「命の言葉イエスさま」城下忠司伊丹教会長老2011.8.7.

 

CIMG1433x350.jpg《聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・11節~10節》   

 

【はじめに・12使徒の一人ヨハネ】

以前、朝の礼拝で、橋谷先生からヨハネによる福音書らの説教をお聞きして、とても素晴らしい恵みを頂いたことを覚えています。ヨハネはイエスさまの一生のことを福音書に書き残しましたが、手紙も3通書きました。ヨハネの手紙123であります。私はこの手紙からイエスさまの素晴らしい恵みに与りたいと思い、ヨハネ第一の手紙を学ぶことにしました。この手紙は愛の手紙と呼ばれ、ヨハネが聖霊に導かれて、イエスさまの愛を余すところ無く私たちに伝えてくれています。

 

有名な宗教改革者のルタ-はこの手紙から信仰の真髄を得たと言われています。ルタ-がこの手紙について、次のように語ったことが残されています。「これは傑出した書簡である。同書簡は悩める心を支えることができる。その上、同書簡にはヨハネ特有の文体と表現様式があり、非常に美しく、そして優しく、キリストを実に良く、我々に描いてくれている。」

聖書の他の手紙をみると、書き出しが大体決まった形式が多くありますように、当時のギリシャ語を話す人々の間では、次のような書き出しでした。「神の御心によって召された何々の教会へ、そして、聖徒たちへ、私たちの父である神とイエス・キリストから恵みと平安があるように。」というような文章で始まっています。今の私たちキリストを信じる者の手紙は、主の御名を讃美いたします。とか、簡単に在主とかで始めるのではないでしょうか。決まり文句で始めることが多いように思います。

 

しかし、ヨハネは最初からキリストを証しする言葉から始めます。1節には

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、良く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあります。初めからあったものとは何でしょう。言うまでもなく、父なる神さまと一緒に初めからおられた方イエスさまのことです。

 

ヨハネはこの世に来てくださった神さまの御子イエスさまと、3年の間、共に生活し、手で触れるほどの身近で、お話を聞き続けましたように「皆さんは私も話していますように、イエスさまの弟子たちを通しても御言葉を聞いています。わたしは、このイエスさまのことを伝えたいのです。そして、イエスさまは私たちにとって命の言です」と、ヨハネは語り始めるのです。

 

 

【初めからあった命の言葉である、イエス・キリストについて】

この手紙はヨハネ福音書と大変良く似たところがあります。ですから、手紙と福音書とを比較しながら学ぶと、より深く、イエスさまの愛について、イエスさまの救いについて理解することができます。

さて、御言葉を見ていきましょう。「初めからあったもの」という表現は、ヨハネ福音書の最初のぺージを見てください。11節に「初めに言があった。」という表現とそっくりです。福音書では言(ロゴス)とはイエスさまのことで、初めから父である神さまと共にあって、働いておられた方として語られます。時が満ちてイエスさまは私たちの所へ来てくださいました。

 

ヨハネはここでイエスさまが、父である神さまのもとから、人間の世界においでになった方であることを強調して語っていきます。そして、ヨハネはイエスさまを知るのに、耳や目や手といわれているように、五感、全てを用いて、よく理解するようにと勧めるのです。ヨハネはイエスさまと3年間一緒に生活し、よくよくイエスさまを見ましたし、一所懸命お話を聞きました。イエスさまの十字架の死の最後までイエスさまの母であるマリアと一緒に側近くで見続けましたし、その死から復活されたイエスさまにもお会いしました。その経験を通して、私たちにイエスさまを教えてくれるのです。

 

この福音書には「見よ!」とか、「よくよく見なさい!」とかいう表現が沢山あります。ヨハネは先生であったバプテスマのヨハネさんからイエスさまのことを次のように紹介されたことがありました。「見よ、世の罪を取り除く子羊だ」(福音書129)と教えられ、それから先生のところを離れて、イエスさまに従っていきました。そして、イエスさまの弟子になりました。3年の間、イエスさまの教えを、しっかりと聞き取りました。見るとは、単に目だけで見るのではないこと、しっかりと心の目で見ることです。ヨハネは、より深くイエスさまを知るようになりました。

