2013年3月

2013.3.31.説教「復活の喜び」ウイリアム・モーア宣教師

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2013.3.31.説教「復活の喜び」ウイリアム・モーア宣教師

 

ルカによる福音書24章エマオで現れる

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

説教要約(文責 近藤)

今日はイースターです。世界中で主イエス様の復活を祝い墓から主イエスを挙げられた神を賛美します。

 

【ユダの裏切りとイエスの逮捕】

今朝は主の十字架と復活の意味について考えましょう。

 

主イエス様の十字架は弟子たちにとって悪夢のような1週間でした。それは幻想ではありませんでした。全くの事実でした。

 

それはエルサレムに近いオリーブ山で始まりました。主は来たるべきご自身の御苦難について語られましたが弟子たちにはその意味が分かりませんでした。弟子たちにはこれから起こることも分かりませんでした。

 

その夜、突然、祭司長たちから差し向けられた群衆は刀と棒をもって主を捕えにやってきました。ユダは自分が接吻をもって挨拶するものがイエスだと前もって合図していました。ユダは主に近づき「先生、いかがですか」と言って接吻したので、主は言われた、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と(ルカ22:48 )」。

 

主を守るため弟子の一人が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた(ルカ22:51)

 

【ユダヤ議会の裁判】

オリーブ山で捕えられたイエスはすぐに最高法院で裁判にかけられました。

 

マタイ26

人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。

大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」

そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。

 

【ピラトの裁判】

それから総督ピラトの所に連れて行かれピラトの裁判を受けます。ユダヤ人には人を殺す権限がなかったからです。

 

ピラトはイエスに何の罪も認めずイエスを赦そうとしましたが、ユダヤ人はイエスを「十字架につけろ。十字架につけろ」とピラトに激しく訴え、その声が勝ち、ピラトは負けました。

 

弟子たちの前で主イエスは刑場に十字架を背負って歩かれました。二人の犯罪人とともに十字架に架けられました。十字架の上で主は「父よ彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているか分からないのです」と執成されました。

 

何時間も苦しまれたあと最後に主は「父よ、わが霊をあなたに委ねます」と言われて息を引き取られました。

 

主イエスを尊敬していたアリマタヤのヨセフという人がピラトのもとに出向きイエスの遺体引き取りを願いました。そして自分の為に用意していた新しい墓に主の体を収めました。

 

イエスの敵は勝ったと思われました。ユダヤの指導者たちにはもう何も心配はないと思いました。イエスは死んだのだ。イエスに従うものなどいない。イエスは人々から間もなく忘れ去られるだろう。

 

【弟子たちの失望と心配】

その時の弟子たちの気持ちはどんなだったでしょう。全てをかけていた彼らの主は残酷な方法で処刑され彼らの生き甲斐も希望は全てなくなりました。

 

主の愛を体験した弟子たちはこれからどうすればよいのでしょう。

神から来られたのなら何故神は御子を死なせたのか。彼らには主の死は意味のない悲劇と思いました。

弟子たちは主のことの他に、自分たちの身の安全を心配せねばなりませんでした。

 

弟子として知られていたペテロは三度、主イエスを知らないと、自分が主の弟子であることを否定しました。

 

弟子たちはこの悪夢を忘れるために故郷に帰り以前の仕事に戻ることが賢明と考えたでしょう。

 

イエスは失敗した。主は「神の国は近づいた」と語られたがその話はどうなったのか。

 

【なぜ生きている方を死人の中にさがすのか】

墓から帰った弟子の婦人たちの言葉に驚かされました。墓に行くと天使が「なぜ生きた方を死人の中に探すのか」と言ったことを弟子たちに伝えました。

 

弟子たちは婦人たちが言ったことが信じられず婦人たちに言いました。あなた方は幻を見たのです。主は死んだ。死んだ者は生き返らない」。

 

【エマオ途上で】

もう一つの話は、その日二人の弟子がエマオという村に行こうと歩いていた時、主が彼らに近づかれたが、主だと分からなかった。主は二人が歩きながら話していたことを尋ねられた。

 

ルカによる福音書24

17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

 

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

やっと弟子たちは主の死の意味を悟りました。

 

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 

【主イエスの復活】

言うまでもなく二人の弟子は主に出会ったので歓びました。主は死んだが今は生きておられる。主イエスの十字架は勝利になりました。

 

早速二人の弟子はエルサレムに帰り他の弟子たちにこのことを話しました。

他の弟子たちも復活された主イエスはシモンに現れたと告げました。

 

