「生ける生け贄」ウイリアム・モーア

 

聖書;ローマの信徒への手紙12章1−2

 

【新大久保駅での尊い犠牲】

丁度十年程前の出来事ですが、皆さんも覚えていると思います。それは東京の山手線の新大久保駅で、飲み過ぎの男の人が線路に落ちてしまい、ホームに上がれませんでした。その事を見たカメラマンである関根四郎さんと韓国人の留学生イ・スヒョンさんは直ぐにホームから線路に飛んで、男の人を助けに行きました。その二人は一生懸命にどうする事も出来ない男の人を安全にホームまで持ち上げようとしましたが、その瞬間、駅に入ってきた電車は止まる事が出来なくて三人をはねて即死でした。

 

その事件は全国ニュースの一面記事になり、赤の他人を助けに行った二人の方が英雄になりました。森首相も葬儀に出席し、彼等の勇気と献身を高く褒めました。多くの人々はその素晴らしい模範によって感動され、記念碑を建てる為に献金しました。また、その事件を覚える為に日韓共同の映画が作られました。更に、この間も事件10年を記念して、立派な式が行われ、コンサートもありました。

 

二人の英雄は自分の事を忘れ、隣人の命を救う為に命を非常に危険なリスクにさらして、結局、その危機で死に、自分の命を捨てました。当然、私たちはお二人の献身と勇気を畏れ敬います。

 

【聖なる生ける生け贄】

その最大の愛の行為は素晴らしい模範を示しますが、私たち皆はそのように命を捨てなければならない訳ではありません。しかし、今日の御言葉によりますと、キリスト者も犠牲を払う事が求められているのです。私たちは、「体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げ」るべきだと言っています。

 

【ローマの信徒への手紙12章1節】

もう一度聞いて下さい。ローマの信徒への手紙12章1節を朗読します。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 

【死ぬべき生け贄】

このならなければならない「生ける生け贄」はどう言う事なのでしょうか。生け贄はイスラエルの宗教には大きな役割がありました。人が生け贄として山羊や羊などを神に捧げると、その生け贄は自分の罪を取り除く力がありました。つまり、動物を捧げる事を通して人間の罪の罰が払われ、神との正しい関係が回復されました。結局、動物が罪人に代わって罰されました。ですから旧約聖書の律法には各罪に相応しい生け贄が記されています。言うまでもなく、動物は生け贄になると、その死が要求されました。結局それは「死ねる生け贄」でした。その反面、使徒パウロは私たちに、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げなさい」と勧めておられます。つまり、私たちはこの世に生きながら自分の行動と献身を神に捧げるべきです。自分の死を捧げるではなく、生きながら自分の命を主に捧げる訳です。

 

実は、主イエス・キリストはもう既に私たちの死ねる生け贄になりました。イエス様の十字架の死は私たちの全ての罪を償って下さいました。私たちが支払うべき罰を御自分の身に受けて、私たちに代わって死んで下さいました。その故に、主イエスの義を頂いた私たちは罪の全くない者のように神の救いと交わりを楽しむ事が出来ます。更に、主を信じる者は神から豊かな命をこの世にも永遠までも頂きます。従って、今日の御言葉の「生ける生け贄」は私たちの罪を取り除く為ではありません。あるいは、私たちは生ける生け贄を通して神の好意を勝ち得る訳でもありません。

 

前に言いましたように、イエス・キリストはもう既に御自分の十字架の死でその恵まれた状態を私たちの為に授けて下さいました。キリスト者は誰でも、神の子となり、そして、神の子供としてのあらゆる特権と恵みを自由に頂きました。

 

しかし、神の豊かな祝福をもう既に頂いた私たちはどうして自分の体を神に生ける生け贄として捧げる必要か。ただ自由に祝福を頂くのは十分ではないでしょうか。しかし、贖われた私たちは神の子になり、その身分に相応しく歩むべきであります。つまり、主イエス・キリストが教えられた生き方を自分のものにする事です。すなわち、私たちの為の神の愛に応えるように神と隣人に仕え、愛するべきです。神によって恵まれましたので、私たちは周りの者に恵みになりたいのです。私たちはアブラハムのように恵みになる為に恵まれました。ですからキリスト者は喜びを持って「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げます。」と言うのは、神によって用いられる時が私たちの最高の喜びになるのです。

 

