「主は羊飼い」ウイリアム・モーア2011.2.20

聖書:詩編23篇1−6

 

【私には何も欠ける事がない】

「わたしには何も欠ける事がない。」それは詩編第23編に於けるダビデ王の素晴らしい告白です。自分の長い人生を振り返って見ると、「わたしには何も欠ける事がない」と言う事が出来ました。

 

つまり、自分の経験では、生涯、全ての必要な事が備えられたのです。乏しい事が全然ありませんでした。私たちも自分自身について同じような告白が出来るでしょうか。自分の生活について何も欠ける事がないと言えるのでしょうか。

 

恐らく私たちはダビデ王の告白を聞くと羨(うらや)ましくなります。と言うのは、自分自身の状態について考えますと、なかなか正直に、「わたしには何も欠ける事がない」と言えません。「健康さえ満足だったら何でも出来る。」「人間関係がもう少し上手な人であったら、何でも旨くいくのに。」「お金がもう少しあれば、どんなに助かるか。」「コネがあったら子供は良い就職が出来たのに。」「頭が回らない。兄のように賢かったら、もっと成功したのに。」皆さん、心当たりがありますか。

 

本来の人間の状態だと思いますが、私たちは自分の足りない事をよく考えて、いつも持ってない、あるいは不十分な事を欲しがっています。小さい時には、おもちゃや好きな食べ物ぐらいで、割合に簡単な要求でしたが、青年と大人になると、様々な事、色々な物が足りないと言う気持ちでいっぱいになるのは普通だと見えます。

 

ダビデ王の告白、「わたしには何も欠ける事がない」は到達出来ない夢のような状態だと思われます。「いつかそう言う気持ちになったら、大変有り難いのですが、今はちょっと難しい」と思う人が数え切れません。

 

ダビデ王はどうしてそういう告白が出来ましたか。恐らく、イスラエルの国王だった為、彼は「わたしには何も欠ける事がない」と言えたのでしょうか。確かにダビデはイスラエルの王になってから、物質的に豊かになりました。国の一番良い物はエルサレムの宮殿に豊かに入りました。しかし、ダビデ王は物質的に豊かになっても、様々な問題と悲劇にぶつかりました。聖書にはダビデの生涯のストーリーが全部記されています。

 

【ダビデの試練】

覚えていると思いますが、ダビデは軍人ウリヤの妻バド•シェバを欲しがった為、彼女を自分の妻にするため、ウリヤを戦死させてしまいました。

 

そして、バド•シェバが生んだダビデの赤ちゃんが病気になって、亡くなりました。どんなに辛かったでしょう。自分の罪の為に、最愛の息子の命が取られました。

また、ダビデの他の子供たちには、色々な問題がありました。息子アムノンが異母姉妹タマルを暴行して、彼女の兄アブサロムが復讐して、アムノンを殺して外国へ避難してしまいました。

 

更に、アブサロムは自分の父親に代わって、イスラエルの王になりたかったので、反逆を起こし、ダビデを殺そうとしました。しかし、その戦いにアブサロム自身が殺され、ダビデは激しく嘆きました。

 

ダビデは又様々な事があって、決して全ての事がうまく行った生涯を送りませんでした。国王になっても、悲劇と闘争が常にありました。しかし、熟年になって、自分の全生涯を振り返ってて見ると、「わたしには何も欠ける事がない」と正直に言える事が出来ました。

 

愛する兄弟姉妹、いったいどうしてそう言う告白が出来たのでしょうか。やはり、詩編第23篇に記されているように、「主は羊飼い、わたしには何も欠ける事がない」と心から告白出来ました。つまり、神様はダビデ王に対して羊飼いのような役割を果たして下さいましたので、色んな大変な事があっても、「何も欠ける事がない」と言えたのです。やはり、自分の力の為ではなく、寧ろ、神のお蔭でその素晴らしい告白が出来ました。

 

【羊飼いダビデ】

ダビデは王室に生まれたのではなく、極普通の家庭の末っ子で生まれました。そして、子供と青年の頃、家族の羊の番をしました。一人で寂しい野原で羊の世話をしましたから、羊と羊飼いの事がよく分かりました。

 

