「ダビデの証」ウイリアム・モーア2010.6.6
詩編18篇2−4
3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
【ダビデ王の神体験】
今日与えられた御言葉は何よりもダビデ王の信仰の証になります。つまり、この詩編第18編はダビデの神体験を語ります。ダビデの生涯に於いて主の救いと、慈しみと、力と、御臨在を豊かに表現します。また、ダビデはこの証を通して神とどのような関係と交わりを持ったかをはっきり示しています。
言うまでもなく、ダビデは信仰の英雄であって、自分の信仰の故に神によって豊かに用いられていました。更に、彼は聖書に於いて「御心に適う人」と呼ばれています。ですからダビデは信仰に於いて私達の為に立派な模範を示します。
信仰の英雄と立派な模範を示しても、ダビデは決してスーパーマンではありませんでした。私達と同じような人間であって、弱さも結構ありました。
実は、神がダビデに立派な信仰を授けたのです。彼は自分の力でそれを作り上げた訳ではなかったのです。しかし、ダビデは与えられた信仰を精一杯生かして、実行する強い意志がありました。
愛する神は、私達一人一人にもその同じような信仰を賜りたいのです。実は、ダビデのような信仰は普通になるはずです。つまり、神様の目から見るとそのような信仰は標準なのです。私達に大きな恵み、また大きな働きを賜る為に神様はダビデ程の信仰を私達に授けたいです。ですから、私達は何よりもダビデのような信仰を持ちたいのです。
【詩編第18篇2節~4節】
詩編第18篇の2節から4節までのダビデの信仰告白と証を学びましょう。その短い個所を通してダビデの信仰がはっきり見えるようになります。そして、今朝その信仰を学びながら自分にこのように聞いて見て下さい。「私もこの信仰の体験がありますか。私は神様とのダビデのような関係と交わりを持っていますか。」
2節からお読みします。「2;主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。3;主はわたしの岩、砦(とりで)、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。4;ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」
【わたしの神】
この最初の3節にデビデは6回程「わたし」という単語を用いました。つまり、ダビデにとって信仰は関係の問題です。自分が神様との親しい関係が与えられ、その関係を通して神の多くの恵みを頂いたのです。ダビデの神は遠い、どこかの漠然とした所に住むお方ではありませんでした。また、知る事が出来ないような厳しい雷親父ではなかったのです。ダビデにとって神は近い所にいらっしゃって、何よりも彼との親しい関係を持ちたい愛する神です。
【ともにおられる神】
また、主は彼の味方であると徹底的に信じ、その関係があったからこそ、どんな事があっても失望せず力強く前進する事が出来ました。ですから、ダビデは常にその神との関係を大事にし、主に感謝しました。彼はいつでも主に祈り、必要な慰めと知恵と希望を十分頂きました。
【慕わしい神】
愛する兄弟姉妹、私達はどうでしょうか。愛する父なる神との親しい交わりを持っていますか。宇宙と全人類の造り主である、唯一の全能の神はあなたを知りたい、あなたと共に歩みたいというお方である事を感謝しますか。ダビデはその素晴らしい恵みを抱いて、「わたしはあなたを慕う」と心から主に告白しました。
【神の力に頼る】
また、ダビデは2節に、「主よ、わたしの力よ」と告白しました。ダビデは偉大な戦士でした。彼はライオンや巨人や、イスラエルの将軍また王として多くの敵と戦いましたが、彼の力の源は神である事を徹底的に信じたのです。ダビデは神の力に頼り、イスラエルの為に数え切れない栄光ある勝利を得たのですが、いつもそれは自分の力ではなく、神の力のお陰であると証を立てました。主は私達にも御自分の力を与えたいのです。神は私達に御自分に頼って欲しいと願っております。そうしますと、私達も神からの力を得て、何でも耐えられ、素晴らしい勝利が得られます。
【真の自由と力】
実は、神の力に頼ると、私達は自由になります。なぜなら、私達は自分自身の限られた力によってこの世を生きなくても良いのです。また、全ては私の力と能力の次第ではないのです。さらに、神に頼ると神御自身の力で素晴らしい事が出来ます。特に神の御用の為に私達は主の力を期待出来ます。神はダビデの力になりましたようにその主の力は私達のものにもなります。
【主はわたしの岩】
次は、ダビデは、「主はわたしの岩」と証を立てました。聖書には神を岩と比較された事が多いです。そのシンボルがよく使われています。岩は強い物であるし、動く事なく変わる事もありません。特に私達は大岩の上に立つと襲って来るものは私達に危害を加えられる事が出来ません。主イエスはこう言われました。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイによる福音書7章24−25)
