2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
聖書:マルコ9章2-13節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
(説教要約 文責近藤)
今朝はマルコによる福音書9章から、御言葉に聞いてまいりたいと願います。2節に「六日の後」にとありますが、これは8章の27節以下にありますペトロの信仰告白、そして続くイエス様の受難と復活の予告があってから六日たった、つまり一週間後ということです。今朝の御言葉は、イエス様が3人のお弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたことから始まります。
【イエス様の3人の弟子】
イエス様はこの3人の弟子を究めて大切な機会に、伴われて出かけられました。5章35節以下には、会堂長ヤイロの娘の復活にイエス様が同じ三人の弟子を連れられたことが記されています。また14章の32節以下で、ゲッセマネの園で祈られるイエス様は、同じ三人をお近くに連れて行かれました。この三人を連れて行かれるときは、イエス様の秘密のベールが取り除かれるときといって良いでしょう。それは今日の箇所も同じです。出来事の秘密性を強調するために「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」を加えているのです。
そもそも何故3人だけなのでしょうか。これは旧約聖書にあります出来事の証人としての必要な人数だからです。(申命記17:6)重大な証の出来事に必要な最低限の人数をイエス様は連れて行かれました。
そのようにして高い山に、イエス様と3人の弟子たちは登ります。この山は伝統的にタボル山といわれていますがそれが事実であったかは定かではありません。
【山の上での出来事:イエスの姿が変えられた】
2節後半「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」から8節の終わりまでが山の上での出来事です。ここには二つの特徴があります。一つはイエス様が行為の主体になられないことです。イエス様はここでひとこともお語りになりません。イエス様の方から行動を起こされないのです。私たちの新共同訳聖書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とあるので、イエス様が動作の主体であるようにおもわれますが、そうではありません。原文では受動態の動詞が使われていて、直訳すれば「彼らの面前で姿が変えられた」となります。はっきりと書かれていないですが、主語は神です。神によってイエス様の姿が変えられたのです。
【それは3人の弟子の為に】
第二の特徴はこの出来事は弟子たち三人のために起こったのだということです。彼らのために、彼らの目の前でイエス様の姿が変えられました。雲の中から神の声が「これはわたしの愛する子。これに聞け」と響きました。この声も神がイエス様を彼らに紹介するための声です。
二つの特徴をまとめますと、山の上での出来事のねらいはイエス様が誰であるかを弟子たちに示しているということです。しかもイエス様は受け身ですから、教えるのはイエス様ではなくて神です。
さてこの時のイエス様のお姿は3節にあるように「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」のです。光り輝く栄光のお姿でした。このイエス様の衣の輝きは天に属するお方であることを意味します。イエス様の復活なさったとき墓にいた天使たちの衣も白色でした。
そこにイエス様の天に属する者であることをさらに示すこととして、エリヤとモーセがそこにあらわれました。モーセは律法をあらわし、エリヤは預言者を代表しています。この二人によって旧約聖書の全体を表します。イエス様はこのモーセとエリヤと語り合っておられます。その内容はルカによる福音書の平行記事から分かります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。(ルカ9:31) 今朝のマルコの記事では語られる内容には注意が払われていなくて、エリヤとモーセと話しているイエス様が天に属するお方であられることに注意を促します。
さてその様な栄光に包まれているイエス様にペトロが口をはさみます。5節「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ここで栄光に包まれているイエス様に対してペトロは声を掛けることが出来たということに私たちは慰めを覚えます。ふつう人は権威や力を持てば、その人に容易に近づきがたい印象や権威による圧力を与えます。しかしここでのイエス様は天的な栄光に包まれて光り輝いているにもかかわらず、それでもペトロが声を掛けることの出来るお方でした。
【ペトロの間違い】
