「ザアカイの回心―急ぎ降りよ」禰津省一男山教会牧師2010.8.29

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聖書;ルカによる福音書19章1~10節◆徴税人ザアカイ

 1:イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2:そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3:イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4:それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5:イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6:ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7:これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8:しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9:イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10:人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

1、木の上のザアカイ

 

【イチジク桑の木】

 御子イエス・キリストの恵みと平和が今朝、ここにおられます一同の上に豊かにありますように。アーメン。

 今朝、与えられました御言葉は、ザアカイという一人の徴税人の救いの物語です。

 

この物語で大きな役割を果たしておりますのは、一本のイチジク桑の木です。イチジク桑という植物をわたしたちは日頃、見ることはないのですが、パレスチナの地ではよく見かける木だそうです。ものの本によりますとイチジク桑の実は普通のイチジクより小さく、味も悪く、食べられますけれども、販売するようなものではないそうです。「イチジクの仲間であって、その葉は桑のように茂る」そうです。イチジクの葉というのは、普通の木の葉よりも大きいですし、それが桑の葉のように良く茂っているとしたら、人が隠れるのはもってこいです。4節に、ザーカイはこの木に登って、主イエス様を見ようとしたと書かれています。ひょっとすると、人々からは自分の姿を隠しておきながら、自分のほうでは、主イエス様を近くで見ようとしたのかもしれません。

 

 

 

【木の上のザアカイ】

私は行ったことはありませんけれども、いわゆる聖地旅行でイスラエルを旅行してエリコの街に入りますと、一本の古いイチジク桑の巨木へ、必ず案内されるといいます。幹の直径が1メートル、高さが30メートル位ある木を前にして、ガイドがこういうそうです、「これがザアカイの登ったイチジク桑の木です」。そのイチジク桑は、背が高く、また、枝が大きく張っておりまして、ザアカイが主イエス様を見るために、とっさに思いついて登るにはふさわしいと思える木だといいます。聖地旅行の参加者の中から、必ずこの木の上高く登って写真を撮ったりして、なかなか降りてこない、即席のザアカイが現れてガイドを困らせるのだそうです。そういう、わたしもその木の前に来たら、登ってみたいと今から思います。その木に登っている私の気持ちと主イエス様を見ようと木に昇ったザアカイの気持ちとは少し通じるものがあると思います。深い信仰の思いではなく、いわば好奇心から、良い言い方をすれば主イエス様に何か心ひかれて木に昇ったのです。そんなザアカイに向かって、主イエス様はまっすぐに近づいてこられました。自分の姿は主イエス様には良く見えないはずだと思っていたザアカイは驚いたことでしょう。主イエス様はこう言われました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は是非、あなたの家に泊まりたい」

 この部分は、文語訳聖書ではこうであります。「ザアカイ、急ぎ降りよ。けふ、われ汝の家に宿るべし」。

 

【徴税人のかしら】

現代では税金の仕事をする人は、真面目で堅い人だというイメージです。けれども、イエス様の時代のユダヤでは全く反対でした。ローマ帝国から税金を集める仕事を請け負いまして、その上前をはねて生活しました。ザアカイという名は、ヘブライ語で清い、という意味の名前です。清いという名を親からもらいました生粋のユダヤ人ですけれども、ローマ帝国の手先になり、当時は宗教的に汚れていると思われていて、律法に厳しい人ならば決して交わることのなかった異邦人と親しくしている人です。内心は、ひとびとから憎まれ、蔑まれていたのです。

 

この19章の前の18章にファリサイ派と徴税人とが同じようにエルサレム神殿で祈るという主イエス様のたとえ話がありました。ファリサイ派の人は祈りの中でこう言っているのですね。

「わたしは、他の人のように、奪い取るもの、不正なもの、姦通を犯すものでなく、また、この徴税人のようなものでないことを感謝します。」ザアカイは、その徴税人のかしらであります。

 

7節でまわりの人々が、「あの人は、(つまりイエス・キリストは、)罪深い男のところへ行って宿を取った」といいます。ザアカイは、この町の人々にとっては「お金持ちではあるが、罪深い人、出来れば近寄りたくない人」でありました。しかし、その足元に救い主であるイエス・キリストがおいでになったのです。

 

新共同訳で「泊まりたい」「是非、泊まりたい」と訳されている言葉は、本来は願いや希望を表わすような言葉ではありませんで、「何何しなければならない」、「何何すべし」と言う言葉です。新改訳聖書は「泊まることにしてあるから」、口語訳聖書も「泊まることにしているから」と訳します。元の言葉は、デイという言葉です。このデイというギリシャ語の英語訳は、ネセサリー、する必要がある、あるいはマスト、しなければならないというのであります。特に新約聖書では、この言葉が出てきますと多くの場合は、避けることができない神さまの御旨、御心を表わしているのです。そうでありますから、「われ汝の家に泊まるべし」という文語訳聖書の方が、この消息をストレートに訳しているのであります。

