2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師
2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師
聖書:マタイによる福音書25章「タラントンのたとえ」
14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
説教要約(文責 近藤)
【終末時代を生きるクリスチャンの生き方】
主イエス様がこの世に生まれられてから再臨までを終末時代と言うが、終末を生きるクリスチャンの生き方について今日の御言葉から聞きましょう。
主から託されたキリスト者の地上の使命とは何でしょうか。
会社や官庁に働く者には定年がありますが、クリスチャンには定年はありません。そればかりか天に召されて(死んで)も天国での使命が与えられています。
地上で小さいことに忠実な者は天国にあっても大きなものを託された者です。
地上における人の一生の歩みは神様のテストでもあります。
【タラントンのたとえ】
主人が総額8タラントンの金を3人の僕に託して旅に出ました。
1タラントンの重さは今日の単位では34キログラムでお金に換算すると600デナリオンに相当します。マタイ20章にあるブドウ園の話から分かりますが当時一日の労働者の賃金は1デナリオンでした。年に300日働くとすると1タラントンは20年分の賃金です。1タラントンは生活費を支払っても莫大な金額が残ります。
主人が旅に出る留守の間に財産の一部を僕たちに預けたのは、僕たちがそれを運用し利益を上げ資産を増やすことを期待した主人の願がありました。僕に対して厚い信頼があったことが分かります。
5タラントン、2タラントン、1タラントンとそれぞれの能力に応じて僕たちに異なった金額を託しました。当時にも銀行はありましたが、主人はそこに預けることを望まず僕たちが仕えて働くことを望みました。
「少しのものに忠実だったから多くを任せよう」と言うほど主人は大金持ちでした。主人は僕を使って金儲けをすると言うよりはタラントンを預けたことは主人に対する忠実度を測るテストでした。
【早速出て行き】
僕は主人の意図を分かっていました。当時、旅に出ると言うことは、すぐには帰らないと分かっていました。忠実な僕は主人が旅に出るとすぐに働きました。迷いもなく僕として為すべきことをいつものように継続しました。あたかも主人が見ているように、主人がいつ帰ってきても良いように、義務感でなく喜んで働きました。主人の信頼に応えたいと。
【主を愛する忠実な者】
5タラントン預かった僕も2タラントン預かった僕も、その利益は主人のものと分かっていましたが一生懸命働いたと言うことは僕が主人を愛していたからです。
20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
しかし1タラントン預かった僕は主人の気持ちを理解しませんでした。
5タラントンと2タラントンを預けられた僕に対し、21節、23節に書かれているように「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と同じ言葉でこの二人を誉めました。
【1タラントンを預かった不忠実な僕】
しかし1タラントンを預かった僕は24節、「24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』」
5タラントンと2タラントンを任された僕は運用するために預けられたという意識を明確に持っていましたが、1タラントンを任された僕は運用するために任されたと言う意識がなく、その使命を果たすことなく主人の期待を裏切った。主人の信頼に応えませんでした。それで彼は悪い怠惰な僕、怠け者と言われました。
何も悪いことをしたのではないが怠惰な悪い僕と言われた。
【能力の差と忠実さ】
2人の僕が主人から託された使命を果たしたので主人はこの2人を褒めた。ここで考えるべき事は5タラントンを預けられたの者と1タラント預けられたものだけでよかったと思いますが、2タラントンを預かった第2の僕も5タラントンを預かった僕と同じようにそのタラントンを活用した。
ただ5タラントンと2タラントンの能力の差があったが忠実さにおいて問題はなく主人の目には2人の評価は同じでした。活用する能力の差があったが忠実さに於いて差はないのです。このことを主は2タラントンを預けた僕の例から言はれたのではと思います。
【すべては主からの賜物】
タラントンという言葉はタレントという言葉の語源です。一般に特別な才能を示しています。しかしもっと大きな意味があると思います。
使徒パウロは言います、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか(コリントの信徒への手紙一 4:7)」。
私たちの命、からだ、家族、教育すべては何もかも主からの賜物ですから、自分のものと言えるのは何もありません。
財産、時間すべてを主のために忠実に管理するのが僕の勤めです。
【主人に対する畏敬の念】