【羊の性質】

実は、動物の中でも羊はそんなに賢くはありません。割合に単純な家畜で羊飼いの世話を常に必要としています。自分の身はライオンや狼から守れないし、よく迷うほうからです。更に、自分で餌と水を探せないから、命の全ての事を羊飼いに頼らなければなりません。その故に羊飼いがいなくなると羊の命さえも危なくなります。

 

そう言う羊飼いの体験があったダビデ王は熟年になって、自分の生涯を振り返って見ると、こう考えました。「ああ、なるほど。羊飼いが羊の世話をするように、神様は私を見守って大事にして下さいました。小さい時から主は私と共にいて支えたのです。色々な辛く悲しい事があったのですが、神様は側にいらっしゃって、導き、助けて下さいました。近くにおられる主の御臨在がなければ私は駄目になってしまったと思います。主は羊飼いのような神様ですから、わたしには実際に何も欠ける事がなかったのです。」

 

今日与えられた御言葉、詩編第23篇はダビデに対して神の御恵みを語っています。つまり、彼は欠ける事がないと言う理由を説明して、信仰の体験と神の祝福について証を立てます。ダビデは自分の生涯に於いて神の大きな恵みと存在を覚えると、ただ黙ってはいられませんでした。その素晴らしい事を皆に、私たちにも知らせたかったのです。

 

【ダビデの受けた恵み】

ダビデは具体的に何と言う恵みを神様から受けたのでしょうか。それを詳しく学びましょう。

 

2節から見ますとこう記されています。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」砂漠の気候のイスラエルには青草の原は珍しい物です。普段雨があまり降らないので羊に与えられるのはあまり美味しくない茶色の草ばかりです。しかし雨が降ると、枯れた草が瞬間的に緑になり、羊は大喜びします。さらに、羊は美味しい水を一杯飲めるようになったら、一番幸せだと思います。羊飼いは群れを久しぶりにそのような所に連れてくると、羊は生き返るような気持ちです。

 

【主は私の羊飼い】

ダビデは辛い経験が沢山あっても、いつも主がその砂漠から青草の原へ導き、彼を守って、ついに魂を生き返らせて下さいました。「考えて見ますと、私の経験は羊の経験に似たようです」とダビデは告白しました。「どんな事があっても、神様は遂に希望と喜びを授け、青年の時に飼っていた羊のように私は非常に恵まれています。主は私の羊飼いなので、わたしには何も欠ける事がない」とダビデは告白しました。

 

私たちもそのような経験があると思います。辛い事があっても主が私の魂を新たに生き返らせた体験があるでしょう。実際に神がずっとその砂漠の旅を通して共にいて、そして、休みと新しい生きる希望と喜びを頂いたダビデと同じように、私たちも「主は羊飼い、わたしには何も欠ける事がない」と言えます。

 

【主は私を正しい道に導かれる】

次はダビデがこう告白しました。「主は御名にふさわしく私を正しい道に導かれる。」羊は羊飼いの物ですから良い道を探し、上手に案内するのは当然です。羊飼いにとって自分の羊を無くす事は一番心配です。羊を危ない所に連れていくと、害があるので、いつも注意深いです。そして、自分の羊が迷ったり、怪我したりすると、羊飼いは面目を失う為、自分の評判を守るように羊飼いは命を懸けて群れを守ります。

 

【御名にふさわしく】

私たちもダビデと同様に神様の物ですから主は私たちを正しい道へ導かれます。つまり、御自分の名前にふさわしく導いて下さいます。御自分の物なので私たちはどのような人間になるか、どのような生き方をしているのかは神にとってとっても大切です。

 

【ダビデの悔改め】

ダビデの経験ですが、バド•シェバの主人の死を起こした時、神が正しい道に帰らせる為に試練を与えたのです。辛いですが、ダビデはその試練を素直に受けて正しい道に戻りました。

 

勿論、試練を通してだけではなく、色々な方法でも主は私たちを導いて下さいます。御言葉と聖霊を通して私たちを悟らせ、働いて下さいます。特にイエス・キリストの教えを実行すると、きっと正しい道に歩みます。そして、神によってその正しい道に導かれると私たちも何も欠ける事がありません。」

 

【死の蔭の谷を行くときも】

4節を見ますとこう書いてあります。「死の蔭の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

 

