2013年4月

2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

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2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生

新約聖書、ヨハネによる福音書107~18

7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 

10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 

14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

説教要約(文責近藤)

【私は有るという者】

他の福音書には見られない「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は神学的に練られた言葉であってユダヤ人、パリサイ派の人びとと言った旧約聖書に精通した人に語られた言葉ではないかと思います。

 

ヨハネの福音書には「私は・・である」と主イエスは御自身を語られることがよくあります。「わたしは良い羊飼いである」、「私は命のパンである」などなど。

英語では「I am・・」。聖書の書かれたギリシャ語では「エゴ(我」エイミ(有る、存在する)」です。

 

神様が御自身を「私は有るという者」だと御自身の名前を最初に明かされたのは旧約聖書の出エジプト記3章にある芝の書でモーセを召しだされた記事に出てきます。

 

モーセが民に「神様、あなたの名を民から尋ねられたら何と答えればよいでしょか」と主なる神様に言いますと、神はモーセに『「私は有る」という者』だと言われました。

 

「私は・・である」と言われたイエス様が神様を示す「私は有る」という者だと、すなわち主イエスは神と同じだと語られたのです。

 

【良い羊飼い】

「良い羊飼い」とは「良い牧者」とも言われます。詩編23篇にも「主は羊飼い」とありますが、今日は旧約聖書エゼキエル書34章の預言から主イエス様が御自身を「良き牧者」と言われた旧約聖書の御言葉の成就について語ります。

 

旧約聖書エゼキエル書34

11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。

14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。

16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。18 お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。

19 わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。

20 それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。21 お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。

 

【イスラエルの偶像崇拝と民の指導者】

ここに「良い牧者」が語られる。

民の指導者が偶像礼拝に陥り神殿の中には偶像がはびこっていたことに神の怒りが落とされイスラエルは北も南も滅ぼされました。

 

当時のイスラエルの指導者はどんな悪事を働いたかエゼキエル書342~10節に「イスラエルの牧者」と言われ次のように語られている、

2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。

3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。

4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。

6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

 

7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。

8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。

9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。

 

48節にあるようにイスラエルの指導者、牧者は羊である民を養わず「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」と言われる。

 

今日与えられた御言葉のヨハネ108 では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」と主イエスは語られる。

 

私より前に来た牧者は、宗教指導者も王も盗人であり、強盗であると主は言われる。ここに人間の牧者たちの姿があります。

 

彼らは羊の群れを散らし失わせ傷つけるのです。それでも羊は牧者に付いていくしかない。

 

【主なる神は世の牧者たちに立ち向かう】

神はご自分の民がこのような牧者にさらされ導かれることに耐えられません。

 

そこで主イエスが遣わされたのです。

ヨハネ1010節後半「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。

 

エゼキエル書34章後半で神は「私はイスラエルの牧者に立ち向かい彼らから羊の群れを取り戻す」と言われます。

10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」

 

主なる神がその羊である民を牧すること、この良い牧者こそ主イエスであると御言葉は言うのです。

 

神とイエスは違うのではないか?と疑問に思われるかも知れません。

 

ヨハネ福音書1027節以下でユダヤ人に主イエスは答えられています、

27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。

:30 わたしと父とは一つである」。

わたしと父とは一つである。」と。「私がそれである」と。

 

あのエゼキエル書で預言された、あの良い羊飼いこそ私であると主イエスは言われた。

 

確かに主イエスが言われたことは旧約聖書の助けから分かりますが、主イエスが言われるのはこの程度の読みでは終わりません。

 

【良い羊飼いは羊の為に命を捨てる】

「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われます。

この命を捨てると言う言葉は旧約聖書の何処にあるでしょうか。

ユダヤ人には羊の為に命を捨てるとは尋常ではないと考えられたが、イエス様の読みの深さはもう一度エゼキエル書34章から気づかされる。

旧約聖書エゼキエル書3422~23節「 22しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。23わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。

 

ここに「一人の牧者を起こし」という言葉に注目してください。「起し」これは原語で「復活させる」と同じ言葉であります。復活させられるためには神の群れを救うために死ななければならない。「群れの為に命を捨てる良い羊飼い」がここに預言されています。

 