 

主イエス様は、木の上にいるザアカイに向かって、その足元から、おそらく大きな声で、はっきりと命じたのです。「ザアカイ、急ぎ降りよ。けふ、われ汝の家に宿るべし」。ザアカイは驚いたと思います。主イエス様から不意打ちを食らったのです。ザアカイは、主イエス様を受け入れる心の準備などは全くないのです。その上、彼は逃げることも出来ない木の上です。多くの人々が見ております。このエリコの街でザアカイは有名人でありました。有名であったのは、何も彼が立派な人だと思われていたのではありません。彼は、この町の徴税人のかしらでありました。そのザアカイを主イエス様が捉えて下さったのです。「ザアカイ、急ぎ降りよ。けふ、われ汝の家に宿るべし」。

 

2、ザアカイの回心

 

【ザアカイの回心】

 ザアカイが、木に登った目的は、もともとは主イエス様を見るためでありました。エリコの町の入り口に座っていた目の見えない人が癒された、その人自身が主イエス様に従ってこの町に入ってきています。多くの人々が主イエス様に興味を抱いております。ザアカイが、どこまで主イエス様のことを知っていたのかはわかりません。けれども、イエスと言うお方は、これまでの旅の中で教えをし、癒しをなさったと言ったことと共に、自分と同じような徴税人とも一緒に食事をしてくれた人だということは知っていたと思います。

 

またレビ、別の名をマタイと言いますが、そのガリラヤの徴税人を弟子とされたということも、徴税人仲間の話として知っていた可能性も高いと思います。だからと言って、ザアカイが、主イエス様に対する信仰を抱いていたということは出来ません。ザアカイは、ただイエスがどんな人か見たかった、それだけのことです。しかし、背が低かったので群衆に遮られてみることができなかったのです。ザアカイが、町の人々から尊敬され、好意を持たれていた人ならば、ザアカイさん、どうぞ、どうぞと街道筋の道端まで出てゆくことが出来たかもしれません。しかし、そうではなかった。ザアカイは、お金持ちではあったけれども、人々の尊敬を得てはいませんでした。町の人々は心の中でザアカイを蔑んでいたので、彼に協力せず、彼を遮ったのです。

 

主イエス様の一行が町に入ってこられて、そのまま通り過ぎようとしておられます。このままでは遅くなってしまう、そう思ったザアカイは、イエス様が通って行かれるところに先回りして木に登りました。

 

【背の低い人】

あくまで一般論ですが、わたくしは、身長が高い人と低い人、小柄な人と大柄な人とでは、その性格が違ってくると思わざるをえません。自分自身、背の低い方でいつも前から4番とか3番に並んでいました。大きい人は気がつかないと思いますが、小さい人は大きい人に劣等感を持っています。私は、学生の時に、二年ほどですけれども、山岳部に入っていて、重い荷物をもって、北アルプスや南アルプスを縦走しました。山登りをする人の中に、体の大きい人はあまりいませんでした。小柄な人ほど高いところにあこがれるようです。わたくしは、今朝の聖書のみ言葉から、ザアカイと言う人の素早さを感じます。家柄などは通用しない徴税人の世界で、かしらに昇りつめ、財産家となった人です。彼は非常な努力家であったかもしれません。しかし、その努力の先が違ってしまったので、ひとびとから後ろ指を指されるような人生へと迷い込んでしまいました。

 

イチジク桑の木に登って、主イエスの通りかかるのを待っていたザアカイです。ザアカイは、主イエス様は自分のことなど全く知らない、自分には何の関心もないと思っていました。しかし、そうではありませんでした。主イエス様は、ザアカイの家に泊まることにしておられました。神さまのご計画の中でザアカイはすでに捉えられていました。神さまの側のご計画はすべて実現します。主イエス様は、ザアカイの登っている木の下に来て言いました。

「ザアカイ、急ぎ降りよ。けふ、われ汝の家に宿るべし」

 

ルターは「ザアカイは、木から降りる瞬間に回心した」と言いました。ザアカイの側には心の準備などはなかったのです。ザアカイが、主イエス様の招きを受け、それを受け入れたとき、救いが起きました。ザアカイがイエス様の招きを受けいれたというよりも、主イエス様の方から、ザアカイを探し出し、その力強い御腕によって救ってくださったのです。

 

わたしたちは、自分自身で、自分はいつ頃回心しようとか、信仰を持とうかと計画することはできません。わたしたちの救いは、一方的に神さまの御手の内にあることです。「急ぎ降りよ」わたしたちは、この御声を聞いているならば、すぐに従わなければなりません。神さまの側の「デイ」、「なることになっている、することになっている」、ということは、わたしたちの側でも「デイ」することになっている、なることになっているということです。わたしたちが主イエス様に従うことを妨げているものはなにもないのです。なぜなら全能の神、天地万物の作り主である父なる神が主イエス様にあって、わたしたちを招いておられるからです。

 

まだ、洗礼を受けておられない方がここにおられましたら、ぜひこの神様の招きに従って主イエス・キリストを「わが主、わが神」として受け入れてください。すでに、洗礼を受けておられる方も、もっと主イエス様と強く結びつき、もっと主イエス様に従うことができますように!

