2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師
2012年8月26日(日)説教「命のパンなるイエス・キリスト」男山教会 禰津省一牧師
聖書:ヨハネによる福音書6章
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
1、命のパン
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
昨年12月の伝道所設立式に引き続いて、再び、この素晴らしい西谷伝道所の建物を訪れ、建物よりももっと素晴らしい、西谷の兄弟姉妹方にお会いすることが出来ましたことを感謝致します。
ただ今、わたしたちは、主イエス様が5千人以上の人々を祝福して下さり、その一人一人を、もうお腹が一杯になるまで満ちたらせて下さったという「5千人の給食」、あるいは「5千人の養い」と呼ばれている御言葉をお聞きしました。
この物語は、間違いなく、主イエス様がわたしたちに与え下さる「祝福と恵み」について教えているものであります。給食という言葉を使いましたように、今朝の、この「恵み」はまずは食べることに関係する恵みに間違いありません。
けれども、主イエス様の恵みは、ただ単にわたしたちが飢えてしまわない、満腹するというだけのものではないのですね。ある説教者は、この物語は6章全体の流れの中で聞かなければならないと言っております。
今朝の御言葉、つまり1節から15節では、パンという言葉が何度も出てきています。そして、それは文字通りの食べるパンのことです。けれども6章全体を見てみますと、そうではないのです。パンという言葉は、文字通りの意味だけでなく、主イエス様ご自身のことをも指していることが分かるのであります。6章35節で主イエス様はこうおっしゃられます。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
そして、最終的には、わたしたちにとって本当に必要なまことのパンは、主イエス様が下さる食べ物や飲み物のことではない、そうではなくて、主イエス様ご自身であると語られています。主イエス様ご自身がわたしたちの命にとって欠くことが出来ない「まことのパン」であると宣言されるのです。
もちろん、今朝の御言葉で数千人の人々がパンを与えられて喜び、また幸いを得ましたように、主イエス様は、わたしたちの霊的な必要だけでなく、肉体的な必要をもみたして下さる方であります。けれども、わたしたちは肉的な必要が与えられるだけでは、本当の意味で命を得て幸いに、平安に生きる、自分たちも喜び、また神様にも喜んでいただくような人生を送ることが出来ないのであります。主イエス様は、そのことをおっしゃっておられます。そして、そのためには、わたしたちは麦で作ったパンだけでなく、主イエス様ご自身をいただかなければならない、受けなければならないのであります。
6章の終りに書かれていることは、わたくしたちがこれは一体どういうことだろうかと考えさせるような悲しい出来事です。多くの人々が、その中でも弟子と呼ばれていた人々でさえ、この「命のパン」のことを理解できずに、主イエス様のもとを離れ去ったということであります。しかし、6章68節、12弟子だけは決して離れず、主イエス様に従ってゆくと答えました。シモン・ペトロが代表していいます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
今朝の御言葉は、五千人の養いの物語です。しかしこの物語は、わたしたちが今も礼拝の中で行っています、聖餐式と深いかかわりがあることが分かります。今朝の御言葉で、主イエス様は、ご自身でパンを取り、感謝してこれを裂き、一人一人にまるでご自身の恵みそのものを分けて下さるように与えてくださっています。そして私たちが聖餐式でいただくパンとブドウ酒は、6章の後半で明かされている通り、今も主イエス様ご自身のしるしであり、それも十字架の上でわたしたちに本当の命を与えて下さる主イエス様のしるしなのであります。
2、群衆を祝福する
1節をもう一度お読みします。「1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」
季節は、4節にあるように、過越し祭りが近づいていた頃、春の終わり頃でありました。過越しの祭りは、昔、イスラエルの人々がエジプトを脱出したときに定められた祭りです。エジプトの王ファラオが神に従わず、イスラエルの人々を逃がさないので神様の怒りは最高潮に達していました。そのときイスラエルの人々は、神がモーセに命じた通りに家ごとに子羊を屠り、つまり殺して、その血を自分が住んでいる家の柱と鴨居に塗って置きました。それによって、エジプト全土に神の災いが及び、子供が殺されてしまうと言うときに、イスラエルの人々の家だけは災いが過越してゆき、全員が命を得たのであります。
ヨハネによる福音書では、過越し祭という語は、7回か8回出ますけれども、「過越し祭が近づいた」と書かれているのは今朝の箇所を含めて三度であります。最初は2章13節、カナの婚礼のあと主イエス様の宮清めと呼ばれている箇所です。そして三度目は、11章55節、主イエス様が十字架につけられるその過越し祭の箇所です。今朝の箇所は、その間にあって、主イエス様が、自分は命のパンであると人々に宣言されるのであります。いわば三年間にわたって主イエス様が伝道される、そして過越しの祭りに際して、重要な御業をなさる、その三度の過越し祭の二回目、中間点にあるのが今朝の物語であります。