【岩なるイエス・キリスト】
私達の信仰は岩であるイエス・キリストの土台の上に建てられたら、安心です。誰も、何も私達を滅ぼす事が出来ません。使徒パウロはその確信があってローマの信徒への手紙8章38−39にこう書きました。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主イエス・キリストによって示された神の愛から、私達を引き離す事は出来ないのです。」
【神こそわが岩】
愛する兄弟姉妹、あなたの岩は何ですか。あるいは岩は誰ですか。ある人々は自分の力に頼り、それが自分を守ると信じます。また他の人々は貯めておいたお金から安心を得て、どんな事があってもそのお金が問題を解決出来ると信じたいのです。そして、多くの人は家族の者や、国の福祉機関や、進歩した医療などを自分の岩として信じたいです。
しかし、我々キリスト者は第一に力強い変わらぬ愛する唯一の神を信頼し頼ります。それはダビデの証と私達の証です。神は私達の岩であります。
【神はわが砦、逃れ場、避けどころ】
次は、「神は私の砦、逃れ場、避けどころ」とダビデが宣言します。その三つの事は同じような役割を果たします。つまり、私達を敵と害から守ります。
姫路城に行った事がありますか。その立派なお城はおもに一つの目的がありました。その力強い防壁(ぼうへき)はお城の中にいる者を外から襲って来る敵から守ります。戦いの時、人々はお城に入り門を閉めると、敵がいくら強くてもその壁を破る事が出来ません。ですから砦は大きな安心になりました。詩編第125編にこの御言葉があります「山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいて下さる、今も、そしてとこしえに。」
ダビデにとって神は自分を守って下さる力強い砦、逃れ場、避けどころのようでした。その為に彼は大きな安心を得て主に感謝しました。
言うまでもなく、人は砦に入らない限り、その壁は保護にも何もなりません。砦の外に立って、他の守りを信じたら、神の守りをなかなか受け難くなり、霊的と精神的害を受けやすくなります。実際に、ダビデのように私達は信仰と服従と主との親しい交わりを通して神御自身の砦に入り、その力強い保護と安心を頂きます。皆さん、主はあなたの砦と逃れ場と避けどころですか。
【神はわが救い主】
最後に、神は自分の救い主であるとダビデが証を立てました。4節に彼はこのように告白しました。「ほむべき方、主を私は呼び求め、敵から救われる」と宣言しました。文字通りに神はダビデの命を救ってく下さいました。若い頃、羊の番をした時、ライオンや熊が襲って来ても、ダビデは守られました。そして、巨人の戦士ゴリアテと一騎打ちで、神はダビデに勝利を与えて下さいました。長い間、イスラエルの王サウルも彼を消そうとしましたが、ダビデはいつもその追っ手から奇跡的に逃れられました。またダビデはイスラエルの敵ペリシテを戦場で何回も敵対したが、神の助けによって打ち勝ちました。
更に、自分の息子アブサロムが彼の王座を奪おうとした時、ダビデは守られました。何回もダビデは主を呼び求めました。そして、際どいところで神が彼を救って下さったのです。「敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、なお、主は私を救い出される」とダビデは証を立てました。(詩編18篇18)
【私たちの最大の敵:罪と死】
私達一人一人も力強い敵がありました。その敵は私達より遥かに強く、その報酬は死であります。その敵の名前は罪です。そして、愛する神は私達の助けのない状態を顧みて、御子イエス・キリストを通して私達に救いにいらっしゃいました。御言葉にこう記されています。「実にキリストは、私達がまた弱かったころ、定められた時に、不信心な者の為に死んで下さった。...私達はまだ罪人であった時、キリストが私達の為に死んで下さった事により、神は私達に対する愛を示されました。」(ローマの使徒への手紙5章6、8)その主イエスの十字架の贖死を通して私達は滅びから救われ、自由に永遠の命が与えられました。
【今もともに働かれる主】
主イエス・キリストを救い主として受け入れたら、誰でもその霊的な救いを頂きました。しかし、その素晴らしい救いだけではなく、現在主イエスは御霊を通して私達と共にいて、御自分の子供として歩む為、必要な力と知恵と勇気と愛を授けて下さいます。そして、その歩みに主の平安と希望を十分に頂きます。
もう一度ダビデの証を聞いて下さい。
「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」
愛する兄弟姉妹、それはダビデの証でした。私達それぞれ自分の証を書こうとしたら、どのようなものになるのでしょうか。実は、私達の日々の生き方を通して証を立てています。その証が救い主である、恵み深い愛する神の栄光を表すように祈っております。(おわり)
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