愛する兄弟姉妹。私たちは主の弟子たちの喜びが想像できます。3日前、死なれた主は今は生きておられます。神様の力によって死の力は打ち破られました。罪人の勝利でなく、神の勝利になりました。

 

そして弟子たちはすっかり変わりました。弟子たちは自分の目で主の復活を見たのです。

 

そして命じられたように福音を世界の果てにまで伝えたのです。

 

この2000年前の出来事が今の私たちとどう関係があるのでしょうか。

 

主イエスの復活は世界で一番大切な歴史です。

 

なぜなら復活を通してイエス様は神の子であることを証明されました。

 

イエス様が復活されなかったら、主の十字架は正しい人が無実の罪に陥れられたというただの悲劇に終わります。実際ローマ帝国は多くの人を残酷な十字架刑で殺しました。

 

 

【今も生きておられる主イエス】

では1980年後でも主の死と復活の目的と意味は何でしょうか?

 

主の死は私たちが神に赦され、私たちの受ける罰の身代りでした。御子の死によって人は神と和解され神との正しい関係が回復されています。

 

エマオ途上の主は二人の弟子に御自身の死と復活の意味を悟らされました。この二人の弟子と同じく私たちはイエスの死を今理解できます。

 

主の贖い死により私たちは救われます。イエスの死と復活は今も喜ばしい出来事です。

 

主の復活の意味はまだあります。

 

主は今も生きておられ天に昇られた主はそこから聖霊を遣わしておられます。

主は「2,3人わが名によって集まるところ我もそこにいる」と言われた。

 

又同じように「私は世の終わりまでいつもあなた方とともに居る」とも言われました。

 

【永遠の命への復活の希望が】

最後に伝えたいこと、それは復活の希望はこの世に限らず、私たちには永遠の命への復活の希望が与えられています。

 

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』(ヨハネによる福音書 11:25)」。

 

主イエスの復活により死は征服されたので、神は死の上の勝利を得て下さいました。

永遠の命の希望をもって死後を恐れず期待できます。

 

【父のこと】

私は先々週、末期肺がんの父の病気見舞いにアメリカに帰りましたが、父には平安があり認知症の母のことを心配して色々介護のことや母の兄弟のことを気遣って話し合いました。

 

父の平安は復活の実であり、父の姿に励まされます。

 

愛する兄弟姉妹。主イエスは蘇られました。イースターの際、皆さまに平安と希望を豊かに経験できますようにお祈りいたします。(おわり)

2013年03月31日 | カテゴリー: ルカによる福音書

2013.3.24.説教「十字架を負わされたシモン」近藤春樹長老

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説教「十字架を負わされたシモン」


聖書:ルカによる福音書23:26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

●マタイによる福音書27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

●マルコによる福音書15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

●ローマ人への手紙の16:13(パウロ)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」


今日は棕櫚の日曜日といわれます。主がエルサレムに入られたときユダヤ人たちは主を救い主として歓迎しました。

 

それはロマ帝国の支配からの解放を期待するものでした。主イエスが人類に与えようと願われた罪と死を滅ぼし永遠の命を賜うという救いではありません。それで期待に反した人々は今度は長老、祭司長、律法学者に煽動され、主イエスを十字架につけろと総督ピラトに要求しました。

 

今週は受難週といわれ世界の教会は特に主イエス様の十字架の贖い死に感謝するとともに、私たちの罪を悔い改めます。主はこの週の木曜日に最後の晩餐を弟子たちと摂り聖餐式を制定なさい、弟子たちの足を洗いました。そして金曜日に十字架にお架かりになりました。3日目の朝、日曜日の朝早くに墓は空っぽでした。主は蘇られました。

 

日々自分の十字架を負い

今朝は主の十字架と私たちの負うべき十字架について思いを致したい。

 

主イエスは今日の御言葉ルカ923「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と言われた。

またマタイによる福音書 10:38 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。

そしてルカによる福音書 14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」

 

ここで主は私の十字架を負えと言われません。自分の十字架を負えと言われます。それは自分自身の重荷ではないでしょうか。

 

ガラテヤ人への手紙 6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである

 

参考)コロサイ人への手紙 1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。

 

【人生の重荷】

それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、家族の心配、病気の不安、病気の後遺症、将来の不安、経済的負担であったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ、重荷を負わされて、人生を歩んでいるのではないでしょうか。先週は【四苦八苦】という仏教用語も聞きました。

