2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書10章7~10節
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
(説教要約 文責近藤)
【「私は・・である」】
この世を歩まれた主イエスは御自身の使命、身分、役割を啓示されました。ヨハネ福音書には御自身について7つほどの「私は・・である」との宣言が書かれています。
ヨハネによる福音書6章35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
8章12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
10章11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
11章25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
14章:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
15章:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。
【わたしは門である】
そして7番目は今日の御言葉にある主御自身の宣言です。
「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。」
今日のこの箇所を学びましょう。
門とは入口です。門の役割は壁の向こう側と行き来することができます。
人間と神様との間には罪という障壁があり門は永遠に閉ざされていました。
【罪は神を隔てる】
罪とは何ですか。簡単に言うと神に従わず自己中心、自分勝手な歩みであります。
イザヤ書 59章2
「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」
主イエスこそは神様への唯一のドアとなります。
人間の罪を御自身の御子イエス様が受けて下さり神様のドアを開けてくださいました。
ドアを入ると神様の赦され愛された子となり、以前は罪ゆえ神の敵であったものが今は愛されて神の受入れられた子供になりました。唯一の全能の神を恐れるよりも、その門から入ると神は私たちの味方になって主の愛と親しい交わりを経験できます。
【門は守る】
門の他の重要な目的は門を閉じているときはその中の者を守ります。
この世は安全でなく病気や不幸は珍しくありません。
現代は治療法も進歩して多くの病気が治りますが、いろんな新しい病気が生まれ治療も困難です、また景気も不安定ですぐ悪くなります。人が富んでも瞬間的に無になります。
誰が良い将来を保証しますか。将来のために努力しても、将来は結局未知なのです。
しかし唯一全能の神は将来を知りご自分の民を守って下さいます。
勿論クリスチャンにも逆境はきます、しかし神はご自分の民を守り忍耐と希望を与えて下さいます。
このようにイエスキリストの門はすべての害悪から私たちを守り保護してくれます。
私たちは使徒パウロとともに確信します。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。(ローマの信徒への手紙 8章28節)
【唯一の羊の門】
又大切なことを覚えて頂きた。主イエス・キリストは唯一の羊の門です。沢山ある門の中の一つではなく、ご自分は羊の唯一の門です。他には門はありません。救いの方法はキリストの門から入る以外にはありません。
神を探すために人間は自分の門を創りたいのです。自分の条件に合った門で神様を知りたいのです。人間が作ったいろんな宗教が良い例です。しかし唯一の真の神の御前に出るために神の条件に合わなくてはなりません。常識ですが神はご自分で条件を創られます。
たとえばイギリスの女王に会うためには自分の条件ではお会いできません。ロンドンに行って自分勝手に塀をのっぼっては泥棒のように逮捕されます。女王の会うには女王の後援会に入り、その活動に参加していると何時かは女王に会えることが叶います。だれでも目上の者に会いたかったらその物の条件に従うべきです。同じように神を知り、神の救いを得ようとすれば神の条件に従うことしかありません。ルカ福音書に主イエスのお言葉がこのように言われます「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(ルカによる福音書 13:24)。
人間の作った条件では絶対に神様の御前に出れません。
主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書 14:6)。
【疑問?】
こういう話では神様が心狭い偏狭なお方で、了見の狭いお方と思いますか?おおらかな神なら色んな道を用意されるのではありませんか?イエス様以外の全ての宗教が神に近ずけるのではありませんか。
【酸素】
しかし少し考えてみてください。
人がこの地上で生きるためには空気が必要で、その中の酸素が絶対必要です。酸素以外では絶対生きられません。神がおおらかな方なら塩素や窒素で生きられるはずですが、とんでもありません、酸素を吸う以外には人が生きる道はないように人を創られました。
主イエスの道のみが人を永遠に生かす道です。これは驚くべきことではありません。他の方法は効果がありません。
【私たちの応答】
さて羊の門に私たちはどのように反応すべきでしょうか。
9「 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。
イエスの門を貴方の保護に使ってください。
この世ではこれから先も何が起こるか私たちには分かりません。しかしイエスに守られているので何物も恐れることはありません。他の誰よりも主なる神は強いお方ですから、どんなことにも失望はありません。主の門は貴方の為に開かれています。素直な心でこの門に入れば、神とともに歩む新たな人生の生き甲斐が分かります。
主イエスのお約束通り「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。(おわり)
2013年1月20日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月20日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書7章
1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
説教要約(文責 近藤)
【何事もけなす床屋の話】