ゼキエル書3422 節と23節との間の言葉の意味を主イエスは読み取られたのです。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」のです。

 

私たちが従うべき良い羊飼いは主イエス御独りです。

 

【西谷の牧者】

西谷からモーア先生が去られるので西谷に牧者がいなくなる心配が皆さんにおありかも知れませんが今日伝えたかったことは真の牧者はイエス様御独りであると言うことを信じたいのです。

 

主のお声は小さく聞き分けにくいですが羊の為に命を捨てる良い牧者イエス様を信じて行きたく思います。主の御声を聞くとき他の悪い牧者に付いていくことはありません。

また西谷にも囲いの外にいる多くの羊がいると思います。そのような羊とも一緒になって主の民を養う牧者が与えられることをお祈りいたします。(おわり)

2013年04月28日 | カテゴリー: エゼキエル書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

2013.4.21.説教「塩と光」ウイリアム・モーア宣教師

2013.4.21.説教「塩と光」ウイリアム・モーア宣教師

新約聖書 マタイによる福音書5

13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

説教要約(文責 近藤)

【私が悪いのはあなたのせいよ】

漫画ピーナッツの主人公チャーリー・ブラウンは友人のペパーミント・パティ―から言われた、「チャーリー、新学期の初めの日だと言うのに、あなたの為に校長に呼ばれたよ」。チャーリーは「私の為?学校も違うのにどうして私にために呼ばれるの」。ペパーミントは答えた「チャーリー、私たちは昔からの友人なのに、あなたから悪い影響ばかり受けているからよ」。

 

【相手が見る目は】

もう一つのストリー

ある牧師が犬小屋を作る作業をある坊やがじっと見ていました。牧師は坊やに「犬小屋の作り方を教えてあげようか」と言いました。すると坊やは答えた「僕には犬がいないので犬小屋は必要ないよ。ただ先生が自分の親指を金づちで叩いたときどんな言葉が出るかと待っているだけです」と。

 

【私たちの言動は】

私たちの周りの人たちは私たちを見ています。私たちは周りの人たちにどのような影響を与えているでしょうか。

 

主イエスは言われた、「あなた方は地の塩、あなた方は世の光です」。これは山上の説教の一部です。

主は私たちが世に及ぼす影響力を塩と光をシンボルとして力強く教えて下さいました。

キリスト者の行いは周りの者が見ています。

 

【地の塩】

主は何故塩をシンボルに用いられたでしょうか。

今日では塩は安く手に入りますが、イエス様の時代は塩は大変高価で金より値打ちがあったのです。ローマの兵隊たちは彼らの給料を塩で受け取りました。給料のサラリー【英語salary】の語源は塩のラテン語salariumから来たと言われます。

 

【塩の役割】

主は塩の3つの役割を用いて教えられました。

第一に、塩は健康に必須です。汗をかけば塩分を失うので、塩で補わねばなりません。地とは周りの人々のことです。私たちは周りの人々にどの様にして健康を与えられますか。

 

主はこの世にいる間、多くの人びとを憐れんでかれらの肉体的病を癒されました。町をでて主イエスのもとに多くの人びとが集まりました。ですから教会とキリスト者は医療に携わることを大事な使命とします。医療を通して神の愛を伝えることは大事なことです。

 

【シュヴァイツァ】

ノーベル平和賞を受けたアルバート・シュヴァイツァは長くアフリカで医療宣教に携わりました。一人の患者さんの命を助けた時、その患者さんはシュヴァイツァに聞きました「あなたはなぜこんなジャングルの奥に来ましたか」。彼は答えた「主イエスがここに送られたからです」。

 

【霊的健康】

癒しは肉体的なものに限らず霊的な癒しが必要です。キリスト者は周りの人に霊的健康を伝えることは大切です。

私たちはキリストの贖い死のお蔭で神との和解を受け、この世の歩みが終っても永遠に生きることが出来ます。

この恵みを周りの者に分かち合う特権が与えられています。霊的健康に至る道はこの道だけですからキリスト者は自分の毎日の生活と言葉によって神の愛と救いを現わす喜びがあります。

 

【霊的腐敗】

次に塩にはものを腐らないようにする保存力があります。

 