ガリラヤ湖の向こう側と書かれています。このあと、17節で一行は湖の向こう側のカファルナウムに戻ったとありますから、今朝の物語の舞台は、その対岸にあるベトサイダの近くの山であると思われます。このとき、主イエス様のまわりには、弟子たちだけでなく、大勢の群衆がつき従っていました。主イエス様が見ると、その群集が主イエス様のあとを追って山に上ってくるのが見えました。そして弟子の一人であり、近くのベトサイダの町出身であるフィリポに言いました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」
これは、フィリポの信仰を試すためであったと6節に書かれています。弟子たちがパンを買ってきて、これだけの人を養うのは難しい、それは分かり切ったことでした。あなたならどうするか、こう問いかけられたのです。フィリポは答えます。「「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」
このとき、彼らの手元にパンがあったわけではありません。二百デナリオンと言いますと、二百人分の日給、一デナリオンは人一人の一日の給料ですから、二百デナリオンは弟子たち十二人が、一~二週間くらいは生活できるお金です。おそらく主イエス様と旅をしている12弟子の会計にはそれくらいのお金があったと思われます。今あるお金を全部使っても足りません、フィリポはこう言っているのです。これを聞いていたアンデレが言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」どうやらアンデレは、自分の近くにいる少年が食べ物を持っていることに気がついて、こう言ったのです。そして少年からそれを受け取って、主イエス様のもとに持ってきました。しかし、こう付け加えます。「何の役にも立たないでしょう」。やはり、どうしようもない、フィリポ、アンデレ、二人の結論は、これだけの人に食べさせる方法はありませんということです。人間の力では、どうすること出来ない、そんな状況ですと言うのです。
当時のパンは小麦で作ることが普通だったのですが、少年が持っていたのは大麦のパンでした。大麦のパンは貧しい人たちが食べるものであったそうです。少年と訳されることばは、子供というよりも若者に近い年齢の少年を意味する言葉です。信頼できる辞書によれば、それは若い奴隷を意味する言葉でもあります。もし奴隷であるとするなら、主人に連れられてきたのかもしれません。彼らの弁当は貧しい人が食べる大麦のパン五つと二匹の魚でした。魚は干魚と訳している聖書もありますが、何か手を加えたおかずとしての魚で、魚のピクルスと訳している辞書もあります。
ささやかな食料です。しかし主イエス様は、この乏しいものを用いて素晴らしい御業をなさいました。 主イエス様は、まず全員を草の上に座らせたのです。座ると訳されている言葉は、リクライニング、あるいは横たわるという意味の言葉で、当時のユダヤ人が宴会をするときに必ずとる姿勢です。これから宴会をすると言うのです。
まず主イエス様は五つのパンを次々ととって、人々に分け与え、そして魚の方も同じように致しました。「感謝の祈りを唱え」とあります。大地の実り、海山の産物を与えて、わたしたちを養って下さる父なる神への感謝です。主イエス様は、人々に欲しい分だけ、つまり無制限に分け与えることがお出来なりました。
この宴の席が終わった時、主イエス様は弟子たちに命じられました。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」
弟子たちが、集め終わると、12のかごに「いっぱい」になりました。ちょうど、12人いる弟子たちのために主イエス様は、配慮して下さったのです。どうすることもできないと思ったにもかかわらず主イエス様の恵みが溢れるほどに与えられ、具体的な必要が全て満たされた。弟子たちの心は感謝と喜びにあふれていたと思われます。
3、人々の思惑に抗するイエス
さて、この時のパンくずのように、当時は、人々が食べ残したもの、あるいは収穫し残したものが、貧しいものたちのために用いられました。これは旧約聖書の律法に命じられていることです。レビ記19章、申命記24章には穀物や果物の畑から収穫する時、隅々まで刈り尽くさず、角のところを少し残しておくことや、落ち穂を拾わないで残すようにと命じられます。貧しい人たちがそれを集めるのです。
ここでは弟子たちが、食べ残しを集めました。そのことによって、12弟子たち、また主イエス様は、貧しいものとして、人々に奉仕する僕としての働きをしており、主役はあくまで、主イエス様の宴席に与る人々であったことが分かります。しかし、それほどまでに恵みを受けた群衆は、その恵みにも関わらず、主イエス様の御心にはかなわないことをしようと致します。14節で人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、主イエス様を王にするために連れて行こうとしたと書かれています。