【四苦八苦】という仏教用語があります。

四苦とは1、生きる苦しみ、2、死ぬ苦しみ、3、老いる苦しみ、4、病む苦しみ

八苦とは5、愛するものと別れる苦しみ6、憎い者と出会う苦しみ7、求めても得られない苦しみ8、心身の苦しみ

 

人にとっては、ときには、その重荷が耐え難く、八方塞にまで行き詰まり、悲嘆に暮れ、自ら命を断つ方もおられるのです。

 

余談1。これは家康の残したことばですが

「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し。急ぐべからず」人生あくせくするな、ゆっくりやれ。これは気休めにはなることばでしかありません。イエス様はどう言われたでしょうか。

 

マタイによる福音書

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)

 

参照「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

  

主イエスはあなたの、私の重荷を共に負ってくださいます。そして私たちを休ませてくださいます。どのようにしてか?それが主の十字架です。主イエスは私の十字架を負えと言われず、あなた方自身の十字架を負えと言われたことを先に聞きました。

 

【十字架を負わされて主イエスに従うシモン】

   2000年前、一人の人が自分自身の十字架として負わされた十字架について今日の聖書は記しています。

 

シモンは主イエスの弟子だったわけではありません。おそらく主イエスと会ったこともなかっただろうと思います。たまたまそこに居合わせたのです。主イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいたために、彼が選ばれたのです。兵士たちにすれば、十字架を担いでゴルゴタまで歩くことができさえすれば誰でもよかったのです。こいつなら出来そうだ、とたまたま目に入ったシモンが引っ張り出されたのです。そのようにして彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされました。なぜ自分がこんな恥を負わなければならないのか、とんだ貧乏くじを引かされた、と思ったに違いありません。

 

しかしルカはこのシモンの姿に、主イエスに従う信仰者の姿を見ているのです。

シモンは主の後に従ったとあります。彼の前には主イエスが歩まれました。主は彼を導かれたのです。彼は後でこのことが分かりました。

自分自身の十字架を背負って主イエスについていく、それが弟子たる者の、つまり信仰者のあり方だと繰り返し語られてきたのです。その弟子としてのあり方を文字通り具体的に実行したのがこのキレネ人シモンだったのです。

 

考えてみてください。誰が「よしこれから十字架を背負って主イエスに従っていこう」と決心して信仰者となった、という人はいないのではないでしょうか。

 

ですから私たちは誰もがある意味で、自分の意志によってではなく、十字架を背負わされるのです。

 

【シモンが受けた恵み】

マルコ福音書だけが、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介しています。ということは、このシモンはこの後、クリスチャンになり、その子、アレクサンドロとルフォスも信仰に導かれたと考えられます。

 

ローマ人への手紙の16:13でパウロは、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と述べています。シモンの妻は、パウロが「彼女はわたしにとっても母なのです」というほどの信仰の人になったということで、驚くべき恵みです。

 

 無理やりであっても、主の十字架を担うということはそれほど重大な、また祝福に満ちたことであります。

 

【人生のマイナス】

なぜ自分がこんな十字架(重荷)を背負わなければならないのか、と思うことがあります。しかしそこで、その十字架を放り出すのではなくて、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という御言葉に励まされて、自分でも改めて与えられた十字架を感謝する者となって天国の道を歩むのです。

 

余談2、マイナスとは負けか?漢字はマイナスを負とかきます。これは意味深いことです。

 

重荷を負わされることは一見人生にとってマイナスに見えます。私たちの人生のマイナスが多ければ人生の負け組になるとおそれます。この世の成功者、勝ち組と言われる人も多くのマイナスを経験したことでしょう。この世界と宇宙を創られた方が十字架で死んだ。主イエスの十字架こそは世界で比べるもののないマイナスです。東日本大震災は日本に大きなマイナスを与えました。神の国にとっては御子の十字架は更に大きなマイナスでした。実際、真の勝者とはだれでしょうか。主イエスの十字架によって贖われた者のみがこの世の勝利者です。主イエスの復活こそ勝利の証です。最大のマイナスが最大のプラスになりました。

参照、ヨハネの手紙一 5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

 

