2012.5.20.「使徒たちの熱心な祈り」大木信神学生
2012.5.20.「使徒たちの熱心な祈り」大木信神学生。
【説教要約】文責近藤
聖書:使徒言行録1章12~14「それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。
彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」
ペンテコステ前の出来事:
主イエスは復活後40日にわたって弟子たちに現れ、最後の40日目にオリーブ山から昇天されるとき弟子たちに聖霊降臨を約束された。
オリーブ山で:今日の御言葉の背景
使徒言行録1章「4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』。6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。7 彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11 言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」
オリーブ山から弟子たちはエルサレムに戻った。1章12節、「 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。」
この「オリーブ畑」と呼ばれる思い出深い場所で、主は弟子たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と諭されました。
いつも目を覚まして祈りなさい
ルカ福音書21章34節~37節、
「34 『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」
実際ルカ福音書の主イエスはマルコ福音書にくらべ、よく祈られた。
同じくルカ福音書22章39節以下でも「いつものように、いつもの場所(オリーブ山)で」主は弟子たちに誘惑に陥らないように起きて祈りなさいと諭されたが弟子たちは眠り込んでしまいました。オリーブ山は実に苦い思い出の場所でもあり、喜怒哀楽の凝縮された場所がこのオリ
ーブ畑なのです。私たちの人生においてもこのようなことがあります。
ルカによる福音書22章
「39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
42 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46 イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」
オリーブ山は主と弟子たちの最後の出会いの場所であり、主の昇天を見届けた場所です。
今日の箇所はその後エルサレムに帰って祈っていた一室での出来事です。
14節「心を一つにして熱心に祈っていた」。何が彼らを変えたか。その理由として、
1、弟子たちが、主の兄弟も母も、主の十字架と復活をみたこと。
2、ルカによる福音書22章31~(ペテロの裏切りの箇所から)
「31 『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』33 するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。34 イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」
私たちもペテロと同じで主を裏切るものです。けれども主は私たちを御存じで愛して執成して祈ってくださる。この信仰があってこそ私たちは祈れるのです。告白できるのです。
まず主のお言葉があります
使徒言行録1章8「『 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」
復活の主は彼らに現れ食事をされ「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という具体的祈りの課題を、約束として与えられた。それで祈れるのです。まず主のお言葉があります。
ヨハネの手紙一5章14「 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」これが神に対するわたしたちの確信です。
この世の祈りはそうでありません。自分中心です。私たちの祈りはまず神の御言葉を聞いてそれをオウム返しに祈ることが大切です。まず神に祈りの課題を打ち明けてから祈るべきです。これは教会的な祈りで、教会の祈りには神の確かな約束があります。
使徒1章8節のように御言葉に押し進められて福音は前進する。熱心な祈りの応答として聖霊が下された。ことの前に、事の後に祈ることが大切。主の証人となる使命が祈りの課題として与えられた。それで熱心に祈ったはずです。
3、聖霊降臨は弟子たちが祈ったから与えられたか?そうではなく聖霊によって導かれたから熱心に一つになって祈れた。
聖霊が下るためには準備が必要、悔い改めたから神の国がきたのではない。ひたすら祈ることは私たちの思いで゙はできないが、御霊がそうさせて下さる。聖霊が働いてくださるから祈れたのです。主御自身の約束と働きが彼らを一つにさせ熱心に祈らせて下さった。
わたしたちが大胆に語ろうとすれば反対する力も強く働くが、主の証人となるには確信をもって御言葉に聞き熱心に聖霊を求めて祈りましょう。(終わり)
2012年05月20日 | カテゴリー: 使徒言行録
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