忠実な僕と不忠実な僕、その差は主人に対する畏敬の念の差であります。
24節以下「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
1タラントンを預かった僕は主人のために働きたくなかったし、畏敬の念もなかった。
【わたしたちの主人】
主人とは私たちの救い主イエス・キリストです。主イエスは僕としてこの世に来て下さり十字架の上で私たちの為に自らを捧げられ、私たちを救って下さったお方です。
パウロはコリントの信徒への手紙二 5章15 節で「その一人の方(キリスト)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。
主イエスは全ての人のために死んでくださった。私たちクリスチャンは私たちを救うために死んで復活された主イエス・キリストによって生かされているのであります。自分のために生きるのではなく主と御国のために今ここで生かされております。今与えられているものは一時的に主から預けられているものです。主は私たちを僕として主の為に忠実に働くよう召して下さいました。
【主のための労苦は決して無駄にならない】
一般のビジネスの世界でも人びとは一生懸命働きますが、必ずしも利益を生むとは限りません。しかし神の御国のために働くなら私たちの働きは豊かに報われます。「私たちの苦労は決して無駄になることはありません」と聖書は約束しています。
使徒パウロも言います、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから動かされないようにしっかり立ち主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない事をあなた方は知っているはずです(コリントの信徒への手紙一 15:58」。
主の御国は確実に進展しています。御国の主であられる主イエス・キリストに与えられたタラントンを用いて忠実に仕えましょう。(おわり)
2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)
2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)
旧約聖書ヨシュア記1章( モーセの後継者ヨシュア)
1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。
2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
(説教要約 文責近藤)
【モーセの後継者ヨシュアの不安】
旧約聖書ヨシュア記1章2~10節は古代イスラエルの指導者ヨシュアに対して語られて神様のお言葉です。
天地を創られた神様のお導きのもとにイスラエルをエジプトの奴隷状態から救った偉大なる指導者モーセ。彼が死んで後継者に立てられたヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナン(今日のパレスチナ)に導くのに大きな不安を覚えたでしょう。イスラエル民族自身にも問題点があり、そういう民を神様の約束の地に導かねばならない。モーセに比べなお小さな存在でしかないことを知っていたヨシュアはどんなに不安だったでしょうか。
ヨシュアはイスラエルを率いて目の前の水量豊かなヨルダン川を渡らなければならないしヨルダン川を渡ったとしてもそこにはどんな国があってどんな困難が待ち受けているかも知れないと言う沢山の不安に襲われました。彼はその民を率いてカナンの地に定住させることが自分の使命であることは分かっていました。でもヨシュアはどんなに不安であったでしょう。私たちにも彼の気持ちが分かります。問題が沢山待ち受けていて解決すべきことが余りに多い。どうやって解決すべきかと鉛のような心の重荷を感じ、心が塞ぎ、絶望感に陥ります。出来ればこんな状態から逃げ出したい気持ちに襲われます。しかしそんな無責任なこともできません。
今日は人生のこのような不安を覚えるときにヨシュアに与えられた神様の御言葉から3つばかりのことを覚えたい。
【1、神が共におられることを信じること】
もう一度5節後半からお読みします
「5わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」
第一に教えられることは何でしょうか。
神は偉大な信仰者また指導者であったモーセのような人物とともに居られたように、9節から分かるように、うろたえ、おののくこともあるヨシュアのように小さいもの、弱いもの、足りない者、そしてその欠点をいやというほど知っている信仰者とともに居て見放すことも見捨てることもされないということです。
神様は断言されます。5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と。
神様は偉大な信仰者とともにおられるだけでなく、神様は弱い、小さくて頼りない、ちょっとしたことに大きく動揺するような私どものような信仰者とも確かに共におられる。これは何と大きな慰めに満ちた事実であり、約束でありましょう。この点をもう一度確認して心に深く刻んでおきたい神様のお言葉です。
