「信仰とは」淀川キリスト教病院伝道部長/田村英典牧師2010.7.18.
聖書:ヘブライ人への手紙11章1~3
◆信仰 1:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2:昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 3:信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造さ れ、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
【信仰の定義】
今朝は、信仰とはどういうものかを改めて学びたいと思います。
ヘブライ人への手紙11章1節は言います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」これを信仰の定義と取る人もいますが、そこまでは言えないでしょう。
もし、信仰を定義するなら、もっと包括的なものになると思います。例えば、第一に神とその御心についての正しい認識、第二にその納得と確信、第三にそれへの自分の明け渡しと信頼、第四に神への服従など、知、情、意に亘って色々な要素を含みます。
【カルヴァンの定義】
宗教改革者カルヴァンは、著書『キリスト教綱要』3:2:7の終りで一つの優れた信仰の定義をしています。こんな内容です。「信仰とは、神の我々に対する慈しみの意志についての、堅固で確実な認識である。そしてこれはキリストにおける価なしの約束の真理に基礎を置き、聖霊によって、我々の精神に啓示され、我々の心情に証印されるものである。」最初の「信仰とは、神の我々に対する慈しみの意志についての、堅固で確実な認識である」という所だけでも、暗記する値打ちがあると思います。
【信仰の忍耐】
ヘブライ人への手紙に戻ります。著者は信仰の性質や特徴の中で、自分の論旨に沿うものだけを書いています。その論旨とは何でしょう。
11章の教えは10章と切り放すことができません。それは特に信仰の忍耐についての教えです。
【試練と忍耐】
この手紙の受取人である初代教会のクリスチャンたちは、キリスト教信仰を持ったために試練に遭い、信仰を捨てて背教する者も出てきそうな状態でした。そこで著者はヘブライ人への手紙10章35、36で「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と教え、10章38では旧約聖書ハバクク書2章4の神の御言葉「私の正しい者は信仰によって生きる」を引用します。
神の恵みにより、主の十字架の故に罪赦され、救われた者は、当然、一切を信仰によって生きるべきだということです。とは言え、困難に遭遇すると、忍耐を忘れ、信仰を放棄しかねない者もいます。そこで、改めて忍耐を教え、信仰が如何に大切かを説きます。そういう論旨の中で11章1があります。
【信仰者は信仰によって生きる】
今日のクリスチャンの中にも、折角信仰という最高の贈り物を神からいただきながら、困難に遭うとすぐ神を忘れ、信仰を脇に追いやり、他のものによって生きていこうとする者もいます。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。「正しい者」、すなわち信仰者は信仰によって生きるのであり、決してそれ以外ではありません。
【信仰の祝福】
では、その信仰とはどういうものでしょう。1節「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
新改訳聖書は「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるのです」と訳しています。そのように、信仰が私たちに与える客観的祝福を示すものとして訳すことも可能です。一方、新共同訳聖書は、私たちの持つべき信仰の主観的特質に訳しています。文脈から見て、どちらかと言うと、1節は私たちの持つべき信仰の主観的特質を記していると思われますが、信仰には、私たちに客観的に神の恵みを保証し、確信させるという祝福のあることも、忘れないでいたいと思います。
【望んでいる事柄を確信】
そこで、特に忍耐との関りで、私たちの持っているべき信仰の二つの面を学んでみます。
一つは「望んでいる事柄を確信」することです。
信仰は疑いながらのものではありません。2節が言うように、旧約時代の信仰者たちは、確信のある信仰の故に神に認められ、6節が言うように神に喜ばれました。その通り、信仰とは「望んでいる事柄を確信」することです。
【罪の残り滓】
「望んでいる事柄」とは、私たちの望む全てではありません。私たちは聖書に教えられ、聖霊によって信仰を与えられ、神の子とされても、罪の残り滓があるため、私たちの望むことは、正しいことばかりではありません。カルヴァンの言葉を借りるなら、「私たちが義と宣告されても、罪は私たちの中に住み続ける」のです。また、私たちの望むことそれ自体は正しくても、神の御心でない場合もあります。従って、ここで言う「望んでいる事柄」は無制限ではありません。あくまで聖書で神が明確に例外なく信仰者に約束されていることについての希望です。
【わたしたちの希望;万事が益】
これは特に私たちの将来に関係します。今既に体験していることは、希望ではありません。希望はまだ私たちが体験していない未来に関係します。
では、どんな約束が信仰者に与えられているでしょうか。例えば、ローマ人への手紙8章28は言います。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く...。」そうであるなら、私たちはこのことを本当に信じて忍耐したいと思います。
【耐えられない試練はない】
私たちを困惑させ、混乱させる試練についてはどうでしょう。Ⅰコリント10章13は言います。「あなたがたを襲った試練で人間として絶えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」
そうであるなら、私たちはこの約束を確信し、むやみにあわてず、むしろ信仰者として今自分の出来る、あるいは、今なすべき務めや責任や奉仕にこつこつ励みながら、忍耐して神の救いの時を待つのです。神は信仰者に耐えられない試練は与えないと、ハッキリ聖書は約束しているからです。
【信仰の成長と救いの完成】
救いの完成についてはどうでしょう。この点で疑心暗鬼のクリスチャンもいます。洗礼を受け、教会にも日曜日ごとに行っているのに、信仰が成長したように思えない。それどころか、以前より自分の罪深さや汚れを感じ、未信者と余り変らないような気がする。そういう中で段々、自分は救われないのではないかと思うようになったりする。これは、基本的には救いの教理の知識不足に原因があり、忍耐も忘れられています。
