
さらに11節は次のポイントでありますが、第二のポイントとして11節「わたしたちも互いに愛しあうべきです」と強調されています。
キリストを信じるものは十字架の愛に包まれている人です。しかし失敗することもある。未だ神を見たものはいない。しかし愛し合うならそこに神は居られる。この30人の群れの中に、互いに愛し合う愛があるなら神がおられる。そして神を知ることが出来るのです。
【互いに愛し合うなら神を見る】
「12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。
姿は見えなくても主イエスは「2,3人わが名によって集まるところ私もその中にいる」と言われました。さらに見ることさえできるとヨハネの手紙一4章12節に言われる、
【イエス・キリストを見る】
互いに愛し合うことは大事なことです。信者もその互いに愛し合うことによって神様を見るようになるでしょう。弟子のピリポが主に質問したことがあります「主よ。私たちに御父を見させてください。そうすれば信じることができるでしょう」。主は答えられました「私は見たものは父を見たのだ」と。
ヨハネによる福音書14章「8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」。
ヨハネによる福音書 6章46にも 「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と書かれています。
【聖書の中に】
今私たちは主イエス・キリストをどこで見るか。それを聖書の中で見るのです。「見る」ということはまた「分かる」という言葉に置き換えられます。聖書の中に描かれたイエス・キリストを見て、分かるのです。
私は中2の時、牧師から、罪と、十字架と、イエス・キリストによる救いを繰り返し繰り返し語られました。そして信仰告白に促されました。
神の言葉である聖書には鏡に映すようにイエス様が様が写されています。霊の目で私たちはイエスを見るのです。神は御子イエス・キリストによって示されます。
ヨハネ福音書の1章18節の言葉「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。この言葉は真実です。
神の愛の中にとどまることが大切です。だから11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
神の愛に包まれることによって、私たちは人々をキリストに導くためにも、愛の冷えた時代にいる私たちの信仰の霊的成長のためにも、神の愛に留まるべきです、「互いに愛し合うべきです」と主は私たちを励まして、また豊かに愛してくださいます。(おわり)
2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
新約聖書
マルコによる福音書14章17~25節
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
(説教要約:文責近藤)
【マルコよる福音書から学ぶ聖餐式】
今日はマルコよる福音書に即して聖餐式について御言葉の解き明かしに集中します。
22節から最初の聖餐式は始まりますが、その前の18節から最後の晩餐が始まります。
【まさかわたしのことでは(あるまいか)】
マルコによる福音書14章:18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」
少し前のマルコによる福音書14章10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
この10節で「イエスを引き渡そうとして」と言われた同じ言葉が18節「裏切ろうとしている」と訳され、裏切ると言うほど強い言葉で書かれてはおりません。
このような不安なことを言われたのが最後の晩餐です。弟子たちは「まさか私のことではあるまいか」と思って心を痛めている。イスカリオテのユダに言われ言葉とは思わず、私のことではないかと、弟子たち一人一人に自分の不信仰に不安を持たせる言葉でありました。
このように自分の信仰を思って不安な弟子たちです。イスカリオテのユダではなく自分のことではないかと弟子たちに思わせるというのがマルコの福音書が他の福音書と違うところです。
18節「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」、弟子全員が同じ鉢にパンを浸して食べるのが当時の習慣です。神は裏切り者はユダだと、第三者すなわち他人事ではなく、弟子たちが自分のことではないかと思わされるのです。だから21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコによる福音書14:21)」
【最初の聖餐】
主が「人の子を裏切るものは不幸だ」と言われた言葉を、全員が自分がそう思われているという苦い思い、そういう苦い雰囲気の食事のなかで、22節以下で最初の聖餐がおこなわれた。
「22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」。23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書14:22~23)。」
「取りなさい。これはわたしの体である。」、「また杯を取り・・彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」と書かれてあります。次に24節で、これは契約であったと記されています。
24節「そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコによる福音書14:24)。
最初の聖餐において弟子たちを契約に与らされたのです。
【主従契約】
普通一般には契約とは対等なものですが聖餐式の契約はそうではありません。キリストと弟子たちは対等ではなく、一方的で、弟子たちの主体性はありません。受け身で弟子たちはパンと葡萄酒を受けました。
【揺るぎない契約】
この契約とはどんなものでしょうか。