【サタンの力】
困難に襲われ心が弱って不安な時には必ずサタンはこれを煽りますので心は乱れ自分自身をコントロールできない状態にします。そういう時にこそ神がヨシュアに言われた御言葉と約束、5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」との御言葉を思い起こしたい。
こういう不安な時こそ信仰を働かせて、状況に流されてはならない。今こそ信仰を働かせるのです。目に見えないが主イエス・キリストが、父なる神様が、聖霊なる神様が私どもと共に居てくださることを自覚的にもう一度信じ直すのです。信じるよう自分自身に命じたいのです。そのように自覚的に神様に信頼したいと思います。
詩編42篇6節 「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と」。
困難な中で詩編作者は振り回される自分を放っておかないのです。彼は自分に尋ねる「わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め」と。私たちも自分に尋ね神を待ち望むことを勧めるのです。
自分と議論し、自分に命じるのです「神を待ち望め」と自分に促すのですことは大事です。
辛い状況に流されることなく信仰により自分と議論し、自分に尋ね、自分に命じることが全てのクリスチャンの務めです。クリスチャンは牧師でなくても自分自身に御言葉により説教が出来るのです。困難な時こそ私たちはこの信仰を用いたい。
【2真剣に祈り求めること】
二つ目の点は神様がヨシュアとともに居られたように私どもと共に居て下さることをキリストへの信仰をとおして一層真剣に祈り求めることです。
【ヤコブの信仰】
創世記32章はイスラエルの先祖のヤコブが兄のエソウを裏切って逃げていたのですがその兄と再会する前に兄の復讐を恐れて不安から一晩中ペヌエルで祈ったとあります。
神が共におられることを信じていないわけではありませんが、兄から逃げた時は一人でしたが今や彼は妻や子供と多くの一族に増えていたので彼らが安全で居れることを一晩中激しく祈ったのです。それは神の天使と一晩中格闘したような激しい体験で、そのためヤコブは腿の関節を痛めたほどです。
夜が明けようとして神の天使が彼から離れ去ろうとするのですがヤコブは天使を掴んで「私を祝福してくださるまではあなたを去らせません」と必死に願いました。
神様は彼の願を聞き入れました。結果、彼ヤコブに事を冷静に見極め、賢く対処する知恵を与え、兄の心を和らげるように導かれました。こうしてヤコブと一族は危機を乗り越えました。そののちの生涯に於いても困難はありましたが父なる神様はヤコブと共に居られたのです。私たちも同じです。
【真剣な祈りの例】
確かに主イエスはマタイ福音書6章7節に「祈るとき異邦人のようにくどくどと祈るな、彼らの真似をしてはならない」と教えられた。時間をかけて祈ればよいと言うようなものではありませんがイスラエルの先祖ヤコブのように、また預言者サムエルの母、ハンナの祈りもそうでありましたように熱心に祈りたい。
列王記下4章27節の自分の子供が死んだときに預言者エリシャの足に縋り付いたシュネムの婦人のように辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、不安で心配でたまらないときに私たちにご自身の力、愛、憐れみを示して下さったイエス・キリストの父なる神様に私たちと私たちの愛する人たちとともに居て下さることを真剣に祈り求めたい。
私たちは祈って神様をねじ伏せると言うことではなく、最終的にすべてを神様に委ねて、熱心に、あっさり祈るのでなく、しぶとく真剣に神様に神が共に居て下さるように、ヤコブのように真剣に祈りましょう。
【3、神様と共に生きる】
神様が共に居て下さることを信じ、共に居て下さるように熱心に祈ることの次には私たちの方も神様から離れず神様と共に居るように生きることを覚えましょう。
ヨシュア記 1章7~8 節で神はヨシュアに言われた、
「7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」
ここで決して救いは良き行いを熱心に守って得ると言う律法主義的に捕えることのないようにしてほしいのですが、なぜなら救いはただただ主イエス・キリストを信じる信仰によるのですから、私たちも神様の御恵みに感謝して神様から離れないで、思いを尽くし精神を尽くし力を尽くして神様とともに居るように背一杯努めることです。信仰に立って聖書に書かれていることを忠実に守り喜んで生きることで全知全能の神様から離れないということです。
【神が共に居て下さるように祈り生きること】
自分の思い通り、考え通りに生きて神が共におられることを願うのは身勝手です。そうではなく私たちの方も神様から離れないで生きる、朝も昼も夜も、夜寝るときもそうです。私たち夫婦の祈りですが、眠っている間、私たちは神を忘れていても神様の近くに居ることが出来るように、また神様が近くに居て下さいと祈ります。勿論、私たちは天に召されるまで不完全ですから神の近くに居ることは出来ませんが、ただ願いにおいて神様のお側に居させてください、どんなときにも神様の傍らに居らせて下さいと祈るとき神様の方も喜んで私たちとともに居られ祝福してくださいます。
