「シメオンの賛美」ウイリアム・モーア2011.1.9
聖書:ルカによる福音書2章22−35
【隠された30年】
新約聖書を読みますと、一つの事が直ぐに気づきます。それは聖書には主イエス・キリストの幼ない頃と青年の時の事についてあまり記されていません。聖書はイエス様の御降誕の事柄について結構詳しく教えます。最近クリスマスを祝った私たちは、今一度、主イエスの奇跡的誕生とそれに関係する素晴らしい出来事を記念しました。また、聖書には主イエスの成人としての公的のお働きと出来事については沢山記されています。しかし、誕生から成人になった30年間については、殆ど何も書かれてありません。ある神学者はその時を「ナザレでの隠れた時代」と呼んで、その表題で本を書きました。
【生後6週間目・長子奉献】
実は、今日の御言葉の個所はその隠れた時代の一つの事件です。主イエスが6週間目になって、両親のヨセフとマリアによってエルサレムの神殿へ連れられました。それは、ユダヤ人の掟に従って長子の赤ちゃんイエスを神に捧げる為でした。 全てのものは元々神のものである事を人々に悟らせる為、この儀式があったのです。長子を神に献げましたけれども、神殿で生け贄を捧げると両親はその子を贖う事が出来ました。同時に聖家族は他の儀式も行いました。それはイエスの出産後の母マリアの清めです。
【ご計画】
儀式を行う為にマリアとヨセフと幼子イエスが神殿へ参りましたが、神様はもっと大きな目的があったのです。と言うのは、聖家族は神殿で重要な出会がありました。しかし、その出会いは決して偶然ではなかったのです。神は聖家族とその人をわざわざ出合わせて下さいました。何故なら、その出会いを通して神は主イエスの存在と役割を公に啓示されたのです。
【老人シメオン】
マリアとヨセフと赤ちゃんイエスは神殿で儀式を行った時、シメオンと言う老人が大喜びで近寄って来ました。今日与えられた個所に記されていますが、シメオンは都エルサレムに住んでいて、正しい人で信仰があつく、主の聖霊が彼にとどまっていました。聖家族にとってシメオンは赤の他人でしたが、シメオンは彼等を長く待っていました。実は、シメオンは長い間その出会いを期待していたのです。彼は、「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と記されています。さらに、聖霊は高齢のシメオンに、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と約束したのです。
【イスラエルが慰められる】
シメオンは、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいましたが、それはどう言う意味でしょうか。実は、その時代、シメオンの国イスラエルとその住民の状態はあんまり良くありませんでした。イスラエルはローマ帝国の植民地になってしまい、国を裏切ったローマの協力者、残酷なヘロデ王の政権で色んな面で苦しめられました。経済的と政治的悩みが山程でした。その上、それは特に霊的に難しい時代でした。長い間、預言者を通して神からのメセージがなかったのです。数百年前に主が救い主を約束されましたが、その方はなかなか現れませんでした。本当にいらっしゃるのなら、このもっとも難しい時代こそ来るべきだと思った多くのユダヤ人は絶望の渕にいました。しかし、シメオンは神の約束を徹底的に信じ、根気よく救い主を切に待ち望んでいました。そして、神はその信仰を認め、シメオンにあなたは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていました。
【慰める者】
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。彼は長く苦しめられた民は何よりも神からの慰めが必要であると信じたのです。その当時、期待された救い主の一つの名前は「慰める者」でした。恐らくその理由はイザヤ書40章1−2節に記された預言でした。「慰めよ、私の民を慰めようと、あなた達の神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼び掛けよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた、と。」
神に頼り、信仰を持ったシメオンのようなイスラエル人は慰めて下さる救い主に何よりも希望を持って待っていました。
【慰めを求める】
大昔のイスラエル人だけではなく、現在に住む全人類、私たち一人一人を含めて、慰めを求めています。寂しさや、不安や、空しさや、不満や、絶望などと争っている者が数えきれません。慰めを得る為に探究しています。しかし、そのニーズを満たすのに、多くの場合、間違えたところと間違えたものを掴んで、ついにもっと惨めになってしまいます。慰めてくれないもの、心を満たしてくれないものに頼ると、当然そう言う状態に至るのです。
【真の慰め・万民の救い】
シメオンは真の慰めをもたらす救い主を待って、その慰めは彼を欺くことがありませんでした。 シメオンは丁度聖家族が神殿にいらっしゃる時、 聖霊によって導かれ、彼等を迎えに行きました。神殿の境内に入って来た時、不思議にシメオンは大勢の中のマリアとヨセフと幼子イエスがすぐに分かりました。そして、喜びと讃美で満たされたシメオンは幼子を両親から取って、腕に抱き、神を讃えて言われました。「主よ、いまこそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の為に整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