 

私たちの信仰生活を振り返ってみますと、美しい自然に向かって、また動物に対しても、それらを観察することから遠いような気がします。特に人間に対してそうですから、その奥にあるものに触れ、理解できるようには中々生きにくいように思います。また、人に対して、無関心であったり、そして神さまに対しても不信仰である姿を発見します。人の話を親身になって聞けない、篤い愛の中で相手に触れてあげることができない、仲直りの握手ができない。信仰の成長とはなんと遠い道程でしょうか。

 

【命の言は、神と共にある永遠の命である】

2節の永遠の命について考えましょう。私たちの改革派教会は信仰基準という宝をもっていることを誇りに思っています。伊丹の男子会では宣言集を学び始めました。2回が終わり、この月は3回目、創立記念宣言というものです。20周年、30周年、40周年、50周年、60周年と宣言集が出版されています。この60周年は「終末の希望についての信仰の宣言」というものです。この中に「永遠の命」という項目がありますので、少し難しいかも知れませんが、読んでみます。

 

「新しい人類であるわたしたちは、キリストにある神との交わりとしての永遠の命の完成にあずかります。神は自らわたしたちと共に住み、私たちの神となられます。私たちの涙はことごとく拭い去られ、もはや死も悲しみもありません。わたしたちは、完全にまた永遠に罪と悲惨から解放され、体と魂の両方において栄光化され、全き安息が与えられます。わたしたちは、無数の聖徒たちと御使いたちとの交わりの中で、神の御顔を仰ぎ見、完全な知識と愛において永遠に神を礼拝し、考えも及ばない喜びに満たされて神の栄光をほめたたえます。」

 

このような、世の終わりに与えられる完全な祝福、永遠の命に与ることのできる信仰と希望と喜びを、私たちが与えられていることを感謝します。

 

考えてみますと、永遠の命の喜びに与るのは、もっと先のできごとで、今の私たちの信仰生活の中で、どのように、この喜びを味わえばよいのか、という思いが起こってきます。永遠の命はイエスさまそのものであります。私たちの信仰生活の日々の歩みのなかで、もう既に、このことは組み込まれているのです。

 

【礼拝の恵み】

一番そのことを知るのが安息日の礼拝であります。御言葉を頂き、イエスさまの十字架による罪の赦しを喜び、神さまを皆で讃美し、神さまと愛する兄弟姉妹たちと、共なる交わりに与る時こそが、そのことの実感できる時ではないでしょうか。日々の歩みの中で、私たちは罪の力や死の力に負けそうになります。また、私たちは試練や鍛錬という大きな壁が立ちはだかって倒れそうになることがあります。悲しみの、そして、苦しみのどん底にあっても、それらから助け出され、また、克服する力が与えられる経験をします。イエスさまのものとされた私たちは、命の言葉であるイエスさまの守りの中で平安をいただくことができるのです。

 

ヨハネは福音書173で語ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしに成ったイエス・キリストを知ることです。と。

 

【父なる神さまと、子なるイエスさまとの交わりへと信者は統合される】

3節以下には交わると言う言葉が3回でてきます。聖書に3回出てくるときには特別な意味があると言うことを、最近教えられました。聖書の教えの中で、いままで当たり前のように聞き、信じている御言葉があります。永遠の命もそうですが、祝福、賜物、栄光、交わり、教会員を兄弟と呼ぶこと、など沢山あります。

 

交わり、本当の交わりとは何かを、ヨハネは私たちに伝えたいのであります。ヨハネはイエスさまとの共同の生活を通して、祝福された命の生き生きとした交わりを経験したからこそ、信者たちにあなたがたも私たちとの交わりに入るようにと勧めるのです。私たちにとっての本当の交わりとはイエスさまの父である天のかみさまとの交わりであります。さらに信者同士の交わりもこの中に含まれることを教えます。信者同士のまじわりとは教会のことです。教会の交わりは世の中の、同類である者たちとの何々会といったものとは違っています。職業も教養も、趣味も勿論性格も違う者たちであり、人間的な仲間意識とも違いますし、血縁関係の交わりすら超えたところのものと言ってよいものです。

