権威と力あるお言葉」宮崎契一奈良教会牧師2011/8/28

 

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聖書:ルカ福音書431:イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。32:人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

 33:ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。

 34:「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」35:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。36:人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」37:こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 

【あいさつ】

 今朝は、久しぶりに西谷伝道所での奉仕が許されました。私が前回この教会で奉仕させていただいたのは、確か去年の6月の関西地区の教会の講壇交換の時であったと思います。元々は、伊丹教会、男山教会、奈良伝道所の3つの教会のつながりの中で、講壇交換をしてきましたけれども、昨年から西谷伝道所も新しく加わりまして、4つの教会での礼拝の交わりが許されていることを心から感謝しています。その中で西谷伝道所は、これから新会堂の建築も控えておられるということを伺っています。このこと自体は、とても教会にとって大きな働きを必要とすることだと思いますが、その中で教会が変わることなく主の言葉に立ち続けていくことを願っています。

 

【汚れた悪霊に取りつかれた男】

今日の聖書の個所は、そのような主イエスがお語りになった言葉についてのところです。カファルナウムという町の会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男が出て来ます。私たちが聖書の福音書を見てみると、このような悪霊とか、悪魔とか、サタンといった存在がよく出て来ます。そして、こういう悪霊の姿というのは、私たちにとって、とても印象的にも見えます。

 

と言いますのは、この汚れた悪霊は、大声で叫びますし、出て行くときもその男を人々の中に投げ倒した、ということがあるからです。また、他の個所を見ると、その取りついた子供にけいれんを起こさせて泡を吹かせたり、さんざん苦しめる、ということも言われているのです。このような、とても激しくて印象に残る動きがあります。ですから、私たちは今日の個所を読んでみても、まず目につくのは、この悪霊に取りつかれて大声で叫んでいる男の姿かもしれません。

 

 

 

【イエス様の権威ある言葉】

しかし、私たちが今日の個所を見てみるとどうでしょうか。ここでは、ただ単に汚れた悪霊のことを言いたいのではないのです。この個所が示していることは、やはりここでイエス様がお語りになっている権威ある言葉です。この主の言葉が、私たちにとってどうであるのかということが問われています。私たちにとって根本的なことです。

 

イエス様は、カファルナウムで安息日に人々を教えておられましたが、そのことについて32節には「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」と主の言葉のことが言われています。また、最後の36節にも「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』」と、やはり人々が権威と力ある主の言葉に驚いていることが言われているのです。

 

今日の個所の最初と最後に、このように主の権威ある言葉のことが言われています。ですから、今日の個所はこの主の権威ある言葉のことを言いたいのです。私たちが、唯一信頼し得る言葉です。その間には、汚れた悪霊に取りつかれた男が出て来ますけれども、それもこの権威と力ある主の言葉を示すためのものです。この言葉が、私たちにとってどれほど信頼すべきものであり、どれほど聞くべきものであるのかということを示すためのものです。

 

この言葉が、私たちにとってどうであるのかという問題が教会にはいつもあるのです。イエス様の言葉は神様の言葉です。御言葉です。ですから、このことは教会にとって、根本的に重要なことです。主イエスの言葉がどうであるのか、私たちの内でこの言葉が権威を持っているのか、ということです。それは私たちにとってイエス・キリストがどうであるのか、ということにつながる問題です。

 

【この世の権威と主イエスの権威】

権威ということは、教会以外でも度々使われる言葉でしょう。あの人は~の権威だ、と言われますし、私たちは権威という言葉を思い浮かべてみると、そういう世の中での能力があり権威ある人、あるいは良く知られている人のことを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、ここで言われているイエス様の権威というのは、そういったものに止まらない、いやむしろ全く違うと言っても良いものです。

 

【律法学者のようにではなく】

権威ということを考える時に、例えば、当時律法学者という人がおりました。この人は何といっても当時この地方で権威を持っていた人です。律法、つまり聖書の専門家ですし、それを解釈して、その通りに人々が生活するよう教えていた人です。ある権威を持った人です。しかし、この同じ汚れた悪霊に取りつかれた男の話がマルコの福音書にもあるのですが、そこでは、「イエス様が律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」、と言われているのです。当時の律法学者には紛れもなくある権威がありました。しかし、イエス様は律法学者のようにではない、人々が皆驚く権威を持っておられる方です。