電流は見えませんがプラスとマイナス極の間をながれ力を発揮します。神様は御子の十字架によって霊的マイナス極をつくられました。

Iコリント118 - 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

しかし十字架は終わりでなく神様はプラス極をも創られました。主イエスは、三日目の蘇り、40日間弟子たちに現れ、天に上り父なる神の右に坐し給い、復活50日目には約束の聖霊を遣わして、いま私たちとともに居てくださいます。今私たちの内に主イエスの御聖霊が共に住んでいてくださいます。聖霊はプラス極です。

 

使徒言行録1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」


主イエスを信じる者は決して負け組でなく勝利者です。

 

ローマの信徒への手紙8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


次週はイースター復活祭です。主イエスの復活を心から感謝して祝うともに主イエスの証人としての道を共に歩みましょう。

 

やがて主は裁き主として再臨されます。しかし主を信じる者には裁きはありません。(おわり)



2013年03月24日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

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2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)

 

聖書:マタイによる福音書9

1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。

4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

7 その人は起き上がり、家に帰って行った。

8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

ヨハネによる福音書9

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

(説教要旨) 

【魂と肉体の癒し】

牧師の務めのひとつが「魂の癒し」といわれています。魂の病の癒しこそ牧師の大切な働きであることを認めますが、二重の意味で抵抗を感じています。まず、魂の癒しは大変困難な働きであるから、そして、魂の癒しというこの働きをうまくやりのけたという実感を持てないからです。

 

その点、肉体の医者は病気を治すことについては専門家であり、また実際多くの患者の病気を治されます。病院は病気を治す施設であり、多くの患者が病から解放されて、病院の門を出て行きます。医療技術はどんどん進歩し、今まで不治の病といわれていた種類の病気が癒され、また、肉体の苦痛は軽減する方法がいくつも試みられています。

 

他方、魂の医者が専ら受け持っている部分では、格段に技術が進歩したという話は聞いたことがありません。昔ながらの方法で、聖書の解説をし、教理を語り、教えています。牧師の仕事は昔とあまり変わらないのが実情です。

 

とはいえ、魂の癒しは旧態然としているのだから無効だというのではありません。肉体の癒しと魂の癒しは、無関係ではありませんが、また同一ではありません。いわゆる精神の病気といわれている病がありますが、信仰だけで精神の病が治ると思いません。そういう期待を教会に持ち込む方が多いのですが、牧師のできる仕事ではない場合が圧倒的に多いといわなければなりません。

 

現在では薬剤を用いた治療が有効になって来ています。わたしは、宗教(信仰)が肉体や精神の病とはまったく関わりなしという立場ではありませんが、宗教が現代の医学にとって変わることは決してできないと思っています。医者と牧師は協力できますが、牧師は医者に取って代わることはできませんし、してはならないと思っています。

 

【苦しみから脱却】

それでは、魂の癒しとは何か。何をするのか。魂の癒しとは、苦しみから脱却できる道筋を示すことだと思っています。

 

むろん、肉体の苦痛も苦しみであることに違いはありません。魂の癒しという場合、その苦痛は、心を蝕み、傷つける苦しみを指しています。肉体の苦痛も魂に深刻な影響を与える場合には、その癒しについて宗教はもちろん考えなければなりませんが、肉体の苦痛そのものをなくすことは医療の領域です。

 

【四苦八苦】

苦しみは多様です。四苦八苦という仏教用語があります。

 

四苦とは

1、生きる苦しみ、

2、死ぬ苦しみ、

3、老いる苦しみ、

4、病む苦しみ

  を指します。

 

八苦とはそれに加えて、

5、愛するものと別れる苦しみ

6、憎い者と出会う苦しみ

7、求めても得られない苦しみ

8、心身の苦しみ

  を指します。

それぞれに解説をもっと加えなければなりませんが、要するに、苦しみは多種多様であるという意味です。その上、苦しみは深刻に感じられることもあり、ある人はさほど感じない場合もあるという具合に、その人だけが苦しみを感じているものです。

 

感じですから、他の人には窺い知れない場合もあります。そして、その苦しみから脱却するためにはそれぞれ個別に答えを探さなければなりません。そうでなければ明快な解答とはいえません。

 

【苦しみからいかにして脱出するか】

それでも、ひとつの苦しみを取り上げて、聖書から聞きたいと願います。私たちは、苦しみから逃れ出る道を求めます。卑しくも、宗教というべきものは、この苦しみからいかにして脱出するかを語るのだと思います。

 

