「パレードか受難か、どちらを選ぶか」ウイリアム・モーア2011.4.17
聖書:マルコによる福音書11章1−11
【過越し祭りとエルサレム巡礼】
過越し祭りの際の為にイスラエルの都エルサレムの人口が数倍増え、大変賑やかになりました。ローマ帝国の遠い隅々から十万人程の巡礼者が続々とエルサレムに入り、その一年中の最も大事なユダヤ教のお祭りを守りました。中東から、ヨーロッパから、小アジアから、アフリカからも敬虔なユダヤ人は自分の宗教の中心地に帰り、エルサレムの神殿で生け贄を捧げ、自分の民族の為の神様の素晴らしい御業を覚え、お祝いました。それは1400年前のエジプトの奴隷の家からの奇跡的解放でした。
【救い主を期待】
そして、その大勢の巡礼者はただ大昔の出来事を記念する為にエルサレムに集まった訳ではありません。実は、イスラエルは又、神によっての解放を切に待っていたのです。その当時、イスラエルは独立が失い、ローマ帝国の植民地になり、辛い日々を送りました。政治的と経済的と宗教的に始め、色んな面で圧迫され、皆は何よりも神の救いを待ち望んでいました。
特に、預言者を通して神様が約束された救い主を期待し、祈ったのです。祭りの為にエルサレムに上がって来た巡礼者は預言者イザヤの言葉を思い出した事でしょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の蔭の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。....一人のみどりごが私達の為に生まれた。一人の男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和はたえる事がない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章1−2;5−6)
【主は子ロバに乗って】
その救いのヴィションと期待を持って大勢の人々は都に入り、昔の解放の祭りを守ろうとしました。その背景の中で主イエス・キリストは群衆の前に現れました。主は子ロバに乗って、エルサレムに入られました。男性が小さい子ろばに乗るのはとても珍しい光景だと思います。それは子供か女の人の乗り物だからです。間違えなく、主の足はその子ロバに長過ぎて、とても見苦しい姿を見せていたでしょう。今日の週報の表の絵を見たらその光景が想像出来ます。多分ある人々は主イエスを見て笑いました。しかし、またある人々はその光景を見ると意味が直ぐに分かりました。と言うのは、その当時から500年前に神の預言者ゼカリヤはこう預言したのです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ書9:9−10)
神からの救い主を待ち望んでいた人たちは主イエスが子ロバに乗っている姿を見るとたちまち気づきました。この人物こそが神の救いをイスラエルの為にもたらして下さるという事です。実際に、彼等はずっと前から主イエスの力強い徴を見て、権威ある教えに聞いていました。ですから、イエスは子ロバに乗って都に入ると彼等は大喜びしました。主は預言された救い主としてイスラエルの国王になり、軍事力、また奇跡的力を使って、圧迫するローマ帝国の政権を壊し、国の主権と光栄を復帰して下さるお方と信じました。しかしながら、問題がありました。武力に訴えて征服する王はちっぽけな子ロバでなく、立派な雄馬に乗って都に入るべきでした。また、預言された王は謙(へりくだ)って柔和に平和をもたらして下さいます。しかし、人々はそう言う矛盾した事にあまり気にしないで主イエスをこの世を征服する王としてエルサレムに歓迎しました。
【ホサナ】
ですから、その当時の習慣に従って彼等はシュロの枝を切って主イエスの道に敷きました。また自分の上着をも同じようにして主を歓待しました。更に、このように叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」ところで、ここでの「ホサナ」という意味は、「救って下さい」あるいは、「我々の救いが来た」であります。「ホサナ」を叫びながら、多くの人々は声を上げてイエスをイスラエルの征服王として出迎えました。神から遣わされた救い主であるイエスの力強いリーダーシップがあれば、国の将来は保証されていて、これから、とても豊かな栄えの時代を迎えます。群衆はそう言う喜びの気持ちで一杯、主イエスの為に素晴らしいパレードを提供して、「ホサナ、ホサナ」を心から叫びました。