ヤコブの手紙4章8節「 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。
【神が共に居て下さる者の幸い】
独り子を十字架に架けられた神様、私たちを創られた神様は私たちの髪の毛一本をも支配しておられる。その神様がどんなときにも私たちとともに居てくださいますので私たちは安心です。
私たちはあと何年生きられるか分からない。いや何年神様に生かされるのでしょうか。誰も明日のことは分かりません。明日死んでも神様が共に居て下さると言うことは何という平安でしょうか。
【クリスチャンはこの世の勝利者】
主は新約聖書ヨハネによる福音書16章33節で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われた。主イエスはこの世では悪魔が働いていることを御存知です。
ペトロの手紙一 5:8 「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」この事実を決して忘れてはなりません。同時に私たちの主は断言されました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」私たちは世に勝たれたキリストとともに居るのです。
私たちは最終的に滅ぼされないで罪と悪魔と死に勝利できると言うことをキリストは今日このヨシュア記を通して教え約束しておられます。
【信仰の成長のために】
大きな困難のときは勿論ですが日頃の積み上げが大事です。生活習慣病という言葉もあります。体のことばかりでなく精神的なこともそうです、ちょっとした困難な時にすぐ逃げるか、ごまかすか、それともぶつかっていくか、失敗しても誠実に謝るか、そのちっちゃな精神のあり方の積み重ねが私たちの人格、性格を形造るのです。
信仰も同じです。一つ一つの習慣の積み重ねが大事です。くせ、神は人にくせを与えて下さっていますが神様はそれをプラスに生かしてそれらを祝福してくださっています。
どうか毎日を始める当たって何があろうとも私たちのような小さな者にも、1、神が共にいてくださることを確信し、2、そのことを覚えながらひと時ひと時一層神に真剣に祈り求めて、3、我々自身も神さまの御言葉を固く守り行う、失敗しても悔い改めを決意して神と共に生きることです。(おわり)
2013年06月16日 | カテゴリー: ヨシュア記
2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛(カン・セオン)先生(WEC派遣宣教師)
2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)
聖書:ヤコブの手紙1章1~12節:
1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
説教要約(文責近藤)
【自己紹介】
わたしはWEC宣教団で働いている宣教師で滋賀県からきました。日本にきて4年目です。4年目の安息年として1年間の休暇が与えられ、その間、神戸改革派神学校で主人とともに学ぶことにしました。主人は特別研修生ですので試験もありますが私は聴講生ですから試験はありません。1年間伊丹教会に派遣され今日は西谷伝道所で奉仕することが叶えられ感謝です。
【ヤコブ】
今日はヤコブの手紙から御言葉に聞きたいと思います。新約聖書には4人のヤコブがいます。この手紙を書いたヤコブは主イエスの兄弟でした。主が生きておられた間はただの人間の兄弟として主を見ていましたが主イエスが復活されたあとは神様と信じ受入れました。
【ヤコブの手紙について】
この手紙はペテロの手紙やヨハネの手紙と同様に公同書簡と言われ宛先は多くの教会になっています。ヤコブの手紙のあて先は国外に散らされているユダヤ人クリスチャンです。1世紀に書かれています。
このヤコブの手紙はクリスチャンの良き行いが強調されていることから歴史的にみて宗教改革者たちからは聖書の中で一番低く見られていました。何故かと言うとパウロの手紙などのように信仰によって救われると言うことを強調していません。行いを重要視しているように思われています。しかし最近はヤコブの手紙は新約聖書の箴言と言われ信じる信仰を実践する事の大切さを教えて見直されています。
試練に出会うとき神様が私たちに願っておられる3つのことを今日は考えましょう。
【1番目、試練に出会うとき喜びなさい】
ヤコブの手紙1章2節から4節を読みましょう。
「2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。
2節「いろいろな試練に出会うときは」とあるように誰しも試練に出会います。試練という言葉は辞書的に信仰の強さを試すもの、またその時受ける苦難だと言われることは適切だと思います。信仰の強さや実力を厳しく試すことが試練の持つ意味です。
