「変化をもたらす福音の力」ウイリアム・モーア2010.9.12
聖書;ガラテヤの信徒への手紙1章11−24
◆パウロが使徒として選ばれた次第
11:兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12:わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13:あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14:また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15:しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16:御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 17:また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18:それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19:ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20:わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
21:その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。22:キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 23:ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、24:わたしのことで神をほめたたえておりました。
【魔法の機械】
結構前のお話ですけれども、ある夫婦が60周年結婚記念日を祝う為に、地方から大都会へ上りました。都会を訪ねたのはその二人には全く始めての経験ですので、高層ビルや交通渋滞や賑やかな通りなどを見ると、あっけに取られました。彼等には一生の旅になりますので、第一級のホテルに予約しました。ご主人がホテル到着の手続きを済ませる間、奥さんはその宮殿のようなゴージャス•ロービを歩き回りました。そして、彼女は間もなくエレベーターの前に来て、戸惑いました。エレベーターの事を聞いた事も見た事も全くなかったので、どう言う機械がさっぱり分かりませんでした。ですから、彼女はエレベーターをじっと見つめて調べました。そのうちにぼろぼろの白髪の男の人がエレベーターに入るとドアが自動的に閉めました。そして、一分ならないうちにその同じドアが急に開けて、素敵な紳士が現れました。その驚くべき奇跡を目撃すると、彼女はエレベーターをうっとり眺めながら、ご主人に大声で呼びました。「お父さん、早く来て。この機械のドアに入って御覧」と思わずに叫びました。
【変化を期待する】
言うまでもなく、エレベーターは人を変化させる力が勿論ありません。あの婦人は間違えて目の前の光景を理解してしまいました。見たものをそのまま思い込みました。私達はそのストーリに於ける婦人を笑いますが、実は、我々人間はそのようなミスをよくします。つまり、私達は自分の人生や生活や自分自身さえも変化させたい心が強いのです。何かをして自分を改善したい気持ちがある訳です。
【改善を期待】
例えば、悪い癖を捨て、もって素敵な人間になりたい。あるいは、自分の恐れと不安を抑え、心の平安を得たいのです。更に、従来どおりのいつもの生活はつまらないと思い、何か自分に変化を起し、もっと刺激的豊かな生活を憧れます。同様に私達は周りの者にも改善を起したいのです。特に、家族の者や近い人を変えたい気持ちがあります。「お父さんがもう少し優しかったら嬉しいわよね。」「お母さんがもう少し静だったら、楽になるわ。」「あなたが遊び過ぎ。今、しっかりして勉強に励んでいたら、将来はもっと良いのに」などと言った事がありますか。直接に言うまでしなくても、誰でもそのような事を思った事があります。
しかしながら、自分自身と周りの者も改善する事はなかなか難しいのです。機械に入り、瞬間的に大きな変化をもたらしたいのですが、そう言う機械がまだないのです。実は、人間に大きな変化をもたらす事は奇跡的な力が必要であります。
【パウロの回心】
今日の御言葉に自分に大きな変化を体験した人物のお話があります。そして、その人物の名前は使徒パウロです。イエス・キリストの力で彼の人生はすっかり変えられ、素晴らしい変形がもたらされました。
【熱心なユダヤ教徒であったパウロ】
今日の個所の13節から朗読します。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と記されています。
【教会迫害のリーダー】
このイエス・キリストに出会う前のパウロの姿は決して大袈裟ではありません。使徒言行緑に、ルカによる福音書を書いた人物が、その当時サウロと言う名前を使ったパウロのキリスト者とキリスト教会に対する迫害を確証しました。サウロはキリスト教会の始めての殉教者ステファノの殺害に参加しました。そして、彼はエルサレムの教会に対する迫害のリーダーでありました。使徒言行録にサウロについてこう記されています。「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」(8:3)
【ダマスコ途上で】
パウロは自分の先祖から受け継いた宗教を守ろうと思い、キリストの信仰を憎んで、それをこの世から消そうとしました。 しかし、愛する神はサウロの為に他の計画がありました。使徒言行緑9章にサウロの劇的回心の次第がこう記されています。「さて、サウロはなおも主の弟子達を脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司の所へ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する為であった。どころが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人達は、声が聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と書いてあります。(1−9)
