2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書26章
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
説教要約(文責近藤)
【聖餐式に思うこと】
わたしたちの西谷伝道所では年6回ぐらい聖餐式を行います。
この聖餐を受けるとき皆さんは何を考えますか。
1、主の贖い死に対して神様に感謝を覚えます。
2、信仰への熱心を励まされる。
3、主の兄弟姉妹に犯した罪に対して神の赦しと愛を覚えます。
4、しかしまた否定的考えもあるかもしれません。
「また聖餐式がやってきたか。前回に比べて自分は信仰的に成長しただろうか。罪を犯すばかりで神と隣人を愛しただろうか」と。
【取って食べなさい。これはわたしの体である】
このように信仰が不十分だと否定的な思いがあれば主の御言葉を思い返してください。
そうすれば否定的な思いを取り除いてくださいます。
マタイ福音書26章26節「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
主は最初にこの御言葉をもって弟子たちを聖餐式に招いてくださいました。
聖餐式を通して主は私たちを霊的に食べさせ養ってくださいます。
この御言葉は私たちが自分の短所を思うこと以上にはるかに大事なことです。
【信者と未信者の差は何か?】
クリスチャンは道徳を大事にしますが、多くの未信者も道徳を大事に守ります。未信者がキリスト者よりもっと優しく憐れみ深い人も居ます。
実際、信者と未信者の差は何でしょうか。
その一つは聖餐式において私たちはパンと杯を頂きます。これは大きな差です。
聖餐式で聖餐とその交わりに与るとき信仰が励まされます。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【霊的糧なる主イエスを食べる】
「わたしたちは毎日キリストを咀嚼しなければならない」とある神学者は言います。
それは日に日に主イエスを噛みしめることで主イエスに似ることです。
霊的糧がなければキリスト者としての希望と力が失せてしまいます。
身体には食べ物が必要なように魂は霊的糧により守られています。
私たちの信仰もキリストから霊的糧を受けなければ弱くなります。
聖餐式を通してそのことが教えられています。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【幼子のように】
主イエスは「良く聞きなさい。誰でも心を入れ替えて幼子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」と言われました。
幼子は泣くことと食べる事しかできませんが、何より食べることは大事です。
幼子が食べないと心配ですが、幼子が食べるときは安心と喜びがあります。
食べることが仕事の赤ちゃんは食べることを悪いと思いますか。
キリスト者は主から幼子のように霊的栄養を頂くべきです。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【歳を取っても】
人は歳を取るほど幼子のようになります。歯が無くなり、以前できたことが出来なくなります。ある面でつらいことです。私の叔母は100歳まで長生きしましたが目も見えなくなり耳も聞こえなくなり寝たきりの状態になりました。今も覚えていますが自立心の強かった叔母が赤子のようになって本当に辛かったと思います。
でも神はご自分の国に入れるために叔母を赤子のようにされたのです。
私たちもそのように幼子のようになって心配せずに主から霊的栄養をいただきましょう。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主の晩餐】
キリスト教礼拝の中心的儀式である聖餐式は私たちの才能の腕を示すコンテストではありません。それは主の晩餐です。
今日の礼典は晩餐です。
悩みのある人、ない人全ての人が主の食卓の周りに招かれ共に霊的栄養を頂きます。
そうでないと私たちは霊的に飢えてしまいます。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主は忠実を求められる】
宗教改革者マーティン・ルーテルは興味深いことを言いました。
「律法の時があり、恩恵の時もある。要求のときと恵み深い約束の時がある」と。
キリスト者の務めは良く時間を管理することです。
「自分の十字架を負って私に従わないものは私にふさわしくない」。
「 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる(ルカによる福音書 9:26)。」
これは厳しい言葉に聞こえますが主は私たちが神の国の為に成功するよりも忠実に従うことを求めておられます。律法の時もありますが恩恵の時もあります。
【恵みの時】
最後の晩餐は恩恵の時でした。主は「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われ、私から恵みを受けて霊的賜物を一杯取って下さいと主は言われます。
神の国の為に努めることは大切ですが、主イエスが求められることは恩恵です。
律法と恵みが聖餐式の時に一つとなりました。
この招きに一人残らず預かり皆が聖餐式の恵みを受け取ってください。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と主は私たちを招いておられます(おわり)。
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