2011年2月

「生ける生け贄」ウイリアム・モーア

 

聖書;ローマの信徒への手紙12章1−2

 

【新大久保駅での尊い犠牲】

丁度十年程前の出来事ですが、皆さんも覚えていると思います。それは東京の山手線の新大久保駅で、飲み過ぎの男の人が線路に落ちてしまい、ホームに上がれませんでした。その事を見たカメラマンである関根四郎さんと韓国人の留学生イ・スヒョンさんは直ぐにホームから線路に飛んで、男の人を助けに行きました。その二人は一生懸命にどうする事も出来ない男の人を安全にホームまで持ち上げようとしましたが、その瞬間、駅に入ってきた電車は止まる事が出来なくて三人をはねて即死でした。

 

その事件は全国ニュースの一面記事になり、赤の他人を助けに行った二人の方が英雄になりました。森首相も葬儀に出席し、彼等の勇気と献身を高く褒めました。多くの人々はその素晴らしい模範によって感動され、記念碑を建てる為に献金しました。また、その事件を覚える為に日韓共同の映画が作られました。更に、この間も事件10年を記念して、立派な式が行われ、コンサートもありました。

 

二人の英雄は自分の事を忘れ、隣人の命を救う為に命を非常に危険なリスクにさらして、結局、その危機で死に、自分の命を捨てました。当然、私たちはお二人の献身と勇気を畏れ敬います。

 

2011年02月27日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「主は羊飼い」ウイリアム・モーア2011.2.20

聖書:詩編23篇1−6

 

【私には何も欠ける事がない】

「わたしには何も欠ける事がない。」それは詩編第23編に於けるダビデ王の素晴らしい告白です。自分の長い人生を振り返って見ると、「わたしには何も欠ける事がない」と言う事が出来ました。

 

つまり、自分の経験では、生涯、全ての必要な事が備えられたのです。乏しい事が全然ありませんでした。私たちも自分自身について同じような告白が出来るでしょうか。自分の生活について何も欠ける事がないと言えるのでしょうか。

 

恐らく私たちはダビデ王の告白を聞くと羨(うらや)ましくなります。と言うのは、自分自身の状態について考えますと、なかなか正直に、「わたしには何も欠ける事がない」と言えません。「健康さえ満足だったら何でも出来る。」「人間関係がもう少し上手な人であったら、何でも旨くいくのに。」「お金がもう少しあれば、どんなに助かるか。」「コネがあったら子供は良い就職が出来たのに。」「頭が回らない。兄のように賢かったら、もっと成功したのに。」皆さん、心当たりがありますか。

 

本来の人間の状態だと思いますが、私たちは自分の足りない事をよく考えて、いつも持ってない、あるいは不十分な事を欲しがっています。小さい時には、おもちゃや好きな食べ物ぐらいで、割合に簡単な要求でしたが、青年と大人になると、様々な事、色々な物が足りないと言う気持ちでいっぱいになるのは普通だと見えます。

 

ダビデ王の告白、「わたしには何も欠ける事がない」は到達出来ない夢のような状態だと思われます。「いつかそう言う気持ちになったら、大変有り難いのですが、今はちょっと難しい」と思う人が数え切れません。

 

ダビデ王はどうしてそういう告白が出来ましたか。恐らく、イスラエルの国王だった為、彼は「わたしには何も欠ける事がない」と言えたのでしょうか。確かにダビデはイスラエルの王になってから、物質的に豊かになりました。国の一番良い物はエルサレムの宮殿に豊かに入りました。しかし、ダビデ王は物質的に豊かになっても、様々な問題と悲劇にぶつかりました。聖書にはダビデの生涯のストーリーが全部記されています。

 

2011年02月20日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

「主の晩餐:記念と応答」ウイリアム・モーア

聖書;ルカによる福音書22章14~20

 

【聖餐式の制定】

恐らく皆さんも、主イエス・キリストがどうして聖餐式と言う礼典を制定されたかについて思い巡らしたことがあるかも知れません。

 

 

【聖餐式への悪意・偏見】

 

実際、キリスト教の歴史を振り返って見ると、聖餐式は未信者の誤解を招く事がありました。とんでもない告発ですが、特に初代教会は聖餐式に人の肉を食べ、人の血を実際に飲むという中傷によく直面しました。ローマ帝国の当局とユダヤ教の指導者達はその偽りを用いて教会を迫害しました。

 

また、ある人は他の理由で聖餐式を理解できません。彼等は厳かな儀式の際、飲食する事は極めて適切ではないと思って、聖餐式に躓きます。特に、霊的な儀式の環境で食べる事と飲む事は相応しくはないと思い込み、主イエスはもっと威厳のある礼典を設定すべきだと判断して、違和感を覚えてしまいます

2011年02月13日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「コストを考慮すること」ウイリアム・モーア

聖書:ルカによる福音書14章25−33

 

【ルカ福音書14章25−26】

恐らく、今日与えられた御言葉は、イエス・キリストの全体の教えの中の最も厳しいお話ではないかと思います。特に聖句の初めの所を皮相的に聞けば、消化し難くて、躓きの石と思われる可能性が十分あります。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。』」(ルカによる福音書14章25−26)

 

2011年02月06日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書