2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師
2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師
聖
書 創世記4章1ー26節
1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。
18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。
23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。
24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」
25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。
【罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで】
今日の説教題にのせましたのは「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで」。
人間の罪は単に継承されるのではなく拡大する、分かりやすく言いますと人間は文明を発達させることができます。発達させて来ました。これはどんな動物にもできません。
猿がどんなに賢くてもできません。しかしその結果、被害、弊害も大きくなってきました。
【原発事故、この世の災害の根源】
昨年起こった原発の事故はそれを雄弁に物語ります。原発が良い、悪いを申してるのではありません。原子力発電は素晴らしい力を発揮しました。そのために助かってるものも多いです。しかし一旦何かが起こると、もう被害はとてつもなく大きいのです。これは何も原発に限りません。例えば包丁もそうです。台所に欠かせませんが、包丁は人を刺すことにも使えます。その種の犯罪が多ございます。一面人間は文化の歴史を発達させることができますが、その弊害もまた大きくなったのは事実であります。
さて創世記4章の物語から人間の罪が継承される、しかも増大していく。これに対して神の裁きも大きくなっていくが、神の哀れみもまた忘れられず、大きくなると言うことを覚えたい。
申し加えますが原発の被害、それが神の裁きだとは言えませんし、言っておりません。
被災した人が、それに値した神の裁きに遭わされたということでもありません。
が人類全体の規模から見るなら「神様の警鐘」という事は言えなくもありません。これは何も震災に限りません。よその国で起こった津波もそうです。よその国で起こった犯罪もそうです。日本人も含めて人類全体が犯した罪の結果という事は一面言えると思います。
そうですが個々の出来事に対する神様の裁きとは言えません。
【人類の始祖アダムトエヴァ】
さて堕落したカインの罪は最初ではありません。4章の前に、3章がありますが、その初めにカインの親、アダムとその妻エヴァ、彼らが最初に罪を犯しました。
まぁ杓子定規に言えば、まず初めにエヴァが罪を犯した。しかしエヴァは人類の代表ではありません。アダムが罪を犯すまでは神様は怒りを顕わにされませんでした。
これは私の想像です、カッコしてお聞きください。創世記3章の始まりを見ますと蛇、即ち悪魔がエヴァを誘惑して神に背かせました。そしてエヴァはアダムに果物を食べるよう話しましたが、「園の中央にある善悪の知識を食べるな」と言う神様の命令を直々に受けたのはアダムです。
エヴァが木の実をとって食べても、神に背いたとしても、アダムがしなかったなら人類に対して、おそらく神は怒りを発せられなかったでしょう。わたしの推測ですが。
しかし聖書に書いてありますように、残念ながらアダムはエヴァを通じて間接的でありますがサタンの誘惑に屈しました。そしてそれで神様は創世記の3章の中程のところで、最初に言われたように呪いを発せられました。
【罪の結果】
創世記3章17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
土は不毛となり、いばらやあざみしか生じない。これは不毛の象徴です。顔に汗して働いても土はいばらやアザミしか生えない。罪の結果、労働は苦しみでしかない。エバはまた生みの苦しみを負う。こうしたことは罪に対する神の人間に対する裁きであります。
【神の義】
もう一度申しますが神様は恵み深いお方、憐れみ深いお方です。が罪を多目に見られる方ではありません。きっちりと後始末を付けられる正義の神であります。そうでなければ私たち人間社会は無法状態になります。哀れみ、哀れみ、愛、愛と言って罪を許しておれば、我々人間社会はどうなりますか。悪ばかりが横行いたします。犯罪が起こればその罪に対してきちんと対応すべきであります。後始末をつけるべきです。それは神様がそうされるからですね。
【伴侶】
