「クリスマスの愛」ウイリアム・モーア
聖書;ヨハネによる福音書1章1−14
【救い主の誕生】
今日、私たちは神の御子イエス・キリストの御降誕を記念する為、ここに集まっています。2010年前にベツレヘムの馬小屋でマリアと言う乙女がこの世の唯一の救い主を出産しました。ですから、歴史上、その出産はこの世での数え切れない程の出産の中で特別意味深く、素晴らしい出来事であります。つまり、永遠の真の神御自身が人間になり私たちと共に宿り、人類の為にたった一つの救いの道を開いて下さいました。今日、私たちはその無比の恵みを覚え、心からお祝いします。
【四福音書】
今朝、与えられた御言葉はヨハネによる福音書の始めです。聖書には四つの福音書があり、その各著者はそれぞれの観点からイエス・キリストの恵みを述べ伝えています。マタイとルカは主イエスの御降誕の事柄から彼等のそれぞれの福音書が始められています。マルコはバプテスマヨハネの事とイエス・キリストの洗礼で自分の福音書を開始しました。
【ヨハネによる福音書】
しかし、ヨハネによる福音書はその出来事のずっと前から始められています。ヨハネによる福音書1章の一節から朗読します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と記されています。
【イエス・キリストは言(ことば)である】
ここでイエス・キリストは「言」と呼ばれています。その意味は神が主イエスを通して御自分の事を人間に現します。
そして、神と御自分の言イエス・キリストは永遠のお方であり、その存在は始めもなければ終わりもない、天地創造の前からあったのです。
【言(ことば)は創造主】
実は、全ての物が言(ことば)によって造られました。この地球だけではなく、宇宙の中の全ての物がイエス・キリストによって創造されました。全ての生き物、あなたと私も、言によって造られ、毎日支えられています。つまり、神の言以外には、何も存在しない訳です。
その言(ことば)は遠くの天国から御自分の傑作である人類をただ観察するのではなく、私たちの状態を見ると、愛の故に憐れんで、人間を救う為に、どうしてもこの世に下りたかったのです。
今日の個所にはその動きがはっきりと見られます。「光は暗闇の中でかがやいている。」(5節)
「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」(9節)
「言は世にあった。」(10節)
「言は、自分の民のところへ来た。」(11節)
「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)と書いてあります。
【言(ことば)は肉となった】
天地万物の創造主は御自分が造られたこの世界に降りました。更に、そのお方は人間の肉体を取って、人間として私たちと共に暮らしました。結局、宇宙の持ち主がこの世に下るとき、馬小屋で貧しい人間の母親から産まれました。全能のイエス・キリストは何も出来ない赤ちゃんになり、人間の世話に頼りました。更に、万物を支え、支配しておられる主はこの世に入ると、多くの人は言を認めなく、彼等は造り主と救い主を十字架に掛けたのです。
【キリストは神の身分でありながら】
使徒パウロはイエス・キリストの謙遜についてこのように述べました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでも従順でした」とフィリピの信徒への手紙2章6−8に記されています。
【主イエスの謙遜】
愛する兄弟姉妹、神なるイエス・キリストはいったいどうしてそこまで御自分を低くしたのでしょうか。実は、それは御自分の愛の故です。私たち人間を祝福する為に、人間の姿でこの世に下りました。そして、その祝福は今日の御言葉の12節に書いてあります。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」る為、この世界に生まれました。神は御自分の傑作、私たち人間との交わりを通して、私たちに最高の祝福を授けたいのです。そして、神は全ての人間との親しい関係を持ちたいので御自分の子となる資格を私たちに与える為に、この世にいらっしゃいました。
【王子の妃選び】
神の動機を理解する為に、デンマークの神学者であったソーレン・キルケゴールはこんなストーリを語りました。
「ある王子が、将来の自分の女王になる、相応しい相手を探そうとしました。そして、ある日、用事で貧しい村を通った時、馬車の窓から美しい乙女を目に留めました。それから、王子は乙女を見る為に出来るだけ毎日その所を通って、ついに彼女にぞっこん惚れてしまいました。しかし、一つの問題があったのです。彼はどういうふうに彼女に求婚するのでしょうか。勿論、命令で結婚する事が出来ましたが、王子は彼女の自由な愛を求めました。そして、強制的に結婚したら、それは不可能になります。また、彼は立派な軍服に着て、王家の素晴らしい馬車で彼女の家へ訪ねて求婚する事も出来ました。しかし、恐らくそうすると彼女はその壮麗さに影響され、王子は乙女の愛を確かめる事が出来なくなります。
【貧しい農夫に】
ですから王子は他の方法を考えました。彼は自分の王家の衣を捨てて、その代わりにお百姓の衣装を着て、名も知られずに宮殿から乙女の村に移り住みました。彼は臣民と共に暮らし、その言葉で喋って、彼等の喜びと悲しみを深く体験しました。そうしますと、乙女は彼を一般の人として惹きつけられ、王子と愛に陥ったのです。
【神が人となって】
イエス・キリストは神の愛を現す為に人間として私たちと共に暮らしました。人間は何よりも人間の事が分かるから、神は御自分を低くして、人となり私たちの全ての経験を味わいました。やはり、大きな愛の故にイエス・キリストは私たちの所にいらして、御自分の交わりを通して恵みと救いを賜りました。
更に、イエス・キリストを通して私たちには全能の唯一の神の性格が啓示されています。主イエスを見ると神の愛と栄光と恵みと真理が悟らされます。
今日の御言葉の14節に記されたように、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」全能の万物の造り主は私たちの為に人間になり、私たちの為に十字架の死までも経験されました。真の神はそのような素晴らしい愛の神です。
その始めのクリスマスに神は人間をありのままで私たちを迎えに来て、私たちの一番必要なニーズに応えて下さいました。
【霊的な死】
罪の故に人間は暗闇の中に歩み、何よりも神の光が必要です。私たちは神と神の道を拒否して、自分勝手に歩みます。そして、その結果はあらゆる苦しみと不義と不満であり、霊的な死に至ります。
【私たちの真のニーズとは?】
考えてみて下さい。もし人類の最も深いニーズはお金であれば、神は銀行家を私たちに送りました。もしその最も大きなニーズは知識であれば、学校の先生を送ったでしょう。同様にもし一番必要な事は知恵であれば、哲学者を私たちに賜ったと思います。もし、楽しみが何よりも必要であれば、エンタテイナーを人類に送ったはずです。
しかし、実際に人類の一番大きなニーズは赦し、つまり、罪の故に神に対する赦しですので、主は私たちに贖い主と救い主を授けて下さいました。イエス・キリストの十字架の死を通して主は罪の故私たちが支払うべき罰を私たちに代わって、全部払って下さったのです。今日の御言葉の12と13節に書かれたように、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
イエス・キリストがもたらした赦しのお陰で私たちは神の贖われた子供になり、永遠にその主の交わりと恵みを受ける事になりました。
愛する兄弟姉妹、それはクリスマスの比べるもののない愛です。神は人間になり、私たちと共に宿り、私たちの一番必要なニーズを御自分の命の値段で備えて下さいました。どうか、私たち皆は悔い改め、イエス・キリストのお名前を心から信じ、神のクリスマスの愛と救いを受け入れるように。そうしますと、今年のクリスマスは真のクリスマスとなり、本当の喜びと光の日になります。愛する兄弟姉妹、クリスマスおめでとうございます!(おわり)
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