「主こそ栄光に輝く王」ウイリアム・モーア2011.5.8.
聖書:詩編第24篇1−10
【神の本質と人間との関わり】
皆さん、今日与えられた御言葉、詩編第24篇を通して神様は、私達に誠の信仰の最も大事な真理を啓示して下さいます。
それは、神御自身はどのような神なのか、神が私達人間とどう言う関係を求めておられるのかという事です。
実は、この二つの基本的な事が分からなかったら、本当の信仰は不可能になります。ですから、少なくとも信仰の対象である神の事と、その神と私達の関わりが分かる必要があります。そうしないと、信仰はあまりにも漠然な物になり、意味はあまりありません。
【創造主なる神】
今日の御言葉の1節と2節は神の最も基本的な事を啓示します。もう一度聞いて下さい。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」と記されています。
この個所は明白に、とても大事な真理を教えて下さいます。それは、神御自身は天地万物の唯一のオーナーであることです。例外なく、宇宙に於ける全ての物は神の物であり、主のみはその所有権を持っています。何故なら、神は無から全ての物をお造りになりましたからです。創造された物の中で、神によらずに成った物は何一つなかったので、主は全ての物の造り主であり、その唯一のオーナーなのです。
【管理者としての人間】
従って、もし神が造り主として全ての物を所有しているとすれば、私達人間は何一つ持っていません。神は人間を造り、この世に住まわせ、オーナーではなく、管理者として御自分の物を大事に使う役割を私達に下さいました。
ですからヤコブの手紙に書いてありますように、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコブの手紙1章17)
この真理を十分悟ると、私達の態度と行動はこのように随分変わります。「私が住む家は私の物ではありません。実は、家は私の天の父の物です。そして、天の父は私を御自分の家に住まわせて下さいます。私は毎日神から日常の糧を頂き、神から衣服も与えられ、必要な全てが神から来て賄えるのです。」
【神に感謝と礼拝】
私達はそう言う態度を取ると、きっと神に感謝する気持ちが増えて来て、喜びを持って主を賛美し礼拝します。更に、私達は隣人にもっと寛大になり、神から頂いたものを喜んで分ち合います。また、私達は神が造った御自分の美しい世界を奇麗に用いて、次の世代に渡します。
【人間中心の心】
しかし、私達人間はなかなかそう言う態度を取り難いですね。飽くまでも私の所有権を保ちたがり、「私の物」を何よりも守りたいのです。そして、私の物の使い方は全く個人の自由だと思い、周りのニーズをあまり考えなくても良いと思い込んでしまいます。
【世界を汚す人間】
また、私達は勝手に神が素晴らしく造った御自分の世界を汚染して、その資源を放蕩してしまっても自分の目の前さえ良ければ良いと思ってしまいます。何故なら、私達は、地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、神のものではなく、人間のものだと思いたいのです。
国と国の間にもそういう誤った態度があり、色んな問題を起こします。例えば、ある二つの国の間にはほんの小さい島があります。島は岩ばかりで人間の生活を支えられない程あまり価値がありませんが、両国それぞれは歴史的な理由を筆頭にし、その島は自分の国の領土だと主張して長く争っています。争いの故に両国の関係が貧しくなり、市民レベルまでも時に激しい摩擦が起ります。両国は島を共同に管理する事はとんでもないと思って、なかなか解決の見込みはありません。もしその両国は真理を認めて、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のものだ」と信じるならば、問題が直ぐに解決出来るはずです。
実は、私達人間さえも神の被造物として主のものであります。言うまでもなく、人間誰一人として自分自身を作った訳ではありません。ローマの信徒への手紙14章7−8にこう記されています。「私達の中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私達は、生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです。」
愛する兄弟姉妹、私達の手元にある全ての物は実際に神のものであります。私達の存在と命さえも主のものであります。私達は毎日、この真理のうちに生きるならば、どんなに意味深く、力強いのでしょうか。
【私達は神の愛された子供です】
