2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:新約聖書フィリピの信徒への手紙1章
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
説教要約(文責近藤)
【夢に見る完璧な教会】
皆さん、完璧なキリスト教会について考えてみましょう。
私が夢の幻にみる完璧な教会は、人々は一つになって、教会の益を求め、神の栄光の為に励みます。良いことばかりを励み、相手を自分より偉いと心から尊び、教会員は悪口を言わず、相手について言うことは良いことばかりです。
讃美歌を唄うと天使の歌声のようです。更にこの完璧な教会の牧師の姿を見ると、彼の説教は毎週、信者のニーズを満たし、聞く者は信仰がますます豊かになって成長します。完璧な教会の牧師の説教はいつも面白くて聞く者の注意を集めます。
牧師は魅力的性格と溢れる信仰をもって会員をいつも喜ばせます。
実は私は夢の幻にこのような完璧な教会を見ると目が覚めてしまいます。なぜなら私がこの群れの牧師になったらこの教会の完璧さが壊されてしまうことが分かるからです。
冗談に誰かがこういいました、もし完璧な教会を発見したらその教会に属してはいけません。なぜなら自分がその教会に入ると、その完璧さを壊してしまうからです。
【この世には完璧な教会はない】
実はこの世には完璧な教会は存在しません。使徒パウロは言いました『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です(テモテへの手紙一 1:15)』
ここでいう罪人とは、一般に言う犯罪人のことでなく、聖書のいう罪人とはこの世の定義と異なります。はじめ神と人は平和で互いに愛し合いました。しかし人は神のもとの自由を悪用し自分の目に正しいと思うことをして自己中心的になりました。自己中心的な行為と態度を聖書は罪といい、全ての人は罪人です。
【教会は罪人の病院】
それ故、教会は完璧な人の集まりではなく罪人の病院です。教会で罪という病気は癒されるのです。
主イエスは言われた「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカによる福音書5:31)」。
完璧でない私たちは教会で神の救いと赦し受け、「私に従いなさい」と主イエスが教えて下さった生き方に従うのです。
【初代教会も罪人の集まりであった】
皆さんは新約聖書の初代教会は今日の教会より優れたものとして憧れます。皆が主の証を立てました。しかし実を言うと今日の教会と変わらず罪人の集まりで、自己中心的であり愛に欠けました。しかし罪の赦しと主が教えて下さった生き方により癒されました。
【フィリピで始められた教会】
今日の聖書はフィリピの教会に送られたパウロの手紙の一節です。パウロと他の二人の弟子がAD50年ころフィリピに来て伝道しました。使徒言行録16章を見てください。
使徒言行録16章
12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
フィリピのリディアという婦人が洗礼を受け、このリディアの家で集会が始められたのです。迫害のなかにも奇跡的に神に守られ教会は成長したのでパウロは他の地に伝道に行きました。その後10年間に二度ばかりフィリピ教会をパウロは尋ね信者を励ましました。またフィリピの教会はパウロの為にも捧げ祈りました。
パウロは伝道の結果多くの教会を建てあげましたが、パウロは迫害されローマに連れていかれました。フィリピの信者がパウロのもとに献金をもって行きました。
【フィリピ教会も完全でなかった】
しかしフィリピの教会は完全ではありませんでした。それでパウロはこのように書き送りました。
フィリピの信徒への手紙2章
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
これは完璧な教会に書き送ったものではありません。教会の中に争いがあり、自己中心的な罪が教会の中にありました。パウロは又こう書き送りました。
フィリピの信徒への手紙3章
18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
フィリピ教会も罪人の集まりでした。又パウロは書きました。
フィリピの信徒への手紙4章
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
二人の熱心な信者エボディアとシンティケが大喧嘩になりました。パウロの願いは二人の和解でした。そしてフィリピ教会の将来に確信してこう書きました。
それが今日の聖書の箇所です。
フィリピの信徒への手紙1章
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
【パウロの確信】
神が成し遂げられた教会は罪人の集まりであってもパウロは確信しました。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。
【始められたことを成し遂げてくださる神】
その大きな信仰と希望は何処から来たのでしょうか。それは6節に記されています。
6「 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。