そのように最初にアダムとエヴァは罪を犯しました。神様はアダムをお造りになって、そしてアダムのためにふさわしい助け手をお与えになりました。エヴァをお造りになりました。アダムはエヴァを受け入れ、これこそ「私の骨の骨、肉の肉」と言い、その分身であるかのように、最も近い関係、これをある人は愛の賛歌といいます。男から取ったので女と呼ぼう。日本語では分かりませんがヘブライ語の聖書では、イシュから取ったのでイシャーと呼ぼう。
【責任転嫁】
男と女はもちろん区別されますが、アダムとエヴァは別人です。がしかし人間としては同質です。こういう近い関係であったアダムが、罪をおかしてから、アダムは神様から「とって食べるなと命じた木から食べたのか」と言われると、そうするとアダムは「あなたが私のために造って下さったエヴァが私にくれたので私が食べたのです」。自分の罪の責任転嫁を最初にしたのです。
ここでエヴァを自分の罪を擦り付ける対象にした、当然、人間関係が断絶いたします。神に背くと神との関係に亀裂が生じるという事は人間関係においても亀裂が生じるという最初の出来事であります。
【殺人の罪】
しかしながらアダムはエヴァを自分の罪の責任転嫁の対象としましたが、しかし、ここではまだ殺人の罪は起こっていません。カインの時になりまして、罪を犯した人間を神は怒っておられる、人間は神に呪われたのとして、アダムもエヴァもカインもそして殺されたアベルも皆同じ罪人です。
【罪はエスカレートする】
しかしその罪深さが現れる、現れ方がエスカレートすると、その次が、この4章のこの物語なります。
4章の前半を見ますと神様はエヴァとアダムを哀れみ、罪を犯してエデンの園を追放される二人ですけど、なお神様は彼らに哀れみを確保してくださり、エヴァ、命と言う名ですが、その名にふさわしい働きができるように、つまり母となることができるように、人間の命の源となるようにしてくださいました。それが出産です。エデンの園から追放されたにもかかわらず、アダムは尚、命を受け取ることが出来ました。
それが一つです、アダムはエヴァを知ったことでカインを生んだ。エヴァは言った、「わたしは主によって男子を得た」。神様に栄光を帰すると言う素晴らしい表現です。
生まれてきた子供が長男カイン、次男アベル、その次の物語が私たちを悩ましますが、カインは土を耕す者となって農耕に従事した。アベルは羊を飼って牧畜に従事した。それぞれ自分の仕事の稔、地の産物または初子を神に捧げた。カインの捧げ物が悪かったと、どこにも書いてありません。何故かわかりませんけれども神様はアベルの捧げ物を嘉し給いました。新改訳聖書では「肥えた羊」が、「最上の羊を群れから取って神様に捧げた」とあります。
それを神様は受け入れられたというのです。
カインとその捧げ物には目を止められなかった。目を止められなかったとは受け入れられなかったという事です。神様ですから人間のようにものを直接食べると言う事をいたしません。神様が肉は好きとか嫌いだとは言われません。神様は気まぐれではありませんから、原因が当然あるはずだと言います。
【人間の罪深さを暴きだすため】
カインの捧げ物が悪かった。アベルはよかったと言う風に人は見るわけですが、しかし聖書自体の中にはそのことの言及はありません。なぜ神はそうなさったかと言うことですが、この物語がなぜ書かれているかということにですが、聖書の意図を汲み取らねばなりません。これはカインに象徴される人間の罪深さを暴きだすため、描き出すための出来ごとです。
実際起こらなかったけれども、作者がそういう風に書いたということでもありません。実際に起こったことですけれども、なんでそんなことが起こったかということです。カインに象徴される人間の罪深さはどれほどのものか、それを明らかにするのが目的でございます。
神様はカインに、なぜ怒るのか、もしお前が正しいのなら、自分の捧げ物にやましいことがなければ、例え弟の捧げ物を神が喜ばれた、受け入れられたとしても自分自身は卑下することはないでしょう。しかしこれができないのが罪人なのです。
【サウル王】
ダビデがまだ王となる前のことです。サウル王の家来だった頃、イスラエルの敵ペリシテ人に巨人ゴリアテと言う大将がいて、これにダビデが勝利した。それまでイスラエルはペリシテ人の前に風前の灯火でありました。ダビデがゴリアテを倒したために形勢逆転、イスラエルは大勝利をしました。
そしてサウルやダヴィデたちが帰ってきました時に、エルサレムで婦人たちが、「サウルは千を撃ち、ダヴィデは万を撃った」と歌います。サウル王は「王である私が千、家臣のダビデが万」と、これを聞いてそれからダビデを憎むようになりました。愚かなことです。しかしこういうことが人間には起こるのです。
人が褒められたら自分が貶されたように思う。それが人間の習性です。自分よりも遥かにえらい牧師先生がいい説教した。あれは良い説教だなぁと何とも思いませんが、自分と同輩の牧師が褒められるとすると、また後輩が褒められたとすると自分は貶されたように思うのですね。自分にも子供がありますが下の子を褒めたのですね、そうすると上の子が自分のことを褒めたのですね。これから子供を褒める時はよく注意しなければならないと思いました。教訓になりましたが、この類のことなんですね。
