2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師
2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:コリントの信徒への手紙一1章
18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
説教要約(文責近藤)
【受難節】
先週水曜日より受難節に入りました。
復活祭の前の主の日を除く40日間を受難節として主イエス様の私たちの為の御苦しみと十字架の死に私たちは集中します。
受難節は私たちの悔い改めの機会であり私たちの信仰の不足したところを補う期間です。
これによって主の御復活の深い意味を知り復活の喜びを心から祝うことができます。
今日与えられた御言葉に主イエスの十字架の贖い死についてこう書かれています。
22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
一般的に言って人々は大きな人生の質問の答えをどこに求めるでしょうか。使徒パウロの時代「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しま」した。
【ユダヤ人はしるしを求め】
主イエス様はユダヤ人の為に多くの奇跡を行い、そのしるしによって神の独り子としての権威を顕されましたが、当時のユダヤ人は別のしるしを求めました。
その求めるところはこの世的なものでユダヤ人がローマ帝国の支配から解放され自由を勝ち得るなら彼に従ったでしょう。
【主イエスの十字架】
主にはその力が十分にあったのですが、主イエスは十字架の道を選ばれたので、当時のユダヤ人はそれを力と成功の道とは思えず弱さと敗北と恥のしるしと思いました。
彼らは霊的救い主を必要とせず、主の十字架はつまずきとなりました。
ユダヤ人は栄えと力強い軍事的勝利を求めましたので十字架のような霊的道を拒否しました。
【ギリシャ人は知恵を探す】
又当時のギリシャ人は知恵を求めました。
ギリシャはソクラテス、プラトン、アリストテレスを生み彼らの影響は今日も残っています。
ソクラテスによると人間の最も重要なニーズは教育によって答えられると言いました。教育によって人間は理性あるものとなり、教育によって人間は良くなり社会は問題が少なくなると言いました。
使徒パウロは伝道の為ギリシャの首都アテネでギリシャの哲学者たちの前で証をたてました。
はじめは喜んでパウロの新しい話に聞き入りましたが、パウロが宇宙の創造主と全能の神が処女によって人間として降誕したことや、十字架で死なれ、そして復活したことを語ると彼らには全く愚かなことだと受け入れられませんでした。
それは彼らには不合理でした。
その上全能の神は御自身の独り子を十字架に架けることを許されましたが彼らにはそれは理解できませんでした。
更に復活は彼らには不可能なことです。死んだ者は蘇りません。人間の経験からはずれ不論理的だと思い躓きました。これはイエス・キリストの福音に対する大昔の人々の反応ですが、今の私たちも知恵としるしを求め、神を信じる前に確証を求めます。しかし彼らにはどういうしるしが彼らには確証になるのでしょうか。
神などいないと思い込み神御自身が目の前に現れても信じないでしょう。
ただ幻想に違いないと思うでしょう。
現代の人々も知恵を求め、知恵は全てを解決できると仮定する傾向がつよいです。
【この世の進歩】
例えば知恵を通して経済が発展して貧困と犯罪がなくなると思う人は多いです。
また医療の進歩は人類の救いになると信じる人は多いです。
人間の知恵で肉体的と精神的病気が征服されるとこの世はまるでパラダイスになると思い込みます。
人間の知恵によって全ての問題が解決され、人間の力によって全ての質問に答えられると信じたい気持ちは良く分かりますが、全ての質問の答えが得られると言う希望は幻想です。
そういう希望が本当なら、人間はもう少し進歩したはずだと思いますが、今日も国と国の問題は戦争によって解決しようとし、犯罪は増え続け刑務所の人口は減ることがありません。
21世紀は発達したと言いますが世界の貧困層はまだまだ増えて飢え死にするものも珍しくありません。
医療が進歩したと言っても病気に悩む人は一向に無くならず新しい原因の解明されない病気も次々に起こってきます。
【私たちの質問】
「私はどのようにして幸福になりますか。
どうすれば私は心に平安を得られ、どのようにして私は現在の生き甲斐と将来の希望を持つことが出来るでしょう。
死んでも人から忘れられないようにするには私はどうすればよいでしょうか」等々、私たちはこのような質問を問いかけます。
【人生最大の質問】
このような質問は大事ですが、人生においてこれらは最大の質問ではありません。
わたしたち人間は最も重要な質問を見落としています。
それは人間の力に焦点を置いていて「私がどうすればよいか」との質問は人間の力と知恵に焦点されているからです。
そうではなく最も大事な質問は「神はどのようして私にご自分の愛を顕されたか、神はどのようにして私の罪を贖ってくださったか、神はどのようにして人生の目的と希望を私と全人類に与えられたか」と質問すべきです。
【十字架につけられたキリスト】