 

6節 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」

6節の御言葉です。迎えたという言葉は、もとのギリシャ語では、単に教えを受けるとかか、贈り物を受けるといった意味ですが、それだけでなく、自分の家に招く、客として受け入れるという意味があります。この6節の前と後では、場面が大きく進み、また転換しています。その日の夕食にザアカイは、主イエス様と一行を招きました。

 

ザアカイは、主イエス様に向かってこう言います。「主よ、わたし財産の半分を貧しい人々に施します」8節「立ちあがって」と書かれているのは、宴会の中でこのことが起こったことを表わしています。家族や親せき、また徴税人の仲間たちも共にいました。ザアカイは多くの人の前で自分の信仰を言い表しております。

 

【ある金持ちの議員と変えられたザアカイ】

この19章の前の18章に、ザアカイと同じように金持ちと言われる一人に議員が主イエス様のもとに来て永遠の命について尋ねるという物語がありました。小さいころから神さまの律法は皆守ってきましたと豪語したこの議員ですが、結局主イエス様の元を立ち去ってゆきました。持っている財産を全て貧しい人に施し、それからわたしに従いなさいと主イエスから招かれたからです。

 

しかし、ザアカイには、全財産を施せとは言われませんでした。主イエス様は、相手をよくご覧になり、その人にもっともふさわしい御言葉を下さいます。初代教会の伝説では、ザアカイもまた主イエスに従うものとなり、牧師となり、一つの教会を与るほどの働きをしたと言われています。

 

またザアカイは財産を貧しい人に施すことに加えて付け加えます。

「だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」旧約聖書の律法では、盗みを行ったものがそれを返す時には、盗んだ全額に加えて20%の割り増しを払うことになっています。ザアカイが申し出た4倍と言うのは、それをはるかに超えた賠償であります。

 

罪の赦しという主イエス様の恵みに与ったものは、赦しを受けるとともに、新しい命に生き始めます。その命は、主イエス様との交わりによって豊かな実を結ぶ命です。それまでの彼は、貧しいもののことなど考えたこともなかったに違いありません。しかし今は違います。主イエス様の愛によって彼は変えられました。他者と共に生きる、隣人と共に、一緒に生きるように変えられたのです。

 

3、主イエスの目的

 

【失われた者】

さて、ザアカイの家で宴会が行われている時に、そのことを見た人々がこう言って主イエス様を批判しました。7節をお読みします。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

 

旧約聖書の律法では、異邦人は律法を守らず、汚れており、その異邦人と交わるものも汚れていると思われました。また徴税人に仕事自体が、盗みと偽りの罪を犯すものとみなされました。罪深いものと交わり、食事を共にし、その人の家で宿まで取るとは、なんということか。これが主イエス様に対する批判です。

 

しかし、主イエス様はおっしゃいます。今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」

 

アブラハムと言う人は、旧約聖書の創世記12章から登場するイスラエル民族の初め、源流となった人物です。新約聖書は、このアブラハムを信仰の父と呼びます。神の救いは、血筋によるのではなく、信仰によってなされます。

 

ザアカイは、確かにユダヤ人であり、血筋においてもアブラハムの子孫でありました。しかし神さまへの信仰を失い、自分勝手に生きてきたザアカイはもはや本来のアブラハムの子ではなかったのです。ザアカイは神さまの元から失われたものであったのです。しかし、主イエス様は、失われたものをご自身の元へと取り戻されるお方です。

「なぜザアカイのような罪人と食事を共にし、その家に泊まることまでするのか」と迫ったファリサイ派や律法学者たちに向かって主イエス様はこう答えています。

10節; 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

4、結論

 

 【今日、救いがこの家を訪れた

今日、救いがこの家を訪れた。主イエス様はこう言って、ザアカイを祝福しました。救いは、人間の側の計画や努力によって得るものではないことを表わしています。救いは神様のもとからやってくるのです。神さまの側がわたしたちに下さるものであり、それは神さまの側の深いご計画によることです。

 神を信ぜず、自分に頼り、上へ上へと自分で登って来たザアカイでした。その結果、徴税人のかしらと言う地位にたどりつき、大きな財産も手に入れました。しかし、そのザアカイに向かって主イエス様はこう言われました。「急ぎ、降りよ。けふ、われ汝の家に宿るべし」。ザアカイは、主イエス様のもとに降りたのです。木から降りて主イエス様の懐に迎え入れらました。

主イエス様は、今日、わたしたちを回心へと招いておられます。また既に信じているものをも一層深い恵みへと招いておられます。この招きにお答えしようではありませんか。(おわり)

 

2010年08月29日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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