「見捨てられたと思った時」ウイリアム・モーア2011.1.23
聖書:詩編22篇2−32
【神の沈黙】
皆さん、神によって見捨てられた気持ちになった事がありますか。大変困った時、必死に神に祈りましたが、答えが帰って来るどころか、何も変わりがなく、沈黙しか聞こえなかった事がありましたか。自分の祈願が無駄だと思い、神の御臨在が自分から遠ざかっていった気持ちのした経験がありますか。
【重病の祖母】
私は12歳の頃、初めてそのような経験をしました。祖母が急に病気になり、病院へ運ばれました。治療があまりうまくいかなかった為、命が危ない状態になりました。ですから離れて住んでいたうちの家族は急いで祖母の病院へ訪ねました。病室に入ると幼い私はショックを受けました。以前はとても元気で、活発なお祖母さんが意識を失い、重体の状態でした。そして、一生懸命に息を吸おうしていましたが、祖母の努力はあんまり効果がなかったです。その大変な光景を見た私は何よりもお祖母さんを助けたい気持ちがあったのですが、何も出来なかった為、とても無力なフィーリングでした。そして、私は祈りました。「神様、病気になったお祖母さんを助けて下さい。息が出来ないから命が危ない。あなたは神様ですから、お祖母さんを治す事が出来る。お願いだから元気なお祖母さんを私に返して下さい」と心から祈りました。
【祈りは聞かれなかった】
その夜、お祖母さんは息を引き取られて、天に召されました。私はその悲しい事を聞くとびっくりして、信じられませんでした。「神様、どうしてお祖母さんを治してくれませんでしたか。祈ったのに、どうして聞いてくれなかったのですか。あなたは力があるのに、お祖母さんの為に何もしなかった」と遠慮なく神様を責め、私の正直な気持ちを伝えたのです。
【絶望するとき】
愛する兄弟姉妹、誰でもそのようなときがあると思います。あらゆる面で最善を尽くしたのに、仕事が駄目になり、将来は真っ暗です。そして、神の助けと存在さえも、なかなか見えなくて、絶望的な気持ちが溢れるばかりなのです。
又、家庭内の問題があって、どんな事をしても良くなりません。毎日祈って神の知恵を願い頼みますが、なかなか良くなりません。その重荷は自分を押しつぶし、解決方法が見えません。その時、私たちは、「神様、どうして私を助けに来ませんか。どうして私の切なる祈願を無視し続けるのでしょうか」と言いがちですね。
【ダビデの苦悩と主の沈黙】
今日の御言葉は丁度そのような時の事です。背景が書かれていないが、イスラエルのダビデ王は酷い目に会って、主の助けを祈ったのに、答えが何も帰って来ませんでした。そして、ダビデ王はその主の沈黙を我慢せず、自分の気持ちをこの詩編第22編を通して精一杯表現しました。恐らく、御言葉の全体を探してもこの詩編第22篇よりももっと激しい表現がありません。ダビデは神によって見捨てられたと思って、その寂しく、悔しい気持ちを心から伝えたのです。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」
とダビデが自分の最も深い所から神に叫びました。その気持ちの詳細は分かりませんが、結構大変な事だと思います。言い尽くせない程の苦悩を深く味わい、「霊魂の暗夜」を経験しました。自分の魂がそのことによって襲われ、神との関係が危ないと思ったのです。
何故なら、いくら神の助けを祈っても、答えどころか安心が全く無いのです。その霊的に大変苦しい状態からダビデは自分の苦しみと苦情を全部遠慮なく神に言い告げました。
しかし、それは許された事でしょうか。ちっぽけで、罪深い私たち人間が全能の唯一の神に苦情を言っても良いでしょうか。「なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に聞いて大丈夫ですか。「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」と主に言うべきですか。そのしつこい事が人間の口から出ると、神の怒りを招くのではないでしょうか。
【苦情の祈りも神は許したもう】
愛する兄弟姉妹、決してそうではありません。心の苦痛の祈祷と苦情の祈りさえも神によって許されています。愛する神はそのような激しい祈りも聞いて下さいます。
【ダビデの苦情】
実は、この詩編第22編に三回程ダビデは自分の正直な気持ちと苦情を神に浴びせかけました。そして三度も彼は苦情を言ってから主の恵みを覚えました。谷へ落ちてから山のいただきまで登った彼は気持ちがよく変わりました。それはよくある私たち人間の状態ではないでしょうか。ありのままの私たちを主は寛大に受け入れて下さいます。
【ありのままを神に】
私たちの神は大きい、愛である偉大な神ですので、人間の苦情を十分扱う事が出来ます。ですから、私たちはありのままの気持ちを神に打ち明けるべきであります。主はもう既に私たちの気持ちを完全に知っておられるので、祈りを編集したり省略する必要がありません。主は私たちの正直な気持ちを全部聞きたいのです。ダビデのように、酷い目に会った時、絶望する気持ちになる時も、主に叫んでも良いのです。神が聞くまで耐えず祈る必要があります。
【先祖に与えられた恵み】
しかしながら、ダビデは祈りに苦情ばかりを主に言いませんでした。彼は苦情と共に、神が過去に授けて下さった経験と恵みを思い出しました。4節からダビデは自分の先祖に与えられた主の祝福とお守りを覚えました。