今日のヤコブの手紙には試練と誘惑という二つの言葉が使い分けてありますが、しかし同じ言葉の翻訳もあります。原語聖書も韓国語も同じ言葉を使い韓国語では試験と言ってます。
愛する兄弟姉妹。私たちはいろんな試練に出会うと書かれています。これは認めなければなりません。クリスチャンになっても試練はあります。
試練は人によって違います。どんな試練がありますか。
病気、経済的、人間関係などいろんな試練があり、その時の反応は「何で?」と言う思いで、神様に疑いを持ちます。しかし聖書は理不尽な試練に会うときも2節後半「この上ない喜びと思いなさい」と勧めます。
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙 4章4 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言っておりますが、この手紙を書いたのは牢獄の中からでした。
彼が喜ぶことが出来たのは信仰の成長があったからです。3-4節「3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。
皆さん。試練の中にある方は全てのことを神様に委ねて喜ぶ努力をしませんか。今の試練は私たちの信仰の成長の為だと信じませんか。神様は私たちを待っておられます。
【2番目、試練に出会った時祈ること】
ヤコブの手紙5節~8節を一緒に読みましょう。
「5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」。
【知恵を求める】
5節は私の好きなことばです。韓国で学生時代キャンパスクルセ-ドで活動しました。ここで勉強の前に読んだ詩編とヤコブの手紙が自分の信仰と生活に非常に有益に働いたと思い返します。
5「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」とありますが知恵は本当に必要でしょうか。
私の持っている辞書には「知恵とは人生に対する実際的洞察力で、多くの試練に忍耐をもって打ち克つときに得られる」と書かれています。知恵は単なる知識でなく私たちの様々な経験が積み重なって得られる広いものです。5節で知恵を求めるということは私たちが直面している様々な問題に必要な力を求めるということです。
日本のことわざに「苦しいときの神頼み」というのがありますが普段は信じていないのに苦しいときに神に頼ると言うことです。世間の人でも何か大変なことがあると普段信じていない神様に頼ります。私たちにはこの世の神に勝る本当の神様がおられます。
使徒パウロは試練に出会ったとき祈りました。
使徒言行録16章23~26節を読みましょう。
「23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」。
パウロはフィリピで占いをする女奴隷から主イエスの名によって悪霊を追い出したために牢屋に入れられました。
パウロとシラスが牢屋のなかで歌った讃美や祈った祈りはどんなものだったでしょうか。
彼らは牢から出る事よりも何よりも神様に感謝を捧げ神のご存在をほめたたえました。
【心が定まらない人】
時には祈っても答えられないことがあります。なぜでしょうか。試練にあった時、人は神様を疑うこともあります。
聖書はヤコブの手紙1章6~8節 に「6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と語ります。
【二心のある人】
今日の箇所の8節「心が定まらず」疑う人のことを新改訳聖書は二心のある人、英語でDouble mindedとも言います。信仰と不信仰が分裂している人、神と神以外の者に信仰が分かれている人、二股を賭けると言う言葉もあります。不倫を行う人もそうですが、聖書に姦淫を犯すと言うことは真の神様を信じると言いながら神様以外の偶像を礼拝する人のことを言います。
そのように心に疑いを抱くときは神様は祈りに応えられません。
マタイによる福音書 7章 「7求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」。
私たちを愛する神様は必要なら奇跡をも行うことがおできになる全能の神様で、無から有を作り出された神様です。そのような神様が私たちの祈りに耳を傾けておられます。「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」全てのことを委ねて試練を乗り越える知恵を神に願いませんか。神様は待っておられます。
【3番目、試練に出会ったとき耐え忍ぶこと】
今日の手紙ヤコブ1章の12 節「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。
聖書は試練を耐え忍ぶ人は幸いだと言います。なぜでしょうか。試練を耐え忍ぶ人は神様から約束された命の冠を戴くからです。ここに書かれている「約束された命の冠」とは何でしょうか。これは主イエスの十字架の死の贖いによって取り換えられた新しい命のことで主イエスが約束してくださったものです。
