「赦し」ウイリアム・モーア2010.5.30.

ルカによる福音書7章36−50◆罪深い女を赦す

 36:さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37:この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺    を持って来て、38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし    始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39:イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

 40:そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41:イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42:二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

 43:シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44:そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45:あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46:あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 48:そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49:同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

        

【リンカン大統領と女奴隷】

奴隷解放の父と呼ばれるアメリカの大統領エイブラハム・リンカンは誰よりも黒人奴隷制度を憎んで、その制度を無くす為に南北内戦を戦いました。          

大統領になる前のある日、リンカンは奴隷競売場へ見学に行きました。そして、ある女性の奴隷を目にし、あまりにも可哀想だから彼は思わず競売に入りました。競りは激しかったがリンカンがついに勝って、代金を払い、その女の人を自分の奴隷にしました。

【自由にされた女奴隷】

競売人が彼女をリンカンに渡すと、リンカンはその足枷をはずすように言いました。そして、彼は、「あなたは自由になりましたから、さあ、行きなさい」と彼女に言いました。

 

言うまでもなく、その女の人は驚き、「あなたの家に行かなくても良い訳ですか」と聞きました。「そうです。あなたは自由になりました」とリンカンは答えました。しかし、その事が信じられなかったようで彼女は再び聞きました。「本当にあなたに仕えなくてもいいですか。」「その通りです。釈放されたので自由だよ」とリンカンは言いました。

 

でも彼女はまだ納得出来なくて更に言いました。「これからあなたの物として無償で一日中働かなくても良いですか」と聞いたのです。「そうです。代金を払ったので私はあなたを自由にできるのだよ」とリンカンは答えました。

 

【自分からリンカンの僕になりたい】

そうすると女の人は涙を流しながらリンカンを仰いでこう言いました。「そんな事だったら、私はぜひあなたに付いて行きたいのです。」自由になった彼女は溢れる感謝で、自由に、自分の解放者の僕になると言う事です。

 

今朝、私達はイエス・キリストから頂いた自由と赦しに対して我々の態度について考えたいと思います。今日与えられた御言葉はその重要な課題を提起します。

 

【ファリサイ派シモンに招かれる主イエス】

主イエスはシモンと言うファリサイ派の人によって彼の家へ食事に招待されました。ファリサイ派はその時代のユダヤ人の宗教的エリートであり、特にユダヤ教の律法を厳格に遵守しました。従って、彼等は他の人よりも敬虔であり、神は彼等を誰よりも大事にしていると思い込んだのです。

 

【シモンが主イエスを招待した動機は?】

また、ファリサイ派の人々は主イエスの時代の主流派であったので、他の人々を見くびる傾向を示していました。特に旧約聖書の全ての律法を文字通りに守らなかった者に対して偏見を持っていました。また、自分達程の教育を受けなかった者に対しても優越感を抱いたのです。ですからファリサイ派に属していたシモンは田舎の教師の主イエスを自分の家に招待する動機は何だったのでしょうか。

 

実は、今日の御言葉にその動機に関して何も載っていませんが、恐らく、シモンは主イエスの民衆の中での人気と奇跡と神についての新しい教えの事を聞いて、おもに好奇心からイエスを自分の家に招きました。つまり、イエスに直接会って、自分で主を評価したかったのでしょう。 

 

イエスはシモンの招待を受け入れて彼の家を訪ね、食事の席に着かれました。そして、突然、思いがけない事が起りました。ある女の人が急にシモンの家に入り込んで、「香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7章37−38)と記されています。しかも、その歓迎されないお客は町の「罪深い女」だと書いてあります。つまり、売春婦だったのです。

 

間違えなく、その生々しい光景を目撃した皆は驚かせられました。更に、その女の人の行動に憤慨してしまったのです。評判の悪い人がエリートのファリサイ派シモンの家に突然現れ、 招待されないのに晩餐に入り、酷い騒ぎになりました。その全く恥知らずの堕落した女を追い出す事しかなかったのです。

 

【主の足に接吻した女】

しかし、皆の怒りを買ったにも関わらず、女の人は大事な目的でその家にお邪魔しました。そして、その目的を果たすまでは絶対に帰らないと決心したのです。実は、彼女は主イエスに自分の大きな感謝を表しに参りました。ですからその時代の習慣に従って高価な香油を持って、主イエスに塗るつもりでした。しかし、その瞬間の感情が高まり、女の人は泣き出して、イエスの足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、主の足に接吻してから香油を塗ったのです。

 

【彼女の純粋な動機】

周りの者の怒りを受けていたその女に対して、イエスは不思議に彼女の行動を許し、止めませんでした。何故なら、主は彼女の純粋な動機を見抜いたからです。以前に彼女はイエスの赦しを求めに来たはずです。彼女は堕落した生活を悔い改め、真面目に生きようと決心したと思います。そして、主は彼女の罪を完全に赦して、その新しい歩みを祝福して上げたのです。女の人はその新しい出発の為に感謝溢れて、どうしてもその感謝を表したかったのです。その上、献身と謙遜も表したかったのです。