【シュロの日曜日】
今日、私たちは全世界キリスト教会と共に主イエスが御自分の受難を前にエルサレムに入る喜びの「シュロの日曜日」をお祝い記念します。シュロの日曜日と言う名前になったのは勿論、人々がその日、主イエスの道を飾る為にシュロの枝を敷いたからです。そして、来週の主の日に私たちは又、大きな喜びを持って、イースター、すなわち主イエス・キリストの復活を祝います。その日、神の奇跡によって、主イエス・キリストはお墓から復活され、死の力が私たちの為に壊されました。ですから、注意しないと、私たちは主イエスの十字架の苦しみと死を取り除いて、シュロの主日から直接に、喜びの復活祭を守ります。
【「十字架に付けよ」】
実は、シュロの主日とイースターの間に大変大事な出来事が起りました。喜びで「ホサナ、ホサナ」と賛美した群衆は、怒りを持って、大声で「イエスを十字架に付けよ、十字架に付けよ」と叫びました。何故なら、主イエス・キリストは群衆が望んだ救い主ではありませんでしたからです。あれ程「ホサナ、ホサナ、私たちの救いが来た」と歓迎されたのに、すぐに変わった民衆の心変わりに驚くしかありません。しかし、これはその時代の人々だけではありません。現在の私たちのよく変わる姿である事を心に刻みなさい。主はこの世の王のように政治的と軍事的力を振るいませんでした。主はローマ帝国と戦うつもりではなかったのです。彼はこの世の国々の中でイスラエルの勝利と栄えを気にしませんでした。
【全人類の為の贖い】
主イエス・キリストは神によって遥かにもっと重要な使命が神から与えられました。それは御自分の受難を通して、全人類の為に永遠の救いの道を開いて下さいました。十字架で主イエスは私たちに代わって罪の報酬である「死」の値を払って下さいました。私たちの罪を贖って頂いて、私たちの為に神との平和をもうけました。そして、その使命には苦しみと十字架の死が伴いました。
【預言された主の受難】
その使命ははきりと聖書に預言されましたが、人々は受難の救い主を受け入れませんでした。主イエスは彼等の期待に応じなかったので、人々は主を受け入れようとしないで、逆に、「イエスを十字架に付けよ、十字架に付けよ」と叫んでしまいました。
イエス・キリストは私たちの為に十字架の苦難の道を選んで下さいました。確かに、主は人々の期待に応えたら、その残酷な死を避けて、この世の王としての輝かしい栄光を受けられました。しかし、その代わりに私たちの為に受難の道を選択して下さいました。
【十字架がなければ】
東日本の震災と津波の災害の故に多くの人々は今も苦しんでいます。家や財産や職場や学校なども失った者が大勢います。更に、愛する家族を失い、悲しんでいる人々が数え切れません。私たちにはその苦難の深さが想像出来ないと思います。この受難週に私たちは東日本の災害を見て、苦しんだ者を通して主イエスの苦しみを少しは経験出来るのではないでしょうか。
イエス・キリストは御自分の大きな愛の故、全人類の為に、私の為に、十字架の死の道を選らばれました。その道のみに私たちの永遠の救いをもたらす力があったからです。
今日、私たちは喜びを持ってシュロの主日をお祝いします。主イエス・キリストは永遠の平和の君として、子ロバに乗り、謙(へりくだ)って、聖なる都エルサレムに入られました。
しかし、主がエルサレムに上ったのは一つの目的があったのです。それは、最も残酷な十字架で私たちの罪を清める為です。愛する主の無慈悲な死を新たに見る事は決して易しい事ではありませんが、それは私たちには絶対に必要であります。主の十字架の贖い死は私たちの信仰の中心にあるからです。十字架がなければ、罪の赦しと救いがありません。十字架がなければ、復活も不可能になります。十字架がなければ、神の愛の深さが分かりません。
ですから、今日から始まる受難週に入る私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖い死を新たに覚え、莫大な値段で買った私たちの救いを神様に感謝し、周りの人と分ち合います。そうしますと、来週の主の日に、イエス・キリストの復活を祝う時に、私たちの喜びはきっと何倍になります。
愛する兄弟姉妹、子ロバに乗るイエス・キリストこそは私たち一人一人に近づいています。そのお方は私たちにとって、私にとって、どんなお方でしょうか。(おわり)
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