ある男が床屋に行き、いつものように散髪をしてくれるように頼みました。この床屋の主人はいつも人にたいする悪口と酷評で満ちていました。政治家は賄賂を取る悪い奴と決めつけ、若ものは怠け者だと決めつけました。散髪をする間に男はローマに行くことを話しました。主人はどこの航空会社で行くか、どのホテルに泊まるかを尋ねました。男が答えるとその航空会社は危険だし、ホテルもサービスが良くないといいました。客は仕事でどうしても行かなければならないと答え、その後でローマ法王の拝謁も受けることになっていると言いました。床屋の主人はどうしてあの最低の神父から拝謁を受けるのかとけなしました。
さてその男は無事ローマから帰るとまた床屋に行きました。主人はローマの旅はどうだったかと聞きました。するとその男は答えました。ホテルも航空会社も満足したものだったよ。
床屋は男に法王にも会ったのかと聞きました。勿論会ったよ。そして膝まづいて法王の指輪に接吻もしたと答えた。主人は、その時法王は何と言ったかと聞きました。男は答えた「法王は頭に手を置いて、『わが子よ、このへたくそな散髪はいったいどこでしてもらったのか』」と言われました。
【人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである】
主イエスは「1人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と言われた。
その当時の律法学者やパリサイ派の人々は自らをイスラエルの裁き人として自分の標準に達しない人を罪人として裁きました。自分たちは律法を守っているので罪人ではない義人と確信していました。たとえ罪を冒してもそれは些細なもので気にするほどのことではないと思いこみました。
【律法学者、パリサイ派の人たちの罪】
彼ら律法学者、パリサイ派の人たちは自分たちが神の律法の番人として罪人を探し出し罰することを自分たちの仕事と考え、そうすることで神に仕えていると勘違いしました。
彼らは自分たちが神の剣だと信じ人を裁きました。彼らは自分の罪を隠し又小さく見積り他人を裁くことに集中した。自分たちは正しいのだという独善的態度を常に取りました。
このような背景から主は「人を裁くな」と言われた。
主は人を裁かない理由はあなた方も裁かれないようにするためだと。
主は宣言された2節「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。
人間のレベルではその通りです。相手を裁き批判すると、その相手から何時か復讐される可能性があります。人間は復讐心が強いからです。これは人の常識なのです。
【神の裁き】
しかし主は人の常識を教えられたのではありません。
人を裁くと神から裁かれると言うのが主の教えです。
罪人の私たちは主の憐れみのゆえに全ての罪を赦されました。神の子供として受け入れられました。
ローマの信徒への手紙6章23「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
私たちは神に許された者ですから同じ憐れみをもって隣人に接するべきです。
【「仲間を赦さない家来」のたとえ】
主イエスはあるたとえ話をなさいました。ただ聞いて下さい。
マタイによる福音書18章
23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン(一億円相当)借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオン(100万円相当)の借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
この二つのお話はその背景は違いますが同じ原則があります。
私たちは神に赦されているので隣人を赦すべきです。
そうでないと神の比べられない愛とご配慮の賜物を戴いていることが分かっていないことになり、隣人を赦さないならば神の正しい裁きを受ける恐れがあります。
今日のテキストから主は人間の弱さを示して下さいます。
今日の3~4節のこの御言葉は
「 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」
【自分の目から丸太を取り除け】
全人類は一つの共通点があります。人を厳しく裁きますが、自分自身にはゆるい裁きしかしません。
例えば車の運転中にも見られます。他人がちょっとした速度違反をしたり、高速道路で駐車違反している車を見ると、聞くに堪えないような言葉を発する自分がいます。しかし自分も同じような違反をしてそれに気づいても、自分の違反を正当化したり言い訳をします。
人と自分とでは別の標準があります。
主は私たちにこう指示されました。5節「 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と。
人の過ちや弱さを直す前に自分の過ちを認め直す必要があります。
【蛇のように賢く】
主は1節「人を赦しなさい」と言われますが私たちは全てのことを赦さなければなりませんか?
決してそうではありません。主も人を裁きました。律法学者、パリサイ派の人々に「偽善者よ、うわべで人を裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」と言われ「悔い改めよ」とはっきりと要求されました。人を見分ける必要がありますが独善的、破壊的な裁きはいけません。
主イエスは言われた「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイによる福音書 10:16)。
【自らの罪と戦え】
独善的に人を裁いてはならないし人を見る眼識が必要です。何よりも罪と戦うこと、特に自分自身の中にある罪と戦うことが必要です。
5節「 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(おわり)
2013年1月13日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月13日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師
旧約聖書箴言1章1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
2 これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。
6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。
7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
説教要約(文責 近藤)
【あなたは何を願いますか】
始めに皆さんに質問があります。
ある日、神様が現れてあなたの一つの願を聞いてあげようと言われたら神様から何を戴きたいですか?