「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの讃美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られた事はない。」(詩編22篇4−6)
【アブラハムとの約束】
主は先祖アブラハムに大きな約束をしました。それはイスラエルの民は大きな国になり、イスラエルを通して世の全ての民族が祝福されます。さらに、イスラエルはエジプトで奴隷の民になっても、神は御自分の力を持って彼らをエジプトから救い出し、約束の地カナンまで導きました。色んな危機があって、イスラエルは神に対して多くの罪を犯したのに、主は彼等を忠実に扱い、御自分の約束をしっかり守りました。大変な時の中のダビデは以前にあった神の恵みを思い出し、強められ、絶望に負けませんでした。
【ダビデに与えられた主の恵み】
更に10節から彼はまた主の恵みを思い起こしました。「私を母の胎から取り出し、その乳房にゆだねて下さったのはあなたです。母が私をみごもった時から私はあなたにすがってきました。母の胎にある時から、あなたは私の神。」(詩編22篇10−11)
【神のご計画】
ダビデは自分の生まれと存在はただ偶然ではないと心から信じたのです。彼の命は主によって計画され、母の胎内の時から守られて来ました。ですから、難しく、大変な時期があっても、ダビデの為の主の良い御計画が変わらず、もう一度主の豊かな恵みを経験出来るという確信が強くなりました。つまり、失望に落ちそうな時、彼は神の約束と恵みを覚え、励まされました。
【神の恵みを思い返す】
時期が悪い時、私たちもダビデのように以前にあった神の恵みと忠実な支えを思い起こすべきです。思い出して下さい。例えば、「あんなにお金で困った時、主は私の祈りに答え、不思議に必要な分を備えて下さいました。」「病気なのに休む事が出来ませんでした。その時、祈りに答え十分な力が与えられました。」そのように思い起こすと、現在と将来にも共にいて下さる主を信じる事が出来、どんな苦難にあっても主の助けで耐えられます。
【試練は信仰を強める】
もう一つの事を覚えて頂きたいです。それは神が難しい時期を用いて私たちの信仰を強めて下さいます。と言うのは、ある場合、主が遠く離れたような気持ちになる程、私たちは神との交わりの中にいて下さる御臨在の必要性が悟らされます。どん底に沈む事によって、主から、生きる為の力と希望の大事さが分かります。多分私たちの群れの中には、試練がなければ、信仰を求めなかった兄弟姉妹もいると思います。
【どん底のダビデ】
どん底に沈んだダビデは7節からこう言いました。「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」
更に、17節にダビデはこう嘆きました。「犬どもが私を取り囲み、さいなむ者がむらがって私を囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられる程になった私の体を彼等はさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22篇17)
【試練を通して強くされる信仰】
ダビデは最低のところまで落ちてしまいました。しかし、主は悪を善に変えて、その経験を通してダビデの信仰を強くさせました。そして、詩編63編に彼は神にこう歌う事が出来ました。「神よ、あなたは私の神。私はあなたを探し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の体は乾ききった大地のようにおとろえ、水のない地のように渇き果てています。今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。」(詩編63篇2−4)
【主イエスの御苦しみ】
愛する兄弟姉妹、間違えなく、私たちはどん底に沈んでも、神は私たちの声を聞いて、御自分の民を助けて、救って下さいます。しかし私たちはどうしてその事が分かりますか。その証拠はどこですか。実は、もう一人のお方が詩編第22篇の言葉を語りました。人間の歴史の最も悪い時、その方は詩編22編の言葉を引用されました。その時、人間の全ての罪がそのお方に焦点されていました。罪の全くない神の御子は十字架に掛かっていた時、何を祈られましたか。その瞬間、主イエス・キリストはこう叫びました。「わたしの神よ、私の神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」主イエスさえも、霊魂の暗夜を経験され、父なる神が御自分から遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いて下さらない体験がありました。
【十字架は勝利】
しかし、実際に神がその声を聞いて三日後に御子イエス・キリストを死から復活させて下さいました。十字架の敗北は最も大きな勝利になり、神はその悪を通して、全人類を祝福されました。間違えなく、父なる神は御独り子の嘆きを聞いて死から蘇らせてくださいました。
愛する兄弟姉妹、その同じ神は私たちの父であります。ですから、どんな事があっても、父なる神は私たちの声をも聞いて、救ってくださいます。私たちはその確かな確信を持って生きたいのです。(おわり)
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