【自分の罪を制することが出来ない】
神様は何もカインを臭しているわけではありませんね。お前の捧げ物は駄目と言っておられるわけではありません。何かわかりませんけれどもアベルの捧げ物を受け取られました。
それでカインは腹を立て、この時、自分の罪深さを制することが出来ない程になっている、それがこれから明らかになります。神は言いました、「もしお前が正しいのなら顔をあげればいいでしょう」。つまり「私を見ることができるはずだ」と言われました。
7節後半、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と罪を制御せよとの警告です。
【最初の殺人】
カインはアベルと野に行ったのですが、その時にアベルを襲って殺してしまいました。カインは当然質問されます。「お前の弟アベルはどこに行ったか」。それはちょうど最初に罪を犯したアダムが神様を恐れて木の根元に身を寄せて隠れた。「お前はどこに居るのか」。神様はお見通しですが、罪を犯した人間が神様を直視できないことがわかる象徴的な出来事です。
「お前はどこにいるか」と。「あなたを恐れて隠れています」。
今度は「弟アベルはどこにいるか」。そうしたらカインは「知りません」と答える。こんな大胆不敵な答えはありません。「知りません」というのはもう「関わりはありません」ということです。
「私は弟の番人でしょうか」、番人と訳されております言葉は世話をする、保護をするという意味もあります。世話人、保護者。新約聖書の、特にイエス様の言葉を大胆に用いますと、隣人という意味です。それは世話をする、保護すべき相手です。「私は弟の番人でしょうか。知りません。」
こうしてアダムが既に罪人でありましたが、まだアダムが犯さなかった殺人という大罪をカインは犯しました。しかしこれはカイン個人の問題ではありません。もしカインがアベルを殺さなかったならアベルはそのまま大きくなったでしょう。がアベルも神様の前には罪人です。人間の罪はこうして増大します。
【失楽園】
17節、カインは神様にエデンの園を追放されます。カインは追放されてノド、カッコして「さすらい」という地に移ります。住み着いた、定住したところが「さすらい」の地、矛盾しています。「さすらい」とは「定住しない」ことです。神に命を守られながらも、自覚の上では神様を捨てる、神から去っていく、放浪するということを表している。相応しいの町の名前であると思います。
【二人の妻を娶ったレメク】
その子孫に子供が生まれます。そして18節、レメクという人物が登場します。このレメクは傲慢な服を着ている人間で、19節、二人の妻を娶った。神様がアダムに妻としてお与えになったのはエヴァ一人でした。一人の夫、一人の妻、そこで二人は霊肉ともに一体となることができる、真実な交わりを深めることができるのです。
二人の妻を娶るという事は、一夫多妻ですが、そこでは真に一対一の人格関係は生まれません。一夫多妻はなんのためにあるのか。それは人間が堕落した結果でありますが、古代社会のことを考えますと今のように医学は発達していませんので、しかも家系を絶やさぬことがなく一門の繁榮のために、子孫が繁榮しなければなりません。そういうことから一夫多妻が普遍化されますが、もう一つは女性を男の欲望の手段とするということです。
レメクが二人の妻を娶ったというのは人間を自分の欲望の手段と化したというとんでもないことです。
【無制限な復讐】
23節、そしてレメクの言葉は、創世記4章
23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。
4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」
「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」、この復讐は神様の定められた限界を遥かに超えています。自分を神よりも上に置いています。どういうことかと言いますと、カインがアベルを殺しました。そして神様の怒りに触れて御許から去っていきます。彼は恐れます。
14節を見ますと「14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。質問、カインに誰が出会うでしょう。カインとアベル二人しかいない世界です。
【額に印を】
5章を見ますとアダムはカインとアベル、セト、この後にまた男と女をもうけて二人の子供だけではありません、いずれにせよ、カインは自分は殺人をしておいて自分が殺されるのを恐れた得手勝手な人間です。カインが殺されないようにカインに印をつけられたと書かれてあります。