【主がフィリピで、西谷で始められた良き業】
神がフィリピで良き業を始められました。川岸でパウロがリディアに出会い彼女に神が信仰を豊かに授けられました。自分ではなくパウロは神こそがフィリピで伝道を始められたと確信しました。忠実である私たちの神は御自身が始められたことを成し遂げて下さるのは理の当然とパウロは信じました。私たちの主は始められたことを成し遂げてくださる全能の神だからです。始められた時からイエス・キリストの再臨の日まで神はずっと働き良い結果を保障してくださいます。
愛する兄弟姉妹、この神の保証はこの西谷教会にも当てはまります。小さな群れでありながら愛する神は西谷教会を成長させ16年近くにわたり忠実に守って導いて下さいました。
これから主の再臨の日まで主イエスが始められたことを成し遂げられ成長させてくださると私は確信しています。(おわり)
2013年05月26日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
2013.5.19.ペンテコステ礼拝説教「体も希望のうちに生きる」赤石純也牧師
新約聖書 使徒言行録2章(ペトロの説教)
14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
説教要約(文責 近藤)
今日の聖句の前にルカによる福音書23章44~45節を開いてください。
ルカによる福音書23章44
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
【太陽は光を失い全地が暗くなった】
主イエスの十字架の死により全地は太陽が光を失い暗くなったと書かれてあります。
またルカによる福音書は24章27 を見ますと復活された主は聖書全体を説明してこの書は御自分について書かれていることを言われたのです。
27節『そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された』。
【聖霊降臨と教会最初の説教】
そして今日の聖書の箇所に移ります。使徒言行録2章14~28節(前掲)。
14節『すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた』。
これは五旬祭の日になされた史上最初の説教です。主イエスの復活から50日目のことです。
使徒言行録の初めのところ第1章を開いてください。
【 約束の聖霊】
3節 『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された』。
その後に今日のペンテコステの出来事が預言されています。
使徒言行録1章8『 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』
ここには聖霊が降ると、あなたがたは力を受けると書かれています。
使徒言行録1章1 節を見ますと『テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました』とあります。
第一巻とはルカ福音書です。使徒言行録はその第2巻になります。
【聖霊が降る】
第一巻のルカ福音書の最後には主イエスが復活されて四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話された後昇天されたことが記されています。さらに10日後の五旬祭の日に、今日の箇所の前ですが、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったと書かれています。そうすると弟子たちは自分たちの国の言葉で語りだしたのです。聞く者には自分たちの国語で語られる言葉には力がありました。
使徒言行録2章
「1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
聖霊が主の復活50日目五旬祭(ペンテコステ)の日に正に降ったのです。そしてペテロがした説教は教会最初の説教です。ペテロは次のように話し出しました。
【ペテロの説教】使徒言行録2章
『14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』
これこそ預言者ヨエルの預言の成就ですとペテロは語ります。
17 節以下『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
【聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける】
『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける』と言うことが起こると言われるのです。
預言するとは真の神様のことをを語ることができるということです。
『炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』とき弟子たちは力を受けたのです。聖霊は力です。
17後半『するとあなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る』
若者は幻を見るとはヴィジョンを与えられること、これは力です。