 

【シモンの態度】

御言葉によりますと、イエスを招待した家の主人シモンは女の人の恥ずべき行為を見ると、主イエスに対してこう思ったのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」そういうシモンの考えを見抜いてイエスは譬え話を通して女の人の動機をシモンに教えようとしました。

 

【多く赦された者は多く愛する】

「シモン、あなたに言いたい事がある」とイエスが言われると、シモンは、「先生、おしゃって下さい」と返事しました。そうするとイエスはこう語りました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」とシモンに聞きました。ところで、一デナリオンは今のお金で一万円相当ですので、金貸しは一人は五百万円、もう一人は五十万円を貸してくれました。シモンは主イエスの質問にこう答えました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」そうすると、主は、「そのとおりだ」と言われました。

 

言うまでもなく、シモンに赦しが必要であるならば、その女の人と比べるとその量は遥かに少ないだろうと信じていたのです。しかし、実際にそうだったのでしょうか。その質問に答える前に聖書のお話に戻りたいですが、44節の所を見て下さい。主イエスは女の人の方を振り向いて、シモンにこう言われました。

 

『この人を見なさい。私があなたの家に入って時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦された事は、私に示した愛の大きさで分かる。赦される事の少ない者は、愛する事も少ない。』そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた」と記されています。

 

【罪赦された女】

女の人は神の御子イエス・キリストによって赦されましたので、主を心から愛し、その愛をどうしても表したかったのです。主の赦しによって新しい出発が与えられ、自分の惨めな生活がすっかり変わりました。その故に溢れるような感謝を感じて、自然に主イエス・キリストに気持ちを伝えたかったのです。

 

「赦される事の少ない者は愛する事も少ない。」この頃、この社会では、また教会の中でさえもこの言葉が適用します。私の周りに対し私は心固くして、相手を赦し、愛する事の少ないものではないでしょうか。

 

愛する兄弟姉妹、御言葉によりますと、例外なく、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマの信徒への手紙3章23)

 

しかし、イエス・キリストの十字架の贖い死のお陰で、主は御自分の身に、罪の故、私達が受けるべき罰を受けて下さいました。ですから、罪の赦しを私達に自由に提供する事が出来ます。皆さん、主イエス・キリストの赦しはあなたをどう変えましたか。そして、私達はその赦しにどう答えるのでしょうか。

 

【主イエスをどれだけ愛するか】

今日の御言葉に於ける女の人程主を愛していますか。

主イエス・キリストの救いと赦しを頂くと、私達は自由になり、豊かに生きる事が出来ます。更に、永遠の命という大きな希望が与えられています。その素晴らしい賜物を受けると、私達は何よりもイエスの僕として主に仕え、この世で神のお働きに参加したいのです。それは私達の喜びと生き甲斐になります。そして、その生き方を通して主イエスに私達の愛を表します。

 

【プライドを捨てよう】

シモンはその女の人と同じように神の赦しが必要であったのです。しかし、プライドの故に彼はその事を認めませんでした。恐らくプライドはファリサイ派のシモンの一番根深い罪でした。自分がとても偉いと思って、主イエスも見くびって、お客さんに相応しいおもて成しさえも主にしなかったのです。

 

【神の許しを必要としない者はない】

終わりに当たって、二つの質問を残したいと思います。先ず、あなたはシモンのように神の赦しを受け入れる必要はありますが、受けるのに何かが妨げていませんか。プライドの故に神の赦しの必要性を認めたくないでしょうか。そうであるならば、正直になって、真実から目をそらさないで下さい。是非、神に対して、また隣人に対してもあなたの罪と過ちを主に告白してみて下さい。

 

【許されない罪はない】

またその反対に、あなたは神の赦しを受ける価値がないと思っていますか。罪があんまり重すぎるから、主があなたを赦す意志がないと思い込んでいますか。実は、神の御子主イエス・キリストはあなたの為にもこの世に生まれ、御自分の命を捨てる程あなたを愛しています。ですから罪がどんなに重くても、どんなに酷くても、主はそれを赦す意志が十分あります。主に告げる事でどんな罪でも赦されます。

 

【主イエスに愛を表す】

もう一つの質問は、もし主イエス・キリストの赦しを受け入れたら、その赦しはあなたをどう変えましたか。そして、その赦しの故、神に対する愛をどのように表していますか。どうか、今日の御言葉に於ける女の人のように、心からその愛を示し、喜びを持って、終わりまで私達を赦して下さる主イエス・キリストに従いましょう。(おわり)       

 

 

2010年05月30日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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