【わたしの体験:12年間に6つの大病】

わたしは、この12年間、6つの大病を経験しました。視力を失いかけたこともあります。

4度、全身麻酔の手術を受けました。

(管理者注)1、脳下垂体腫瘍摘出術、2、悪性リンパ腫抗がん剤治療、3、甲状腺腫瘍摘出術、4、右腎ガン摘出術、5、小腸大出血(大量輸血)、6、頸椎腫瘍摘出術。 

術後、ICUに入れられましたが、そこで、麻酔が覚め、まったくからだが動かせないまま、24時間そこに置かれました。ナースに声をかけられ、何分経ちましたか、と尋ねました。わたしは1時間以上過ぎたと思ったのですが、わずか5分経っただけだと聞かせられ、時間が全然進まない経験をしました。

 

抗がん剤の副作用にも苦しみました。吐き気、脱毛、そして、味覚障害、嗅覚障害、不眠、精神症状・・・放射線治療では、痛みも熱さも何も感じないのですが、回数を重ねるうちに鼻血が止まらなくなるという経験をしました。

 

小腸からの出血多量で意識を失って救急車で搬送されたこともあります。検査も楽ではありません。血管が固くなり、採血の針がするっと滑ってしまい、ナースが悪戦苦闘しているのを眺めるのは気持ちのいいものではありません。

 

あれやこれや・・・病の中で、わたしはいろいろなことを考え、経験しました。

いいことがあっただろうか。そう思い振り返りますと、現在医学の恩恵を蒙って今生きていることそれ自体が幸いと言えるでしょう。

 

【神の恵み】

私たちは永遠の命に関わる特別恩恵と、あらゆる生の領域で働く神の恩恵を信じるものですが、その一般恩恵を何度も経験する幸いを与えられました。

 

また、病気を経験することで、病むことの苦しみを味わい、病む人の苦しみに同情することが出来るようになりました。いつも思うのは、これは肉体の医師、医療関係者には分かって貰えないことです。実際検査ひとつをとって見ても、その苦しみを味わわなければ・・・

 

【苦しみの多様性】

しかし、やはり病んでいいことよりも辛いことが多かったと言わなければなりません。

どんな苦しみか。現在医学の進歩で、肉体的な痛みはかなりコントロールされて来ました。特に術後の痛みは麻酔術の進歩で軽くなりました。でも、魂の苦しみの方はどうでしょうか。

 

病んで苦しむ苦しみはこれまたいろいろあります。たとえば、死ぬかもしれないという恐れも苦しみかもしれません。孤独もそうです。誰もいない病室でひたすら天井だけを眺める(首が固定されてしまって)だけ、それは苦痛です。病気は、強制的に仕事ができなくします。同僚がどんどん仕事をしているのにできないための申し訳なさ、あるいは口惜しさ。

 

経済的な不安も伴ないます。家族に迷惑をかけるという思いも苦痛です。いろいろあります。病苦とは単純ではありません。複雑で難解です。

 

わたしはその中で、「この自分だけがどうして苦しまなければならないのか」という問いに苦しみました。おそらく病気になった人、特に大病を経験した人が問う問いではないかと思います。今回は取り上げられませんが、もうひとつは、後から病んだ人が先に逝ってしまうということの申し訳なさも苦しみでした。何故人だけが生き残ったかも難問です。

 

ここで、わたしは聖書のふたつの癒し物語を取り上げたいと思います。マタイ9章1-11とヨハネ9章1-12です。

 

【罪を許す権威を持っているイエス】

マタイ9章1-9では、中風の人の癒しが記されます。イエスは、罪を許す権威を持っていることを証拠立てるために、病人を癒します。つまり、ここから容易に推測できることは、病気は罪の結果であって、罪が許される=帳消しにされることで、病気も癒されるという真理です。

 

罪は、ここでは神を持たないこと、あるいは神に顔を向けていないことを指しています。単に、悪とは邪ま、あるいは悪行、邪悪な思いだけを指しているのではなく、神との関係で、神に対して正当なあり方ではないすべてを指しています。

 

この罪の結果、罪人に災いが持ち込まれます。病気もそのひとつです。本来、神が創造されたときの人類は病むことを知りませんでした。

 

【盲人の罪でもその両親の罪でもない】

ところが、ヨハネ9章1-12では、目の見えない人の癒しが語られています。ここで主イエスは、その人自身の罪、あるいは、両親の罪によって、この人が視力を失ったのではないと明確に語られています。これではマタイの福音書で言われているところと矛盾します。

 

しかし、聖書は矛盾したことなど教えません。

一方では、病は罪の結果であるといいながら、他方では、個々の罪の結果ではないという。矛盾しているようではありますが、そうではありません。

 