老人は夢を見るとは希望を持つことが出来る。これも力です。こういう世界が開ける。
【全ての人に力が与えられると言うヨエルの預言】
18節『 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』
主のの霊を持った人でなくても全ての人に力が与えられるのです。
子どもたちも神さまについて語るという力が与えられると書かれています。それが21節の終わりに書いてあります。これは救われると言うことです。21『 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
しかしその前に、主が十字架に架けられた日に太陽が暗くなったと書かれています。
20節『 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、』太陽が主の十字架の場面で歴史上の事実として暗くなったと預言の成就が書かれています。
21節『主の名を呼び求める者は皆、救われる』とは救いの輝かしい日がきて一人一人に力が与えられる日が来た。これは預言者ヨエルによって与えられた預言の成就だといわれます。これが今日覚えるべき一つ目の事柄です。
【ダビデの預言】
もう一つの事柄とは25節以下を見てください、旧約聖書のダビデの預言が言われます。
『25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
【ペテロの証】
預言者の言葉をペテロは自分の言葉のように語っています。
説教で聖書の言葉が自分の身の上に起ったことだとペテロは自身の言葉として語ります。
かってペテロは第一部の人生では希望を失い、命に至る道を見失い、どんなに涙を流したことか。そのペテロが変えられたのです。目の前に主を見て、いつも主を信じて生きる生き方へと変えられたのです。その力が今日与えられた。またこの力は誰にでも与えられているという勧めです。
25節『主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない』
26節『 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう』。
25節では、ペテロは神を信じて生きる者となって、主がいつもともにおられるので決して動揺しないものになった。それは全ての人にも与えられている生まれ変わらせる力です。
【人生の第一部と第二部】
まとめてみましょう。人生の第一部で仮にあなたが試練にあい動揺ばかりして希望を失っても、たとい道を失ったとしても、涙が止まらなかったとしても今日からは生きるヴィジョンを持った人生の第二部を生きることが出来る。そういう力が誰にでも与えられるのです。
ペテロの第一部を紹介します。「なぜ聖書が分からないのか」と主イエスから何度も言われたペテロです。それなのにやけに自分に自信を持っていて他の弟子の誰もが主に従わなくて死んでも私は主に従いますと。この彼の虚栄が崩れてしまって涙にくれるペテロでした。
私たちも自分を鼓舞し頑張るのです。しかし辛い試練が起ります。たとえば病、家族の病、に襲われ歯を食いしばって生きた人生の第一部を持っています。
【教会から始まる第二部の人生】
しかし今日、人生の第二部を始めることが出来ます。一同が教会に集まっていた時に第二部のドラマが始まったのです。これは私たちにも起こります。教会で神様が新しい人生の第二部を与えられる。それは教会で聖書の解き明かしを聞くときです。第一部では辛すぎました。病や職場の戦い、人生いろんな問題でへとへとです。辛すぎる人生です。生きる喜びも無くなっている。しかしこれは神様の御心ではありません。どうか教会で人生の第二部を備えてください。
それが今日です。今日に限らず毎週の礼拝に集うとき聖霊の稲妻が降るのです。
毎日ヘトヘトの生活している中でこういうヴィジョンが見えないです。
悩み、悲しみ、虚しく生きるのは主の御旨ではありません。
どんな人生の重荷があっても感謝して今日生きることを神様は願っておられます。
教会に行くことをやめ、自分で歯を食いしばって生きて年老いた時に希望があるでしょうか。
死んで無の世界に入るかと心に動揺を覚えても当然ですが、神様はこんな人生の第一部をもって不安のまま死んでいくことを望まれません。
第二部の人生を今日から始めること、今週もそして来週も、毎週ごとに与えられる確かな希望を持って生きることを神様は待っておられます。
第二部の人生が教会で、礼拝で与えられる。そしてたとい現実の状況は変わらなくても第二部の人生を生きることが出来るのです。
教会こそ確かなヴィジョン、希望をもって生きる力が与えられるところです、教会以外にこの力は与えられません。この真理は教会以外のほかのどこでも与えられません。
人生の第二部を生きる力を教会で、礼拝で、説教で、神の言葉から受けてください(おわり)。
2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書26章
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
説教要約(文責近藤)
【聖餐式に思うこと】
わたしたちの西谷伝道所では年6回ぐらい聖餐式を行います。
この聖餐を受けるとき皆さんは何を考えますか。
