「あらし」ウイリアム・モーア2010.5.2
聖書:マルコによる福音書4章35−41◆あらしを静める
35:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36:そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38:しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
【死の恐怖】
皆さんは今日の御言葉に於けるような、命に危機を経験した事がありますか。事故や病気や災害などの故に危うく自分の命を失う恐を感じた事がありますか。私たちは小さかれ、大きかれ、多少の差があるかもしりませんが、今日の聖書の個所を読んで、みなさんも自分を振り返り、色んな事を思い起こすと思います。実は、先程読ませて頂いた劇的な個所は命に恐怖を感じた、私の経験を思い起こさせました。それは40年前程の事件ですが、今も生々しく思い出す経験であります。
【飛行機のトラブル】
私は中高生を通して、ボーイスカウトに入り野外活動について沢山の事を学びました。ボーイスカウトで楽しい思い出も沢山作って、その学んだ事は今も私の生活に役たっています。特に今もアウトドアが好きというのはその影響を受けているでしょう。それほど好んでいましたが一つだけ思い出したくない経験があります。それは15歳位の時ですが、フィリピン諸島での国際ボーイスカウト大会に参加しました。米軍がその大会のスポンサーになりましたので、フィリピンへの航空機を提供して下さいました。それは普通の飛行機ではなく、古い軍事用のプロペラ機でした。結構大きいですけれども主に貨物を運ぶ飛行機ですから中はとても質実的で騒音は酷かったのです。行きは無事でしたが、帰ろうとした時に、修理の為に出発が大分遅れました。やっと出発した時、離陸すると、何かの機械の問題が生じ、急に着陸しなければなりませんでした。そして、パイロットがスピーカで強行着陸の準備をするようにと命じて、まだ空中であっにもかかわらず、後ろの大きな貨物用ドアが開かれたのです。そこから覗く光景は段々近くなる海しか見えませんでした。その恐ろしい光景を目にすると私はパニックになり、もうすぐ海に突撃し、死ぬと思ったのです。15歳の私の短い人生はもう終わりだと恐れたのです。神様に、「助けて」と静かに叫んで、間もなく来る死を待ちました。
言うまでもなく私は死にませんでした。パイロットは何とか空港まで飛行機を飛ばして、無事に着陸出来ました。そこで、もう一度整備士が飛行機を修理して、今度は問題なく帰る事が出来ました。しかし、その死に直面する時の恐怖とパニックはよく覚えています。大人になった今も飛行機に乗り、揺れを感じると、その時の気持ちを覚えさせられます。
【人生の試練】
多分皆さんもその同じような気持ちをすでに経験した事があるかと思います。生涯に於いて色んな事が私達に襲って来ます。失業になる事や、難病と診断される事や、家庭の絆が絶たれる事や、事故にあう事や、経済的の逆境などが私達に襲って来ます。そうしますと私達は恐怖に駆られて、どうしようもない状態になってしまいます。
【あらし】
今日与えられた御言葉によりますと、主イエス・キリストの弟子達は恐怖に襲われました。彼らは真夜中湖に文字通りの激しい嵐にあってしまって、死ぬと思ったのです。間違えなく私達の生涯に於いて嵐が予測なく、吹いて来る時があります。いくら注意深くしていても、それは事実であります。ですから、襲って来るその嵐の扱いはとても重要であります。今日の御言葉を通して嵐の正しい扱い方、そういう時に私達の主は私達に何とおしゃるのでしょうか。今日共に学びたいと思います。
【向こう岸に渡ろう】
もう一度今日の個所をよく聞いて下さい。「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子達に言われた。そこで、弟子達は群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起り、舟は波をかぶって、水びたしになるほどであった。しかし、イエスはともの方で枕をして眠っておられた。
弟子達はイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですが』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。イエスは言われた。『なぜ恐がるのか。まだ信じないのか。』弟子達は非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」
