2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編23篇1~11.

1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ

6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ

8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

説教要約(文責近藤)

【10人の有名人】
英国人の俳優で劇作家のノエル・ハーワードはロンドンに住む10人の有名人にイタズラをしかけました。「わたしはあなたが犯した行為を知っている。それを公表しないならロンドンを去ってもらう」と書いて匿名で手紙を送りました。この10人は6か月以内に全てロンドンから去りました。それは彼ら10人は自分の罪が知られることを好まず余儀なく自らロンドンを去りました。罪がなかったらその手紙を無視したでしょう。
箴言に「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる」(28:1)とあります。
10人は自分の罪を隠したかった。しかしいつか明らかにされる不安と罪の意識に苛まれて生涯を歩まねばなりませんでした。

【罪を隠すこと】
私たちは小さな罪にも良心が痛みます。それが明らかにされる心配があります。
罪を隠すことで周りの人との良い交わりが壊されます。過去に行った罪の囚人になり前に進むことが困難になります。

赦されない未解決の罪は神との関係を損ないます。私たちは全て一人残らず罪人です。罪は殺人や強盗、盗みなどの大きな罪に限らず神の正義に逆らう小さな罪もあります。
コヘレトの言葉7章20「 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。」とあります。

今日の詩編32篇の御言葉は罪の唯一の解決の道です。それは神の赦しです。

【罪を赦されたダビデ王】
ダビデはイスラエルの王として忠実に神の前に生涯を歩もうとしましたが大きな罪も小さな罪も犯しました。大きな罪とは将軍ウリアの妻バテシバと姦淫し、それを隠そうとウリアを戦場の最前線で戦わせてひそかに彼を殺したことです。
ダビデは許された罪人としてこの詩編を書きました。

まず、その罪が許された者の歓びを歌いその恵みを讃美したのが詩編32篇1~2節です。

【幸いなこと】
詩編32篇1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

詩編1篇1~2節にも「1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」とありますように罪を犯さないことは一番幸いなことです。

しかし罪を犯しても罪を告白し神の赦しを戴くことも幸いであり主の祝福になります。

ここで罪は3つの言葉で説明されます。
1背き:「神の教えに逆らうこと」、
2罪:神の定められた標準に達しないこと。したこと、しないことで神の御旨に従わないこと。
3咎:堕落したこと。

過ちが許されるとこの3つの罪が許されます。
赦しとは持ち去って下さること、完全に処分してくださることです。

【ゴミの処分】
家のゴミを出すのは私の仕事です。それは気持ちの悪いことではありません。汚いゴミが持ち去られ焼却処分されるとスッキリします。捨てたゴミはもう私と関係ありません。もはや存在しないものとなります。

罪が処分されることは詩編103篇12 節にこう記されています。
「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」

罪を告白し悔い改めると神は完全にそれを処分してくださいます。神との良い関係が回復され罪の意識が取り除かれます。

【罪を告白しないとき】
反面、罪を告白しないときの状態が3節に記されています、ダビデ王はいいます、
「3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

罪を告白しないと霊的に病気になり、精神的にも肉体的にも及びました。ダビデは罪を隠そうとすると苦しく、辛かった。さらにダビデは神の懲らしめを受けました。
4節を見てください、
「 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」

我に返らせるため、罪を告白させるため神の聖霊がダビデに罪の意識を拡大させダビデは大変苦しくなり、耐えられなくなってやっと神に自分の罪を告白しました。彼は瞬時に癒されました。5節を見てください、
  5節、わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

【罪の告白】
ダビデは自分の罪を告白し悔い改めました。悔い改めとはその罪を嘆くことでなく、繰り返おさないこと、神とともに正しい方向に歩むことが、本当の悔い改めになります。

愛する兄弟姉妹、
神の赦しを戴くのに主に乞うことも許しのために善行をすることも必要ありません。

私たちが許していただきたい気持ち以上に、神御自身は何よりも私たちを赦したいのです。

神は私たちを赦すために御自身の独り子をこの世に遣わしてくださいました。
主イエスは十字架の上で私たちの罪を贖ってくださいました。
主イエスは私たちに代わって十字架で死んでくださり私たちの報酬を払い神の赦しを保証して砕いました。

ヨハネの手紙一 1章9 節にこう書かれています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

主イエスの救いを信じて、神に告白していない罪、ゴミをいつまでも持つ必要はありません。告白すればダビデ王と同じ歓びを経験できます。

ダビデとともに詩編32篇1~2節をもう一度歌いましょう。
「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(おわり)

2012年09月09日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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