さて注目したいのはペトロの発言です。ルカの平行記事では、このとき弟子たちは「ひどく眠かった」とあり、口語訳では「熟睡していた」とあります。どちらとも訳せる言葉です。眠ってしまっていたか、ひどく眠かったか、いずれにせよペトロがここで答えた言葉は、目覚めていながらも寝ている、寝言のような愚かな言葉なのです。
その間違いは、第一にペトロはイエス様を、モーセやエリヤと同列に扱っていることです。仮小屋を「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」という言葉からイエス様を、人間にすぎないモーセとエリヤと並べる過ちを犯しています。宗教改革者のカルヴァンはただの人間をイエス様と同格に扱うことを偶像崇拝の始まりとして厳しく退けています。
第二にペトロは神の栄光を自らの手の内に握りしめようとしたことです。ペトロは言いました「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです」。ペトロは自分が今ここに居合わせたことはとてもすばらしいことだと思ったのです。ペトロは味わった天的な喜びを引き留めておこうとして「仮小屋」つまり天幕をここに建てましょう、と提案するのです。小屋を建てることでペトロは天の栄光を地上に、自分の手によって引き留めておこうと願ったのでした。人は神の栄光を自分の力で持つことも離すことも出来ません。神の栄光はただ神のものだからです。
さらに第三の間違いはペトロが神の栄光に酔うことで自分の責任を忘れたことです。ペトロはイエス様の圧倒的な栄光を自分が見ることを許されたことで有頂天だったのではないでしょうか。たった三人だけをイエス様は伴われました。イエス様には弟子たちに特権意識を与えるつもりはなくとも、この状況からペトロはほかの弟子たちに対する優越感と神の栄光を見る事への陶酔を味わったはずです。ある聖書注解者はいいます「わたしたちにとって出来事が順調であるとき、私たちは他者に対して心がそぞろになりがちである。そしてわたしたちが喜びに満たされているとき、私たちに負わされている重荷を、その喜びは忘れさせてしまう」と。
【山の下では】
来週に取り上げたいと思っています9章14節以下の記事は、山を下った弟子たちが直面する問題です。弟子たち三人が山の上で栄光のイエス様に出会っているとき、山の下で残された9人の弟子たちは、霊に取り付かれた子供のことで取り乱し困窮の中にありました。山の上での栄光と、山の下での困窮がとても対照的です。
私たちも礼拝において神様に出会い、御言葉に養われ恵みを頂きます。しかし同時にここに集うことが出来ない困窮の中におられる方たちにも心を配りたいと願います。救いのことを知らずに苦しんでいる方は、本当に多いのです。私たちの喜びを、自分のものとして留めて恵みを個人のものとしてしまう弱さから、解き放たれたいのです。どのようにすれば恵みを配ることの出来る人へと変えられるのでしょうか。続けてみてまいります。
【神様の臨在を示す雲】
自分のうちに恵みを独占しようとしたペトロに対して、神の介入がありました。ただ神の介入によって私たちは自己中心の思いから解き放たれます。7節「すると雲が現れて彼らを覆い、雲中から声がした」のです。雲とは神の臨在の象徴です。モーセがシナイ山に十戒を頂くために登ったとき、そこには雲が満ちていました。またソロモンが神殿を建立したとき神殿に雲が満ちたのでした。このように雲とは神の臨在のしるしです。
私たちは神を見ることは許されていないのです。神を見るとき人は死ぬのです。ですから神は人を滅ぼさないために、御自身を表されるとき、同時に雲によって御自身を隠されるのです。カルヴァンはこのようにいいます「一言でいうなら、この雲は私たちに対する"くつわ"の役割を果たす。私たちの好奇心を不当な気まぐれのうちに甘やかすべきでないからだ。弟子たちも以前の自分たちの状態に戻るべきであり、それゆえ、まだその時でもないのに勝利を期待してはいけないのである」
雲によって弟子たちの視界は遮られ、目前の栄光あるイエスとモーセとエリヤは見えなくなりました。私たちも信仰を超え出て、陶酔の中に入るのではなく、素面(しらふ)でいなくてはなりません。
【これはわたしの愛する子。これに聞け】
この弟子たちに雲の中から声がしました「これはわたしの愛する子。これに聞け」私たちは、聞きなさいと命ぜられます。神がイエスに聞きなさいと命ぜられるのです。聞くべきはモーセでもエリヤでもなく、このイエス様のお言葉です。ですから私たちは聞くためには、まず静まらなくてはなりません。ペトロのように栄光に陶酔することで饒舌になるのではなく、神の前に静まるのです。私たちは神の前に静まり沈黙するのです。そうすれば御言葉を聞くことができるのです。そして私たちが静まることで神の権威を知ることが出来ます。
私たちが恵みを独占する自己中心的な思いから解放しうるのは神の介入です。そして私たちに近づかれて神が言われるのは、これに聞け、という命令です。私たちは、イエス様の言葉に聞かなくてはなりません。御言葉に聞くとき、自分自身のつぶやきのような罪深い思いに背を向けて自由にされます。御言葉によって、初めて私たちは自己中心的な思いから解き放たれるのです。