1、主の贖い死に対して神様に感謝を覚えます。
2、信仰への熱心を励まされる。
3、主の兄弟姉妹に犯した罪に対して神の赦しと愛を覚えます。
4、しかしまた否定的考えもあるかもしれません。
「また聖餐式がやってきたか。前回に比べて自分は信仰的に成長しただろうか。罪を犯すばかりで神と隣人を愛しただろうか」と。
【取って食べなさい。これはわたしの体である】
このように信仰が不十分だと否定的な思いがあれば主の御言葉を思い返してください。
そうすれば否定的な思いを取り除いてくださいます。
マタイ福音書26章26節「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
主は最初にこの御言葉をもって弟子たちを聖餐式に招いてくださいました。
聖餐式を通して主は私たちを霊的に食べさせ養ってくださいます。
この御言葉は私たちが自分の短所を思うこと以上にはるかに大事なことです。
【信者と未信者の差は何か?】
クリスチャンは道徳を大事にしますが、多くの未信者も道徳を大事に守ります。未信者がキリスト者よりもっと優しく憐れみ深い人も居ます。
実際、信者と未信者の差は何でしょうか。
その一つは聖餐式において私たちはパンと杯を頂きます。これは大きな差です。
聖餐式で聖餐とその交わりに与るとき信仰が励まされます。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【霊的糧なる主イエスを食べる】
「わたしたちは毎日キリストを咀嚼しなければならない」とある神学者は言います。
それは日に日に主イエスを噛みしめることで主イエスに似ることです。
霊的糧がなければキリスト者としての希望と力が失せてしまいます。
身体には食べ物が必要なように魂は霊的糧により守られています。
私たちの信仰もキリストから霊的糧を受けなければ弱くなります。
聖餐式を通してそのことが教えられています。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【幼子のように】
主イエスは「良く聞きなさい。誰でも心を入れ替えて幼子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」と言われました。
幼子は泣くことと食べる事しかできませんが、何より食べることは大事です。
幼子が食べないと心配ですが、幼子が食べるときは安心と喜びがあります。
食べることが仕事の赤ちゃんは食べることを悪いと思いますか。
キリスト者は主から幼子のように霊的栄養を頂くべきです。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【歳を取っても】
人は歳を取るほど幼子のようになります。歯が無くなり、以前できたことが出来なくなります。ある面でつらいことです。私の叔母は100歳まで長生きしましたが目も見えなくなり耳も聞こえなくなり寝たきりの状態になりました。今も覚えていますが自立心の強かった叔母が赤子のようになって本当に辛かったと思います。
でも神はご自分の国に入れるために叔母を赤子のようにされたのです。
私たちもそのように幼子のようになって心配せずに主から霊的栄養をいただきましょう。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主の晩餐】
キリスト教礼拝の中心的儀式である聖餐式は私たちの才能の腕を示すコンテストではありません。それは主の晩餐です。
今日の礼典は晩餐です。
悩みのある人、ない人全ての人が主の食卓の周りに招かれ共に霊的栄養を頂きます。
そうでないと私たちは霊的に飢えてしまいます。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主は忠実を求められる】
宗教改革者マーティン・ルーテルは興味深いことを言いました。
「律法の時があり、恩恵の時もある。要求のときと恵み深い約束の時がある」と。
キリスト者の務めは良く時間を管理することです。
「自分の十字架を負って私に従わないものは私にふさわしくない」。
「 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる(ルカによる福音書 9:26)。」
これは厳しい言葉に聞こえますが主は私たちが神の国の為に成功するよりも忠実に従うことを求めておられます。律法の時もありますが恩恵の時もあります。
【恵みの時】
最後の晩餐は恩恵の時でした。主は「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われ、私から恵みを受けて霊的賜物を一杯取って下さいと主は言われます。
神の国の為に努めることは大切ですが、主イエスが求められることは恩恵です。
律法と恵みが聖餐式の時に一つとなりました。
この招きに一人残らず預かり皆が聖餐式の恵みを受け取ってください。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と主は私たちを招いておられます(おわり)。
2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一5章
21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