25節「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:25)。
主イエスは神の国で新たに飲むまでは、決して再び葡萄酒を飲まないと約束されます。
葡萄酒のことをぶどうの実から作ったものとも言われますが、これは強調する言葉で、一滴もぶどう酒は飲まないという意味であります。神の国で飲むその日までは一滴も飲まない。こんな苦い杯ではなく神の国で祝杯としてもう一度の飲むときまで私は待っている。それまで一滴も葡萄酒を飲まないで待っていると言う一方的な契約であります。
この契約はこれから受ける聖餐式で信仰に不安をお持ちのあなた、また不幸で生まれなかった方が良いと言われ、また思わされる私たち全員に与えられているのであります。
あなたは不幸だと言われ、自分の不幸を直視し、静視させれられる。「生まれなかった方がよかった」と言うような事情の中にある者に、すなわち人生の不幸、現実の生活を直視して、そのあなたと神の国で飲みたいとキリストは招待してくださるのです。私たちは神の国で祝杯を挙げたいのだとの主イエスの招待を受けるのです。
こんな私が神の国に招待されている。私たちはキリストを振り払い、裏切りやすいものですが、主の聖餐に一方的に招待を受け聖餐に与る信仰の弱い者同士なのです。
こんな私が、揺るがない信仰の持ち主でない私が、主を手放し裏切るようなこのような弱い者でありますが、主が一方的にその様なものに神の国で共に祝杯をあげようと契約してくださるのです。
【弟子たちの不安】
19節で、「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(マルコによる福音書14:19)」とあります。
キリストを引き渡す、手放すのはわたしではあるまいか。この弟子たちの不安な予感が的中するのです。50節で「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」と書かれてあります。イエスを裏切ったのは皆です。ユダだけでなく皆が「生まれなかった方が良かった」と言われたと分かります。
マルコ福音書の中心はこのような皆を、あなたを、御国に待っている。御国で共に飲みたいのだと主は言われる。しかしそれまでは一滴も飲まないで待っていると言う約束です。これが聖餐の意味です。御国で共に飲む前に、あらかじめ契約を結んでくださったのが聖餐の意味です。
この契約は本当なのか確かめましょう。
15章の23節「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。(マルコによる福音書15:23)」
没薬の葡萄酒を飲ませようとしたがイエスは飲まれなかった。
また同じ36節に
「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。(マルコによる福音書15:36)」
海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けイエスに飲ませようとしたが飲まれなかったのです。
神は二度繰り返しキリストは約束を守って葡萄酒を飲まずに死なれたと書いてあります。
主を裏切った弟子たち皆に対してキリストは約束を命懸けで守ってくださった、これが他の福音書にない聖餐の意味であります。
【まとめ】
私たちは天下太平のように主イエスを信じるのではありません。私たちには尚「生まれなかった方が良かった」と言われる不幸が、一生消えないような不幸もありますが、私たち一人ひとりの不幸を直視させられるのは信仰生活はごまかしでは無い。何のためか。そのあなたを御国で待っている。洗礼を受ける事はこういう約束です。私たちは「ありがとう」と言うだけでいいのです。どうか洗礼を受けて共に聖餐式に与ってください。
現実にこれからも「生まれなかった方が良かった」と言われることが起こるかもしれません。本当に苦しい時にキリストを手放すユダになるかもしれません。信仰が揺るがされる時にもキリストの契約は決して揺るがない契約であります。私たちに弱さがあっても主の契約は揺るがない。私たちは全員この約束に与るのです。これが神を味方に付けた生き方であります。問題があっても、私の中になかった力を神からいただいて私たちは歩むことができるのです。どうか今日この聖餐に与れない方も次回は是非与ってください。(おわり)
2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)
2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)
聖書:ローマの信徒への手紙1章
16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
説教要約(文責近藤)
【わたしは福音を恥としない】
使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。西谷は因習の強いところだと思いますが、そのような土地で「福音を恥としない」とは、クリスチャンとして福音に生きることは恥が多いことだと言うことでしょうか。
今日はこの福音とは何かを考えてみたいと思います。
今日のローマの信徒への手紙の少し前のところ一章2に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです」と書かれています。
この福音とは御子に関するものであると分かります。聖書には4つの福音書が書かれていますが、イエス様の生涯の物語だけが福音でしょうか。
【異邦人を信仰による従順へと導く】
使徒パウロは、この福音は「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました(ローマの信徒への手紙1章5)」と語ります。異邦人を信仰による従順へと導くためということも福音は含んでいます。
すべての異邦人を信仰による従順へと導くため愛を受け使徒とされたとパウロは言ってります。