神がダマスコに住んでいる信者をサウロの所に導いて、言われた通りに彼がサウロの上に自分の手を置くと、サウロの視力が回復し聖霊に満たされました。そしてサウロは洗礼を受け、キリスト者になりました。更に、彼はすぐに主イエスの証人になりました。使徒言行録9章19からこう記されています。「サウロは数日の間、ダマスコの弟子達と一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスの事を述べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。『あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼等を縛り上げ、祭司長達の所へ連行する為ではなかったか。』しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアである事を論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。」(19b−22)
そして、サウロの証があまり力強いので、ダマスコにいるユダヤ人は彼を殺そうとたくらみました。その故に、キリスト者達はパウロとも呼ばれていたサウロの命を守る為に密かにその町から彼を逃れさせました。
【福音は変化をもたらせる力】
パウロはどんなに大きな対照を示したことでしょう。 一番熱心な反キリスト者は数日のうちに一番熱心な伝道者になりました。教会を一生懸命に迫害したパウロはキリストの為に迫害されました。何よりもキリストの福音を憎んだパウロは、その福音に神の唯一の救いと希望を見出しました。それはイエス・キリストとその福音の変化をもたらせる力であります。
【異邦人の使徒パウロ】
パウロの変化と回心は人間の力の結果ではなかったのです。神の力でパウロが変化され素晴らしい証と働きが出来ました。と言うのは、パウロは異邦人への宣教師になり、福音を限られたユダヤ人の社会から全世界へイエス・キリストの救いを述べ伝えました。実は、ある意味では、使徒パウロのお陰で「異邦人」である私達はキリスト者になりました。
更に言いますが、パウロの変化は人間の力によるものではなかったのです。彼自身が誰よりもその事実を認めました。今日の御言葉の15節に彼はこう書き記しました。「私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ」ました。すなわち、主の一方的力と恵みのみの故に、パウロは神の熱心な敵から神の子供と熱心な協力者になりました。他には説明がないです。
私達皆もパウロと同じような告白が出来ると思います。つまり、神の恵みの故に私達は選び出され、信仰が与えられました。罪深い私達は神を求めませんでしたが、逆に神は私達を探し、真の信仰の賜物を授けて下さいました。主イエスはこう言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネによる福音書15:16)
恐らく、神が私達を選んだ時、パウロの場合と違ってそれ程の劇的方法を用いられませんでした。人はそれぞれ違いますので、主は様々な手段を持って私達を選びます。頑固なパウロの場合その特別な方法を用いるのが必要だったかも知れません。しかし、どんな方法を用いても、私達の救いは神の一方的御業であり、人の努力や善の結果ではありません。
その事実は私達にとって大きな力と慰めになります。と言うのは、神が私をわざわざ選んで、貴重な御子の命のコストで私を滅びから救ったので、どんな事があっても主は決して私を捨てる事がありません。主は永遠まで御自分の愛と力によって私を守り、大事にします。
その神の福音はパウロを素晴らしく変化させました。彼はその福音の故に新しくなり、人生の生き甲斐と目的もすっかり変わりました。そして自分の経験でパウロはコリントの信徒への第二の手紙にこう書きました。「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(5:17)
【救いは100%神の恵みである】
パウロ自身が福音の力を体験し、新しく創造された者になりましたので、人間がその福音を変えたり、曲げたり、ものを加えたりしてはいけないと心から確信しました。特に福音に人間の努力の事を付け加える事は危ないと信じていました。
【ユダヤ教の律法と習慣は救いに必要でない】
もしそうなら、救いは半分罪深い人間の業になり、効果がない別のものになってしまいます。ですから当時、ある信者達が、イエス・キリストを信じる事だけでは救いに足りなくて、本当のキリスト者はユダヤ教の律法と習慣も全部従わなければならないと説くと、使徒パウロがその誤った教えを戦いました。
その理由で自分が説いた福音は人間から受けたのではなく、主イエス・キリストから頂いたと主張したのです。今日の個所の11節からこう書きました。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
私達人間は神の福音を変えるのではなく、その反対に、神の唯一の福音は私達を変えます。私達を新しく造り、真の希望と目的と生き甲斐を与えて下さいます。愛する兄弟姉妹、その福音のみが私達を救い、私達に変化をもたらせる力があります。この福音のみが善いお知らせになりますので、希望と喜びを持って、この福音を賜る神と共に歩みましょう。(おわり)
2010年09月12日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
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