説教要約(文責 近藤)
【ゴミ屋敷】
数年前、テレビでゴミ屋敷をレポートした特別番組がありました。庭には廃車が2,3台とものすごい量のガラクタが家中所狭しと置いてありました。使えなくなった電気製品や家具類などで一杯になった屋敷をリポーターが訪ねました。
玄関のベルを鳴らしても誰もでてきません。それでリポーターは近くのコンビニでお弁当を買ってそれを玄関に置いて帰りました。二日目もこの家の主は出てこないので又弁当を置いて帰りました。弁当は食べているようなので三日目も訪ねましたら漸くこの家の主人が出てきて迎え入れてくれました。
中に入ると天上までガラクタで一杯でした。生くさい臭いも鼻につきました。20年前の新聞が置いてあり、2階への階段も物で塞がっており上がれません。リポーターが聞くと「捨てるのはモッタイナイし、ゴミの日にゴミ箱に捨てられたものもいつか役に立つと思って拾っている」と言いました。
ゴミやガラクタを家から捨てられないものは普通ではないと思いますが、実は我が家では私がごみを捨てる担当になっています。
捨てる物によって曜日が決められていますので分類して廃棄します。殊に生ごみを捨てることは本当に歓びになります。使えなくなった廃品を捨てるのも嬉しくなります。
【心のゴミ屋敷】
多くの人は家の中をきれいにかたずけるが、人生の中でのよいことと悪いこととを選別して余計なものを捨てなければなりません。
そうでないと良い物を探すのが難しくなります。
今日の聖書は心のゴミ屋敷にならないようにすることを教えます。
人生に於いて正しくするものと悪しき習慣を選び分けることは大事なことです。
その為には正しい判断により良いことを大事にし、悪しきものを捨てなければなりません。
アブラハムが息子イサクの為に嫁を探した時の4つの原理は非常に参考になります。
1、神の御言葉を知り、良い判断をもとめること、
2、神の御心を行うこと、
3、神の摂理を信頼すること
4、正しい判断が出来るように知恵と主の導きに従うこと
【すべてを吟味し】
テサロニケの信徒への手紙一5章21 「すべてを吟味し」とは原文では金銀が本物であることを確かめることを「吟味する」と言いました。
偽物の金や銀をだまされて買わないようにするためにすべてを吟味することは大切です。
【霊的真理と偽りの宗教】
使徒パウロは霊的真理と偽りの宗教を見分けるために吟味することを教えます。全ては真理ではありません。
聖書に基づかないことは絶対に受け入れないことは人生に於いて注意すべきことです。
人生に於いて吟味すべきことは多いです。
広告、マスコミ、政治家の言うことをすべて受け入れると私たちの魂と人生の歩みはテレビで放映されたゴミ屋敷のようになります。
【良いものを大事にし】
次に「良いものを大事にしなさい」と言われます。この世には良い物と悪いものがあるので、それらを区別して悪いものを捨て良い物を大事にすることが大切なことです。
フィリピの信徒への手紙に使徒パウロはこう書きました、
「1章9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。」。
主から教えられたことをつかんで日々実行することは信仰生活にとって大事です。善きものと真実がここには保障されています。
【あらゆる悪いものから遠ざかり】
最後に「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と言われます。
何よりも自身の中の悪を憎み罪を犯すことを止めることです。
わたしは牧師としていろんな人に出会いました。ガラクタを大事にしている人が多いです。
人への悪い思いは、怒り、恨みは捨てるべきです。これらはその人を腐らせていきます。悪い思い、悪い癖、悪い友人、悪い言葉は人生をダメにします。
このようなガラクタな思いを捨て、神の助けで捨てて人生をクリーンにしてください。
イエス・キリストがこの世に来られたのはこのガラクタのような全ての罪から解放するためです。主を受け入れると新しい人生が始まります。主はこのガラクタを捨てることを助けて下さいます。
【エンジントラブルに見舞われた爆撃機】
戦時中のことです。イギリスのある爆撃機がドイツの上空でエンジントラブルに見舞われ4つの内3つのエンジンが止まってしまいました。イギリスまで帰るのは困難でした。ドイツの陸地に不時着すべきという意見もあったが、パイロットはこれを望まず、飛行機を軽くして不必要な機材、物資全てを捨てるように皆に求めました。かなりの爆弾や椅子、兵士の衣服までもすべて捨てさせましたので飛行機は無事にイギリス海峡を越えて基地に帰りつくことが出来たのです。
歳を取るとは人生の不必要なものを捨て去ることだと言われます。良い物、永遠のものだけをつかみ取りましょう。
高齢でガンのアメリカの父を見舞った時、父の書斎の整理を手伝いました。父は必要なものと不必要なものを分けていました。不必要なものを捨てること、辛いことですがこれは大事なことです。
御言葉は「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と教えて下さいます。(おわり)
2013年05月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書