「誇る者は主を誇れ」ウイリアム・モーア2010.10.3
聖書;コリントの信徒への手紙一1章26−31
26:兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27:ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29:それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30:神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31:「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
【自慢の新車】
ある男の人が新しい自動車を購入して、その車の良さを同僚に毎日のように誇りました。その新車の加速力や、格好良さや、信頼性などをいつも自慢しました。しかも、車の低燃費も誇り始めましたました。朝、会社に着く度に、その前の日の燃費の数字を嬉しそうに皆に発表しました。
同僚は毎日その自慢話ばかりを聞くと、うんざりして自慢屋にいたずらを企みました。それで同僚の一人が密かに社員駐車場へ行って、毎日自慢屋の車にガソリン数リットルを給油しました。そうしますと、やはり車の燃費が急に上がって、その持ち主はとんでもない数字を発表しました。「昨日、一リットルで60キロ程を走ったよ」 と笑顔で皆に誇りました。いたずらの同僚は当分、毎日、ガソリンの異なった量を彼の車に給油して、燃費はよく変わっても、その持ち主は何も分からなくて続けて自慢しました。端から笑った同僚は更にもっとひどいいたずらを考え出しました。今度は自慢屋さんの車を給油する代わりに、彼等はガソリンをそのタンクから結構な量を抜いてしまいました。そうしますと、燃費が酷く下がり、同僚の物笑いを恐れ、持ち主は自慢を急に止めました。彼は自分の車が分からなくなり、結局燃費も計らなくなりました。
【私たちは何を誇るか】
このように、もしある人は自分の車の良さを何よりも誇りとするのであれば、 ここにいる私達が誇ろうとしたら、何を一番に誇りますか。自分がスポーツファンで、応援するチームを誇りますか。あるいは、自分の子供や孫の成功を自慢しますか。
結婚式に出席して、私は一人の年輩の男の人に初めて会いました。彼は自己紹介をすると、医師になった自分の三人の子供の事を直ぐに誇りました。または、もし有名な先祖があったら、その事を一番に誇りますか。去年、アメリカの教会を巡回した時に、南部のある教会を訪ねました。信者の家に泊ったのですが、その主人は先祖の自慢ばかりしました。何百年前の親戚が地域の有力者だったなどの事に非常にプライドを持って、私の滞在中、繰り替えし言いました。同じように自分の国の文化を何よりも高く評価する者もいます。その独特な文化に大きな誇りを持って、全て他の国よりも優れていると信じ込みます。自分の学歴や、才能や、社会的地位などの事も誇る人がいます。
【『誇る者は主を誇れ』】
愛する兄弟姉妹、もし、「一番誇りとするなら、何を誇りますか」と聞かれると、どう答えられますか。
今日の聖書の個所を読むと、私達はすぐに使徒パウロの答えがわかると思います。31節にこう記されています。「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおり・・・です。」
ここで使徒パウロは預言者エレミヤを引用しました。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るが良い、目覚めて私を知る事を。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事を私は喜ぶ、と主は言われる。」(9章22、23)
【主を誇ることの理由】
預言者と同じように使徒パウロは神を誇りました。神に対して自分のプライドを主張した訳です。今日の御言葉の30節を見ますと、そのおもな理由が記されています。「神によってあなたがたはキリスト•イエスに結ばれ、このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」
神は人間の唯一の救いを信仰によって授けて下さるので、私達は主を誇ります。
【パウロの肉的誇り】
もし使徒パウロは自分の事を自慢したかったならば、沢山の事が言えるでしょう。頭が良いし、一流の教育を受けたし、イエス・キリストに直接出会ったし、また自分のリーダーシップの下に多くの教会を開拓しました。その上、自分が書いた手紙を通して彼はイエス・キリスト以外に、誰よりも初代教会に影響を及しました。パウロは自分自身についてフィリピの信徒への手紙3章4−8にこのように述べました。「肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。誰かほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらの事です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン属の出身で、ヘブライ人の中のへプライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらの事を、キリストの故に損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリスト知る事のあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストの故に、私は全てを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
イエス・キリストとその福音の素晴らしさと比べると、自分の長所をゴミに例えました。いいえ、それはゴミであると使徒パウロは宣言しました。パウロはそれ程神とその御業を大事にして、誇りとしていたのです。
【世の無学な者、身分の卑しい者などを選んで】
