「あなたのとげは何ですか」ウイリアム・モーア2011.3.6

 

聖書:コリントの信徒への手紙二12章7−10

        

【アカシアの棘】

棘が深く刺さった事がありますか。薔薇の棘やアカシアの木などの棘が身に刺さったら、その痛みをよく覚えていると思います。子供の頃、近所にはアカシアの木が沢山ありました。そして、毎年の夏、アカシアの花が咲く時、仲間がその木に上り、白い花を摘みました。花は甘くて美味しいおやつになりました。しかし、アカシアの木に上るには勇気が結構いりました。何故なら、長く尖っている棘が沢山あったからです。実は、私は友たちに勇気を見せる為、木に上り、何回も棘に刺された事がありました。ですから今日の御言葉に使徒パウロが「身に一つの棘が与えられました」と言うと、その苦しみを十分理解出来ます。

【思い上がる事のないように】

「それで、そのために思い上がる事のないようにと、私の身に一つの棘が与えられました」と使徒パウロが書きました。言うまでもなく、その「棘」は文字通りの棘ではなかったのです。謙遜した態度を保つ為にパウロは何かの苦しい障害が与えられた訳です。 

 

【パウロに与えられた棘】

聖書学者は大昔から現在までもパウロに与えられた棘がどう言うものかを研究してきました。そして、色々な結論が出ました。ある学者たちによりますと使徒パウロの棘は 癲癇や偏頭痛やマラリアや目の病気などの難しい肉体的の病だと言います。

 

また他の学者達によると、それはある精神的病気だと主張します。更に襲って来る霊的か肉体的の誘惑だと思う人もいます。その棘は人前でのパウロの拙い話だったと判断する学者もおります。そして、それはパウロに反対した偽教師だったと信じる者もいます。とにかく、使徒パウロに与えられた「身に一つの棘」について色々な異なる意見があります。実は、パウロは自分の棘の事を全然明確にしなかったので、その全ての意見は推測にすぎません。

 

【パウロを苦しめるもの】

よく考えて見ますと、私たちはパウロに与えられた棘が何であるかを知る必要はありません。どんな事であっても、それは使徒パウロを苦しめるものでした。だからこそそれを「棘」と呼びました。恐らくそれは隠れる事が難しい、皆の前で自分の弱さを表すので言い難く、恥ずかしかったかも知れません。更に、抜く事が出来ない棘のようにそれはなかなか解決出来なくて、ずっと長い間、パウロを困らせ、苦しめられたようです。

 

【わたしたちの棘とは】

愛する兄弟姉妹、これはただ使徒パウロの経験ではないと思います。私たち皆にも、それぞれ身に一つの棘が与えられているかも知れません。そして、私たちの中である人々は一つの棘だけでなく、いくつかの棘で悩まされ続けています。勿論なかなか治らない難しい病気はその棘の一つの種類です。

 

【家庭内の問題も・・】

そして家庭内の未解決問題はもう一種の棘です。難しい人間関係から生じた棘は数え切れません。経済的の事情も棘になります。更に、自分の弱さ、自分の過ちと罪の故の棘も山程であります。そして使徒パウロと同じようにその棘はなかなか抜けない苦しめるものです。またある棘は私たちにとって恥ずかしい障害になり、悩まされます。ですから、全ての棘を抜いてその苦しみから解放されたら、どんなに楽になる事でしょう。

 

【棘に対する解決策】

愛する兄弟姉妹、棘で悩まされると、私たちはどうしますか。言うまでもなく、棘に刺さったら、痛みを抑える為、それを早く抜きたいのです。つまり、自分の力で、また周りの者の助けでその問題を解決しようとします。病気であれば、病院へ行ってその治療をしてもらいます。家庭内の問題や人間関係の悩みであったら、話し合ってそれを解決しようとします。自分の過ち、もしくは罪から来た棘の場合、その行動を止めようとします。文字通りの棘は結構痛い物ですが、割合簡単に抜けます。

 

しかし、文字通りでない棘は大抵もっと難しいです。病院へ行っても全ての病気は治療で治りません。人間関係もなかなか難しい事です。そして、多くの心の悩みや誘惑なども簡単に解決出来ません。

 

【三度主に願った】

それでは、使徒パウロは身に難しい棘が与えられると、どうしましたか。今日の御言葉の8節を見ますとこう記されています。「離れさらせて下さるように、私は三度主に願いました」とパウロが書きました。つまり、彼は神に一生懸命に祈りました。「神様、どうかこの苦しめるものを私から取り除いて下さい」と祈りました。パウロは続けて、何度もその切なる祈願を神に捧げました。「神様、この屈辱的問題は私の宣教の働きに害を与えるので、離れさらせて下さい」のような祈りを捧げたと思います。

