2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
聖書: マルコによる福音書38-50節
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
【はじめに】
今朝は9章38節以下から共に御言葉に聞いてまいりたいと願います。全体を一読して、意味が分かりにくかったのではないでしょうか。まとまりのないような言葉がいくつも並んでいるような印象を受けるのです。それですから、まず全体をざっと目を通すことで、見取り図を把握しましょう。
今朝の箇所は全体として三つに分かれます。その第一が38節から41節が一つのまとまりです。ただし40節と41節の間に小さな切れ目があります。この38節から41節までは、弟子がテーマになっています。自分と意見が異なる弟子たちに対する態度についての教えです。先週と正反対のことがここではテーマとなります。つまりイエスの名によって拒んでしまうことです。
二番目のまとまりが、42節から48節です。ここでは「つまずき」がテーマです。信仰を同じくする兄弟や、自分自身をつまずかせないことが教えられます。
そして3番目のまとまり、これは結論ですが、50節と51節になります。自分の内に塩を持つことが命ぜられます。以上の3つのまとまりから今朝の箇所はなっています。それぞれを順序に従ってみていきます。
【イエスの名によって】
第一番目のまとまり、38節から41節です。ここは細かく分けるなら、38節から40節と41節だけの二つに細分できます。とりわけ前半の38節から40節ではイエスの様の弟子が反対者に取るべき態度を教えています。
38節「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」。12弟子のひとりのヨハネが、自分たちと異なるグループが悪霊を追い出しているが止めさせようとした、との報告をイエス様にします。それに対してイエス様は言われます「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」イエスはヨハネの発言をしりぞけます。
【自己判断の過ち】
このヨハネには軽率さと性急さがあります。他のグループが悪霊追放をしているのを見て、ヨハネは自分の判断で止めさせようとしました。ヨハネはイエス様がそのことをどう思われているかを、まず尋ねるべきだったのです。
【権威独占の過ち】
もう一つこのヨハネの発言には根深い罪が隠されています。それは権威を独占したいという欲望です。ヨハネはイエス様の名前によって悪霊が追放されることを目撃しました。その権威は12弟子に与えられた権威でした。しかしその人たちは自分たちのグループでもないし、自分たちの方法にも従わなかったのです。ヨハネは「わたしたちに従わないので、止めさせようとした」のです。イエス様から与えられた特権を自分たちだけのものとして留めたかったのです。
【教派の存在と意味】
ここで求められているのは、キリスト者の集まりの中で、自分と意見が異なる人を受け入れるようにという招きに応えることです。わたしたちは改革派教会に属します。わたしたちは改革派信仰を持って歩んでいます。しかし他の教派も存在するのです。その教派を異にする兄弟たちも同じキリスト者として生きていることを認めるようにとこの箇所は教えます。わたしたちは、わたしたちの教派の中を信仰の確信をもって歩みます。しかしそのことは他の教派を排除することとはつながらないのです。
イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの見方なのである」といわれます。キリスト者は神の栄光が、この地上でも、あらわれることを求めて生きます。神の栄光は私を通して現されますが、同時に意見が異なるキリスト者を通しても表されます。他の人を通して、神の栄光が現されることを、イエス様は喜ぶようにと招かれます。
この38節から41節までは名前という言葉が2度(原文では3度)出てきます。先週のつながりで考えますと、先週はイエスの名によって小さな者を受け入れることを教えられました。今朝の箇所は反対の教えです。イエスの名によって拒むことがあってはならないことを教えます。主の祈りで、「御名があがめられますように」と祈ります。イエス様は、自分と意見が異なる人によって神様が崇められていても、ねたんで退けてはならないといわれています。
あの人が教会で評価されると、心が騒ぐという人がそれぞれにいるのだと思います。人はいつも自分がいちばんでありたいと思うからです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という御言葉はここにもあてはまります。わたしたちに求められることは、神の栄光が現されるために仕えることであって、どの人がいちばん用いられているかという教会の中での順序を競うことではないのです。
【もてなし】
そして41節ではかえって、「キリストの弟子だという(名前)理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ず報いを受ける」といわれます。弟子はほかのイエスの名前の弟子に対して、水を飲ませることで報いを受ける。一杯の水は、乾燥したパレスチナでは価値ある贈り物なのです。ありあまる中から一杯の水でもあげるのではなく、ほんとうに価値あるものを差し出すことを意味しています。意見が異なる弟子であっても、いやいやにではなく心からもてなしなさいという招きです。