【私たちの体を捧げる】

私たちは自分の体を神に生け贄として捧げますが、使徒パウロは何故ここにわざわざ「体」と書いたのでしょうか。自分の思いと心を捧げたら十分ではないでしょうか。思いと心を主に捧げる必要がありますけれどもそれだけは不十分です。

 

実は、神は私たちの体を用いてこの世で御自分の働きをなさいたいのです。思いと心は大事ですが、その事が体に繋がらなかったら、あんまり益になりません。キリスト者の体は主の道具になります。キリストに仕えるのは、この手と足で仕えます。御言葉を読むとこの目で読みます。隣人に主イエス・キリストの福音を分ち合うのなら、この口で分ち合います。

 

【破壊されたキリスト像】

第二次世界大戦直後、ドイツ人の青年ボランティア団がロンドンへ行って、ドイツの空爆で破壊された大聖堂の再建を手伝いました。与えられた仕事の中で大理石で作られたイエス・キリストの像の修復はもっとも難しかったです。像は数え切れない程のこなごなになりましたので、大変な作業でした。 像の写真を見るとイエス様は立って、手を伸ばしました。そして、碑文で主のこの御言葉が書いてありました:「私の元に来なさい」。

 

【手だけは修復できなかった】

ボランティア達は一生懸命に像のかけらを探してやっと修復を済ませました。しかし、一つの問題がありました。キリストの伸ばした両手がなかったのです。手があまり激しく壊されたので修復が無理でした。ですから、 像は手なしで腕だけが伸ばされていました。

 

判断が必要でした。それは新しい手を作るか、それとも、そのまま手なしの状態を置くか。やっと判断が出来ました。現在ロンドンへ行くとその像を見れます。イエス・キリストの像はそのまま手なしですが、碑文が変わります。今こう書いてあります。「主イエスは私たちの手しか持っていません。」

 

その通りです。イエス・キリストはこの世にいらっしゃった間、私たちが持つ同じような手と足で人に仕えました。しかし現在は、私たちの手と足を用いてこの世で御自分の働きを続けておられます。その故に、私たちは自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げます。

 

【ローマの信徒への手紙12章2節】

今日与えられた御言葉の二節にこう記されています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになりなさい。」

 

【この世に生きる私たち】

日々の生活に於いて、自分の体を生ける生け贄として神に捧げる事は優しい事ではありません。全ての事に於いて神を喜ばせる事も朝飯前のことでもありません。

 

【この世に倣って生きるなら】

その一つの理由は、キリスト者でありながら、私たちはこの世に暮らしています。そして、この世の人々の目標は決してキリストに仕え、神を喜ばせる事ではありません。言うまでもなく、この世の人々は自分の体を神に生きる生け贄として捧げるつもりではないのです。ですから、この世にいるキリスト者は洗濯機の回転脱水機の中に生きているようです。つまり、この世は常に私たちからキリストの香りとクリスチャンの考え方と生き方を取り除こうとします。そして、その結果、私たちは廻りの者と殆ど同じようになってしまいます。

 

と言うのは、私たちはイエス・キリストが教えられた生き方の代わりに、この世に倣って生きるのです。注意しないと、この世の価値観は私たちの価値観になり、周りの人々の行動が私たちにも当然になります。そして、ついに私たちも神が存在していないように生きてしまいます。

 

【この世に倣うな】

ですから私たちキリスト者はこの世に倣ってはなりませんと教えられています。この世が自己中心に動いているかのような行動と何が何でも物質的な考え方に私たちは抵抗しなければなりません。

 

 

初めから神は御自分の民に周りの者と違った生き方を勧めました。レビ記に神の言葉がこう記されています。「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従がって歩みなさい。わたしはなたたちの神、主である」とレビ記18章3−4節に書いてあります。

 

さらに、主イエスの教えもこの世の常識と考え方を反対しました。マタイによる福音書5章38−39節にこの主の言葉が記されています。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

と書いてあります。 私たちはこの世に倣ってはならないと教えられています。その代わりに、「何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになりなさい」と書いてあります。

 

【ただ神の御心に従う】

ここで使徒パウロは神の御心に従う重要性を強調します。私たちをお造りになった、唯一の愛する神のみは人間の救いと祝福の道を提供する事が出来ます。それは何よりも御心に従って生きるのです。その御心は善いです。その御心は神に喜ばれます。そして、更に、その御心は完全であります。私たちは神の助けで何よりも御心に従おうとしたら、この世に倣う恐れがありません。

 

愛する兄弟姉妹、

神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになりなさい。」(おわり)

 

 

2011年02月27日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/531