人間中心的質問よりも神中心の質問が大事です。
神様はそのような質問に導いて下さいます。
その質問の答えはパウロが述べた「十字架につけられたキリスト」です。
キリストの死を通して神はご自身の愛を示されました。
キリストの十字架を通して私の罪を贖って救ってくださった。
イエス・キリストの十字架によって神は私と全人類に人生の確かな希望と目的を与えて下さった。
使徒パウロがその真理をこう伝えました。
23節~25節「23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
十字架につけられたキリスト、全能の神が独り子を犠牲にすることは愚かに見えてもこれは人知を超えた神の知恵です。
神は十字架で罪の全くないキリストを罰しました。
その贖い死によってご自分の正義を全うされ、同時に私たちの全ての罪を赦してくださいました。十字架につけられたキリストこそ神の力と知恵です。
この歴史の中の最も重要な出来事を通して神は私たちを罪の力から解き放ち私たちをご自分との関係を回復し私たちのために永遠の命の門を開いてくださいました。
【復活の喜び】
受難節に人生の最も大事な質問に答える新たな機会を与えられました。
受難節を終えると復活祭イースターの喜びに与ります。
そして主イエスの復活は十字架のキリストこそが神の答えであることを保証します。
受難節の旅の上に神様の祝福がありますように祈ります。(おわり)
2013年02月24日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師
2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書12章20-26節
【ギリシア人、イエスに会いに来る】
20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
説教要約(文責近藤)
【受難節レント四旬節】
先週の水曜日より受難節に入りました。この日から復活祭までの主の日を入れない40日を四旬節、受難節、レントといます。
十字架の主の贖いがなければ私たちの信仰はむなしく救いはありません。受難節を通して主の御復活を覚えることが出来ます。受難節はキリスト者にとって悔い改めの機会になります。
何故40日間かというと、聖書の中で40という数は特別の準備をする期間です。
モーセは40年間の荒野の試練を通してイスラエルの民を約束の地に入れるように訓練しました。
ヨナは40日以内に悔い改めないとニネベは滅びると人々に訴えました。
主イエスは40日間の荒れ野で断食し試練を耐え忍ばれサタンの誘惑に勝たれました。
聖書には四旬節のことは書かれていませんがこのような伝統に従い全世界教会はこの受難節を守るようになり、主の復活を準備します。ちなみに日曜日は受難節には含まれません。なぜなら日曜日は主の復活を記念する歓びの日だからです。
私たちも世界教会の群れとしてこの受難節を大切に過ごしたい。
主の十字架は私たちの為でありイースターの復活は私たちの喜びになります。
【ギリシャ人の来訪】
今日の御言葉によると外国人であるギリシャ人が過越しの祭りの時にエルサレムの神殿に詣でた。かれらが弟子ピリポに「イエスにお目にかかりたいのです」と願いますとピリポは喜んで兄弟アンデレにそのことを話し、彼らはイエスにギリシャ人のことを伝えました。
【弟子たちの思い】
二人は自分たちの主がギリシャ人にまで有名になり、いよいよ主イエスと自分たちが世に認められる時が近づいたと思いました。しかし弟子たちの思いは主イエスの思いとは違っていました。なぜなら主イエスは数日のうちに御自身が十字架に架けられることを知っておられたのです。
数日前イエス様一行はエルサレムに入り人々から歓迎されました。
「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』(ヨハネによる福音書12:13)」。
弟子たちの目からは彼らのリーダーの人気が上がり、さらにイスラエルの王として認められたと大変喜びました。弟子たちもその立場が上がると喜びました。しかし主のお言葉を聞くとその喜びは失せてしまいました。
【一粒の麦】
主は思いがけないことを言われました。
23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
弟子たちは「人の子が栄光を受ける時が来た」は理解できましたが、しかし次の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのお言葉に当惑し驚かされました。ギリシャ人の訪問とは関係ないと思いました。しかし今日のこの箇所からその意味を悟ると主イエスとキリスト信仰の深さをより深く理解できるようになります。
【一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである】
麦を沢山穫り入れたいのなら種を蒔かねばなりません。主イエスの時代は種を買うことはしませんで、賢い農家は良い種を翌年の収穫の為に食べずに残しました。
