2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

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2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

 

聖書:マタイによる福音書9

1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。

4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

7 その人は起き上がり、家に帰って行った。

8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

ヨハネによる福音書9

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

(説教要旨) 

【魂と肉体の癒し】

牧師の務めのひとつが「魂の癒し」といわれています。魂の病の癒しこそ牧師の大切な働きであることを認めますが、二重の意味で抵抗を感じています。まず、魂の癒しは大変困難な働きであるから、そして、魂の癒しというこの働きをうまくやりのけたという実感を持てないからです。

 

その点、肉体の医者は病気を治すことについては専門家であり、また実際多くの患者の病気を治されます。病院は病気を治す施設であり、多くの患者が病から解放されて、病院の門を出て行きます。医療技術はどんどん進歩し、今まで不治の病といわれていた種類の病気が癒され、また、肉体の苦痛は軽減する方法がいくつも試みられています。

 

他方、魂の医者が専ら受け持っている部分では、格段に技術が進歩したという話は聞いたことがありません。昔ながらの方法で、聖書の解説をし、教理を語り、教えています。牧師の仕事は昔とあまり変わらないのが実情です。

 

とはいえ、魂の癒しは旧態然としているのだから無効だというのではありません。肉体の癒しと魂の癒しは、無関係ではありませんが、また同一ではありません。いわゆる精神の病気といわれている病がありますが、信仰だけで精神の病が治ると思いません。そういう期待を教会に持ち込む方が多いのですが、牧師のできる仕事ではない場合が圧倒的に多いといわなければなりません。

 

現在では薬剤を用いた治療が有効になって来ています。わたしは、宗教(信仰)が肉体や精神の病とはまったく関わりなしという立場ではありませんが、宗教が現代の医学にとって変わることは決してできないと思っています。医者と牧師は協力できますが、牧師は医者に取って代わることはできませんし、してはならないと思っています。

 

【苦しみから脱却】

それでは、魂の癒しとは何か。何をするのか。魂の癒しとは、苦しみから脱却できる道筋を示すことだと思っています。

 

むろん、肉体の苦痛も苦しみであることに違いはありません。魂の癒しという場合、その苦痛は、心を蝕み、傷つける苦しみを指しています。肉体の苦痛も魂に深刻な影響を与える場合には、その癒しについて宗教はもちろん考えなければなりませんが、肉体の苦痛そのものをなくすことは医療の領域です。

 

【四苦八苦】

苦しみは多様です。四苦八苦という仏教用語があります。

 

四苦とは

1、生きる苦しみ、

2、死ぬ苦しみ、

3、老いる苦しみ、

4、病む苦しみ

  を指します。

 

八苦とはそれに加えて、

5、愛するものと別れる苦しみ

6、憎い者と出会う苦しみ

7、求めても得られない苦しみ

8、心身の苦しみ

  を指します。

それぞれに解説をもっと加えなければなりませんが、要するに、苦しみは多種多様であるという意味です。その上、苦しみは深刻に感じられることもあり、ある人はさほど感じない場合もあるという具合に、その人だけが苦しみを感じているものです。

 

感じですから、他の人には窺い知れない場合もあります。そして、その苦しみから脱却するためにはそれぞれ個別に答えを探さなければなりません。そうでなければ明快な解答とはいえません。

 

【苦しみからいかにして脱出するか】

それでも、ひとつの苦しみを取り上げて、聖書から聞きたいと願います。私たちは、苦しみから逃れ出る道を求めます。卑しくも、宗教というべきものは、この苦しみからいかにして脱出するかを語るのだと思います。

 

【わたしの体験:12年間に6つの大病】

わたしは、この12年間、6つの大病を経験しました。視力を失いかけたこともあります。

4度、全身麻酔の手術を受けました。

(管理者注)1、脳下垂体腫瘍摘出術、2、悪性リンパ腫抗がん剤治療、3、甲状腺腫瘍摘出術、4、右腎ガン摘出術、5、小腸大出血(大量輸血)、6、頸椎腫瘍摘出術。 

術後、ICUに入れられましたが、そこで、麻酔が覚め、まったくからだが動かせないまま、24時間そこに置かれました。ナースに声をかけられ、何分経ちましたか、と尋ねました。わたしは1時間以上過ぎたと思ったのですが、わずか5分経っただけだと聞かせられ、時間が全然進まない経験をしました。

 

抗がん剤の副作用にも苦しみました。吐き気、脱毛、そして、味覚障害、嗅覚障害、不眠、精神症状・・・放射線治療では、痛みも熱さも何も感じないのですが、回数を重ねるうちに鼻血が止まらなくなるという経験をしました。

 

小腸からの出血多量で意識を失って救急車で搬送されたこともあります。検査も楽ではありません。血管が固くなり、採血の針がするっと滑ってしまい、ナースが悪戦苦闘しているのを眺めるのは気持ちのいいものではありません。

 

あれやこれや・・・病の中で、わたしはいろいろなことを考え、経験しました。

いいことがあっただろうか。そう思い振り返りますと、現在医学の恩恵を蒙って今生きていることそれ自体が幸いと言えるでしょう。

 