 

【祈る特権】

私たちも棘のような問題に直面すると、神に祈るべきです。キリスト者としてそれは私たちの貴重な特権です。神の子供ですから私たちはそれぞれの願いを主に述べる必要があります。フィリピの信徒への手紙4章6節にこう記されています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

 

愛する兄弟姉妹、私たちも使徒パウロのように祈らなければなりません。悩みや問題に直面すると、私たちは愛である全能の神に祈ります。しかしながら、私たちは神が自分の祈願をどのように応えるかを決め付けてはいけまさん。つまり、神にどう言う答えが正しいと祈ってはいけません。ですから、常に祈りに「御心であれば」と言う態度で祈願を打ち明けるべきです。神はいつも私たちの祈りに答えるのですが、その答えはいつも思っていた通りではないのです。

 

使徒パウロの場合はそうでした。パウロは棘を離れさらせて下さるように三度も主に願いましたのに、祈った通りになりませんでした。棘がそのまま身に刺さっていたのです。つまり、パウロに神の答えは「No」でした。

 

【答えられない祈り】

その「No」と言う答えを受けたパウロはどうしましたか。神にがっかりして、悲しみましたか。その経験で主は自分を本当に愛していないと判断しましたか。あるいは、祈ったままに答えられなかった故、信仰を捨てた訳ですか。決してそうではありませんでした。切に祈ったのに、神はその棘を取り除かないと、パウロは棘の本当の目的を悟りました。今日の御言葉の7節に記されているように、それは自分が「思い上がる事のないように」与えられたのです。

【思い上がる事のないように】

実は、悪魔が害を起こしましたが、不思議に神はその棘を用いてパウロに謙遜を教えられました。

 

【楽園にまで引き上げられたパウロ】

使徒パウロは賜物の豊かな人物でした。学歴と頭が良いし、信仰厚いパウロは熱心に異邦人の伝道をしました。彼は誰よりもキリスト教の信仰を西洋に伝え、沢山の教会を開拓しました。また、ユダヤ人でありながら帝国の都のローマの市民であって普通の人よりも良い身分でした。しかし、その事よりもパウロは霊的な幻を見て「楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしました」と語りました。

 

その素晴らしい経験があったパウロは高慢になる可能性があったので、思い上がる事のないように、主は棘を離れ去らせて下さいませんでしたとパウロは悟りました。つまり、彼の益と霊的成長の為に神はパウロの祈りにNoと答えたのです。

 

 

【神の力は弱さの中でこそ】

神はパウロの祈願にNoと答えられましたが、もっと素晴らしいものを約束して下さいました。9節の所を見て下さい。主はこう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」

 

パウロは誇って自分の力のみに頼る傾向があったので、主は棘をそのまま彼の身に置きました。しかし、棘で弱って来た彼は益々主の力に頼らなければなりませんでした。そして、神の無限の力によって支えられたパウロは本当に強くなりました。それこそが大きな神の恵みです。キリスト者として相応しく生きる為に、神は御自分に頼る私たちに十分な力を与えて下さいます。そうしますと、神の力は私たちの弱さの中で十分に発揮されるのです。ですから、私たちは自分の弱さを恐れなくても良いのです。頂いた主の力は十分であるからです。

 

 

【自分の弱さを誇る】

使徒パウロは神の素晴らしい教えを受けると、このように答えました。9節の後半から見て下さい。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです。

 

パウロは自分の弱さの中、神の力を十分に頂いたので、「大いに 喜んで自分の弱さを誇」る事が出来ました。つまり、パウロにとって自分の弱さ、また与えられた棘は敵のようなものではなかったのです。

 

寧ろ、弱さと棘のお陰で神の力はパウロの内に宿りました。その故、弱さは誇るべき事になりました。

 

【私の恵みはあなたに十分である】

愛する兄弟姉妹、もし弱さと棘が誇りであるなら、あなたはどう言う事を誇れますか。病ですか。誘惑ですか。経済的不安定ですか。家庭内の悩みでしょうか。それを離れ去らせて下さるように、一生懸命に祈っても、残るのなら、神はその事を用いてあなたに御自分をよりもっと信じ、頼るようにされます。

 

棘を通して私たちは自分自身の力の代わりに神の大きな力と恵みに頼り、それを受けられます。

 

神は私たち一人一人にも言われます。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのです。」また、私達は使徒パウロのようにこう言えます。「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからであります。」(おわり)

 

 

 

2011年03月06日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

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