 

ガラテアの信徒の手紙でパウロというイエスさまの弟子は6章の8節でこう言っています。「そこではもはやユダヤ人もギリシャ人も無く奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです」と。

 

また、教会は命の共同体とも呼ばれます。イエスさまは、はっきりと私たちに教えられました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ福音書155)と。

 

【教会とは】

また、パウロは明快にコリントⅠ・121227節で具体的に教会の真の姿を描いています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても体はひとつであるように------目が手に向かって「お前たちはいらない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。-----一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

 

もし、教会員の中で、赦し合いが行われず、愛の奉仕がなく、互いに仕えあうことが、蔑ろにされるならば、教会は力を失い、分裂という悲しい状況が起こることもあるでしょう。また、イエスさまを抜きにした交わりならば、信仰によって結ばれた愛の交わりから離れ、兄弟を赦すことのできない悲しい結果になることが起ります。

 

私たち一人一人がイエスさまとの交わりを豊かに実らせていく時、兄弟姉妹との交わりも豊かになっていき、教会が天国の前味としての永遠の命というものを実感できるのではないでしょうか。

 

使徒パウロはⅠコリント19において「神は真実な方です。この神によって、あなた方は神の子、私たちの主イエス・キリストの交わりに招き入れられたのです。」と語っています。

 

【私たちの喜びが満ち溢れるようになるため】

教会に兄弟姉妹が増し加えられ、交わりを嫌わないで、暖かいまた深いイエスさまを中心にした交わりに生きる時、一人一人の喜びで教会は溢れるようになります。私たちは不完全で破れの多い者であることを知っています。どこかで煩わしい交わりは避けたい、私は御言葉が聞ければそれでいい、神さまは私を愛して守ってくださるから、神さまを讃美できればそれでいい、という思いがどこかにあるかも知れません。

 

教会員同士の交わりを軽く考えたり、無関心になったら教会の交わりはどうなるでしょう。御言葉を共に学んで、神さまのみこころを深く知り、命の喜びに満たされる礼拝をいつも待ちたいと思います。

 

ヨハネは福音書329でこう告げています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしたちは喜びで満たされている。」

 

【ヨハネが伝えたかったもの】

ヨハネが伝えたかったのは、命の言葉であるイエスさまとの、しつかりした交わりを通して、そのなかで信者同士の交わりが豊かにされ、イエスさまの香りにつつまれて、一人一人の喜びが教会に満ち溢れるようになることです。私たちが生きているのは、実を実らせる命の木であるイエスさま、命の言葉であるイエスさまの御ことばを食べて、救いにあずかっているという喜びの中においてであります。

 

【祈り】

豊かな恵みをいつも私たちに与えてくださるイエス・キリストの父なる神さま。安息の日、私たちはあなたの元に集められ、御言葉を与えられイエスさまとの愛の交わりの中に入れていただけました幸いを感謝いたします。過ぎた一週間も、私たちは自らの弱さと、罪の深さを覚えさせられ、愛の足りなさを嘆く日々であったことを悲しんでいます。どうか罪の赦しをお願いします。そして今は、あなたの深い恵みと愛を覚えて御前にあることを感謝いたします。

東日本の悲しみ苦しみの中にある人々に慰めと、勇気と、希望を与えてください。この世での試練を乗り越える信仰を与えてください。

未信徒の家族の上に、あなたの愛を表してください。近隣の未信徒を礼拝に招いてください。新しく会堂が与えられ、心から感謝を捧げます。よき伝道の場所として用いてください。今日からの一週間を信仰に歩む日々としてあなたに仕えて生きることが出来ますよう、一人一人をお守りください。モ-ア先生ご夫妻の働きを特別にお守りください。私たちの主イエスさまの御名によってお祈りいたします。ア-メン。

2011年08月07日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

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