さて今朝のイエス様の変容の出来事はイエス様のご正体を現す出来事です。しかしなぜ正体を明かす必要があったのでしょうか。それを考えるためには、前後の文脈を考える必要があります。8章の27-30節はペトロの告白、31-9章1節は受難予告とペトロの誤解、そして群衆をも呼び集めて、イエス様に自分の十字架を負って従ってきなさいと命ぜられます。
【エリヤはすでに来た】
さらに今朝の9節以下では山を下りた弟子たちに、エリヤはまだ来ていないからメシヤはまだまだだと教える律法学者の教えを正して、エリヤはすでに来たのであり、人の子が苦しむ以上、先行する道備えのエリヤも当然苦しむと言われます。エリヤは律法学者が期待したように栄光の姿を取らなかった、エリヤの到来は洗礼者ヨハネによって成就している、と主張されるのです。とするならば前後の文脈は受難であり、今朝の変容の箇所も受難の文脈で読むことになるはずです。
【栄光の前にある主の御受難】
つまり変容の箇所が、受難の文脈に挟まれていることを考えますと、次ぎようのように言えます。ペトロは相変わらず受難の意味を理解できない。だから彼は栄光のイエス様を見るとそれを永遠に残したくなって小屋を建てようと提案したのです。
ペトロの思いに反して、イエス様は十字架への道を歩まれます。当時の人たちが期待していた政治的な解放者としてのメシヤではなく、本当のメシヤは苦しまれるメシヤです。8章34節でイエス様は言われます「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」。
このイエス様の招きの意味がいまだはっきりと分かっていなかったのです。ですからペトロは十字架の道を従うより、栄光を自分のものとして封じ込めようとしたのです。
山を下られたイエス様は、御自身の山の上での変容のことを十字架と復活が起こるまでは、弟子たちに口外を禁じられました。人々の誤解を引き起こすことを避けるためです。メシヤは先ず苦しみ、十字架に付かれる。苦難から栄光への一本の道があります。
【変えられた弟子たち】
さて恵みを独占していたペトロを筆頭とするこの三人の弟子たちはこの後どうなったでしょうか。弟子たちは十字架の前に逃げだしてしまいました。またペトロはイエス様を三度も否定した弱さを持つ弟子です。その様な弟子をもイエス様は用いて証人としてくださいます。
聖書の証言によるとヤコブは早い時期に殉教の死を遂げたことが分かります(使徒12:2)。
ヨハネは長く生きたと言われています。ヨハネの手紙1では冒頭にこうあります「始めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。-この命は現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしは見てあなたがたに証しし、伝えるのです。」
また使徒ペトロもイエス様のこの変容を証言しています。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(Ⅱペトロ1:16-18)。
このように三人の弟子たちはそれぞれにイエスの復活と十字架の証人として用いられました。
【私たちも造り変えられる】
その様に、私たちも弱さと罪を持ちますが、主の証人として用いられます。私たちは罪赦された者として地上を歩みます。しかし同時に私たちには残る罪があります。ですから神は私たちを清めて御用のために用いようとしてくださいます。私たちは、自分を自分で清めることは出来ず、それはただ神の御霊の働きによるのです。
最後に覚えたいことがあります。イエス様が姿を「変えられる」の「変えられる」という言葉は、新約聖書で平行箇所を除けば、別に2回出てきます。
一箇所はⅡコリント3章18節「わたしたちは皆、顔の覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」私たちは聖霊なる神様によって、イエス様の栄光あるお姿に似る者へと変えられていきます。清められるのは主の霊によるのであって、私たちの力にはよらないのです。ここに希望があります。
もう一箇所はローマの信徒への手紙12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」です。
どちらの聖句も、「姿に造りかえられ」、「自分を変えていただき」とあるように受け身です。神が主語なのです。私たちはただ神によって造りかえられます。人類の始祖アダムの「堕落」は誘惑する者によって、人間の心を中心に始まりました。ですから私たちの救いもまた心から始まります。この心を神様が造り変え御心に適う者にして主の証人としてくださるのです。
私たちを自己中心から解き放ち、栄光に仕えるように命ぜられるイエス様の御言葉に聞き続けてまいりたいと願います。そして私たちの罪の心を造りかえて主の証人としてくださる聖霊なる神様の働きを求めて祈り願いたいと思います。(おわり)
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