【ガリラヤ湖のあらし】
この事件を通して大事な事実を覚えたいと思います。それは、嵐が必ず起きって来ます。ガリラヤ湖の嵐は珍しくはありませんでした。実は、その湖は嵐で有名です。主イエスの弟子の中で数人はガリラヤ湖の漁師であって、以前にその酷い突風の経験があったはずです。ですから彼らはもう既にその恐怖に襲われる事があったのです。同じように、人生に於いて他の種類の嵐はきっと起きて来ます。人間誰もはその嵐を経験して、いくら気をつけても全てを避ける訳ではありません。
私達が広島に住んでいた頃、宣教館は丘の上で瀬戸内海が一目に見える場所で奇麗でしたが、毎年秋になると何回か、台風が必ずやって来るのです。
その頃になると天気予報に耳を傾け、それに従って庭にあるものを倉庫に入れ、雨戸は閉め、外出もさまたげられるのです。ですから、約束などがあっても台風は全てを変えます。こうして、つねに嵐からの対策にしたがって守られました。
【主イエスに従うとき嵐が襲う】
意味深い事だと思いますが、主イエスは御自分の弟子達を嵐に合わせずには生かしませんでした。彼らが主イエスに従うと全ての害から守られた訳ではなかったのです。ある説によりますと、信者が忠実に神を信じたら、主はその家族を全ての病気や、失業や、事故や、不幸などから保護します。しかし、それは事実ではありません。もちろん、守られた場合が多いと信じますが、キリスト者もトラブルを直面する事があります。イエス・キリストは弟子達と一緒にその舟に乗りながらでも、彼らは波によってびっしょり濡れて、命の恐怖を感じました。実は、主イエスのせいで弟子達はその暗い暴風の夜に舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしました。今日の個所の35節を見ますとこう記されています。「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子達に言われた。」実際に主イエスの命令に従ってその危機に会った訳です。
【ローマにいるキリスト者】
キリスト信仰はお守りのように私達を全ての害と恐れから避けるものではありません。実は、ある場合はキリスト者はこの世の人よりも多くの反対とトラブルを経験します。今日の個所はマルコによる福音書にあります。マルコによる福音書はローマにいるキリスト者の為に書いてあります。彼らは信仰の故に迫害され、当局はローマの市民を楽しませる為に競技場でキリスト者を野獣の餌にし、信仰の故に殉教しました。
【使徒パウロの殉教】
使徒パウロも信仰の故に迫害と危機に合わせられました。何回も打ちたたかれ、監獄に入れられ、難船しました。更に、使徒パウロ自身はローマで信仰の為に殉教したのです。
現在もイエス・キリストに従う為に迫害があります。例えば、多くのイスラム教国ではキリスト者になると職場と友人どころか、家族と命さえも失う信者がいます。
【いかに嵐に対処するか】
この世には嵐が襲って来ます。そして、ある場合、キリスト者は信仰を守る為に、他の人よりもその代価が高くなります。ですから、私達は苦難を避けるよりも、その苦難を扱う方法に集中すべきであります。
嵐が襲って来ると、主の弟子達はどうしましたか。先ず、彼らはイエスの助けを待たなければなりませんでした。主は舟の中に彼らと共にいましたが、沈没の恐が十分あっても、主は何もしませんでした。実は、主イエスはその嵐の中にぐっすり眠っていたのです。疲れ切ったか、心配が全くなかったか分かりませんが、主は直ぐに起きって弟子達を助けませんでした。
恐らく私達もその同じような経験があります。つまり、神は私達に襲って来る嵐に対して何もしていないようです。私達は必死にその問題を解決しようとしますが、良くなるどころか、段々難しくなってしまいます。私達の恐れは高まって、失望に直面します。神の御臨在は遠くなった気がします。そのような気持ちは普通ですが、神に待ちながらどのようにしてその気持ちを取り扱うかは大事であります。
弟子達の扱い方はどうでしょうか。彼らは主イエスを起こして、このように聞いたのです。「先生、私達が溺れてもかまわないのですか。」それは良い質問です。主は彼らと一緒に舟に乗っていたのに、何もしていないようでした。ですから弟子達は、「この嵐で死んでもあなたはかまいませんか」と主に聞いたのです。私達も人生の嵐に襲われる時、同じように思うのではありませんか。「神よ、私の苦難はあなたにはかまいませんか。いったいどうしてこの事が負わせられたのでしょうか」と言いがちです。
