2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師

2013217日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師

 

聖書:ヨハネによる福音書12章20-26節

 

【ギリシア人、イエスに会いに来る】

20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

説教要約(文責近藤)

 

【受難節レント四旬節】

先週の水曜日より受難節に入りました。この日から復活祭までの主の日を入れない40日を四旬節、受難節、レントといます。

十字架の主の贖いがなければ私たちの信仰はむなしく救いはありません。受難節を通して主の御復活を覚えることが出来ます。受難節はキリスト者にとって悔い改めの機会になります。

 

何故40日間かというと、聖書の中で40という数は特別の準備をする期間です。

モーセは40年間の荒野の試練を通してイスラエルの民を約束の地に入れるように訓練しました。

ヨナは40日以内に悔い改めないとニネベは滅びると人々に訴えました。

主イエスは40日間の荒れ野で断食し試練を耐え忍ばれサタンの誘惑に勝たれました。

聖書には四旬節のことは書かれていませんがこのような伝統に従い全世界教会はこの受難節を守るようになり、主の復活を準備します。ちなみに日曜日は受難節には含まれません。なぜなら日曜日は主の復活を記念する歓びの日だからです。

 

私たちも世界教会の群れとしてこの受難節を大切に過ごしたい。

主の十字架は私たちの為でありイースターの復活は私たちの喜びになります。

 

【ギリシャ人の来訪】

今日の御言葉によると外国人であるギリシャ人が過越しの祭りの時にエルサレムの神殿に詣でた。かれらが弟子ピリポに「イエスにお目にかかりたいのです」と願いますとピリポは喜んで兄弟アンデレにそのことを話し、彼らはイエスにギリシャ人のことを伝えました。

 

【弟子たちの思い】

二人は自分たちの主がギリシャ人にまで有名になり、いよいよ主イエスと自分たちが世に認められる時が近づいたと思いました。しかし弟子たちの思いは主イエスの思いとは違っていました。なぜなら主イエスは数日のうちに御自身が十字架に架けられることを知っておられたのです。

 

数日前イエス様一行はエルサレムに入り人々から歓迎されました。

「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』(ヨハネによる福音書12:13)」。

 

弟子たちの目からは彼らのリーダーの人気が上がり、さらにイスラエルの王として認められたと大変喜びました。弟子たちもその立場が上がると喜びました。しかし主のお言葉を聞くとその喜びは失せてしまいました。

 

【一粒の麦】

主は思いがけないことを言われました。

 

23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 

弟子たちは「人の子が栄光を受ける時が来た」は理解できましたが、しかし次の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのお言葉に当惑し驚かされました。ギリシャ人の訪問とは関係ないと思いました。しかし今日のこの箇所からその意味を悟ると主イエスとキリスト信仰の深さをより深く理解できるようになります。

 

【一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである】

麦を沢山穫り入れたいのなら種を蒔かねばなりません。主イエスの時代は種を買うことはしませんで、賢い農家は良い種を翌年の収穫の為に食べずに残しました。

 

明日の為に今日我慢すれば将来は収穫が約束されましたが、残すべき種まで食べてしまった農夫は翌年の収穫が出来ませんでした。この話は弟子たちにもよく理解できましたが、農家の種まきのお話とギリシャ人の訪問は弟子たちには結びつきませんでした。

 

主は弟子たちのこのようなイエス理解を知っておられたので、主は誰もが知っている種まきの話から弟子たちに主イエス御自身はどういうお方であるかを悟らせようとされました。

 

弟子たちは主イエス様の救い主としての理解がまだ不足していました。彼らはロマ帝国支配からの解放を主に期待しました。それでギリシャ人も主イエスの味方になれば心強いと思いました。

 

【十字架の道】

主は為政者としての道を選ばれるなら十字架の道は避けられたことでしょう。しかしそうされたなら全人類の救いの道は閉ざされ、永遠の滅びの道を滅ぼし永遠の命を拓く使命は無かったでしょう。

 

それゆえに永遠の賜物を全人類に与えるためには主の犠牲が必要です。

永遠の命の道を人類が与えられるために、主イエスは人類の罪の洗うため、私たちに代わって十字架の道を歩まれ、私たちのために死んでくださったのです。そして大きな祝福を与えてくださいました。

 

主は私たちのために一粒の麦となって下さいました。24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

 

一粒の麦を地に植えると言うことはその麦であるイエスさまにとっては犠牲となりますが、全人類に計り知れない恵みが与えられました。主は私たちに命を与えるために十字架の道を選ばれました。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書316」。

 

【自分の命を憎む】

主は弟子たちにだけでなく、私たちにもその原理を悟らせたかったのです。

 

25 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。

 

マタイによる福音書 1039 節にも同じことが言われます。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 

キリスト者は自分の為でなく主の為に自分を犠牲にするなら真の命を主から豊かに与えられます。

 

【古い自分を捨てる】

茶色の家を白い家にするためには、白いペンキで家を塗りつぶさなければなりません。

健康のために体重を減らそうとしたいなら、古い食生活を改めなければなりません。

神様の証人になるためには自分の中にある自己中心の生き方に死なねばなりません。私たちが十字架を担うのはイエスの愛が私を通して現れるためです。

 

受難節に私たちは古い自分を捨て一粒の種として地に落ちなければなりません。ギリシャ人がピリポに「主にお目にかかりたいのです」と頼みました。私たちも主のもとに来て彼らと同じ恵みに与ります。

 

【主にお目にかかる道】

今日の箇所でその秘訣を教えて下さったのです。

26節「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

愛する兄弟姉妹。主にお会いしたいなら、わたしたちの生活を通して喜びをもって主に仕え主に従いましょう。(おわり)

 

2013年02月17日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/942