シメオンは無上の喜びを持って救い主の為に神様を賛美しました。そして、聖霊の導きを通して彼はイエスの本当の身元と使命を宣言されました。 その讃美を29節から詳しく見てみましょう。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とシメオンが心から神様に祈りました。
シメオンは長い間約束された神からの救い主を待ち望んで、祈りました。そして、主が遣わす救い主に会うまではシメオンは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていました。高齢のシメオンはその希望によって生かされ、何よりも救い主に会う事を楽しみに待っていました。そして、その最高の希望が神によって成就されると、喜んで天国に行く事が出来ました。
【真の解放】
実は、原文を見ると、この個所に「僕を安らかに去らせて下さいます」と翻訳された表現は、「 僕を平和の内に解放して下さいます」となります。と言うのは、シメオンは全世界の救い主に出会うと、喜んで天に召されます。 死を通して恐れずに父なる神の永遠の家に行く事が出来ました。ですから、シメオンにとってそれは解放でありました。
私たちキリスト者も同様に言えます。主イエス・キリストに出会った私達も恐れずに死を直面出来ます。主イエスはこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25−26)
すなわち私たちはその主の約束を信じ、使徒パウロのようにこう言えます。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリントの信徒への手紙一15章55)
さらに、またパウロのように、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と心から信じます。神によって天に召されると、私たちもシメオンのように喜びと希望を持って、「この僕を安らかにさらせて下さい」と言えます。
続けて、シメオンは31節にこう言いました。「これは万民のために整(ととの)えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉(ほま)れです。」
【選民イスラエル】
イスラエルは神によって選ばれた御自分の特別な民です。そして、そこには大きな使命がありました。と言うのは、主はアブラハムと言うイスラエルの祖先を呼び出した時、彼にこう言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記11章1−3)
【異邦人を照らす光】
残念ながら、長年に渡ってイスラエルは神の特別な祝福を強調しながらでも、その目的と使命を忘れてしまいました。つまり、「 地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」事は忘れました。神の祝福は自分の民族のみの為のものと思い違いしました。しかし、シメオンは神の御言葉をしっかり覚え、主の救いと祝福は「万民の為、異邦人を照らす啓示の光」であると分かりました。その意味は、イエス・キリストの救いは全人類の為です。イエス・キリストはイスラエルの誉れですが、主はただユダヤ人の光だけではなく、世の光であります。
愛する兄弟姉妹、この御言葉によりますと、神の御子イエス・キリストは「万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光」です。主イエスは限られた民族の救いや、ただある人々の真の光ではありません。主は全人類の唯一の救い主です。ですから、主イエスはあなたと私の唯一の救い主であります。
【主を信じない者】
言うまでもなく、マリアとヨセフは自分の子イエスについて、シメオンの言葉を聞くと驚きました。しかし、その上にシメオンはまた驚くべき話があったのです。34節の所を見て下さい。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身を剣で心を刺し貫(つらぬ)かれます、多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」
その意味は、イエス・キリストを信じる者は神の豊かな祝福と恵みを受けるならば、当然、その自由に提供された賜物を拒絶(きょぜつ)する人々は主の恵みを受けられなくなります。神のプレゼントがいらないと思う者は勿論、自分の判断でそれを手放します。
【十字架の贖い死】
さらに、この御言葉によりますと、神の救いは莫大なコストがありました。しかしその恵みを受けた私たちはそのコストを払いませんでした。主イエスは私たちに代わって、罪の支払うべき罰を十字架で払って下さいました。人間の反抗の故にイエス・キリストが十字架で死なれました。しかし、神はその最も罪深い行為を持って、素晴らしい祝福、私たちの永遠の救いをもたらして下さいました。
【シメオンに倣う】
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