そのように言われると、主イエスは弟子達のニーズに答えました。39節によりますと、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」と記されています。主イエスは嵐に命令して、嵐は従いました。
イエスは嵐を静めると弟子達に向かって彼らに質問をしました。それは、「なぜ恐がるのか。まだ信じないのか。」その質問で彼らを叱りました。「なぜ恐がるのか。まだ信じないのか。」嵐の扱いが誤っていたのでそのように叱ったのです。
【弟子たちの誤り】
愛する兄弟姉妹、その誤りは何だったのでしょうか。主イエスを眠りから起こす事でしたか。彼らは、寝ている主を起さず、そのまま置いて、ただ自分達の力で嵐を扱った方が良かったでしょうか。舟が沈没しても主の助けを求めてはいけない訳ですか。信仰を現す為に、何も言わずに主の救いを待つ方が良かったですか。決してそうではありません。御言葉の教えは逆であります。何回も、苦難の時、主の助けと救いを願うべきだと教えられています。例えば、詩編第50編にこう記されています。「私を呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう。その事によってお前は私の栄光を輝かすであろう。」(15節)
ですから、困っている時、恐れている時、どうしょうもない時、神に求めるべきであります。弟子達の誤りは主を起こし、その助けを願った事ではなかったのです。
【神を疑う罪】
弟子達の質問をもう一度見ましょう。それは、「先生、私達が溺れてもかまわないのですか。」つまり、「私達が死んでしまっても、それはあなたにとって大した事ではないのですか。あなたは私達の事を大事にしていないのですか。」結局、弟子達はその質問によって主を、思いやりのない、気にかけない者であると責めたのです。それは彼らの大間違えでした。
人生に於いて激しい嵐が襲って来る時、私達もその同じ質問を主に問い掛ける傾向があるかも知れません。しかし、今日の個所にもう一つの質問が問い掛けられています。それは41節にあります。弟子達はお互いにこのように聞いたのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
実は、その質問の答えは旧約聖書にもう既に答えていました。詩編89編にこう記されています。「万軍の神、主よ、誰があなたのような威力を持つでしょうか。主よ、あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを静められます。」(9−10)
【主イエスの愛と十字架】
弟子達と共に、波をかぶって、水びたしになる舟に乗ったのお方こそは神御自身であったのです。その唯一の神イエス・キリストは彼らと共に同じ危機を経験していました。彼らの恐れも分かっていたのです。その神は真実であり、私達の事を心配するだけでなく、そこに共にいて下さるお方でいらっしゃいます。そして、御自分の命を十字架で捨てる程、私達を大事にします。そのような神なのに、弟子達は主を思いやりのない、気にかけない者であると責めたのです。そして、主は弟子達によって責められたのにも関わらず、彼らを嵐から救いました。弟子達を叱ったけれども嵐も叱って下さったのです。
【主イエスのお答え】
弟子達は期待以上の答えを主から頂きました。「イエスは起き上がって、風を叱り湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪ぎになった」と記されています。
【主は私達と一緒に同じ舟に乗っておられる】
しかし、神様はいつも同じように働く訳ではありません。私達が癒しを頼んでも、主の御心はそれに対して瞬時に答えてくださらないかも知れません。私達は全ての害から守られている訳ではありません。しかし、主は力強い、風や湖さえも従わせる神なのです。そして、その神は私達と一緒に同じ舟に乗り、誰よりも私達を愛し、私達を大事にして下さいます。その神と共に歩めば、どんな事があっても勇気と希望を持って前進する事が出来ます。(おわり)
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