【神の恵み】

私たちは永遠の命に関わる特別恩恵と、あらゆる生の領域で働く神の恩恵を信じるものですが、その一般恩恵を何度も経験する幸いを与えられました。

 

また、病気を経験することで、病むことの苦しみを味わい、病む人の苦しみに同情することが出来るようになりました。いつも思うのは、これは肉体の医師、医療関係者には分かって貰えないことです。実際検査ひとつをとって見ても、その苦しみを味わわなければ・・・

 

【苦しみの多様性】

しかし、やはり病んでいいことよりも辛いことが多かったと言わなければなりません。

どんな苦しみか。現在医学の進歩で、肉体的な痛みはかなりコントロールされて来ました。特に術後の痛みは麻酔術の進歩で軽くなりました。でも、魂の苦しみの方はどうでしょうか。

 

病んで苦しむ苦しみはこれまたいろいろあります。たとえば、死ぬかもしれないという恐れも苦しみかもしれません。孤独もそうです。誰もいない病室でひたすら天井だけを眺める(首が固定されてしまって)だけ、それは苦痛です。病気は、強制的に仕事ができなくします。同僚がどんどん仕事をしているのにできないための申し訳なさ、あるいは口惜しさ。

 

経済的な不安も伴ないます。家族に迷惑をかけるという思いも苦痛です。いろいろあります。病苦とは単純ではありません。複雑で難解です。

 

わたしはその中で、「この自分だけがどうして苦しまなければならないのか」という問いに苦しみました。おそらく病気になった人、特に大病を経験した人が問う問いではないかと思います。今回は取り上げられませんが、もうひとつは、後から病んだ人が先に逝ってしまうということの申し訳なさも苦しみでした。何故人だけが生き残ったかも難問です。

 

ここで、わたしは聖書のふたつの癒し物語を取り上げたいと思います。マタイ9章1-11とヨハネ9章1-12です。

 

【罪を許す権威を持っているイエス】

マタイ9章1-9では、中風の人の癒しが記されます。イエスは、罪を許す権威を持っていることを証拠立てるために、病人を癒します。つまり、ここから容易に推測できることは、病気は罪の結果であって、罪が許される=帳消しにされることで、病気も癒されるという真理です。

 

罪は、ここでは神を持たないこと、あるいは神に顔を向けていないことを指しています。単に、悪とは邪ま、あるいは悪行、邪悪な思いだけを指しているのではなく、神との関係で、神に対して正当なあり方ではないすべてを指しています。

 

この罪の結果、罪人に災いが持ち込まれます。病気もそのひとつです。本来、神が創造されたときの人類は病むことを知りませんでした。

 

【盲人の罪でもその両親の罪でもない】

ところが、ヨハネ9章1-12では、目の見えない人の癒しが語られています。ここで主イエスは、その人自身の罪、あるいは、両親の罪によって、この人が視力を失ったのではないと明確に語られています。これではマタイの福音書で言われているところと矛盾します。

 

しかし、聖書は矛盾したことなど教えません。

一方では、病は罪の結果であるといいながら、他方では、個々の罪の結果ではないという。矛盾しているようではありますが、そうではありません。

 

病の原因はある人は偶然の所産、ある人は遺伝的体質、また、何らかの悪行の罰、あるいは、運命になすところだといいます。そういう原因の説明では納得できるでしょうか。

 

ところが、このふたつの癒し物語で明らかにされることは、私たちの病は間違いなく、神から来るということです。しかも、私たちの中にあるという罪の性質に対する神のわざです。

 

そういう点では、人間の中にある病は罪が原因です。同時にある人が、何か特定の罪を犯したから病むのではないということも真実です。

 

注意していただきたいことは、わたし自身が病むとき、神からの懲らしめだと思うことは正当な感覚です。同時に、誰かが病気になったとき、神から罰せられたと安易にいってはならないし、口にしてもならないのです。それは神の御心にあることです。わたしが病むのは神がそうされたからです。

 

神がある人を盲目にされました。それは神の決定です。特別、その人自身に理由があったのではありません。

 

何故、このわたしだけが苦しまなければならないのか。答えは分かりません。愚かな人間にはあらゆる知恵にまさる神をはかり知ることはできません。

 

【神を信じる者にはすべてが益になる】

ただ分かることは、主イエスを私たちのために送り出し、御子の十字架によって私たちを贖い出そうとする神には深い配慮があるに違いないということだけです。

 

神は私たちの魂のために常に最善を尽くす方です。わたしが病み、苦しむには、神が最善を考えられているからに違いありません。わたしには神のすべてが分かったのではないので、不満であり、ときに神に不平を申します。

 

でも、すぐ分かることはその神は常にわたしと共にあってくださいます。だから、わたしのすることは今この時点でも神に希望を抱き、神を信頼しつづけることです。それが主が示される道でもあります。(おわり)


金田幸男(かなたゆきお)牧師略歴

   1946年生 大阪府堺市出身

   1972年  神戸改革派神学校卒。

         中部中会の四日市教牧師を経て,

   1994年  甲子園教会に着任、日に至る。


 

2013年03月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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