愛する神は大きな目的を果たすように私をわざわざお造りになり、御用の為に私を用いて下さいます。そして、御自分のものとして私を守り、必要な糧を与えて下さるのです。更に、御子イエス・キリストを通して神は私を救い、永遠までも御自分のものとして私を祝福して下さいます。私達は神の愛されたものですからその全ての恵みが受けられます。
【神に似せて創造された人間】
人間と全ての物は神のものです。しかし、神は御自分の造られたものの中で私達人間を特別にお造りになりました。御言葉によりますと、神は人間を御自分に「かたどり」、御自分に「似せて」、人を創造されました。つまり、他の生き物と違って私達は神を知り、神を愛し、主との交わりを持つ事が出来ます。その大きな恵みを受ける為に神は私達を特別に創造されたのです。
【神と交わる人間】
そして、神の交わりを受けるように、私達は主に近づく必要があります。今日の御言葉の3節と4節にその神に近づく資格がはっきりと記されています。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つ事が出来るのか。それは潔白な手と清い心をもつ人。むなしい物に魂を奪われる事なく、欺く物によって誓う事をしない人。」
【御前に出ることのできる者】
ここで注目したい事があります。それは神の御前に出る資格です。その資格は私達人間ではなく、私達の造り主である神御自身が決める事です。それにも関わらず、多くの人々は神の声を無視して、自分の為にその資格を決定しようとします。
【人の基準】
そして、大抵そのレベルはそれ程高くはありません。例えば、「私は周りの人よりも善い人だから、神は私を受け入れるだろう。」また、「私は人を殺したり、他に酷い犯罪を犯した事がないので、大丈夫だろう。」「私は人に悪い事も言った事はないし、人も自分が出来る範囲で助けに来てるから」など自分で決め付けてしまいます。さらに、「私の善行は悪行(あくぎょう)より多いから、それは神を喜ばす為に十分でしょう」と信じる人がいます。又ある人々は、「善い人になる為、最善を尽くせば、きっと神は私の事を喜ぶ」と確信します。
【神の基準】
しかし、今日の個所によりますと神御自身がその資格を決めます。「それは潔白な手と清い心をもつ人。むなしい物に魂を奪われる事なく、欺く物によって誓う事をしない人。」その標準は結構厳しいですね。
完全な潔白な手と清い心をもつ人はなかなかいないですね。私はもちろんそう言う資格を持っていないし、私が知っている人の中でもそのレベルに達する人はありません。何故なら、私達人間は皆罪を犯します。いくら頑張っても私達は自己中心的になり、神に対しても、隣人に対しても、罪を犯してしまいます。ですから、神に近づく為に私達はどうすれば良いのでしょうか。実は、人間は神によって義とされないと、私達は希望が全く無いのです。
【救い主が必要な人間】
結局、私達は罪の全く無い救い主が必要であります。そして、その唯一の救い主こそは罪の全くない神の御子イエス・キリストです。
コリントの信徒への手紙二5章21にこう記されています。
「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」
【贖い主イエス・キリスト】
主イエス・キリストは私達に代わって十字架で罪の報酬を受けて下さいました。ですから、主イエスを心から信じ従う者は主の義を自由に頂きます。そして、イエス・キリストによって清められた私達は神の御前に出る事が出来、死んでも永遠に神と共にいられます。
今日の箇所の5節と6節を見ますと義とされた者の恵みがこう記されています。「主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」
イエス・キリストを通して神を求める者は祝福されています。イエス・キリストはこのように約束して下さいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28−30)
主イエス・キリストは求める者に平和と希望と人生の大きな目的を授けて下さいます。そして、又私達にこう教えられます。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要な事を御存じてある。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章31−33)
全てのものの所有者、愛する神は御自分を求めて信じる者には良いものを授けたいのです。主は霊的な恵みを始めに、そして、必要な物質的な物をも約束して下さいます。愛する兄弟姉妹、喜びを持ってその誠の信仰をもって主イエス・キリストに従いましょう。(おわり)
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