過越し祭りのもとになった出エジプト、昔、奴隷として圧迫されていたイスラエルの民がエジプトを脱出することが出来たのは、モーセという指導者が立てられたことによります。モーセは神様から言葉を預かって民を導いた預言者でした。イスラエルには、そののち、モーセのような預言者が再び立てられると旧約聖書には、告げられています。人々はそれを信じ、強く期待していたのです。特に、主イエス様の時代には、イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、再び独立を取り戻すことが民族の悲願でありました。群衆は、主イエス様を王にしてローマ帝国に対抗しようとしたのです。しかし、主イエス様は、これを見て、一人山へと退かれました。姿を消されたのです。
わたしたちが毎日の生活を送るために食べる物や着るもの、住むところが必要です。このような物質的なものの価値を聖書は決して否定することはありません。聖書が否定するのは、それがすべてであって、それさえあれば人間は幸いに生きることが出来るという無神論的な生活です。旧約聖書申命記8章3節にこのように書かれています。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」
神様は、このことを悟らせるためにイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野で生活した時に、天からの不思議な食物であるマナを与えたのだとモーセは人々に告げました。
主イエス様は、この申命記の御言葉を用いて、荒れ野の誘惑においてサタンに対抗しました。サタン、悪魔は、断食を終えたばかりの主イエス様に対して、これらの石がパンになるように命じたらどうだと誘惑しました。主イエス様の神の力、奇蹟をさえ行うことが出来るその御力を物質的な豊かさのために用い、この世界にこの世的な王国を造れという誘惑でした。主イエス様はサタンに答えられました。マタイによる福音書4章4節、
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」こと、それらを自分自身の生き方とすることがわたしたちを本当の意味で幸いに導きます。その
人が本当の意味で生きる、命を持って生きるためには、麦で作ったパンだけでは不十分です。神の言葉、神の御心に適って生きるためには、わたしたちは罪を悔い改め、新しく生まれ買わなければなりません。
ヨハネによる福音書は、1章1節から2節で、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」と書いて、主イエス様こそが「神の言葉」であると宣言しました。
すなわち、人はパンだけで生きるのではなく、主イエス・キリストによって生きる、それによってこそわたしたちは本当に生きることが出来るのです。群衆は、主イエス様にそのことを求めず、この世的なパンを求めて、主イエス様をこの世の王にしようとしました。この世の王国を求める、そのことによって、主イエス様を通して本当の神の国に入ることを自分から絶ち切ってしまったのです。
今日、キリスト教会には、洗礼と聖餐という二つの大切な儀式、礼典があります。洗礼は、私たちが十字架と復活のイエス様に結びなおされ、新しく生まれたことのしるしであり、聖餐は、そのようにして生まれた者が主イエス様の肉と血とを食べて、霊の養いを受けることを表わします。いずれもが主イエス様との結合、交わりを意味する礼典であります。
主イエス様は、貧しい少年が差し出した、五つのパンと二匹の魚のような乏しいものを用いて、5000人以上の人々を無制限に養うという素晴らしい命の力を持つお方です。教会には、このお方が確かにおられます。主イエス様が共にいて下さるなら、わたしたちは決して飢え死にしません。それどころか豊かな恵みをいつも頂くことが出来ます。
しかし、わたしたちは、五つのパンと二匹の魚から、多くの人々が満ちたりるほどの大量の見える食料が与えられたこと、その主イエス様の奇蹟の力だけに心を奪われては決してなりません。
わたしたちは、この次の過越しの祭りで主イエス様がなさったことに心を向けなければなりません。それは主イエス様が本当の命を与える過越しの子羊となられたことです。十字架にお掛かりになり、死なれたことです。わたしたちのすべての不幸、災い、苦しみの源である罪を解決して下さったことです。主イエス様と結ばれる人、このお方を信じる人は、誰でも罪の赦しの恵みが与えられ、そして新しい命をいただくことが出来ます。わたしたちは、このお方を礼拝し、この方から恵みを受け、このお方から命を受け続けて、養われて行くのです。主イエス様を喜び賛美致します。祈ります。
神様は、あなたは主イエス様をわたしたちに与え下さり罪の赦しと永遠の命をすべての信じる人に与えて下さいます。その恵みは無制限であり、満ちあふれるほど豊かであって、わたしたちを満ちたらせて下さる素晴らしいものです。どうか、一人でも多くの方々が、この主イエス・キリストを受け入れ、信じ、救いの恵みにあづかることが出来ますよう、どうぞ助け導いて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。(おわり)
2012年08月26日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書
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