もし誰かがカインを殺したなら神様はその復讐をなさる。その復讐は7倍、誰かがカインの命を取れば取ったものから7倍の復讐をすると言われます。そんなことできないことですが、これは殺人の罪がどんなに重いことかと言うことを表します。それを神は許さないということを語る明瞭な神の意思表示です。
殺人を犯したカインですら、そのカインを殺すなら神様は7倍の復讐をすると。今レメクはどうか。カインのための復讐が7倍ならばレメクための復讐は77倍、無制約、無限ということです。7というのは完全数、77倍というのはもう無制限に復讐するということ、しかも神様はカインが殺されたら、そうするということですが、レメクは殺されなくても、傷だけでも人を殺すというのです。23節、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」。
自分が殺されるのでもない、ただ傷を負う、それでも相手を殺す。復讐心が増大するということ、つまり罪は増大するということであります。
それは神様の呪いが増大するからであります。こうして人の罪に対する神の怒りは増大します。
しかし神様は一方で哀れみをもお忘れになりません。エスカレートする罪と怒りをなお抑制される。神様がカインに命じられた、
「4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」、
お前は罪を支配しなければならない。それができなかったですね。神様は罪に対して怒り心頭に達しておられます。
悪いのは人間ですからこの地球を滅ぼしても、罪を犯した始めの時点で神は人を滅ぼしたとしても、神様には不正、落ち度はありません。が神様はそうなさらなかった。罪を犯して罪を制御できない人間に対し神は怒り心頭に達していても、なおご自分を自制されるのであります。それがカインに対する、また人間に対する憐れみであります。
いま申しましたように自分は殺人を犯しながら自分が殺されることを恐れる。そのカインに対して神様はエデンの園から、つまりご自分との交わりからは追放なさいます。けれどもそれでも尚カインが殺されないように処置を講じられました。その額に一つの印をつけられたとあります。その印は何であったか詮索する、知る必要はありませんが、いろんなことを考えます。刺青のようなものでなかったか。いずれにせよカインを保護されたということであります。
【カインは街をたてた】
それだけではなくカインがノドーさすらいと言う名前のついた街でありますけれども、
17節で、街を建てています。街とは共同生活の象徴であります。創世記1章26節以下を見ますとは神は、他の被造物はその種類に従って造られたわけですが、人間だけは神に似せて、「我々に似せて」、つまり神に象って人を創ろうと言われました。
神様はお一人ですが、不思議なことに、ご自分のことを「我々」と言われます。「我々」と呼ばれる神様の像に人間を造られた。人間は複数の存在であります。だからアダムからエヴァを作られたのであります。アダムとエヴァからカインとアベル、セトが増えるようになりました。
人は初めから複数に、皆で営みます。みんなで生きるのです。その象徴が街を建てるという事であります。街を建てるという事は、街で一緒に生活するということです。
街で一緒に生活できないとどうなるか。仙人になるしかありません。
何の材料を用いて街を建てたか分かりません。れんがであれ木であれ、何であれ神様が創造において自然の中に与えておられるものを用いて造られました。
カインが加工したかも知れませんが、それを用いて街を造った。神様は罪を犯した人間がなお共同生活ができるように、人間にふさわしい生活ができるようにしてくださいました。
そしてレメクに子供が生まれます。
一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。
【人類文化文明の発展】
ヤバルは牧畜を営むものの先祖となる。ユバルは竪琴や笛を奏でるもの音楽、芸術の祖、それからトバルカインは青銅や鉄で様々なものを創る工業の祖となりました。大工の工、鉱業の鉱、どちらの意味でも産業ですね。
牧畜の延長線上に農耕。様々な産業。つまり神様は堕落して、人を殺すほどに、堕落した人類に尚共同生活を、単なる共同生活ではなく、猿でも共同生活します、その程度ではありません。文化を営むことができるようにされました。歴史を形成するために文化を達成されたのであります。個人としても、共同体としても、肉体的にも精神的にも、文化的にも社会的にも、人類が生きる事ができるように神様はして下さったのです。
【音楽の賜物】
宗教改革者のカルバンは神様がカインの子孫に音楽の賜物を与えたことについて、御霊の賜物、聖霊の神様は侮るべからず、音楽は御霊の賜物であると賞賛したほどです。通常御霊の賜物というのは福音、信仰の成長ということで用いられますが、カルバンは、断りまして、ここはいかなる意味でも救いではないが、しかしそれでも侮ってはいけない。神様が人類にお与えになった御霊の賜物である。神は罪を犯し続ける人間を怒られますけれども同時に哀れんでくださる。