病の原因はある人は偶然の所産、ある人は遺伝的体質、また、何らかの悪行の罰、あるいは、運命になすところだといいます。そういう原因の説明では納得できるでしょうか。

 

ところが、このふたつの癒し物語で明らかにされることは、私たちの病は間違いなく、神から来るということです。しかも、私たちの中にあるという罪の性質に対する神のわざです。

 

そういう点では、人間の中にある病は罪が原因です。同時にある人が、何か特定の罪を犯したから病むのではないということも真実です。

 

注意していただきたいことは、わたし自身が病むとき、神からの懲らしめだと思うことは正当な感覚です。同時に、誰かが病気になったとき、神から罰せられたと安易にいってはならないし、口にしてもならないのです。それは神の御心にあることです。わたしが病むのは神がそうされたからです。

 

神がある人を盲目にされました。それは神の決定です。特別、その人自身に理由があったのではありません。

 

何故、このわたしだけが苦しまなければならないのか。答えは分かりません。愚かな人間にはあらゆる知恵にまさる神をはかり知ることはできません。

 

【神を信じる者にはすべてが益になる】

ただ分かることは、主イエスを私たちのために送り出し、御子の十字架によって私たちを贖い出そうとする神には深い配慮があるに違いないということだけです。

 

神は私たちの魂のために常に最善を尽くす方です。わたしが病み、苦しむには、神が最善を考えられているからに違いありません。わたしには神のすべてが分かったのではないので、不満であり、ときに神に不平を申します。

 

でも、すぐ分かることはその神は常にわたしと共にあってくださいます。だから、わたしのすることは今この時点でも神に希望を抱き、神を信頼しつづけることです。それが主が示される道でもあります。(おわり)


金田幸男(かなたゆきお)牧師略歴

   1946年生 大阪府堺市出身

   1972年  神戸改革派神学校卒。

         中部中会の四日市教牧師を経て,

   1994年  甲子園教会に着任、日に至る。


 

2013年03月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師

2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2626 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

 

【子羊の像】

あるドイツの教会にある庭に可愛らしい子羊の像が建てられています。この像が建てられた背景は意義深いものです。

ある日数人の職人が教会の屋根の修理をしていて一人が誤って足を滑らしました。そして高い屋根でしたから同僚の職人たちは転落した仲間の命はないものと思いましたが彼は何事もなかったように無事に生きていました。

彼が転落したとき丁度そこに草を食べている子羊がいたのです。その子羊の上に落ちた職人は命が助かりましたが、その子羊の命はありませんでした。

命を助けられた職人は彼が落下し子羊が亡くなった場所に子羊の像を作りその台座に「砕かれた子羊の記念に」という碑銘を記しました。

 

【最初の聖餐式】

今朝は聖餐式を守ります。

聖餐式は「世の罪を取り除く神の子羊」としてこの世に来られた主イエス・キリストの贖い死を覚え感謝するわたしたち教会の大切な聖礼典です。

今日お読みした聖書の箇所は主イエス様が制定された最初の聖餐式を記しています。

敵に渡される夜、主は弟子たちを集め、ユダヤ教の過越祭を強行しました。昔イスラエルがエジプトで奴隷であった時、神様はモーセを召してエジプトの奴隷の家からイスラエルを解放して故郷カナンの地に導かれました。

 

【過越祭】

神がエジプトのパロ王に下された裁きはエジプトの初児を皆殺されるという厳しいものでしたが、ただイスラエルの家には予め傷のない子羊を屠って入口の二本の柱と鴨井に子羊の血を塗るようお命じになりました。更に屠った子羊を焼いて食べるよう命じられました。

 

命じられた通りに入口に子羊の血を塗ったイスラエルの家はそれが印となり死の天使は過越してその家を神は守られましたが、そうでないエジプトの家は宮殿から奴隷の家まで人も動物も初児は死に絶えましたので頑迷なパロもイスラエルを去らせました。主なる神はイスラエル人がこの過越しの出来事を世々に記念すべき日、主の祭りとして祝うように命じられたのでイスラエル人にとって過越しの祭りは特に大事でした。

 

【過越祭の新しい意味】

主イエスはその晩、新しい意味を再解釈して過越祭に与えられたのです。過越しの食事の後、主イエスは驚くべきことをなさいました。いつもの儀式から離れて新しいものを制定されました。

 