そして、今日与えられた御言葉に彼は26節からコリントと言う町のキリスト教会の会員にこう書きました。「兄弟たち、あなたがたが召された時の事を、思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かった訳ではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かった訳でもありません。」
手紙に自分達についてその使徒パウロの描写を読むとコリントの教会の兄弟姉妹達はどう思われたのでしょうか。結局、パウロによりますと、彼等は人間的に見れば、知恵と能力と家柄的に足りなかったのです。結局、彼等は平均以下の人々だと言われました。もし私達はそのように言われたら、馬鹿にされたと思われますね。同じように、コリントの教会の皆さんがパウロを知らなかったら、それは侮辱だと受け取った事でしょう。しかし、パウロによりますと、それは「召されたときの事でした。」つまり、神が彼等を選択した時の状態でした。
けれども、イエス・キリストを信じて以来、神御自身から必要な知恵と能力が与えられ、神の家族に加えられると、家柄は最高だったのです。
【世の無力な者を選ばれた訳】
使徒パウロによりますと、主が人間的に見て、足りない者を選ぶとき大事な目的がありました。それは27節から記されています。「神は知恵ある者に恥をかかせる為、世の無学な者を選び、力あるものに恥をかかせる為、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とする為、世の無に等しい者、身分に卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
と言うのは、御自分の力と愛を現す為に神は世の無学な者や、無力な者や、身分の卑しい者などを選んで下さいます。その者に知恵と力を与え、また御自分の子供として最も高い身分を授けて下さいます。
【神は弱い者を通して】
愛する兄弟姉妹、それは私達には素晴らしい励ましになりますね。神は私達のような人を誰よりも用いたいのです。なぜなら、主は私達を通してこの世に働かれると、その全ての栄光が御自身に帰ります。
その力は元々に神のもとから来るのです。主は私達の弱さにも関わらず私達を用いるのではなく、私達は弱さがあるからこそ、私達を用いたいのです。
逆に、私達は不十分な点を沢山持っているからこそ神は私達のような人を用いられないと思いがちです。力や知恵や富などが限られているので、神の働きはもっと優れている者に適切だと言う気持ちが強いのです。しかし、そのような考え方は誤っていて、神の考えと反対です。実は、神は弱い者を通して大きな働きをなさいます。
【ある中国孤児院宣教師の苦難】
75年前の出来事ですが、グラヂス•アイルワード先生は宣教師として中国で勤めました。その時代の中国は大変混乱になり、同時の内戦と外国の軍の進攻の故に民間人にも非常に危険な時でした。アイルワード先生は孤児院の院長であり、攻めて来る軍の為に避難しなければなりませんでした。しかし、自分に託せられた100人の孤児を置き去りにする事が出来ませんでした。ですから、彼女と一人の助手で険しい山々を避難所まで子供達を誘導しなければなりませんでした。その大変な旅に眠れない夜を過ごし、ついに彼女は失望しました。避難所はまだまだ遠くて、子供達も自分も力が段々抜けてしまった状態でした。その失望の時、ある13歳の女の子がアイルワード先生にモーセとその民がエジプトから逃れた聖書の物語を思い起させました。
その話を聞くとアイルワード先生は、「だって、私はモーセではない」と泣きそうに言いました。そうすると、少女は、「先生は勿論モーセではないけど、神はまだ神です。」アイルワードさんは山を越え、子供達を安全な所まで無事に連れて来ると、神様の力が彼女の弱さを通して現れました。私達はどんなに無力な気持ちであっても、神はまだ神ですから、私達も主の働きの為に用いられます。
【神が人間の弱さを通して働くもう一つの理由】
更に、神は人間の弱さを通して働くのは、もう一つの理由があるのです。それは29節に書いてあります。「それは、だれ一人、神の前で誇る事がないようにする為です。」もし、神の働きの為の力が私達から来たら、誇る理由があるかも知れません。人間の自力で神の為の仕事が出来たら、大した事なので、自分の力を誇る事が出来ます。その反対に、力が神から授けられたら、主の賜物の結果であるから、誇ってはいけません。特別に人間の全ての事を御存知で、私達の心までも見抜く神の前に誇ってはなりません。
【主イエス・キリストのみを誇る】
ですから、私達は主のみを誇ります。主御自身の憐れみと恵み、主から頂いた信仰と力と希望と知恵などを誇るべきです。神の知恵と義と聖と贖いとなった主イエス・キリストを誇ります。「誇る者は主を誇れ」と記された通りです。
詩編第44篇9にこのように書いてあります。「我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます。」そして、同じようにガラテヤの信徒への手紙6章14にこう記されています。「この私には、私達の主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」
【人の誇りは空しい】
この世にいる私達は様々な人から多くの誇りを聞いています。若者から年輩まで、持っている事や、知っている人や、出来る事や、地位などを自慢する傾向が強いです。そして、正直ならば、私達もその誇る事に参加した事があります。実は、そのような誇りはしてはいけない、全く空しいものです。その代わりに、私達は神を誇ります。御言葉に記されたように、「誇る者は主を誇れ」の通りです。神の大きな愛によって、誇る理由が全くない私達を選びました。そして、その大きな憐れみの故に多くの賜物を自由に授けて下さいました。ですから、私達は主のみを誇ります。(おわり)
2010年10月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/515
コメントする