 

【百人隊長の権威】

また、ルカの福音書の7章を見てみると、そこには百人隊長が登場します。この百人隊長は、病気で死にかかっている自分の部下をいやしていただきたいと、イエス様にお願いをするのです。この百人隊長という人も、当時間違いなく権威を持っていた人です。この百人隊長の言葉が78にあります。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。

 

この百人隊長も権威の下に置かれている人です。しかし、この人も部下に行けと言えばその部下は行く、来いと言えば来る、これをしろと言えばそのとおりにする。そういう権威を持っている人です。しかし、ここではその百人隊長がまるで自分の権威を投げ捨てるようにして、自らを低くして求めているお方がいます。それがイエス・キリストです。さらに、そのイエス様を求めるという時に、この人はイエス様の何を求めたのか。それは、やはりその言葉だったのです。その百人隊長のイエス様への言葉が77にあります。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。

 

【イエス様のひと言】

ここで百人隊長がイエス様に求めたのは、そのひと言です。そのひと言で自分の死にかかった部下もいやされる。百人隊長には、このイエス様の言葉への確信が、ありました。イエス様は、この百人隊長の信仰をとても喜ばれたのです。このひと言なのです。このように主の言葉が、今私たちの中で権威と力を持ったものとなっているでしょうか。さらには、それをお語りになった主イエス・キリストというお方が私たちの中で権威を持っているだろうか。何気なく通り過ぎて行くような言葉になっていないだろうか。ただその言葉を求めて、私たちの持つ権威も何もかも投げ捨てるようにして、この方のところに向かっているかどうか、ということなのです。この神の言葉が私たちにとってどうであるのか。やはり、これは教会にとっての根本的なことです。

 

【イエスの正体を知る悪霊】

次に、この汚れた悪霊について、改めて見たいと思います。この悪霊について見ることが、イエス様の言葉の権威を明らかにするからです。434を見ると、この汚れた悪霊は、イエス様がどういうお方であるかを知っているようです。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。また、少し先の41節を見ると、悪霊はわめき立てて「お前は神の子だ」と言っています。また、41節の最後にも「悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである」とあるのです。メシアというのは、キリストという言葉です。

 

【かまわないでくれ】

悪霊は、イエスがキリストである、メシアであることを知っているのです。また、イエス様が神の子であり、神の聖者であることを知っています。しかし、先ほどの百人隊長のようにそのひと言を求めて、イエス様に向かって行くということはありません。この方を知っていながら、信じることもありません。返って、イエス様に「かまわないでくれ」と言っているのです。まさに、この悪霊は滅びるべき存在、と言っても良いでしょう。

 

【悪霊の存在】

しかし、今私たちがこの悪霊ということを考えてみると、どうでしょうか。私たちは主の祈りの中で、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」を共に祈っています。しかし、私たちはこういう悪霊のことを見ても、何かこの当時のことだけではないかと思っているところがあるかもしれません。こういう汚れた悪霊の働きというのは、決して私たちの目に見えやすいものではないでしょう。本当に私たちの周りに悪霊はあるのだろうか。聖書では、これほど激しく悪霊のことが記されているのですが、本当にそれほどのことがあるのだろうか、そのように思っているかもしれないのです。

 

【悪霊を追い出されるイエス様】

しかし、仮に私たちがそう思っていることがあったとしても、イエス様を見るとどうでしょう。ここでイエス様は、徹底して悪霊に向き合われています。決して、何か曖昧に、好い加減に向き合われているのではありません。「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになります。イエス様は、悪霊にものを言うことをお許しにならないのです。徹底して向き合われていく。福音書の中には悪霊の話がいつくかありますけれども、私たちがそこでのイエス様の姿を見ると、この方はまさに十字架の死に至るまで、この悪魔に徹底して向き合い続けたと言っても良い姿です。イエス様はそのように悪魔に向き合われました。

 