26節にこう記されています。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。また杯を取り、感謝の祈りをしてから彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」と言われました。

 

過越祭の背景を用いて主は弟子たちに「私こそは新しい過越祭の真の子羊であって私の流す血こそがあなた方の罪を清めてあなたを救います」と教えられました。

 

主は言われます、「私の十字架の贖い死はあなたの全ての罪を赦し神の愛された子として永遠の命を与えます」。

 

【聖餐式】

主イエスはパンをとって裂き「これを食べなさい。これはあなた方の為に裂かれた私のからだである」と言われました。屠られた子羊の肉を食べるように命じられたイスラエル人と同じく私たちも「私のパンを食べるように」と聖餐式に招かれています。それは私たちの為に砕かれたイエスの体の表章シンボルになります。

 

これを食べることによってイエスの贖い死はわたしの為であって主の犠牲のお蔭で滅びに向かっていた私は救われ永遠に神の子として受け入れられます。

 

同様に杯から飲む葡萄酒は罪の洗いの為に流された主の血を飲むのです。神の敵であった私たちです。希望のない私たちの為に罪のない神の子羊は自ら進んで罪人の私たちの為ご自分の命を投げ出してくださいました。この血によって私たちは贖われ大きな希望と恵みが自由に与えられています。聖餐式の杯を飲むことによって主の愛と犠牲を覚え記念します。

 

【感謝の応答】

主の救いを覚えることによって私たちは自然にその賜物に反応します。神の御子の最高の犠牲のお蔭で贖われましたので私たちは愛と感謝と信仰をもって答えます。これはわたしたちの行動に影響します。たとえば神を愛すると言いながら隣人を憎むことは出来ません。神の赦しを経験したものは兄弟姉妹を赦すべきです。さらに神の物質的豊かさから多くを戴いたのなら貧しい者にむかって分かち合う責任があります。

 

その上イエス・キリストの永遠の救いを賜った者はこの福音を周りの者に伝える特権が与えられています。

 

愛する兄弟姉妹。聖餐式に際して私たちの為に流された主イエスの血を飲み砕かれた主の肉を食して私たちの救いを得させて下さった主の犠牲を心から共に記念したいと思います。

 

主の犠牲を心から記念し愛と感謝と信仰と憐れみをもってふさわしく主に答えたいと思います。

 

 

2013年03月10日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2013.3.3.説教「キリストを模範とせよ」ウイリアム・モーア宣教師

2013.3.3.説教「キリストを模範とせよ」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:フィリピの信徒への手紙2- キリストを模範とせよ-

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

説教要約(文責 近藤)

 

【キリスト者とはイエスに倣う者】

この世にある間、クリスチャンは一つの目的があります。それは救い主イエス・キリストに似ることです。クリスチャンとはキリストに似る者です。キリスト者はイエス・キリストに似ることが父なる神の御旨であって神を喜ばせることを知っています。

 

今日の御言葉は私たちがどうすればイエスに似るかを教えます。

主イエスに似ようとすれば、私たちは主と同じ態度をとらねばなりません。

 

パウロはピリピのクリスチャンに語りました。5節「 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」

原文は「キリストと同じ考え、同じ態度をとりなさい」となります。

イエスの価値観と行動を模範とすることで私たちは主に似て行きます。

 

イエスに似るために今日は3つの態度を覚えましょう。

 

【愛をもって人に仕える】

1、主イエスと同じように人を、隣人を愛さねばなりません。

隣人を愛することは次のように言われます。

マタイによる福音書 712 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

私たちは主イエスを模範として良いときにもそうでないときも積極的に人に仕えます。

 

例えば友のない者の友となり、職場の弱い者に手を伸ばし、物質的に困っている者を助け、病人を慰め、人の悲しみも慰め、希望のない者に希望を与えることはキリスト者の使命です。

主イエスがこの世を歩まれたとき主はこれら全てにおいて人に愛の業をなさいました。

主イエスに似たい私たちもそうすべきです。

 

【相手を自分よりも優れた者とする】

今日の御言葉に更にこう書かれているキリストの精神を学びましょう。

3節「 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

 

主イエスと同じように自分の立場と自分の利益より相手のことをより大事にし、そのうえ相手を自分より優れた者とすることです。それは難しいことです。私たちは本能的に自分の知恵、判断力、自分の正義感に自信があり、相手より優れた者として自分の価値を確認する者です。