ヨハネによる福音書11章25~26に「イエスは言われた。『25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」と。
【ヨブの試練と忍耐】
旧約聖書のヨブの試練を思い起してください。ヨブは神の前に真実な人でしたが彼は試練により子供も財産もすべて失った。しかし決して神様に恨み言を言わず神様を讃美しました。
旧約聖書ヨブ記1章20~22節を見てください。
「20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
21 『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」。
また家族も財産も健康も失ったヨブに対して三人の友人からもヨブは神様のまえに隠れた罪があるはずだと彼の心は鞭打たれました。しかしヨブはこのような酷い試練にあっても決して神様を非難せず耐えました。神様はヨブの忍耐を喜びその信仰を認められ試練により失ったものを2倍にして返しヨブを祝福された。
ヨブのことをヤコブの手紙5章11節 で語ります。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。
【命の冠を受けるために】
皆さんは試練に会っておられますか。どうしても解決できない問題で涙しておられますか。神様はすべてを御存知です。神様は慈愛と憐れみをもって私たちを顧みてくださいます。神様が準備しておられる命の冠を受けることを期待しながら今日も与えられた道を神様と共に歩みませんか。神様は私たちを待っておられます。私たちが試練にあっても、喜ぶこと、祈り求めること、耐え忍ぶことを神様は願っておられ、聖霊様の助けをもって励ました下さいます。(おわり)
2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔 宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔
宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
聖書:ヨハネによる福音書18 章15~27節
【ペトロの否認】
15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
【大祭司、イエスを尋問する】
19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
【 ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う】
25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(説教要約 文責近藤)
【美しい被造物】
日本に来て4年目です。私たちの住む日本は四季の美しさがあります。私は中でも秋が好きです。何故かと言うと秋の紅葉が美しいからです。落ち葉が美しいです。それが果たした美しさです。収穫が終わると落葉しやがて腐ります。しかし落ち葉のおかげで新しい芽を出します。それは美しいです。
カマキリの例ですが、オスはメスに食い殺されます。メスはそれによって新しい命を産みます。カマキリのオスの死は美しいです。
動物の親たちは子供の餌の為に本能的に働きます。それは美しいです。
植物も昆虫も動物も人間も同じです。親は子供の命の為に生きます。これは美しいことです。
主イエスを信じる者、クリスチャンは美しいと言われます。ではどのように生きるクリスチャンが美しいでしょうか。以下に美しいクリスチャンを3つの点にまとめます。
1、常にキリストに頼る人は美しい。
今日の18章25~27節
25 『シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた』。
【捕えられる前のペトロ】
ペトロは捕えられる前はどんなことがあっても主イエスに従いますと言いました。
マタイ福音書26章33節『するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った』。
もう一か所はマルコによる福音書
14章31『ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。』。
最後にもう一か所、
ヨハネによる福音書13章37 『ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」』。
ペトロは口先だけで言った訳ではありません。ペトロはイエスが捕えられようとしたとき剣をとり大祭司の弟子の者に切りかかりその耳を切りました。
【ペトロの否認】
ペトロは主イエスの奇跡を体験しました。主は嵐を鎮めたし病人を癒した。そのようなペトロにとって主は全知全能の人でしたが、その主が捕えられて大祭司の裁きを受けている。それはペトロの期待した主イエスではなかったので彼は失望したのです。
25節『人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った』。