人によって答えは違うでしょう。飢えた人なら食べ物を、病気に悩む人なら癒しを、経済的に困っている人にはお金を、さびしい人には話相手となる友を願うでしょう。
【ソロモンは知恵を求めた】
ある日、神はイスラエルの王となったソロモンの夢に現れ「あなたの願うものは何でも叶えてあげよう」と言われた。
ソロモンは神様にただ知恵を願いました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるようにこの僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
と。
旧約聖書列王記上3章5 ~10節
「5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。6 ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。
7 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。8 僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった」。
【神の大いなる祝福】
神様は、自分のために長寿や富、敵の命を求めず知恵を求めたソロモンに、その賢明な知恵を与えたもうのみならず、彼の求めなかった富と栄光、生涯誰にも比べられない繁栄を与えると、約束されました。
列王記上
3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
3:12 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
3:13 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
ソロモンの知恵は箴言に記され私たちの日々の生活に用いられています。例えば
箴言10章19 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
箴言14章3 1 弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。。
箴言22章1 名誉は多くの富よりも望ましく/品位は金銀にまさる。
箴言26章17 通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ。
これらの知恵は経験から知られたものです。
【箴言の目的】
箴言の目的は
箴言1章2 ~6節
「2これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。
6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。」
であると書かれています。
神のすばらしい知恵を日常生活に応用するとき神を喜ばせる正しい道に導かれ、神の豊かな祝福が与えられるのです。
聖書の知恵は頭が良いと言うこととは異なります。聖書の知恵は神から学ぶ正しい生き方です。学力は知恵を保証しません。学力あるものが知恵に欠けた行動をとるのを現実に見ることが多くあります。
私たちが生きるための知恵を得ようとする意志がありますか。
キリスト者として知恵ある生活を生きたいですね。
しかしどこから始めるでしょうか。
【主を畏れることは知恵の初め】
7節に答えがあります。
箴言1章7「 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。
ここには大事な真理があります。神を畏れることから出発しないと本当の知恵はありません。
【畏れるとは】
畏れるという言葉を正しく理解することが必要です。これは恐れる、怖がるという意味ではありません。聖書の神は愛で御自身の被造物を愛されます。神は人と親しい交わりを持つために人を創られましたので人は恐れで神から逃げる必要はありません。神に近ずきなさい。そうすれば神は近づいて下さいます。
【世人を愛される神】
神が独り子をこの世に遣わされたのは人びとを愛されたからで、神を恐れることはありません。神を畏れるべきです。力と愛と正義なる神に畏敬の心を持つべきです。
私たちの神は全てを創り、すべてを知り、はじめも終わりもありません。そのお方が罪人の私たちに手を差し伸べて愛して下さっています。私たちはその神に畏敬の念を持つべきです。
神は私たちを神の子どもとして霊的にも物質的にも恵んで下さいますので、当然神様との関係を大事に常に尊重すべきです。それ故、神の御子イエス・キリストが教えて下さった道に従うべきです。
何より主を畏れる事こそ知恵の初めです。
【無知な者は知恵をも諭しをも侮る】
逆に神の教えを無視し自分が主との関係に責任がないと思うと愚かになり回りに害になります。
神を離れ自分の目に正しいと思うことを行えば道徳は混乱し、隣人との人間関係は崩壊します。家族の関係も損なわれます。
【無神論者】
箴言1章:7後半「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。と書かれているにもかかわらず無神論者たちは聖書を蔑にして、宗教は戦争の根源だと言います。
勿論、宗教を悪用して戦争を正当化する人も居ます。
現在のテロリストはイスラム教の教えを曲解して自分たちを正当化します。
キリスト教も歴史を見るとキリストの名でひどいことが行われました。それはイエスの教えを無視したもので決して神の御心ではありませんでした。
しかし無神論の害ははるかに大きい。ヒットラー、スターリン、毛沢東、金日成は何億人を犠牲にしました。
神が存在しないと思うと全てのことが許され反対するものを簡単に処分します。
誰でも知恵を得ようとすれば神を畏れなければなりません。主を畏れることは知恵の初めだからです。
【知恵は神様の賜物】
知恵は神様の賜物ですから主に願うべきです。新約聖書ヤコブの手紙1章
5 節「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。
愛する兄弟姉妹。自分が正しいと思うままに行動するのでなく主の知恵と道を導きに従って祈り歩みましょう。(おわり)
2013年1月13日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月13日、説教「知恵の初め」ウイリアム・モーア宣教師
旧約聖書箴言1章1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
2 これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。
6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。
7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
説教要約(文責 近藤)
【あなたは何を願いますか】
始めに皆さんに質問があります。
ある日、神様が現れてあなたの一つの願を聞いてあげようと言われたら神様から何を戴きたいですか?