主の時代冷蔵庫などありません。魚を塩漬けにすると腐りません。他の食べ物も冬の期間など長期に保存するには塩が必要でした。地の塩とされた私たちは社会の腐敗不正を防ぐ責任があり、周りの者に恵みと祝福をもたらす模範的生き方を示さねばなりません。

 

【霊的幸い】

山上の説教には8つの幸いの教えがあります。

 

「1 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

2  悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

3  柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

4  義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

5  憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

6  心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

7  平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

8  義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイによる福音書53~12節)}

 

私たちは幸いな人の模範を示すことで地の塩の役割をもって世の腐敗を防ぎます。

 

【霊的味付け】

3番目は塩は良い味付けをします。

甘いケーキにもごく少量の塩は必要です。

隣人を引き立たせる役割をキリスト者は持っています。塩のない食べ物はおいしくありません。

 

神の恵みによってキリスト者はおいしい生活を周りの者に顕すことが出来ます。

私たちは誠に幸いです。主は私たちと共に居てくださいますので私たちの生活は楽しくエキサイティングで味があります。

 

13節後半「・・塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 

【世の光】

最後の14節「あなた方は世の光である

 

光は無くてはならないものです。この世の生命は光がないと生きられません。

 

主イエスの光を受けて周りの者に反映します。キリストのないところ光はありません。

 

私たちは主の光を人々に反映します。私たちは人々を主に導く光になります。

 

16節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

 

主から戴いた光を周りの者に輝かし、周りの人々が神を崇めようになります。

 

私たちが光を受けたのは信者の誉れの為でなく神の栄光と隣人の益の為であります。

 

私たちが地の塩、世の光であることを再確認して神の助けを祈りましょう。(おわり)

 

2013年04月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書

2013.4.14.説教「神の望んでおられること」ウイリアム・モーア宣教師

2013.4.14.説教「神の望んでおられること」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:テモテへの手紙一2

1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。

3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。

4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 

説教要約(文責 近藤)


【ダイエットの必要な男】

ある男の人は体が太って医者から体重をコントロールするように勧められました。早速ダイエットを決心しました。が、一つの問題はこれまで毎朝ドーナツショップに立ち寄ってドーナッツ4個を食べてから会社に出勤することを習慣にしていました。

ある朝、その人はドーナッツショップの前で誘惑されました。彼は祈りました。「神様、御心を顕して下さい。ドーナッツを食べても良いならその店のすぐ前の駐車スペースを空けて下さい」。その晩奥さんは聞きました、「あなた、まさかドーナッツショップには行かなかったでしょうね」。彼は自分が祈ったことを奥さんに告げました、奥さんは「どうでしたか、駐車スペースはありましたか?」彼は答えた、「店の前を10回周った時、丁度一つだけスペースが空きました。これは奇跡だと思ったよ」。

 

【神様の御心は聖書に啓示されている】

神の御心を知ろうとして多くの人は自分の希望や都合に合わせて物事を理解します。神様の御心を知るのはとっても難しいと言う人は多いです。神様の御心を知ろうと努力するよりもすでに知っている御心に従うことが大切です。

 

神様の御心は聖書に啓示されています。今朝はその3つの事柄についてお話しします。

この神の御心は決して難しいものではありません。

 

【1.全ての人は救われなければならない】

4節「 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。

 

神様は全ての人が救われることを望んでおられます。ある国の人だけでなく、また救いは罪を犯した者だけに必要でなく、全ての民が救われることが必要です。なぜなら神は愛だからです。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書316)」。

 

神の救いがなければ一人残らず全人類は滅びに向かっています。人は作り主なる神を拒否し、その結果永遠の刑罰を受けなければなりませんが御子イエス・キリストが十字架でその罪を贖ってくださり、信じる者には永遠の命を賜ります。

 

今朝の聖句は全ての人が神の真理を聞き心から受け入れられることを神様は願っておられると言うことです。

神の愛はいかに大きいことでしょうか。御独子イエスを死に至るるまで犠牲にされたことは口先だけのことでなく歴史上の事実であり、全ての人の為であったのです。

 

ある人々は神御自身が救いを述べ伝えるだろうと考えました。これは200年前までは一般的な考えでした。主は人間の業を通して救いを述べ伝えることを願っておられるので世界宣教の為に宣教師を派遣しなくても主御自身が救いを伝えて下さると考えることは5節以下の聖句からそうでないことが分かります。救いを述べ伝えるには証し人が必要です。