相手の失敗、欠点をあげて喜び、こうして自分をそれらの人より良い人だと信じたいからです。

しかしイエスによると相手を自分より優れた者として心から尊敬すると、そうすることで私たちは精神が変わり主イエスに似てきます。

 

【トラブルの原因】

実に大抵のトラブルは自分が相手より優れた者とすることで生じます。

しかし逆に互いに相手を自分より優れた者とするなら、そして自分の都合と気持ちよりも相手のことを大事にするなら全ての問題は解決しお互い平和に暮らせます。

 

相手を自分自身よりも心より優れたものとして考え扱っていますか。この態度に立つなら、そうすれば私たちは主に似る者になり正しい道を歩んでいます。

 

続いて5節から見ましょう。

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 

【奴隷のように】

私たちの模範である主イエスは全人類の為に僕になり、私たちに仕えるためこの世に来られた。

主は全能の神の身分があって永遠の昔から天国の全ての栄光を経験されたが、人に仕えるためすべてを捨て、人としてこの世に誕生されました。またこの世では良い条件のもとではなく貧しい植民地で貧しい家族に生まれ、権力も富もなく普通の人よりも謙って僕として生きられました。

ここで僕と訳された単語はは奴隷のことです。

人類の為に永遠の神主イエスは奴隷の身分を自ら進んでとって私たちに仕えるためにこの世に来られた。

 

【すべての人の僕に】

マルコによる福音書に主イエスのお言葉がこう記されています。 10章「42あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子(イエス様のこと)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 

主イエスは自ら進んで僕になられた。私たちも主に似たいなら進んでキリストのように人の僕にならねばなりません。

 

そうすることで主に似る者となり、この世に人生の意味と歓びを持って生きられます。

これはこの世の常識とは反対ですね。この世では人に仕えられることは幸せだと考えられています。しかし実際、人は仕えられるほど虚しく惨めになります。社会にその例がよく見られます。有名になりお金で人に仕えられると人生の意味は虚しく惨めになります。

 

そうでなく気が滅入ってきたら一番良い薬は人に仕えることです。人に仕えると、殊に自分の助けを必要とする人に仕えると、自分の問題を忘れて人生の本当の目的を悟るのです。

 

小さいことでも人に仕えるなら主に似ますので主と同様に僕の心をもって積極的にその道を探しましょう。

 

【謙遜を学ぶ】

2、次に主イエスに似たいものは謙遜を学びましょう。

 

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 

「自分を無にする」とは原文では「自分を空っぽにした」となります。

 

【主イエスの洗足】

主は自分を守るため神の力を用いず、自ら進んで人としてこの世を生き、模範として身を低くして弟子の足を洗われました。

当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。

主は弟子たちの足を洗うことで謙遜を教えられた。サンダルを履くので足がきたなくなって、家に帰るとそれを洗うのは奴隷の仕事でした。

主は弟子の足を洗うことで彼らに謙遜を示され人に仕えることを教えられました。

 

わつしたちは昔偉かった自分の立場を忘れず、まだ捨てられませんか。

これはすべて泡のようなものです。

私たちも社会的地位に関わらず主に倣って謙遜をもって謙って周りに仕えるなら主イエスに似る者になります。

 

【従順に神に従うこと】

3、最後は従順に神に従うことで主に似る者になります。

 

8 節「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

主イエスの使命は人の贖いとなって十字架で御自身の命を捨てることでした。

受難節にある私たちは主の最も重要な御業を学び、心に未解決の問題を十字架の主に委ねませんか。私たちが主の十字架を思うと許せない者があるでしょうか。

 

主の十字架の従順のお蔭で私たちの罪が許され、そのうえ私たちは神の家族に入れられました。

 

しかし主イエスに似たいのなら神に従わなければなりません。御言葉の教えを学び主と同じように毎日の生活にその教えを実行します。神の為に犠牲になっても従います。

 

それは私たちの使命であり、わたしたちの特権でもあります。私たちの全ての行動は私たちの愛する子供や孫や周りの人が見ています。私たちが行うことを彼らも学び同じように実行します。

 

【十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた主イエス】

愛をもって人に仕えること、心から謙遜になること、従順に神の教えに従い実行することを主イエスに似る者は現します。主は私たちに仕え私たちに謙遜を顕し、そして私たちのために死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。

 

どうか私たち一人一人も神の助けで全てにおいて主イエスを模範としましょう。主に段段に似ることは神を喜ばせ私たちにも平安と歓びの日を迎えることになるでしょう。(おわり)

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2013年03月03日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