人によって答えは違うでしょう。飢えた人なら食べ物を、病気に悩む人なら癒しを、経済的に困っている人にはお金を、さびしい人には話相手となる友を願うでしょう。
【ソロモンは知恵を求めた】
ある日、神はイスラエルの王となったソロモンの夢に現れ「あなたの願うものは何でも叶えてあげよう」と言われた。
ソロモンは神様にただ知恵を願いました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるようにこの僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
と。
旧約聖書列王記上3章5 ~10節
「5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。6 ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。
7 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。8 僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった」。
【神の大いなる祝福】
神様は、自分のために長寿や富、敵の命を求めず知恵を求めたソロモンに、その賢明な知恵を与えたもうのみならず、彼の求めなかった富と栄光、生涯誰にも比べられない繁栄を与えると、約束されました。
列王記上
3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
3:12 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
3:13 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
ソロモンの知恵は箴言に記され私たちの日々の生活に用いられています。例えば
箴言10章19 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
箴言14章3 1 弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。。
箴言22章1 名誉は多くの富よりも望ましく/品位は金銀にまさる。
箴言26章17 通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ。
これらの知恵は経験から知られたものです。
【箴言の目的】
箴言の目的は
箴言1章2 ~6節
「2これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
3 諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
5 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう。
6 また、格言、寓話/賢人らの言葉と謎を理解するため。」
であると書かれています。
神のすばらしい知恵を日常生活に応用するとき神を喜ばせる正しい道に導かれ、神の豊かな祝福が与えられるのです。
聖書の知恵は頭が良いと言うこととは異なります。聖書の知恵は神から学ぶ正しい生き方です。学力は知恵を保証しません。学力あるものが知恵に欠けた行動をとるのを現実に見ることが多くあります。
私たちが生きるための知恵を得ようとする意志がありますか。
キリスト者として知恵ある生活を生きたいですね。
しかしどこから始めるでしょうか。
【主を畏れることは知恵の初め】
7節に答えがあります。
箴言1章7「 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。
ここには大事な真理があります。神を畏れることから出発しないと本当の知恵はありません。
【畏れるとは】
畏れるという言葉を正しく理解することが必要です。これは恐れる、怖がるという意味ではありません。聖書の神は愛で御自身の被造物を愛されます。神は人と親しい交わりを持つために人を創られましたので人は恐れで神から逃げる必要はありません。神に近ずきなさい。そうすれば神は近づいて下さいます。
【世人を愛される神】
神が独り子をこの世に遣わされたのは人びとを愛されたからで、神を恐れることはありません。神を畏れるべきです。力と愛と正義なる神に畏敬の心を持つべきです。
私たちの神は全てを創り、すべてを知り、はじめも終わりもありません。そのお方が罪人の私たちに手を差し伸べて愛して下さっています。私たちはその神に畏敬の念を持つべきです。
神は私たちを神の子どもとして霊的にも物質的にも恵んで下さいますので、当然神様との関係を大事に常に尊重すべきです。それ故、神の御子イエス・キリストが教えて下さった道に従うべきです。
何より主を畏れる事こそ知恵の初めです。
【無知な者は知恵をも諭しをも侮る】
逆に神の教えを無視し自分が主との関係に責任がないと思うと愚かになり回りに害になります。
神を離れ自分の目に正しいと思うことを行えば道徳は混乱し、隣人との人間関係は崩壊します。家族の関係も損なわれます。
【無神論者】
箴言1章:7後半「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。と書かれているにもかかわらず無神論者たちは聖書を蔑にして、宗教は戦争の根源だと言います。
勿論、宗教を悪用して戦争を正当化する人も居ます。
現在のテロリストはイスラム教の教えを曲解して自分たちを正当化します。
キリスト教も歴史を見るとキリストの名でひどいことが行われました。それはイエスの教えを無視したもので決して神の御心ではありませんでした。
しかし無神論の害ははるかに大きい。ヒットラー、スターリン、毛沢東、金日成は何億人を犠牲にしました。
神が存在しないと思うと全てのことが許され反対するものを簡単に処分します。