明日の為に今日我慢すれば将来は収穫が約束されましたが、残すべき種まで食べてしまった農夫は翌年の収穫が出来ませんでした。この話は弟子たちにもよく理解できましたが、農家の種まきのお話とギリシャ人の訪問は弟子たちには結びつきませんでした。
主は弟子たちのこのようなイエス理解を知っておられたので、主は誰もが知っている種まきの話から弟子たちに主イエス御自身はどういうお方であるかを悟らせようとされました。
弟子たちは主イエス様の救い主としての理解がまだ不足していました。彼らはロマ帝国支配からの解放を主に期待しました。それでギリシャ人も主イエスの味方になれば心強いと思いました。
【十字架の道】
主は為政者としての道を選ばれるなら十字架の道は避けられたことでしょう。しかしそうされたなら全人類の救いの道は閉ざされ、永遠の滅びの道を滅ぼし永遠の命を拓く使命は無かったでしょう。
それゆえに永遠の賜物を全人類に与えるためには主の犠牲が必要です。
永遠の命の道を人類が与えられるために、主イエスは人類の罪の洗うため、私たちに代わって十字架の道を歩まれ、私たちのために死んでくださったのです。そして大きな祝福を与えてくださいました。
主は私たちのために一粒の麦となって下さいました。24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
一粒の麦を地に植えると言うことはその麦であるイエスさまにとっては犠牲となりますが、全人類に計り知れない恵みが与えられました。主は私たちに命を与えるために十字架の道を選ばれました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書3章16)」。
【自分の命を憎む】
主は弟子たちにだけでなく、私たちにもその原理を悟らせたかったのです。
25 節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
マタイによる福音書 10章39 節にも同じことが言われます。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
キリスト者は自分の為でなく主の為に自分を犠牲にするなら真の命を主から豊かに与えられます。
【古い自分を捨てる】
茶色の家を白い家にするためには、白いペンキで家を塗りつぶさなければなりません。
健康のために体重を減らそうとしたいなら、古い食生活を改めなければなりません。
神様の証人になるためには自分の中にある自己中心の生き方に死なねばなりません。私たちが十字架を担うのはイエスの愛が私を通して現れるためです。
受難節に私たちは古い自分を捨て一粒の種として地に落ちなければなりません。ギリシャ人がピリポに「主にお目にかかりたいのです」と頼みました。私たちも主のもとに来て彼らと同じ恵みに与ります。
【主にお目にかかる道】
今日の箇所でその秘訣を教えて下さったのです。
26節「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
愛する兄弟姉妹。主にお会いしたいなら、わたしたちの生活を通して喜びをもって主に仕え主に従いましょう。(おわり)
2013年2月3日説教「信仰とは何か」ウイリアム・モーア
2013年2月3日説教「信仰とは何か」ウイリアム・モーア
聖書:ヘブライ人への手紙11章「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。
(説教要約 文責近藤)
【ナイヤガラ滝の綱渡り】
19世紀後半に目覚ましい活躍をしたフランス人の綱渡師ブロンダンが1859年にナイヤガラ滝の上50メートルの高さに340メートルの長さのロープを張ってカナダ側からアメリカ側に綱渡りを決行しました。ロープの上を猫車を押して見事に渡り切りました。大勢の見物客に向かって、「わたしはもう一度出来ると思いますか」と聴きました。人々は「イエス、イエス。勿論できます」と答えました。「それでは人を猫車に乗せて渡ることが出来ると思いますか」と質問しました。見物客はまた「イエス、イエス、勿論」と答えました。ブロンダン氏は「それでは誰かひとり猫車に乗ってくれる人はいませんか?」と尋ねました。しかし誰も前に出る人はいませんでした。実際世界一の綱渡りを見たけれどもその猫車に自分の命を乗せることは別の話でした。
信仰について今日はお話ししますが人々に誤解されていることがあります。
信仰の意味について先のストーリーは信仰の根本に焦点をもたらします。
【信仰とは】
綱渡り師の能力を信じていたら誰も前に出たはずですが、そこには信頼が不足していたのでブロンダン氏の前に誰も出ませんでした。
信仰とはこの話の比喩的猫車に乗ることです。
信仰とは簡単に言えば神の愛、神の約束を信頼することです。
私たちは日常生活において周りの者を信頼しています。例えば
朝起きてライトを点けるときは電力会社を信頼して電気が流れていることを疑いません。
手紙をポストに入れるときは郵便局を信頼して手紙が必ず届くと信じています。
建物に入るときは設計者と建築業者に信頼します。そうでないとビルに入れません。
薬局で薬を買うときはその薬は体に毒でなく良い効果があると信じて買います。
このように毎日の生活でこのような基本的信頼がないと生活ができません。
