「宗教と信仰の違い」ウイリアム・モーア2011.7.24

聖書;マタイによる福音書7章21−23

【バルト博士の床屋さんに会った】

カール•バルト博士は有名なスイスの改革派主義神学者でした。ある日、スイスのバーゼル市に住みバルト先生は路面電車に乗ると、一人の観光客が彼の側に座りました。その二人は直ぐに歓談に入り、バルト先生が、「バーゼルは始めてですか」と観光客に聞きました。「そうだ、まったく始めてです」と返事すると、バルト先生は、「じゃ、始めてでしたら、こちらで特別にしたい事がありますか」と聞きました。すると、観光客は、「実は、有名な神学者カール•バルト博士 に会いたいです。彼の本を全部読んで、とても影響を受けたからです。ひょっとしてバルト博士を御存知ですか」と尋ねました。そうすると、バルト先生は冗談でこう言いました。「私はあの人をよく知っています。実は、毎朝彼のひげを剃っているよ。」観光客はそれを聞くと喜んで相手に「さようなら」と言って、ホテルへ帰りながら自分に、「僕は本当にラッキーな人だな。バルト博士の床屋さんに会った」と嬉しそうに言いました。

 

 

【イエス・キリストを本当に知らない】

観光客はバルト先生の書物をよく読んで、彼を非常に尊敬しましたけれども、目の前にいても、結局彼がわかりませんでした。つまり、パルト先生についてかなりの知識があっても、会っていながら本当は先生を知らなかったのです。同じように、キリスト教についての知識が沢山あっても、イエス・キリストを本当に知らない者もいます。すなわち、主との関係を持ってない訳です。

 

【天の国に入る者とは】

主イエスは今日与えられた御言葉にこうおっしゃいます。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私達は御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。『あなたたちの事は全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」

 

【キリスト教と信仰】

キリスト教は宗教ですけれども、その上に我々の信仰は愛する全能の唯一の神との緊密な関係です。そして、その関係は勿論主イエス・キリストの私達の為の贖い死に基づいています。人間の罪の故に神との関係が壊され、私達は神の敵になってしまいました。更にその罪の報酬は永遠の死であり、人間は自力で自分をその正しい罰を逃れられません。

 

【唯一の救いの道】

ですから、憐れみ深い神は私達の悲惨な状態を見て、唯一の救いの道を授けて下さいました。罪一つもない御独り子イエス・キリストの十字架の死を通して人間に永遠の救いをもたらして下さいました。つまり、主イエスは私達に代わり、私達が受けるべき罰を受けて下さいました。それ故に、私達の全ての罪が赦され、神様の子供としての関係に入れます。

 

【主イエス・キリストを信じるとは】

しかしながら、神の救いの道をただ知るだけでは十分ではありません。その賜物と主イエス・キリスト御自身をも、心から信じ、受け入れる必要があります。私達は主を単なる救い主として信頼し、すべての希望を主に掛けます。そして、主を愛し頼ると、イエスとの関係が段々深くなります。讃美と祈りを通して交わりを持って、さらに、イエス様の教えに従って毎日の生活を歩むと、私達は神との関係を持ち、本当に主を知るようになります。

 

【主との親しい関係】

私達は神の素晴らしい恵みを受け、主との親しい関係を持つと、当然それは私達の行動と態度を影響します。イエス・キリストに似ていきたいのです。神に仕え、この世では主の手と足になりたいです。神の教えに従い御自分の協力者になりたいです。主との緊密な関係があれば、私達の行動がそれを反映します。その故に主イエスはこうおっしゃいました。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

 

【行いの伴わない信仰】

また、ヤコブの手紙にこう記されています。「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救う事が出来るでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要な物を何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれで同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブの手紙2章14−19)

 

【「足」の付いた信仰】

この御言葉によりますと、誠の信仰には「足」が付いています。と言うのは、信仰はただ宗教的な伝統を重んじる事だけではなく、また、神についての知識を持つ事だけでもありません。信仰は神との愛と信頼と服従の関係です。神が交わりを人間と持つ為に私達を創造されたからです。そして、その緊密な関係と交わりは私達に正しい行動をもたらします。

 

多くの人々は聖書についての知識が沢山あります。キリスト教の用語と伝統と讃美歌などを全部知っています。彼らは宗教としてキリスト教をマスターしました。しかし、彼らの信仰は薄いのです。なぜなら、その知識は行動と、生き方と態度との関連が薄いからです。