また26節以下『 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。』
ペトロは主を呪いさえしました、マタイによる福音書26章
74節 『そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた』。
勇敢だったペトロがこうなった理由は絶望の後ろに居られる神様を見ることが出来なかったからです。
残念ながらペトロは自分の命を守るため主を裏切ったばかりか嘆かわしい記録を残しました。
平穏な時には誰も裏切るようなことはしません。しかし自らが絶望的な決定的状況に追い込まれると試され、その瞬間に裏切るのです。
美しいクリスチャンは信仰の基礎を固くするために毎主日神様を礼拝します。そうでないと決定的瞬間に主を否む可能性があります。
2、美しいクリスチャンは心ひそかに不義を行わない
【大祭司の知り合いの主の弟子】
今日読んだ聖書の箇所にはペテロより悪い主の弟子も登場します。ペトロより悪い行動をとった人です。15節以下を見ましょう。
『15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた』。
ここにペトロともう一人の弟子がいました。もう一人の弟子の名前は記されていませんが彼は大祭司の知り合いでした。彼は大祭司と親しいので堂々と家に入れたのです。そして門番の女中に話してペトロを中にいれました。ペトロが大祭司の家に入った途端、女中はペトロに17節「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言っていますが、ここで女中はこのもう一人の弟子には何も言ってません。彼は表向きは主の弟子でしたが裏では大祭司と内通していた。この弟子は現実的な利益を得ていましたが神様の前では認められませんでした。
私たちも教会の外ではこの弟子のように不義な暮らしをしていませんか。
日本には1%のクリスチャンがいます。韓国は30%、中国にも沢山のクリスチャンがいます。ヨーロッパにはもっといます。それなのにこの世は何故わるくなるのでしょうか。世の闇がなくならないのはその不義を行った弟子のようなクリスチャンが多いからではありませんか。
野望ambitionという言葉は二つの意思を持つという言葉に由来します。野望とは神の方に向かない意思をもった人です。こういう人は神の前に罪人です。美しいクリスチャンは不利益を蒙っても荒海のような困難にあっても絶対に不義を行いません。
3、
美しいクリスチャンとは御言葉を聞いて悔い改める人
【主に対する暴力】
22節に愚かな人が書かれています。『 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った』。
下役が平手で打ったことは主に対する暴力でした。彼はそのことを全く悔い改めていません。その下役は罪が何か分からないので悔い改められませんでした。
しかしペトロは悔改めました。その態度を見ましょう。
ペトロも三度主イエスを否認し最後には主を呪いさえしました。
ペトロも主に暴力をふるいました。それは舌の暴力でした。誰の罪がより主を傷つけるのでしょうか。わたしはペトロの方が主をより傷つけたと思います。
【悔い改めるペトロ】
しかし下役とペトロの違いは明らかです。
マタイによる福音書26章75節 『ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた』。
ペトロは御言葉を聞いて悔い改めの涙を激しく流したが、下役は悔改めを知りません。
ペトロを悔い改めさせたのは鶏の声を聴いたからで、「鶏が鳴く前に三度私を知らない」と言う主イエスのお言葉を思い起こして激しく涙したのです。
皆さん日々私たちが御言葉を聞く理由はなんでしょうか。御言葉がないならクリスチャンとして悔い改めることが出来ません。
神様の御言葉である聖書を知らない人は神の御前で真に悔い改めることがありません。美しいクリスチャンとは悔い改めることの出来る人です。
私たちの特権は御言葉によって悔い改めることが出来ることです。
【ホセ・カレーラス】
1987年白血病で倒れたホセ・カレーラスという声楽家がいました。世界の三大声楽家の一人と言われます。
彼はその名声を守るため絶対にしないことがありました。煙草を吸わないし、また煙草を吸う人のそばにも行かなかった。逆に毎日することがありました。それは毎日30分発声練習をすることでした。数年前に韓国で歌いました。4千人が彼の素晴らしい歌声に歓声をあげました。アンコール曲を歌った後で彼は声楽家として守るべきこととするべきでないことを話しました。
わたしたちクリスチャンが毎日するべきことは何か。毎日聖書を読んで悔い改めることではないか。そうすれば主はあなたを一番美しいクリスチャンと言われます。
心ひそかに不義を行わず、日々御言葉に聞き、罪を悔い改めるなら美しいクリスチャンと言ってくださいます。神様はそのような素晴らしい恵みと愛を止めどなく注いでくださいます。(おわり)