信頼の対象が神様である時、それを信仰と言いますが毎日の生活と違うことは神様は見ることが出来ないと言うことです。
パウロはこう信仰を次のように定義しました。
ヘブライ人への手紙11章1 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
今日はこの御言葉を中心に考えましょう。
まず1節前半「信仰とは、望んでいる事柄を確信する」ことです。
キリスト者は神の愛と力と約束を信じ信頼します。例えばキリスト者は永遠の命の希望が与えられていますが今はそれは見ることが出来ないので希望と言います。
主イエスは言われました、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネによる福音書 14章1―3)」と。
約束された事柄を望んでいるなら、その約束は真実な神の御子の約束ですから私たちは確信できます。
主を信じる者はこの世が終わると神の力によって愛する主の御許で永遠に主の大きな恵みと祝福を楽しむことができます。信仰によってこの不動の確信を持つことが出来ます。
【ロマ法王ヨハネス・パウロ】
ロマ法王ヨハネス・パウロは8 5歳で召されましたがこの世の生活は病気ばかりで楽なことはありませんでした。しかし彼はいつも変わらず最後まで立派に職務を遂行し大きな平安をもって死に直面する姿をマスメディアから見ました。なぜなら彼は自分の苦難より周りに思いやりを持って配慮しました。なぜなら神の約束を信じ永遠の命を確信していたからです。
彼には死は天国の入口との確信がありました。法王は確信をもって平安と歓びをもって召されました。彼は比喩的な猫車に乗ってナイヤガラの滝をわたりました。それこそが信仰です。
【ハドソン・テラー宣教師】
私たちは神に祈るとき望んでいることを確信すべきです。
1854年、ハドソン・テラーは22歳で中国に宣教するため帆船で5か月半の過酷な船旅を余儀なくされました。ある時は風がなく船は全く進みません。食人種のいる島に近かったので、船長はテーラー先生に神の助けを祈ってくれるよう頼みました。テーラー先生は船長に「まず帆を上げて下さい。そうでないと祈りません」と言いました。船長は「風もないのに帆を張るのは自分が笑いものにされる」と初めは従いませんでしたが、しぶしぶテーラー先生の言う通りにしました。テーラー先生が一人部屋で祈りました。
しばらくして急ぎ足で船長がやってきて「テーラー先生、まだ風のために祈ってますか。どうか祈りをやめてください」と頼みました。風が激しく吹いて、これ以上吹かれると危険だと恐れたのです。
祈りをする者はすでに叶えられたと信じなさいとの主の教えにテーラー先生は従った。テーラー先生は「信仰とは、望んでいる事柄を確信」すると言う信仰をもって比喩的ナイアガラ滝の上の猫車に乗りました。
【神の見えない事実】
使徒パウロの信仰の定義の後半に行きます。1節後半「・・見えない事実を確認することです」について
人は五感で何かを見なかったら存在しないと思うのですが、それは大きな傲慢です。私たちの五感は全てではありません。
神は霊でありますので五感では見ることはできません。しかし信仰によって神を実感できます。
神様は必要な時に必要なものを与えて下さると信じると、神のご存在を確認することが出来ます。あるときは苦しみの中で平安が与えられて自分が災いから守られると神様の存在が分かり祈りが応えられた時も神様の存在を確認できます。
【長女セーラ】
数か月まえ、長女セーラが深刻な病気の宣言を受け、私たち両親はショックと悲しみを覚えました。しかしセーラは病気を前向きにとらえました。高校1年生のときに信仰告白し、この難しい悩みの時だからこそ、神様に繋がっていることを感謝しました。周りの人々の祈りに支えられていることも大変感謝し神の大きな愛に気付かされました。彼女は病気で自分の世界観が変ったと言いました。神は娘を主の証人として生かせてくださいました。
人生にはいろんなことが起こります。他の人に起こることは当然自分にも起こります。
私たちキリスト者は逆境のときも一人でなく主なる神が共に居てくださいます。娘は今後どうなるかもわかりません、その長い道を主が共に居てくださいます。
信仰によって五感で見えない神の御臨在も確かめられました。信仰は見えない神の事実を確認することです。
【信仰がなければ、神に喜ばれることはできません】
今日の御言葉の続きに次のように記されています。
ヘブライ人への手紙11章「6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあります。神は何故私たちの信仰を喜ばれるのでしょうか。神は人の両親のように子供の信頼を求めて親しい交わりを喜ばれます。交わりの条件は信頼と信仰です。信仰がなければ神に喜ばれることは出来ません。私たちの信仰は未熟であっても心から信仰を豊かに望むなら愛である神は私たちを助けてくださいます。
信仰は神様の賜物ですが、その賜物を望む必要があります。「わたしたちは信じます。けれども信仰のない私たちをお助け下さい」は私たちの祈りになります。
愛する兄弟姉妹「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。(おわり)
2013年02月04日