 

5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 

先に救われた者は神の福音を伝え人びとを招きます。神は私たちを証し人として用いて下さいます。

全ての人が救われ真理を知ることを望んでおられる神の御心を行うことは私たちの使命です。

神は全ての人が救われることを望んでおられます。

 

【2.神の教えを、あらゆる点で輝かす】

2節後半「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」

これは神の御心です。

 

周りの人たちは私たちを見て評価します。

テトスへの手紙 210 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。

 

さらに信者の良き言葉のため敵対者も恥じるとパウロは言っております。「 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう(テトスへの手紙 28節」」。

 

主が言われたように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである(マタイによる福音書 516)」。

 

神は全ての人々の救いを望んでおられます。良き証を立てるために私たちを用いられます。

 

【3.祈ること】

祈ることは私たちの特権と光栄です。祈ることによって神様と直接コミュニケーションができます。

全能の神は小さい罪人の私の祈りを聞いて下さいます。

 

【全ての人の救いの為に祈れ】

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい(テモテへの手紙一 2:1)」とパウロは勧めます。

 

神は全ての人の救いを望んでおられるので全ての人のために祈らねばなりません。そのものの心が神の福音に開かれるために祈ります。福音を証しする機会が与えられるように祈ります。

 

【王たちやすべての高官のためにも祈れ】

さらに王たちや高官たちのためにも祈りなさいと勧められています。

 

2節「 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。

 

この勧めは驚くべき発言です。当時の時代、高官や王は暴君でした、教会を迫害もしました。彼らの為に祈りを捧げなさいと言われます。

為政者が良くなると私たちは平穏に過ごせますが為政者が悪くなると私たちが信心と品位を保つこと、良い証を立てることも難しくなります。

 

為政者のための祈りは私自身まだまだ祈ることが少ないと思います。しかし為政者を好き、嫌いという問題ではなく、平和のため神様の御言葉はどのような為政者の為にも祈りなさいと勧めます。

 

とくに為政者が良くなると平和で証がし易くなり、全ての人々が救われる真理を知るようになります。(おわり)

 

 

 

 

2013年04月14日 | カテゴリー: テモテへの手紙一

2013.4.7.説教「キリストにおける成長」ウイリアム・モーア宣教師

2013.4.7.説教「キリストにおける成長」ウイリアム・モーア宣教師

新約聖書ペトロの手紙二317 それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

 

説教要旨(文責 近藤)

 

【陽友(はると)君の成長】

陽友君が生まれてお母さんの友子姉と一緒に礼拝に出席し早や3年になります。彼のこれまでの成長は両親や祖父だけでなく西谷伝道所に出席するすべての人を楽しませます。最近では食事のときテーブルの椅子を用意するのを手伝ってくれたりもしてくれます。このような成長のために両親もおじいさんも愛をもって育てています。

 

しかし成長が見られないとき両親は心配です。

 

私の子供のころ友人の一人は背が伸びないのでその両親はその子を病院に連れて行き治療を受けることになりました。親と子にとって成長の課題は大きいです。

 

知的成長も大切です。私の長男は言葉を話すのが大変遅かったのでとても心配しました。

 

【霊的成長】

人には成長は大切です。成長の可能性を神はお与えになりました。可能性を開発するのは人の責任です。肉体的成長は歳と共にやがて終わります。しかし霊的成長に年齢は関係ありません。神が与えて下さった可能性は限りがありません。クリスチャンライフは成熟しなくてはなりません。

 

それ故キリスト者として誰もが成長すべきです。信仰が成長しないと身長の伸びない子供の様です。

 

しかし人は信仰の成長には余り心配しない傾向が見られます。今の状態である程度満足してしまいます。

 

何故人は熱心に信仰の成長を求めないのでしょうか?人は子供のころに戻りたい気持ちがあります。子供は両親のもとに甘えられているのは居心地が良いのです。霊的にも同じことが言えます。親がいつまでも養ってくれることはありません。信仰に於いて成長することは、そして神の国に奉仕することはチャレンジになります。成長しない自分を捨てなくてはなりません。

 

成長はキリスト者の特権です。

 