誰でも知恵を得ようとすれば神を畏れなければなりません。主を畏れることは知恵の初めだからです。
【知恵は神様の賜物】
は神様の賜物ですから主に願うべきです。新約聖書ヤコブの手紙1章
5 節「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。
愛する兄弟姉妹。自分が正しいと思うままに行動するのでなく主の知恵と道を導きに従って祈り歩みましょう。(おわり)
2013年01月13日
2013年1月6日新年説教「新しく創造されたわたしたち」ウイリアム・モーア宣教師
新約聖書コリントの信徒への手紙二5章
17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
説教要約(文責 近藤)
【真に新しい生き方とは】
2013年、開けましておめでとうございます。新しい年になると人々は新しいものを欲しがります。新しいものを買うと新しい年は祝福されたと考え、気分も新しくなると考えるからです。
しかし人はその本質を変えるのは難しいです。新しい服や新しいスタイルまた新しい車や新しい家を持っても、古い自分のむなしさ、不安、不満は新しい年にも引き継がれます。
どんな新しいものは人の心を満たすものではありません。
息子のポールが自身のフェイスブックに「生涯で最も大事なことはものではないと今日悟った」。新しいもので瞬間的に満たされてもそれは人の生き方が新しいものにはなりません。新しい生き方はものではなく新しい命だからです。
【キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者】
イエス・キリスト、人類の救い主のみがその賜物を与えてくださいました。
17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と書かれている通りです。
主イエス御自身も言われた、ヨハネによる福音書 10章
10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
主を受け入れると私たちの内側が変えられるので、主イエスを信じて主と結ばれる人にならねばなりません。彼を信じれば豊かに生きられます。
【歴史の進歩】
歴史を学ぶ人は分かります。科学を通して神の創造物を知る知識が進歩し、製造や医療や情報の技術が進歩しました。
車の進歩で生活が快適になり又コンピュータ―で仕事も楽になり計算も楽になりました。このように生活が楽になっても人生には思い煩い、恐れ、不満、人間関係のストレスが増えています。兵器技術の進歩で戦争はいよいよ破壊的になり、このように人の生活は決して良くなってはいません。その理由は一つです。
人の理性は神から離れ、自分勝手な歩みをし、神が教えて下さる生き方を無視し、その道を追い求めることもしません。
使徒パウロは今日の箇所のコリントの教会に問題がありましたので、そこの信徒に手紙を書きました。
派閥の害、経済的に恵まれた人は貧しい人を蔑み、信仰生活上も道徳的にも問題があったので大事な真理をを確認するために手紙を書きました。
【古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた】
新しく創造された者として歩み、イエス・キリストのみを信じて古い生き方を捨て、新しい道徳で生きなさいとのアピールでした。
古い宗教的風習を捨て新しいものを育てるべきです。新しく創られたものとしてキリスト者として自分らしく生きなさい。自分らしく生きるために常にイエス・キリストと結ばれ、その教えに従いなさい。過ぎ去った古いものを育ててはなりません。
新しい物質的ものでは決して私たちを満足させることは出来ません。私たちには新しい命が与えられました。
【キリストの使者の務め】
新しく創造されたものとして新しい目的も与えられました。
19節に「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」
キリストの使者の務めを私たちは与えられています。
21節「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
神の義が主の十字架によって私たちに与えられ、神との和解の道が私たちに与えられています。その道を周りの者にキリストの使者として伝える特権が与えられています。
【ある建設現場で】
ある建設現場で一人の石工さんに質問しました「あなたは今どんな作業をしていますか」と。彼は答えました「私は石を削っています」
また別の石工さんに同じように質問しました。彼は答えました「私は石の壁を建てています」と。
最後に同じ質問をもう一人の石工さんにしました。彼はプライドと確信をもって答えました「私はこの石で神の栄光のために大聖堂を建てようとしているのです」と。
3人は同じ仕事をしていますが仕事に対する見方は違います。
私たちはこの世に対してイエス・キリストに代わって素晴らしい務めを果たしています。
【キリストの代表として】
愛する兄弟姉妹。ここで考えてみてください。私たちは何のために生きていますか。
わたしたちの仕事は、会社のため、家族のため、食べるため、楽しみのためにします。これらは大切です。しかしもっと大事なことは私たちの言葉と行いでキリストに代わって救いのメッセ-ジが委ねられていることです。
ある信者はある宣教師を迎えに空港に行き教会まで案内しました。帰りに大きな6階建てのビルを見て「私はそこの2階で働いていますが、部下が74人ほどいます。しかしクリスチャンは私一人です。工場の働きで暮らしをたてていますが、そこでのもっと大事なことはそこで私がキリストの代表として働くことです。そのために一生懸命働いています」と話しました。
西谷教会はこのような人びとに支えられてきました。2013年精一杯与えられた所でキリストの使者として働きましょう。(おわり)
2013年01月06日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二