【つまずき】
さて2つめのまとまり、42から48節を見ていきたいと思います。ここでは「つまずき」という言葉が4回も繰り返されます。ここでのテーマは「躓き」です。42節は他者をつまずかせること、43節以下では自分自身をつまずかせることです。それぞれに割り当てられている分量を見てください。他の人をつまずかせることには1節だけ、自分の躓きにはその3倍以上の分量です。ほかの人のことよりも、自分に対して厳しくあれということです。自分の目の中にある丸太には気が付かないで、他の人の目にあるおが屑が気になるからです。
さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな挽き臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。小さな者の一人とは、36節の子どものことを直接には指します。子どもを神様の恵みから遠ざける者は罪深いのです。またすべてのキリスト者は小さな者ですから、どんな信仰者でもつまずかせる者は罪深いのです。
ここで言われる躓きは、身分が自分よりも下だからといって軽んじる人や、自分自身の満足を求めて、他の信仰者の利益を軽んじることです。信仰者がほかの信仰者をつまずかせる。取りわけ、小さな子どもや、信仰に導かれて間もない人をつまずかせることが罪深いのです。
その様な者は、挽き臼、これはロバ引くおおきな挽き臼で真ん中に大きな穴が空いています。その大きな挽き臼を首にかけて、海に投げ込まれてしまえばよい。当時、墓を持たない死に方は不幸な死でした。海に投げ込まれ行方不明の死を遂げるがよいと言われます。神学生である自分の言動を通してつまずかせる方があるのではと私も反省させられます。ここから続いていくイエス様のたとえはとてもグロテスクです。
【自分を躓かせる】
43節以下では自分がつまずくなということを教えられます。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」このあとも「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」体を切ってしまえとまで、非常に恐ろしいことをイエス様は命じられます。
イエス様は外科医のようです。わたしのなかで巣くっている病気の原因をえぐり取り、切り捨てなさいと命ぜられます。罪と共に滅んでいくよりは、病気の原因を切り取りなさいと言われます。切り取れば、もちろん血が出ます。この言葉に従って古代キリスト教神学者でオリゲネスは去勢をしたのではと伝えられます。
【罪の誘惑を切り捨てよ】
宗教改革者カルヴァンはこういいます「キリストは神の律法に従うために手足を切ることを望まれたわけではない。しかし感覚によって手足が欲望のおもむくままに用いられることよりも、神に従うことの妨げを何であれ切ってしまうことを言うために、大げさな表現を使われた」つまりわたしたちは欲望に任せることで、心が自由にされて誘惑に負けてしまわないように警戒することが求められます。
最初の先祖は悪魔の誘惑に会いました。蛇の誘惑にそそのかされて、女が神の禁じられた善悪の木の実を見ると、「その木はいかにもおいしそうだった」のです。女は目で見て、手で取って食べました。そして足で歩いていって、男に手渡します。男も取って食べました。目で見て欲望がおきます。そして歩いていって、この手で罪を犯すのです。わたしたちの罪は心から起こり、この体を通して実際にやってしまうのです。アダムとエバは罪を犯した結果、裸であることを知りました。神に罪を犯すとき、恥を感じるのです。
【命を得るために】
イエス様の外科手術には、目的があります。それはわたしたちが命を得るためです。手足を失ってでも「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」といわれるのです。イエス様はこのわたしにもこの外科手術を施されます。それは命に生きるためです。神に従っていくために障害となるものを、少々荒っぽいやり方ではありますが切り取られるのです。
これは私にとっては、プライドや健康でした。これまで自分が大切にしていたものを神様はずばっと切り取られます。大切なものであればあるほど、切り取られれれば痛みを感じます。そして切り取られて片手になればかっこうわるいですし、不自由です。しかし、この痛みや恰好悪さがほんとうは必要なのではないでしょうか。
【偉大な信仰者でも】
旧約聖書の代表的な信仰者を思い出してみましょう。例えばモーセです。モーセは出エジプトを導いた偉大な指導者でした。しかし彼は一度だけイスラエルの民の面前で大きな罪を犯しました。岩に命じて水を出せと神が命じられたのに、彼は岩を杖でたたきました。不信仰を民の面前で示してしまいました。そのためモーセは約束の地に足を踏み入れることができませんでした。
もう一人、イスラエルの王ダビデは、人の妻を奪い、その夫を殺すという姦淫と殺人の2重の罪を犯しました。イスラエルの王が大きな罪を犯しました。ほかにもアブラハムも罪を犯しました。幾人ものイスラエルの代表者が大きな罪を犯しました。
【罪を悔いる】