神は成長しないキリスト者を見捨てることはしません。しかしキリスト者になることは救われることだけでなくもっと大きな恵みがあります。救いはクリスチャンライフの始まりであり出発点です。誕生は出発点です。誕生と救いの目的は成長にあります。霊的成長は旅の出発点です。

 

霊的成長は救われてイエスキリストに似る道程です。その果ては天国で永遠に主イエスとともに神を楽しむことです。

 

聖書には信仰において成長するようアピールする言葉があります。今日の箇所はその一つです。

 

ペトロの手紙二318 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」。

 

ペテロは救いの道を述べ伝え洗礼を受けた者も多くなりました。ペテロは救いを受けた人々にそれに留まらず成長しなさいと勧めます。

 

【救い主イエス・キリストの恵みと知識において】

キリストの恵みとは何でしょうか。

受けるに値しない罪人が主の愛によって罪の赦しを受けることです。祝福を戴き神との平和を与えられ、教会奉仕の必要な賜物を頂くことです。主の祝福を受け賜物を生活に生かし常に主に感謝することは恵みです。

 

キリストの知識とは何でしょうか。

聖書における知識とは自分と主イエスとの繋がりのことで主とのどんな関係を持つかということです。生活の中で主との関係を深めることを生活の大事な目標とすることです。

 

【使徒パウロも同じく勧める】

パウロは1兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。コリントの信徒への手紙一 3:1~2」と言い、コリントの信者にいつまでも乳飲み子でなく成長の道に出発しなさいと勧めました。

 

キリストとの関係でいつまでも赤ちゃんであってはなりません。ある面で霊的赤ちゃんの状態に留まっていることは楽ですが、これはもったいないこと、霊的可能性を捨てることと同じです。

 

両親にとって子供の成長を見ることは楽しみです。

家の柱には子供の成長の記録が残されています。

神が私たちの霊的成長を見るのは楽しみです。

 

私たちが周りにキリストを伝えることを見るのは神の歓びです。

小さくても大きくてもイエスを信頼することは神の喜びです。

私たちの成長は父なる神様の熱望です。

 

【霊的成長は無限】

成長は肉的にはある時点で止まります。しかしキリストにおける恵みと知識とにおける成長は心から成長する意思があれば可能です。18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」

 

神は成長できるように常に安心を与えてくださいます。私たちは神の愛された子供になりました。

 

ヨハネによる福音書3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

だからこそ成長しながら安心できます。

この世の親は子供がいくら悪くても子を見捨てることをしません。まして完全なる天の父は私たちを愛し安心を授けてくださいます。

 

神の大きな完全な愛の中で生活をしながら私たちは隣人を愛することが出来ます。

 

その愛が拒否されても神は再び愛を満たし愛することが出来ます。神の信頼性は完全なので神のすばらしい約束に信頼して勇気のあるクリスチャンになれます。

 

失敗があっても私たちは悔い改めれば新しい力と希望が与えられます。

 

【昨日より今日、神を喜ばす】

愛する兄弟姉妹。キリストを通して神は豊かに祝福してくださいます。  

そのような恵みを賜う神に私たちはどうすればよいでしょうか。私たちキリスト者の答えは神を喜ばすことです。

 

私たちが霊的成長を、すなはちキリストの知識に於いて成長するなら神は本当に喜んでくださいます。

 

私たちのイエスキリストとの歩みはどうですか。

今年は去年より成長していますか。

今日は昨日より隣人を愛していますか。

神の豊かな助けでもっと成長してみませんか。

以前よりも周りの人に神の大きな愛をもっと顕しませんか。

聖霊に頼ってもっと聖書を学びましょう。

 

祈りに応えて下さる神様の約束を信じ一生懸命に祈りましょう。

 

周りの人に主の証人になり主の恵みを伝えましょう。

 

イエス・キリストの恵みと知識において成長することは人生の大事な目標です。

 

成長すると神に満たされ平安を与えられ神は私たちをもっと助けてくださいます。昨日より今日は信仰が成長して主イエスにもっと近ずくことは神の切なる願いです。

 

イエスキリストの無限の恵みと知識に於いて成長する歓びが得られますよう祈ります。(おわり)

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2013年04月07日 | カテゴリー: ペトロの手紙二