この異邦人の中にイエス・キリストのものとなるようにされたあなた方もいるのですと書かれたように、西谷に居る私たちも同じく異邦人であります。福音にはこのことも含まれると思います。すなわち異邦人を信仰による従順へと導くこと、それはイエス・キリストのものとなることです。
【福音は神の力である】
「福音は信じるものに救いをもたらす神の力」と言われます。福音は力を持っていると
いうことが感じられると思います。
パウロはコリントの信徒への手紙一18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とよく似た言葉を語ります。
「福音」とこの「十字架の言葉」とはどう違うでしょうか。
福音が十字架の言葉となって私たち救われる者には神の力だと言います。
【御子の御生涯】
福音とは十字架と復活だと思います。
主イエスの御生涯を具体的に思い浮かべてみたいのですが御子は正しいお方であるにもかかわらず、すべての人間の罪のために身代わりとなられた、身代りとなって十字架の辱めを、またその肉の苦しみを受けられました。正しい人がこのような理由なき苦難に遭わせられたら私たち人間はどう反応するでしょうか。
十字架は悔しい恥ずかしいことです。御子は正しいお方であるにもかかわらずその辱めを受けてくださった。もし自分がそうだったらそういう生き方に耐えられるでしょうか。
しかしパウロはそれを、すなわち福音を恥としないと言いました。軽々しく福音を恥としないとは言えないと思うのですがパウロはそう言い切ります。主イエスは死んで終わられない。復活され今も生きておられる事をパウロは知っていたのです。それでパウロは主の生き方を恥としない、主の死の迎え方を恥としないと言い得たのです。
福音とはイエスの生き方に倣うことです。パウロはローマの信徒への手紙6章で「5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と言います。
私たちが自分の十字架を背負って、敵を許すことのできた主イエスに従うとき主の復活にまたその救いにあやかれることができるのです。
主が示された生き方が福音です。ここに神の義が啓示されて神が正しいとされた生き方があります。
主イエスの中に神の義が啓示されています。それが神が正しいとされた生き方です。主の死の迎え方を神は正しいとされました。
【信仰を通して実現される神の義】
ローマの信徒への手紙1章17 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。
「信仰を通して実現された」と書かれていることは誤解されやすいですね。信仰は私たちのものと言えないのです。神を私たちが自分の力で信じたとは言えないわけです。信仰は私から生まれるものではなく神様が私たちに信仰を与えて保ってくださるからです。
ギリシャ語聖書から「信仰」という言葉を見ますとこれは「アーメン」と書かれています。「アーメン」とは真実ですとか、その通りですという言葉でいつも祈りの終わりに使うことばであります。
信仰は神様の真実から神様の真実へ、神様の確かさから神様の確かさに至るのです。信仰は徹頭徹尾神さまの確かさから生まれる出るものです。神が本当におられるから神は確かなものとされると読めるものですね。私たちの中には正しさは全くありません。主を信じても罪が残ります。自分を捨て、神が救いを達成し、全うさせてくださるという生き方がここに書かれています。
【義人は信仰によって生きる】
最後に「正しいものは信仰によって生きる」ということについて考えましょう。
これは旧約聖書のハバクク書2章からの引用です。
ハバクク書2章「4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
このハバクク書1章の始めには「2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない」とあり、ここで預言者は「私が助けを求めるのにあなたは聞いてくださらなかった。神は正しい人を助けてくれない」と嘆くのです。
【たとえ遅くなっても待っておれ】
ハバクク書2章3、4節には「3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。
ここでは「たとえ遅くなっても待っておれ」が神の答えです。「しかし神に従う人は信仰によって生きる」。すぐに救いは来ない。私たち人間には正しい人はいないのです。神によって神の救いを待って生きる人が正しいとされる人です。
今も不法のはびこる世の中です。早く救いがきて欲しいと願います。しかし私たちには、この世に生きる生き方として主イエスの生き方が示されました。忍耐をもって復活の日を待つ、救いを待つ生き方を福音といいます。福音とはこの主の生き方を恥としないと言う生き方です。これが神の力です。神が救いを与えてくださる、永遠の命を待つ生き方、これが神の力です。主イエスの生き方は、人間的には悔しい耐えられないと思われる。私たちはこの生き方を恥として自分の正しさを主張するのです。
しかしパウロは主から与えられた生き方を多くの人に伝えたいと思い数々の手紙を書きました。十字架の生き方とその先に復活が待っている生き方を伝えたフィリピの信徒への手紙3章9節「9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」
フィリピの信徒への手紙3章「17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。
パウロが「今また涙ながらに」と言っていますが、キリストの十字架に敵対する生き方にすぐに戻らないようにとパウロは勧めます。そしてパウロに倣う生き方をを習って、すなわちキリストに倣ってほしい。福音を恥としない生き方を味わってほしいと思います。初めにパウロが言った「私は福音を恥としない」とは簡単な言葉ではないと思うんですがパウロがまだ見ぬローマの信徒たちに伝えたように西谷の人たちにも解ってもらえるようこの伝道を続けたいと思います
(終わり)。
2013年08月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書