【主のみ名を呼び始めた】
創世記4章25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
25節を見ますと再びアダムはエバを知った。先に2人の子供が与えられたが、一人は兄弟によって殺された。一人は追放された。後を継ぐ者がいなくなった。しかしそれでも神様はアダムを哀れんでくださり、エバがその名前の通り、「命の源」となることができるように、もう1人の男の子供をお与えになりました。カインがアベルを殺したのでアベルに変わる子を授けられた。「授ける」と言うことから「セト」と名付けました。
神は罪人に対してこの上なく厳しく怒られ、同時に罪は罪として裁かれますが、人そのものを憐れみ、尚生きることができるように、しかも身体的にも精神的の文化的にも豊かな意味に於いて生きることができるように神はしてくださいました。
【命の継承】
そして25節を見ますと、セトにも子供が生まれた。カインに象徴される人間は、神にのみ属するという命というもの、命は神にのみ所有権がありますが、カインに象徴される人間は命を奪います。それでも神は人類から命がなくならないように、人類が命を継承する、あるいは伝達することができるようにしてくださいました。そしてセトが生まれました。
そしてセトがエノシュを産みました。主のみ名を呼び始めたのはこの時代のことである。主のみ名を呼ぶという事は、わかり易く言えば礼拝するということです。それまで神様を礼拝しなかったと言う訳ではない、どんな形式で礼拝するかわかりませんけれども、積極的に神様を礼拝するという事が起こりました。こうしてこの創世記4章は神様の憐れみで始まった。
アダムとエヴァから命の継承を象徴する出来事、子供の出生という神様の哀れみが始まります。人間はそれを台無しにし、神様はそれを怒られますが、それでも神様は哀れんでくださって人間の子孫が絶えることのないように、むしろそれを豊かに発展、継承させるために、そして再び神様の命の継承、和解で閉じられます。
そして次の5章へと展開します。神は再三申しますが、罪に対して大目に見ることはなさいません、後始末を付けられます。
【主イエス・キリスト】
しかし、それを許す手立ても講じられます。この時から何年たったかわかりませんが、遥か後代でありますけれども、イエス・キリストと言う方が来られます。このイエス・キリストはカインとは正反対で全く罪を犯されなかった。
誘惑に逢われましたが、その誘惑をことごとく退けて神様に対して完全であられました。それを聖書は義と申します。ところがこの義人イエスを人類の罪をすべてこのイエスに負わ人類の身代わりに否人類の代表として罪の王国の王として厳罰に処せられた。
【十字架刑】
それは十字架に付けるということですが、十字架刑はイスラエルの伝承では神に呪われたもの、石打の刑よりもっと呪われたもの、木に架けられたということですが、時代はローマのものは時代ですからローマ帝国では十字架刑は通常用いられませんでした。少なくともローマの市民には用いられませんでした。国家に対する反逆や大罪といったものにのみ用いられる、例外的なでありました。それが十字架刑で、ナザレのイエスはローマ帝国からも、ユダヤの伝統からも裁かれたということです。何のため裁かれたか、それは人類の罪を裁くためです。人類の罪を裁くための神様の処置であったのです。こうして神様はナザレのイエスを十字架につけられて、怒りを爆発されました。しかしこのナザレのイエスは30年半余りの生涯で、罪を全く犯されなく義であられました。そのことを神様ご自身が示されたのが復活であります。こうしてイエス・キリスト信じるものは、イエス・キリストの十字架の処罰が信じる者、私自身の罪に対する神の処罰であります。それで私の罪は許され、帳消しにしてくださいます。
さらに自分自身では守れない神の戒めを、神のみ心を、それをイエス・キリストが完璧に守ってくださって神の前に義であると、信じる私もまた主イエス・キリストの故に義と認めていただけるということであります。神様はイエス・キリストの死と復活、二〇〇〇年経っていますが、それを信じない者、罪を悔い改めないものに、それを求められます。
罪の処罰は間違いなくあります。しかし主イエスを信じる者には裁かれません。キリストを信じる人々の主として神様は、それを要求されません。それは主イエス・キリストの復活の命を豊かに注いで下さり、豊かに生きることができるようにしてくださいます。
イエス・キリストより遥か昔に起こった出来事はそれを表します。私たちはこれから先何が起こるかわかりませんが、イエス・キリストによって神様に守られている。キリストの死と復活が私の罪の処置と生きる力である。それを信じて私たちは生きたいと願います。そして主にある恵みを人々に証していきたい、共有していきたいと思いますね。(おわり)
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