【汝の鞭、汝の杖が力づける】

もし羊飼いが羊の側にいるなら、いくら恐ろしい所へ行っても羊は恐れません。なぜなら、羊飼いを信じて、その力の体験があるので、どこへ連れられても平気で進む事が出来ます。ダビデは青年の時、自分の群れを守る為に鞭でライオンや熊を追い払いました。ですから羊はただその鞭を見て、羊飼いの力を覚え安心しました。

 

【主が共におられる体験】

ダビデは自分の生涯に於いて色々な大変な事がありました。敵の故に死に直面した事もあったのです。しかし、その事さえ主がともにいて下さる確信がありました。そして、その確信の理由はやはり主が以前にいつも自分を守って下さったからです。つまり、神様が近くにいらっしゃる御臨在と見守りを自分の体験で分かりました。そして、自分の為に現している神様の御業を考えるだけで力づきました。主が共にいて、力を与えて下さったから、ダビデは「わたしには何も欠ける事がない」と告白しました。

 

私たちは悲しい時、弱い時、危機の時、病気の時も、ダビデのように全能の神の偉大さ、その愛と力を覚える事が出来ます。以前に見守って下さったから、変わらぬ主が現在も、将来にも見守り続けて下さいます。その同じ確信を持って私たちも「わたしには何も欠ける事がない」と心から言えます。

 

【わが杯は溢るるなり】

5節に続けてこう記されています。「私を苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる。私の頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」この5節でダビデの詩の譬えが変わります。ここまでは神様が羊飼いのようですが、ここから主はお客さんに対する主人のようになります。ダビデの経験では主は寛大な主人のような神です。自分の為に晩餐の立派な食卓を準備して、御馳走を振舞って下さいます。そして、頭に香油を注ぎます。その時代の習慣ですが、愛と敬意を現す為に主人が客さんの髪の毛に香水を付けたのです。そして、香水をつけるだけでなく、主人、すなわち愛する神はダビデの杯を溢れさせて下さいました。ダビデの経験で主は非常にお持て成しの良い方のようです。恵みを次々に豊かに神の御手から頂きました。そして、その恵みを受けたのは「苦しめる者の前」なのです。すなわち、苦しみの中にいても、敵に直面する時も、神の豊かなめぐみを認める事が出来ました。普通は苦しい時、その苦しみだけを考え、他の事は全部忘れてしまいます。しかし、ダビデは嫌(いや)な時も、困っている時にも、くよくよしないで、寧ろ、主の恵みを覚えて感謝しました。だからこそ、「わたしには何も欠ける事がない」と言えました。

 

【命ある限り】

ダビデはこのように詩編第23編を閉じます。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるでしょう。」神の豊かな恵みを覚えたダビデは心配せずに、積極的に前に進む事が出来ました。もちろん私たちと同じように将来にどんな事があるかは誰も分かりません。しかし、一つの確信があったのです。それは自分に対して神の限りのない恵みです。ダビデはその恵みと慈しみがただ来るのではなく、その恵みと慈しみは自分を追い掛けて下さると信じたのです。つまり、神の恵みと慈しみはダビデを探しに来る程強いものです。そして、その恵みの中で一番貴重なのはやはり神様の御臨在です。

 

主の家に帰って、すなわち、主との交わりを持つのは最も幸いな事です。神の恵みはダビデをいつも追い掛けて下さるから「わたしには何も欠ける事がない」と心から告白しました。

 

【ダビデに勝る恵み】

ダビデの信仰は本当に立派なものでしたね。そのような不動な信仰があれば良いなと思う望みが私たちの中にも必要と思います。しかし、よく考えて見ると、ダビデに比べても私たちが頂いた恵みは遥かに豊かな物です。私たちには良い羊飼いである主イエスは肉体をとって、神の大きな愛をはっきりと現して下さいました。その良い羊飼いがいらっしゃったのは、羊が命を豊かに受ける為です。そして、その良い羊飼いは羊の為に命を捨てて下さいました。私たちが受けた恵みはダビデが想像出来ない程でした。彼は私たちが見たその救いを経験したら、どんなに喜んだ事でしょう。私たちと一緒にこのような告白をしたのでしょう。「主イエス・キリストは良い羊飼い「わたしには何も欠ける事がない。」

「わたしには何も欠ける事がない。」(おわり)  

 

 

 

 

 

2011年02月20日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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