 

【信仰を実践する】

実は私達は食べる事によって強くなりません。食べ物の消化は絶対に必要です。また、本を沢山読む事によって賢くなれません。本の内容を理解して覚える事で学問ある人になります。同様に、信仰を告白する事と信仰についての知識を持つ事は不十分です。毎日の生活に於いて自分の行動で信仰を実行する必要があります。

 

【ごみ捨て場を変えた運転手】

あるバスの運転手がいらいらしました。なぜなら、自分の路線の終点は町のはずれの野原でした。そしてその野原は町の住民のごみ捨て場になり、本当に汚い所でした。運転手さんは毎日何回もその捨て場へ行って待つのはとても嫌になりました。「当局が不法のごみ処分を防ぐべきだ」と自分に呟きました。彼はまた、役場に連絡して苦情を持ち込みました。しかしながら、ゴミが段々積もって、野原の様子がもっと酷くなりました。

 

ある日、運転手さんはパスから嫌いなゴミを眺めながら、良いアイデアが心に浮かびました。ゴミがそんなに嫌いだったら、ただ毎日いらいらして、文句を言うよりも、自分がその問題に対して何かをしなければならないと悟りました。そして、その日から、待ち時間に少しずつ野原のゴミを拾い、持ち帰りました。そうすると、野原が奇麗になる程、運転手は嬉しかったです。更に、人々は不思議に奇麗になった野原でゴミの処分を止めました。そして、春になると運転手はお花の種を野原に蒔いて、本当に美しい所になりました。又、人々はわざわざお花を見る為に終点までバスに乗るようになりました。こうして運転手はイライラしたり、文句を言ったりする事を止め、その問題を解決する為の積極的な行動によってこそ、良い結果が出来ました。

 

【この世の宗教は】

この世の殆ど全ての宗教は人間の業に基づいています。結局、儀式と自分の善い行いによって神の好意や救いなどを勝得ようとします。言うまでもなく、神の完璧な標準に対してそのやり方は全く無理であり不可能です。神の救いは初めから終わりまで一方的な主の賜物です。そして、私達は悔い改め、その賜物を心から受け入れると、神との新しい関係に入ります。

 

イエス・キリストに結ばれて、神に赦された、愛された子供になります。その関係を通して私達は神によって知られて、又、神を知る事が出来ます。

 

愛する兄弟姉妹、私達は礼拝と、祈りと、御言葉を読み従う事によって、神をよりもっと知る事が出来、親しい関係を楽しむ事が出来ます。そして、主との関係が深くなる程、私達の行動が変わります。何よりも神の働きに参加したくなります。神の愛を周りの者に現したいです。益々主イエスの教えによって毎日の生活を歩みたいのです。

 

【偽フルート奏者】

ある男の人がクラシック音楽が大好きで、どうしてもオーケストラに入りたかったのです。しかし、一つの問題がありました。彼は楽譜が読める事も楽器を吹く事も全然出来ませんでした。それにも関わらず、彼は自分の夢を実現しようとしました。オーケストラの指揮者に結構の賄賂(わいろ)を渡すと、彼がフルート奏者になりました。オーケストラの演奏する度に、彼はフルートを唇に着けて本当の音楽者として素晴らしい芝居をしました。けれども、自分の楽器から音は何も出ませんでした。それにも関わらず、聴衆どころか音楽者同士も騙す事が出来ました。数年間その形で演奏に参加しましたが、ある日指揮者が急に変えられました。そして、新しい指揮者がオーケストラのメンバーの腕を試す為に、皆を一人づつオーデションを受けさせました。

 

【罪の告白】

言うまでもなく、男の人は大変困りました。色々な工夫を考えましたが、やはり一つの道しかなかったのです。それは指揮者に自分の騙しを告白する事です。

 

愛する兄弟姉妹、神様は何よりも私達との親しい交わりを望んでおられます。主にその為に私達を特別に造ったからです。その為に御独り子イエス・キリストを十字架の死までも犠牲にさせたのです。ですから、私達は何よりもその関係を大事にし、益々深めます。そして、その関係と交わりから素晴らしい奉仕と、証と、愛の業が必ず湧き出て来てきます。(おわり)

 

 

2011年07月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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