【教会のなかの悪霊】

さ羅に、この霊に取りつかれた男が叫んでいる場所は、会堂という場所です。しかも、その日は安息日でした。それは教会に例えれば、まさに礼拝がなされている時と言っても良いでしょう。そういう教会にとっての中心的な場で、この霊につかれた男が叫んでいるのです。そういうことを見る時に、やはり私たちは、今の教会にも悪魔のささやきはある、悪霊に取りつかれたように、支配されたように陥ってしまう弱さがあることを思うのです。従って今も私たちに、このイエス様の権威と力ある言葉が必要です。たとえ私たちの持つ権威をすべて投げ打ってでも、イエス様のそのひと言が必要です。これは、それほどの言葉なのです。

 

【主イエスを拒んだ弟子たち】

こで悪霊に取りつかれた男が示す生き方は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という生き方です。イエス様に対して、私にかまわないでくれ、と言うのです。ナザレのイエス、かまわないでくれ、私とあなたとの間に何の関係があるのだ、こういうことを汚れた霊は言っているのです。そして、そういう悪魔に支配されてしまったかのような生き方に、イエス様の弟子たちも陥ってしまうのです。このルカの福音書を見ると、イスカリオテのユダにサタンが入ったと記されています。このユダは、イエス様を銀30枚で引き渡すとことになります。また、あの中心的な弟子のペトロに対しても、イエス様は、サタンがあなたをふるいにかける、と言われました。やはり、サタンのことを言われるのです。2231。そして、このペトロは、「わたしはあの人を知らない」と自分とイエス様との関係を三度否みました。

 

まさにこれは、「ナザレのイエス、私にかまわないでくれ」という生き方です。私とあなたとの間に、何の関係があるのだ、という姿です。悪霊に取りつかれた者、悪霊に支配された者の生き方は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という生き方です。それは、やはり信仰ではありません。悪霊は、イエス様をその人から引き離そうとするのです。教会の中でも、キリストの弟子さえも、悪魔の支配を受けてしまったようになってしまう。さらに、私たちが世の中の自分たちの周りの人たちを見回してみるとどうでしょうか。まさに、「イエスよ、かまわないでくれ」という人たちが満ち溢れていると思うのです。それは、一向に弱まる気配が見えないほどの激しさだ、と言っても良いのではないでしょうか。私たちの知人や友人の中にも、「イエスよ、私にかまわないでくれ」、という人がいるでしょう。また、私たちの家族の中にもいるかもしれません。それほどのものです。

 

【悪霊も神の支配下にいる】

しかし、私たちが今日の聖書の個所から教えられることは、このような悪霊の激しい支配があるように見えて、実はここでなされているは神様が支配をなさっているということです。イエス様が悪霊を叱りつけると、悪霊はその男を人々の間に投げ倒しましたが、何の傷も負わせることなく出て行きました。そのことに人々はみんな驚きまして、この言葉はいったい何だ、権威と力でこの霊に命じると出て行ったと口々に言っているのです。悪霊はあれほど激しい姿で支配をしているように見えたのですが、結局はイエス様のひと言で、何の傷も負わせずに出て行ったのです。何もすることができませんでした。つまり、ここで明らかにされているのは、イエス様の権威ある言葉を通して、神様の支配がなされているということです。こういう力ある言葉なのです。

 

【聖書の言葉のみが教会の中で権威と力を持つ】

この権威と力ある言葉こそ、私たちを「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という生き方から解放するものです。そのひと言が、私たちに神の支配をもたらします。百人隊長のように、ただこのひと言を求めて、イエス様のところに行き続ける。キリストへの信仰という時に、やはりその言葉、ただ御言葉を求めて行くことだと思うのです。教会の中で、権威を持つものは何でしょうか。教会の中で、力を持つものは何でしょうか。いろいろなそれらしく見えるような答えが出て来るかもしれません。しかし、答えはやはり、ただこの言葉なのだと思います。イエス様の言葉は神の言葉です。この神の言葉、御言葉が、聖書の言葉が、教会の中で権威を持ち、力を持つ。それが、教会がキリストの教会であるということです。

 

 教会がその地に立つということは、単に建物だけのことではありません。この御言葉が権威と力を持って立つ、そこに初めて教会が立つのです。イエス様は御自分の言葉に権威と力があることを、私たちのために犯罪人のようにして十字架にお掛かりくださったこと、しかし、そこから復活なさったことを通して、明らかにしてくださいました。私たちは未だ、この悪魔の試みの中に置かれていますけれども、その中でただこのひと言を求めて、日々イエス様に向き合って行きたいと思うのです。(おわり)

2011年08月28日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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