信仰は、聖書によれば、通常は決して一挙に成長しません。幼子の成長と同じで、背の伸びる時もあれば、そちらは休んで、体重の方の時もあります。何よりフィリピの信徒への手紙1章6は約束します。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業をなしとげて下さる。」そうであるなら、私たちはこの望んでいる事柄を確信し、忍耐し、何度情ない失敗をしても、悔い改めては、神に従うのです。すると恵みの神は、必ず私たちを救いの完成まで持ち運んで下さいます。
【まず神の国と神の義を】
紀元1世紀の初代教会時代もそうでしたが、今日も全く先行き不透明な時代です。私たちの将来はどうなるのでしょう。しかし、イエスは言われます。マタイ福音書6章33「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。」そうであるなら、私たちはこれを確信し、忍耐して、まず神の国と神の義を求めて生きたいと思います。すると、神は御自分の時に、御自分の方法で、私たちを顧みて下さるでしょう。「信仰とは望んでいる事柄を確信」することです。
【見えない事実を確認すること】
第二に、信仰は「見えない事実を確認すること」でもあります。
第一点がおもに将来に関係するのに対し、今度は、未来、現在、過去に関らず、目に見えない神とその御業の全体に関係し、第一点を更に広い視点から補強していると言えます。とにかく、信仰は神の見えない諸々の事実を確認することです。
【神による無からの創造】
その一例が3節で述べられます。「信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分るのです。」私たちはこの世界がどうやって出来たかを決して見ることができません。しかし、信仰はこの世界が勝手に偶然に生じたのではなく、創世記1章の言うように、神が偉大な知恵と力をもって造られたことを、確かなこととして確認します。
【神の御摂理への信仰】
この第二点で特に大事なのは、神の摂理への信仰でしょう。信仰は、信仰のない人には決して見ることのできない神の摂理、すなわち、神の造られた自然界へは勿論、特に堕落した人類社会とキリスト教会の歴史への、時に厳しい裁き、時に憐れみという形での、神の介入や導きのあることを確認します。また、私たち個々人の人生や家族への神の摂理的働きかけをも、信仰は読み取り、確認します。これは信仰にのみ可能な能力です。
【聖餐式】
「見えない事実を確認する」ということで、さらに言いますと、例えば、聖餐式のパンは、主キリストが私たちクリスチャンに既にご自分の永遠の命を分け与え、生かして下さっていることを表します。ぶどう酒は、十字架で流された主の血により、神が私たちを救いの契約に入れ、本当に私たちの罪を赦し、清めて下さっていることを保証しています。そうであるなら、聖餐式でパンとぶどう酒に与る時、漫然と機械的にではなく、それらの示していることを心で繰り返し確認するのです。
【洗礼】
洗礼はどうでしょうか。ウェストミンスター小教理問答 問94は、洗礼時の水の洗いは「私たちがキリストに接木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものとなると約束することを、表し証印する」と言います。そうであるなら、それを事あるごとに確認するのです。
宗教改革者ルターは、激しい信仰の試みを受ける度に、机にチョークで「私は洗礼を受けている」と書き、イエス・キリストの救いの恵みを何度も確認しました。私たちも同じです。信仰は、過去、現在、未来に関らず、聖書の示す神による「見えない事実を確認」し、またルターのように、恵みの手段が本当にそうであることも繰り返し確認するのです。
【神のご計画】
しかし、私たちにはやはり将来のことが気になります。そこで先程のローマ8章28を振り返ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く...。」これは目では確認できません。しかし、私たちが神を愛しているなら、この見えないことが事実となり、必ずいつか確認することを許されるでしょう。私たちが神を愛しているなら、神の摂理は、今この瞬間も、最終的には万事が益となるように働いています。信仰でこれを今確認したいと思います。
【主の御名によって祈る】
ヨハネ福音書14,15,16章に、「私の名によって願うなら、与えられる」というイエス・キリストの約束があります。「私の名によって」とは、単に祈りを「主の御名によって」という言葉で閉じることではありません。本当にこの約束を信じ、それ故、私たちの力ではどうにもならない、しかし大事なことのために、真剣に神に祈り願うのです。
私も何度も試練に遭遇し、今度ばかりは駄目だと思うこともありました。しかし、その度にこのイエスのお約束を思い出し、「そうだ。主はこうお約束下さっている。ですから、神様、この約束を信じます故に、どうか助けて下さい」と、神にすがりついて祈り願いました。そうして、多くの試練を乗り越えることができました。
【逃れの道】
Ⅰコリント10章13はどうでしょうか。「あなたがたを襲った試練で人間として絶えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」これも目に見えません。しかし、私たちがこれを信じるなら、本当になります。イエス・キリストにより私たちを罪から救い、私たちの永遠の父となって下さった全知全能の神が、この見えない事実も私たちに実現されます。不安を抱える末期癌のクリスチャンが、これを信仰によって確認し、全てを神の御計画の中に受け止め、安らかに主の御許に召されて行かれたことを、私は病院で見せていただいています。
【信仰の先輩たちに習う】
信仰とは何か。その一端を学びました。私たちの人生には色々なことが起ります。私たちは時にひどく困惑し、信仰を試されます。しかし、そこでこそ、無数の信仰の先輩たちが「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」ことにより強められ、困難の中でも忍耐し、前進し、ついに栄光の天の御国に召されて行ったように、私たちも励まし合いつつ、是非それを許されたいと思います。(おわり)
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/506
コメントする