2013.3.24.説教「十字架を負わされたシモン」近藤春樹長老
説教「十字架を負わされたシモン」
聖書:ルカによる福音書23:26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
●マタイによる福音書27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
●マルコによる福音書15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
●ローマ人への手紙の16:13(パウロ)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」
今日は棕櫚の日曜日といわれます。主がエルサレムに入られたときユダヤ人たちは主を救い主として歓迎しました。
それはロマ帝国の支配からの解放を期待するものでした。主イエスが人類に与えようと願われた罪と死を滅ぼし永遠の命を賜うという救いではありません。それで期待に反した人々は今度は長老、祭司長、律法学者に煽動され、主イエスを十字架につけろと総督ピラトに要求しました。
今週は受難週といわれ世界の教会は特に主イエス様の十字架の贖い死に感謝するとともに、私たちの罪を悔い改めます。主はこの週の木曜日に最後の晩餐を弟子たちと摂り聖餐式を制定なさい、弟子たちの足を洗いました。そして金曜日に十字架にお架かりになりました。3日目の朝、日曜日の朝早くに墓は空っぽでした。主は蘇られました。
【日々自分の十字架を負い】
今朝は主の十字架と私たちの負うべき十字架について思いを致したい。
主イエスは今日の御言葉ルカ9:23「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と言われた。
またマタイによる福音書 10:38 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。
そしてルカによる福音書 14:27「 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。
ここで主は私の十字架を負えと言われません。自分の十字架を負えと言われます。それは自分自身の重荷ではないでしょうか。
ガラテヤ人への手紙 6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
参考)コロサイ人への手紙 1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
【人生の重荷】
それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、家族の心配、病気の不安、病気の後遺症、将来の不安、経済的負担であったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ、重荷を負わされて、人生を歩んでいるのではないでしょうか。先週は【四苦八苦】という仏教用語も聞きました。
【四苦八苦】という仏教用語があります。
四苦とは1、生きる苦しみ、2、死ぬ苦しみ、3、老いる苦しみ、4、病む苦しみ
八苦とは5、愛するものと別れる苦しみ6、憎い者と出会う苦しみ7、求めても得られない苦しみ8、心身の苦しみ
人にとっては、ときには、その重荷が耐え難く、八方塞にまで行き詰まり、悲嘆に暮れ、自ら命を断つ方もおられるのです。
余談1。これは家康の残したことばですが
「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し。急ぐべからず」人生あくせくするな、ゆっくりやれ。これは気休めにはなることばでしかありません。イエス様はどう言われたでしょうか。
●マタイによる福音書
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)
参照「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。
主イエスはあなたの、私の重荷を共に負ってくださいます。そして私たちを休ませてくださいます。どのようにしてか?それが主の十字架です。主イエスは私の十字架を負えと言われず、あなた方自身の十字架を負えと言われたことを先に聞きました。
【十字架を負わされて主イエスに従うシモン】
2000年前、一人の人が自分自身の十字架として負わされた十字架について今日の聖書は記しています。
シモンは主イエスの弟子だったわけではありません。おそらく主イエスと会ったこともなかっただろうと思います。たまたまそこに居合わせたのです。主イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいたために、彼が選ばれたのです。兵士たちにすれば、十字架を担いでゴルゴタまで歩くことができさえすれば誰でもよかったのです。こいつなら出来そうだ、とたまたま目に入ったシモンが引っ張り出されたのです。そのようにして彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされました。なぜ自分がこんな恥を負わなければならないのか、とんだ貧乏くじを引かされた、と思ったに違いありません。
しかしルカはこのシモンの姿に、主イエスに従う信仰者の姿を見ているのです。
シモンは主の後に従ったとあります。彼の前には主イエスが歩まれました。主は彼を導かれたのです。彼は後でこのことが分かりました。
自分自身の十字架を背負って主イエスについていく、それが弟子たる者の、つまり信仰者のあり方だと繰り返し語られてきたのです。その弟子としてのあり方を文字通り具体的に実行したのがこのキレネ人シモンだったのです。
考えてみてください。誰が「よしこれから十字架を背負って主イエスに従っていこう」と決心して信仰者となった、という人はいないのではないでしょうか。
ですから私たちは誰もがある意味で、自分の意志によってではなく、十字架を背負わされるのです。
【シモンが受けた恵み】
マルコ福音書だけが、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介しています。ということは、このシモンはこの後、クリスチャンになり、その子、アレクサンドロとルフォスも信仰に導かれたと考えられます。
ローマ人への手紙の16:13でパウロは、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と述べています。シモンの妻は、パウロが「彼女はわたしにとっても母なのです」というほどの信仰の人になったということで、驚くべき恵みです。
無理やりであっても、主の十字架を担うということはそれほど重大な、また祝福に満ちたことであります。
【人生のマイナス】
なぜ自分がこんな十字架(重荷)を背負わなければならないのか、と思うことがあります。しかしそこで、その十字架を放り出すのではなくて、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という御言葉に励まされて、自分でも改めて与えられた十字架を感謝する者となって天国の道を歩むのです。
余談2、マイナスとは負けか?漢字はマイナスを負とかきます。これは意味深いことです。
重荷を負わされることは一見人生にとってマイナスに見えます。私たちの人生のマイナスが多ければ人生の負け組になるとおそれます。この世の成功者、勝ち組と言われる人も多くのマイナスを経験したことでしょう。この世界と宇宙を創られた方が十字架で死んだ。主イエスの十字架こそは世界で比べるもののないマイナスです。東日本大震災は日本に大きなマイナスを与えました。神の国にとっては御子の十字架は更に大きなマイナスでした。実際、真の勝者とはだれでしょうか。主イエスの十字架によって贖われた者のみがこの世の勝利者です。主イエスの復活こそ勝利の証です。最大のマイナスが最大のプラスになりました。
参照、ヨハネの手紙一 5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
電流は見えませんがプラスとマイナス極の間をながれ力を発揮します。神様は御子の十字架によって霊的マイナス極をつくられました。
Iコリント1:18 - 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
しかし十字架は終わりでなく神様はプラス極をも創られました。主イエスは、三日目の蘇り、40日間弟子たちに現れ、天に上り父なる神の右に坐し給い、復活50日目には約束の聖霊を遣わして、いま私たちとともに居てくださいます。今私たちの内に主イエスの御聖霊が共に住んでいてくださいます。聖霊はプラス極です。
使徒言行録1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
主イエスを信じる者は決して負け組でなく勝利者です。
ローマの信徒への手紙8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
次週はイースター復活祭です。主イエスの復活を心から感謝して祝うともに主イエスの証人としての道を共に歩みましょう。
やがて主は裁き主として再臨されます。しかし主を信じる者には裁きはありません。(おわり)
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