しかし、旧約聖書はこのような神の前のおおきな罪を隠すことをしません。聖書に書かれているのです。今のわたしたちまで彼らの罪が伝えられるのです。しかしけってこのような罪が正直に書かれていることに慰めも覚えます。信仰の代表者たちが失敗をしたからです。しかし同時に彼らは大胆に罪を悔いたのです。罪を言い表すことに立派でした。旧約の信仰者は罪を犯しましたが罪を悔いて、そして罪を神様の前に言い表して生きました。いうなれば自分の恥ずかしさを神と人に隠さずに晒して生きたのです。
【地獄の火で焼かれないため】
わたしたちにはそれぞれ神様によって切り取られる所があるのです。それは地獄の火で焼かれないため、神の永遠の裁きに会わないための神の憐れみによる外科手術です。例えば異教の文化の中でいきるなら、当然家族との対立もあると思います。イエス様に従うとき、家族と間の関係で痛みを覚えます。しかしわたしたちがイエス様に従って生きていくときの痛みは、ただの痛みだけでは終わることはないからです。それは命への招きであることを同時に忘れないようにしたいのです。そしてわたしたちの切られた手足は、天国においては完全に回復されるからです。
【火で塩味を付けられる】
最後に結論の49節50節の結論を見て参ります。49節「人は皆、火で塩味を付けられる」少しなぞめいた文章ですが、これは犠牲の捧げ物と関係があるようです。レビ記2章13節に「穀物の捧げ物にはすべて塩をかける」つまりわたしたちが、神様に捧げ物としてこの体を捧げることがイメージされています。穀物の捧げ物が、塩をかけて火に焼かれて、よい香りと捧げ物を神様は受け入れてくださるように、わたしたちは塩と火によって神に受け入れられるために味付けられるのです。
ところでここでの塩や火は何でしょうか。カルヴァンは、火とは御言葉であるというのです。わたしもその通りだと思いました。48節にも地獄の火が出てくる。49節にも火が出てきます。それぞれ違う火のようでもありますが、同じ火を指すのだと思います。火とは御言葉です。つまり御言葉はわたしたちを燃やすのです。古い私を御言葉は火にかけます。
この御言葉は古い私を断罪して火で焼くのですが、同時に御言葉の火はわたしたちを清めます。御言葉がわたしたちの古い自己の中心に達するとき、その火は燃え上がりわたしたちを裁きます。御言葉の火は古いわたし、肉の私を滅ぼすのです。
【自分自身の内に塩を持ちなさい】
しかしこの御言葉の火は燃やして裁くのと同時に、わたしを立たせるのです。御言葉は私を新たにします。この御言葉の火によって与えられるのが、塩なのです。塩は腐敗を防止することができます。塩を汚れた水の源に投げ入れると水が清くなったことが旧約聖書にあります。塩とは御言葉の火によりあたえられるわたしたちの内にある清い心です。この塩によって、心は腐敗から守られ、浄さを守ることができるのです。
ですから、イエス様は言われます「自分自身の内に塩を持ちなさい」。それぞれの内に御言葉の火による清めとしての塩を持つのです。使徒パウロはこれを発展させてアドバイスして言います「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば一人ひとりにどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ4:6)。わたしたちは塩で味付けられた言葉を語るように求められています。それは快い言葉です。
他の人をさげすんで、傷つける言葉が多い時代です。わたしたちは、互いに塩でもって味付けられた快い言葉、本当に他者を立ち上げる言葉を御言葉に基づいて互いに語ることが求められます。「互いに平和にすごしなさい」。イエス様はそれぞれが内に塩を持つことで、愛の言葉を互いに語ることへと招きます。互いに平和に過ごすことは、御言葉による塩によって、汚れた私の心が清められることによって始まります。
先週の聖書箇所から振り返るなら、塩味を失わない生き方とは、子どもを「イエスの名」のためにうけいれること(33-37)、そして自分と意見が違う人を追い出さないで「イエスの名」によって受け入れること(38-41)、そして兄弟たちや自分自身をつまずかせないように配慮を怠らないこと(42-48)です。
【ただ一人主のみ】
しかしだれ一人完全に御言葉に従いきることはできません。イエス様お一人がこの御言葉に生ききってくださったのです。この方が、わたしたちが受けなければならない罪による恥と地獄の滅びを一身に背負ってくださったのです。罪の誘惑にわたしたちはだれ一人、勝つことはできません。
イエス様お一人が罪の誘惑に完全に勝たれました。公生涯のはじめにイエス様は荒れ野で悪魔の誘惑に会われましたが、御言葉によって悪魔の誘惑を退けられます。そして生涯の最後には私に代わってイエス様は最大の恥であり、神の呪いでもある十字架の死を死んでくださいました。そのように十字架の死に至るまで神の御心に完全に従うことで、わたしたちのために永遠の命を代わって獲得してくださったのです。
このお方が私たちに代わって御言葉にしたがって歩み通してくださいました。イエスは死に勝利され復活されたお方です。このイエス様の言葉は、勝利である命への招きの言葉なのです。同時にイエス様の言葉は炎です。わたしたちを裁いて焼いてしまう炎とは、イエス様の犠牲のともなった愛の滴る御言葉でもあります。御言葉はわたしたちを刺し貫きますが、それは命への痛みです。命へと招かれるイエスの愛の御言葉に聴き続けたいのです。(おわり)
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